屍の荒野
一齣 其日
屍の荒野
幕末の頃、名高く聞こえた人斬り共が三人ほどいたという。
薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵、そして肥後の河上彦斎がそれだ。
尊攘派の志士でもあった彼らは、天誅の名の下に多くの幕府要人、あるいは欧米に絆された者共の暗殺を行い、奸賊の徒として彼らの首を幾度も晒してきた。その行いというのは、度々常軌を逸するものもあり、得てして味方にすら恐怖を抱かせたという。
しかし、或いはそれ故か、血に濡れた先の末路というのはあまりに悲惨だ。
田中新兵衛は、姉小路公知なる公家を暗殺した際に不手際があり、それを疑われた際に観念して己が腹を切り果てたという。潔くあろうが、しかしその最期というのはあまりに半ばが過ぎた。
岡田以蔵は、彼が所属していた土佐勤王党が瓦解した際に逃亡のちに捕縛され、獄門。拷問に耐えきれず、土佐勤王党の機密を吐いたうえであったが為に、自身が尊敬していた武市半平太からすら呆れの声があったという。
河上彦斎は維新後も生き残ったが、新政府にそぐわぬ過激な思想を政府内から問題視され、後に様々な容疑をかけられた上で逮捕、斬首と相なった。その身を血溜まりに沈めてまで国に捧げた真面目な男であったが、彼の最期は身の内に滾る信念を曲げられないが故のものであった。
彼らだけではない。人斬りと呼ばれた男どもは、この幕末において数多くいたことであろう。
そして、その殆どは彼らと同じく、悲惨な末路を迎えた者ばかりであったという。それは、その手を血に汚しすぎたが故の報いか、贖いか。
「あんたも随分と手を血に汚しちまってるんだ、その末路はきっといいもんじゃあねえと思うぜ、なァ」
そんな事、承知の上だ。
迫り来る快刀乱麻は、坂堂神崎の命を獲らんと鋭く煌めきをみせる。
輩共の猛攻の前に神崎は防戦一方、と素人の者なら思うだろう。事実、彼は一向に攻めの姿勢に転じる事を叶えてはいない。
しかして、逆に言えば輩共の刃もまた神崎に届いていないのも事実。よく鍛錬が為された二人の連携が彼の胴と脳天を襲うが、一方は紙一重に避け、さらにもう一方は返す刀で捌いてみせる。
「く……ち、チェェェィッ!」
痺れを切らしたか輩共。
叫声を上げるや否や、この一撃で仕留めんとその刀を奮い上げる。しかして、焦りが攻めの姿勢を愚かな程に単調にしてしまっていた。
そして、それこそが神崎の狙いであった。
そう言わんばかりにそいつを潜り抜けるや、間合いを詰め一の太刀、翻しの二の太刀が己が前に立つ輩共を斬り捨てる。
輩共もそれなりに剣の腕が立つ者どものようではあったが、この神崎と比べては毛程でしかない。哀れかな、裂かれた腹から血吹を噴いてあえなくどおと果てた。
突如襲いかかってきた彼らが身なりは、一見では強盗目的の落ちぶれた士族風情と思える。しかし、神崎にはその正体がきっと新政府が送り込んで来た刺客であろうと思えて、いや確信していたと言った方が正しいか。
坂堂神崎、かつては維新志士の一人として戦場を駆け、明治となった今は明治政府に仇なす者共を政府の命によって密かに暗殺する政府御用達の人斬り。
それが今や風の噂で聞くところには、新政府が血眼になって仕留めんとしている男であるという。
神崎は、斬り捨てた輩どもの遺体を拝見し、政府から何かしらの指示を受けた文書などが無いか探りを入れる。だが、手掛かりらしい手掛かりはついぞ見つからない。
諦めがついたのか、一つ溜息を零す。せめてもの報いに墓でも立ててやりたがったが、これ以上止まるのは危険であるが故にこの場を離れるしかなかった。
もう、三ヶ月ほどにもなるか、彼らのような手合いが現れるようになったのは。数えるのも億劫になるくらいには、このような輩を斬ってきた。
その中には、かつての同志や戦友の姿もあったのだから、いくら降りかかる火の粉を払う為とはいえ、気が滅入って仕方ない。それでも、命をくれてやる気など毛頭なかった。そうでなければ、今ここで剣を握ってはいまい。
しかして、このような事態の引き金になったのは、かの維新の三傑でもあった西郷隆盛が起こした西南戦争の終結だろうか。多くの士族共が参戦し新政府に反旗を翻した大きな戦であったが、新政府の強大な軍事力を前にしてついに鎮圧されたのが、神崎が狙われるさらに一ヶ月前の話であった。
これを契機に、士族を中心とする叛乱は終息の一途を辿るわけではあるが、それを見越してだろうか、彼らは裏で手を引いていた神崎を含む人斬りどもの処理を始めたという事らしい。
「ま、口封じですよ、口封じ。やはり、あんたらが行なった人斬りは新政府にとっては穢れも厄介も過ぎる、という事らしい。いやあ、散々にやらかしてましたからね、あんたらは。……まあ突き詰めれば全部あんたらに命令した政府の行いってわけですけど、案外初めからこうするつもりであんたらを利用していたのかもしれませんね」
懇意にしていた裏に通ずる男は、そんなことも語っていた。
兎にも角にも、これまで血溜まりに沈みながらも懸命に政府の、そしてこの国の為に働いた皆が皆捨て駒だった、というのが政府の見解であるらしい。
いや、そればかりではない。民衆を率いる新政府という神輿が穢れていれば、誰も担いでくれやしないのは明白。穢れは拭い落とさねばならぬ。故に、早急に始末をつけねばしょうがないとでもいおうか。
確かに、暴かれれば政府の転覆は必至であろう人斬りは数多く、神崎自身もそれを行なってきた自覚は大いにある。
だが、それ以上に
……俺の場合は政府の役人共も何人か斬ってしまっているからな。
彼は、放ってなどおけやしなかったのだ。
政府の命で反逆の計画を立てていた輩共を誅した際、奴らの計画の中に政府の卑劣極まりなき役人何名かの暗殺を企てるものを見つけてしまった。
どうやら、彼らは新政府の役人だというのに汚職に関わっていたという事らしい。しかも、その被害は悲惨なものであり、既に死人も出てしまっていた。彼らによってこの事件の既に裏も取れている。神崎がここで始末しなければ、数日の内に彼らはこの計画を実行に移していたに違いない。
だが、死人に刀を取ることはできない。計画は、瓦解したかのように見えた。
……どうして、これを放っておける。
神崎は返す刀でその役人共の前に赴くや否や、一刀のうちに彼らの首を斬り撥ねた。衝動のままに、怒りのままに。
見逃せぬものは見逃せぬ。
見て見ぬ振りなどできやしない。
決して、放っておけるものか。
それが例え、自分に指示を下す政府側の人間であれど、神崎は容赦無くその刃を振り下ろす。
いや、振り下ろさずにはいられない、か。
彼は、そう生きなければしょうがなかったのだ。かつて、己が何もしないという選択肢を選んでしまったが為に親しい者達の死を前にし、安息を奪われ絶望の淵に立ったその時から、彼はそう生きなければしょうがなかったのだ。
正義も信念もありゃしない、それは凝り固まった愚かな意地。だが、決して譲れぬ一つの覚悟。
故に、幕末においてはかつての戦友の熱烈な請いを放っておけぬかと、差し伸ばされた手を取った。
仲間が殺されようとなれば、見逃せまいと鍛え抜いた剣腕を敵に振るい、幾多の輩を斬り殺した。
戦が起きるとなれば、此処で何もせずにはいられるかと、幾人もの血を吸った刃を翳して渦中に飛び込まずにはいられなかった。
明治以降は、動乱が終われどなおも火種を燻らせ事を起こそうとする輩共を、そして汚職に手を染める役人共を許す事などできやしないが為に、己が手を血に汚し続けてきた。
だが、所詮人斬りは人斬り。
その末路というのは、胸中にある思いがなんであれ、報われるようなものでは無い。
「うぐッ……ぅ」
体を蝕む鈍痛、それがそこかしこで泣き喚くように神崎を襲う。そいつをなんとか耐えようとするも、皮肉かな意識を向ければ向けるほど余計に喰いついて離さぬように痛みは増す。
明治に入ってから、次第に広がってきた正体不明の病。皮膚が焼け爛れたかのように崩れ、一見したら目を覆いたくなるような惨状。それも、普段は体に何十ものさらしを巻いて隠す程。
医者に診せても、どうにも原因を掴めきれぬようで匙を投げる始末。
しかして、神崎は別段それに文句を言うわけでも無かった。
俺に斬られて死んでいった者共の無念に比べたら、どうて事はない。
そうは言うものの、年月を増すたびに病の侵食度合いは増し、右目なんぞは眼球も腐り果てた。
きっと、その病が彼を殺すのはそう遠くない未来かもしれない。
「うがァ……ッ、ぁ」
次第に彼を蝕む鈍痛は激痛へと姿を変え、神崎の全身をくまなく痛みつける。さしもの神崎も、この痛みには耐えきれぬものがあったか、足を滑らせてその身を地に叩きつける。
酷い衝撃に、一瞬肺から全ての空気が叩き出されたかのような感覚。だが、縛り続ける痛みという鎖が、神崎に我を忘れさせるという事を許さない。
このまま死んでしまえたのならきっと楽なのだろうが、しかしその痛みは今一歩死の淵には届かない。
むしろそれは神崎が言うような、彼に殺された亡者そのものが彼を嬲りつけてるようなあり様。残した無念を晴らさんが為に簡単には殺してくれそうにもない、とでも言ってもいいか。
そもそも……まだ、死ねるか……死んで、たまるか。
俺、は……
「病を得ている……というのは、本当の話であったか」
最悪、とでも言っていいか。
そこに立ち現れたのは、数十人の隊を率いてきた新政府の軍官であった。どうやら、先の死体が見つかった事で、此処ら一帯をくまなく捜索していた最中なのであろう。
そして、神崎を見つけた、というところか。しかも、病に呻き苦しみ、指ひとつ動かすのもままならぬ現状。彼らにしてみれば、絶好の機会この上ない。
「戊辰の戦の折だったか……お前の剣を間近で見た事があったが、あれは相当なものだった……だが、今はそれも見るべくもない、か……」
隊長であろうその男は、腰に帯びたサーベルを抜くや否や、恐る恐る神崎へと歩み寄る。その仕草は慎重そのものであったが、しかし此処で銃を撃たないあたり、一抹の油断もありといったところ。続く部下たちも同様だった。
だが、身動き儘ならぬ神崎からすれば、それはまるで死が一歩、また一歩と忍び寄るかのよう。
しかし、これで最期、などと諦めるような神崎ではない。
唇を噛みしめ、なおも痛み蝕む腕に力を込め上体を起こさんとする。
だが、力を込めれば込めるほどに、亡者共のしがらみは強く、より強く。それこそ、奴らの手が、或いは歯が身体をくまなく喰い込まんとする錯覚さえ覚える。
俺が憎いか、そんなにも。
死んだら、詫びでもしよう。
いくらでも、殺されでもしよう。
いっそ、無間地獄に叩き落とされたって構わない。
だがな……命ある内は、この体がまだ朽ぬ内は……ッ!
「最後だ、坂堂神崎。……悪く思わないでくれよ」
振りあげられた刀は一突きでその首を打たんと、切っ先を下に神崎の首へと狙いを定める。
それは、せめてもの慈悲。
彼は、神崎を憎しとは思ってはいない。むしろ、散々に利用され、そして最後は無慈悲に切り捨てられる様を哀れとさえ思う。
しかして、それでもここで殺さねば後々に禍根は残るかもしれない。そして、我らは軍人、その職務を果たす必要がある。
あるが故に、
「御免!」
煌めきを見せた鋭き一突きは、ついに神崎の首を貫き、そして抉る。
「え」
筈だった。
目に映るは、確かに突き刺したと思った刀と、それを掴む両腕。
舞うは血飛沫、奔るは電光の如き一閃。
気づくには遅すぎた。病に悶え苦しみ、抵抗もままならぬだろうと思えた神崎の、その身体を起こしての抜打ち。彼の両腕は肘から切り離され、もはや戻るべくもない。
だが、そんな事実を前に狼狽を起こす必要など、もう彼には無かった。既に、彼は額を唐竹に割られてしまっていたのだから。
驚天動地。
呆気なく片付くと思われた仕事が、途端に命を賭けねばならぬものへの様変わり。しかも、隊長が討たれたとなれば混乱するのもやむをえない。
しかしどうだ、目の前の人斬りは、そんな彼らに手心なんぞを加えてくれるか、いいやそんなことは万に一つもなし。隊長を討つや否や、この場を切り抜けるべく血濡れた刀を振り翳す。
「う、うわァアアアァアァァ!」
迫り来る人斬りに対し一人の兵士が慌てて銃を構えようとするも、すでに人斬りはその間合いを詰め、かの兵士の命はひと刺しに散らされる。
その隙を狙った別の兵士が、なんとか体勢を整え銃を撃つも、焦りを伴うが故に的を外す。どころか、突き刺さった死体を振り投げられ、目の前が一瞬覆われたと思った時には、もう彼の首は体から斬り離されていた。
さらに、人斬りは容赦なくその首を掴むや否や、群がる兵士共に投げつけて動揺を誘い、そこを狙い目にまた一人二人と斬り伏せる。
銃を持った兵士達に対し、こうも圧倒的な戦いぶりを見せつけられては、彼らの腰も引けるというもの。
そもそも、場数が違いすぎた。
かの兵士達は、徴兵令によって収集された者達。訓練はよく受けていたが、しかしここに集う彼らは戦の経験がなかった。先の西南戦争にも従軍してないが故に、たかが知れている。
対して、神崎は幕末、戊辰、そして明治においても修羅場という修羅場を潜り抜けた者。差は歴然と言っていいだろう。
故に、そのような兵士が何人と群がったところで神崎には到底及ばない。
恐れをなした幾人かの兵士共は、これは敵わぬと見たか、銃を捨て刀を捨て逃走を試みるも、しかし人斬りの刃はそんな者達こそ真っ先に狙い斬る。
覚悟はしていたんだろう、兵士になった時から。人を殺すというのならば、殺されることもあるという覚悟を。
それを今更翻してくれるなよ。
しかし、逃げ惑う兵士はただただ非情に剣を振るう人斬りを前に、為す術無しにかの刃の錆となる。
我に返り、抵抗の意思を見せた者もいたが時すでに遅く、銃を構えたその時には首は撥ねられていたなどという始末。
気づけばそこは血潮が満ちた屍の荒野。あれほどいた兵士共は、一人残らず屍と朽ちた。
神崎の刀は血濡れて紅に染まり、また躰も随分と穢れきってしまっている。一人で何十人もの兵士共を斬り捨てたが故か肩で息をする様子ではあるが、なおも彼はかの荒野に二つの足で踏み立っていた。
それは、もう何度も見てきた光景であり、幾度も築き上げてきた光景でもある。
意地が為に刀を抜いたら最後、待ち受けているのはいつもこの血溜まりの荒野。そこに屍となった誰もが、神崎を恨めしそうに見上げている。
それもそうだろう、ここに斃れたる者共皆が皆、このような形で死にたくは無かったはずだ。まだ見ぬ明日を夢見ていたはずだ。
その夢を、神崎は己が振るったこの刃で奪い続けてきた。例え許せぬことがあろうとも、放っておけやせぬことがあろうとも、そこに確かにある事実というのは変わりやしない。
彼は人斬り、屍の荒野を築き続けてきた人斬りでしかない。
「……ン、ぐァ……ッ……」
その罪を贖えとでもかの亡者達は言いたいのだろうか、またしても彼を蝕む病はその仕打ちをこれでもかと与えつける。
体中が焼けるように熱く、頭には杭を何度も打ちつけられるかのような衝撃が走る。その激しさに感覚もままならず、立っていることすらやっとといったところ。
気づけばとうとう視界にすら亡者共。どいつもこいつも、恨み言を並べ立てているかのよう。
先程のものだけじゃまだまだ足りぬか。いや、むしろこの場の所業を見て己が最期を思い出したか、この無念を晴らさんとなおも神崎を嬲りつける。
その勢い、先程の比にあらず。苛烈、なお苛烈に熾烈。止まることなど知る由もない。
このような生き地獄を背負ってまで、なぜそこまで生きる。生きようとする。もうここらでいいんじゃないか。
その血濡れた刃を己に返して、鼓動をがなり立てる心臓に突き立てれば全てから解放されるのは明白な筈。
だが、それよりも前に彼に生きるということなど、最早時代が許してくれそうにはないようで。
「撃てェ!」
一斉に噴いた火炎ども、その無数が神崎を撃ち貫く。
どうやら、捜索は先ほどの彼らだけでは無かったらしい。別働部隊か、いいや彼らこそが神崎討伐における本体という事か。
その証拠に、彼らの指揮というのは随分と統率されている。しかも、その射撃というものも手馴れたものだ。きっと、かの士族の叛乱の際には、どこぞの戦にでも従軍していたに違いない。
駆けつけるには遅かったが、しかし彼らは絶好の機会をモノにしたということだ。
さしもの神崎も、このように蜂の巣にされればこの荒野にどおと倒れるほかない。撃ち抜かれた穴という穴から流れ出る血と共に、その魂すら失われてしまうかのよう。
視界の隅では、そんな神崎を嘲笑うかのような亡者共。ついには彼のこの末路に満足したか、いっそこちらに手招きでもしているような輩も一人二人。
次弾用意!
そして、奴らの手も緩みなどはしない。
どうやら、先ほどのお粗末な彼らとは、真にその空気を異にしている。油断も隙も見せてはくれぬ。むしろ、なお確実に仕留めんと、二撃目の銃口が死に体の神崎を捉えてみせる。
今度こそここが最期か、彼自身が築き上げたこの屍の荒野が、彼が墓場になるか。
精も魂も尽き果てた体で何ができる。ここらで大人しく死んでおけば、全てが丸く治るのだ。諦め時とは、まさにこの時のことを言うのではないか。
もう、嫌というほどにはわかっているだろうて。この世の人どころか、もはや時代すら彼が生きる事を望んじゃいないのだということを。
……だからとて、大人しく死んでいられるか。
その死に体の腕は、血刀を掴んで離しやしない。どころか、その握る手は強く、増して力強く。
見れば、かの瞳はなお焔を宿しているじゃあないか。いまだ消え果てることのない、意地という名の焔というものが。
この男は、死の淵に身体が沈みつつある今も、己が生を終わらすつもりなどないというのか。亡者に嬲られ生者に疎まれ、命を狙われてもなお、男は意地を捨てられぬというのか。
しかして、それに気づいたか否か、無情にも指揮は下される。
「撃てェ!」
神崎の意地に勝るとも劣らぬ火炎がまた再び。惨烈なまでの勢いは、今度こそ神崎の残る魂を確実に打ち砕かんばかりの勢い。
しばしの轟き。だが後に残るは、それとは対照的に水を打ったかのような静寂と硝煙の世界。
この鬱陶しい程に立ち込めるその硝煙の先、屍の荒野に沈む人斬りの首ははたして拝めるか。万が一の次弾を装填しつつ、固唾を呑む。
なんて暇なんぞ、彼らに与えられはしなかった。
突如、その煙たい硝煙を断ち切るかのように現れた一閃の血刀。その電光の如き剣速に、装填ままならぬ兵士が一人二人とその首は撥ね飛ばされる。
乱舞するが如き刃を手にするは、醜く崩れた皮膚をも厭わず晒して見せるあの人斬り。一見すれば、そこに悪霊でも出たかと錯覚すらしかねない。
対する彼らも鹿児島の激戦をくぐり抜けただけのことはある、驚きはあれど動揺など一欠片もなし。
むしろ、軍隊長の指示で即座にその銃口を構え、かの死に損ないに引導を渡さんとする。
その整然とした様は流石と言っても良かろう。それでも彼らが見抜けなかったことが一つ。
それは、彼が意地は常人には到底及ばざる境地にあった、という事だ。
構えた銃口が三度火を噴くその前に、神崎の刃が兵士どもの首を次々に撥ねていく。
例え火が噴き己が体を貫かれたとしても、意地の一閃が彼らの命を斬り捨てる。
不覚にも体に剣を突き立てられたとしても、覚悟の一撃が立ち塞がる輩を撃ち倒す。
止まらない。いや、彼は己が止まる事を許しはしない。
譲れぬ意地が、彼をなおも進撃させる。歩んだ先に、更なる屍の荒野を斬り拡げさせる。
誰が止められる、この男を。
例え従軍経験があろうとも、あるいはこの士族の反乱の最中で多くの経験を積んだ兵士であろうとも、それに匹敵するモノがなければ、奴が刀の錆になるほかあるまい。
もしも、奴を止められるとするならば、それこそ奴のそれと匹敵するものを持ち、かつ同じく幕末という名の血煙を駆け抜けた者であろう。
「わりゃだって、そりゃあ死にとおはないぞ」
進撃の修羅の前に、そんな言葉を溢して立ち塞がる男が一人。小柄な体躯に気怠げな眼、そんな男の脳天にかの修羅の一撃が迫る。
だが、その雰囲気とは反して男は動じぬ。むしろ、その一撃に合わせるかのような抜打ちで見事捌くや否や、開いた神崎の胴に一太刀を喰らわしてみせる。
さしもの修羅も驚いたか、咄嗟に身を翻して間合いを取る。あと刹那、その判断が遅れていれば腹の切り口からは腸が無惨にも溢れ落ちてたに違いない。
しかし、この男に容赦という言葉は一欠片もなかった。
背筋に走る悪寒、見れば男が足は既に踏み込まれていた。そして、間合いを詰めた先で繰り出されるは首っ丈を狙う迷い無き一閃。それこそ、返す刀も最早間に合わぬ。
くたばれ。
無念の後退、だがその切っ先は確かに神崎の首を捉えてみせた。迸る鮮血、それでも僅かに浅いか致命傷には至らなかった。
からくも切り抜けたはいいが、しかしこれはまさかの局面か。
かの兵士どもの中にここまでの猛者が紛れ込んでいようとは、予想外という言葉すら生っちょろいものがある。それもただの猛者ではない。神崎の意地の一撃を難なく捌き、かつそこから更に攻撃に転じてみせ、神崎を一瞬でも慄かせてしまうほどの猛者。
だが、それ以上に恐ろしくあるは、奴の刃に秘められたものか。
先ほどの刃はただの刃にあらず。この首、この命獲とらんとばかりの……否、それ以上に生への執念というものが垣間見えた。
それもただ生き残りたいというものではない、生き残る為ならばどのような手段をも選ばぬ、研ぎ澄まし切った漆黒の意思。そんな刃を振るう者など、訓練を積み戦さ場に出ただけの兵士などにはいないだろう。
言うなれば、神崎と同じく幾多の修羅場を歩んできた幕末の男が、今まさにこの目の前に立ち塞がっているということか。
そんな男を相手にするには、今の彼は役不足であるかもしれない。確かにその戦い様は修羅さながらにとはいうが、此処に至るまでに些か傷を負いすぎた。
何せ、突き立てられた刃や、撃ち込まれた弾の数などはとうに数えられぬ程に達している。血を失いすぎて頭がどこかぼんやりとしてしまう始末だ。
何より厄介なのは、亡者共も病という名でこの体を飽き足らずに嬲り続けていることだろう。一見なんでもない様な素振りを装っているが、実際は焼けた鉄を打ち付けられる感覚とはこの様なものか、とでも嘲笑いもしたくなる程だ。
あと一度でも斃れてしまえば、立ち上がることは二度とあるまい。そう悟ってしまうことが出来るほどに、限界というものはとっくの昔に超えてしまっていた。
そんな体でなくとも、奴を斬り捨てるのに骨が折れるのは確実。否、生半可な覚悟で望めばこちらの首が斬り飛ばされる。
例え彼を斬り捨てたところで、待ち構えてるはなお残る幾数の兵士共。一度でもあの火炎が喰らったならば、その時こそこの身の最期。
万に一つも無いが、だからと背を向けて逃げたとしても、きっとこの男は神崎を逃がしやしないだろう。その刃を首に突き立てるのは明白。
勝てども死。
負けども死。
逃げても死。
四方八方に立ち塞がるは、如何ともし難き死の一文字。
……だからなんだって話だ。俺がやる事は……今と一片も変わりやしない。
これでもかという程に刃はこぼれ、よくよく紅に染まる一刀を構え、なお突き進む覚悟をその体に示す。
この死を乗り越えたとしても、なお残るは生き地獄への道一つ。亡者共の怨念は死ぬまで神崎を逃がしやしない。
むしろ、その身に負った数えきれぬほどの傷で、この死の淵が先を生きていられるかすら分かりやしない。
それでも彼は、どうにも生きるということをやめようとも、捨てようともしやしない。いや、捨てられんがために進み続ける。
何故、そこまで意地になれる。その血濡れた人生に、そんなにも意地になれるのだ。
「俺のような人間でも……この屍の荒野に決めた覚悟というのがあるんだよ」
血染めの刃を振り翳し、男は征く。
対峙する眼前の死は、それを下さんと刃を煌めかせてみせた。そこに油断も容赦もありゃしない、あるはこの首を獲りこの先も生きんとする意思一つ。
ならば結構、その意思もろとも斬り捨てん、とばかりに駆ける、翔ける、懸ける。
『確かにそうさ、人を斬ることしか能がない俺がこのまま生きたところで、この屍の荒野の先にあるのは生き地獄、そんなことは分かりきっちゃいるんだ。
でもな、その屍共を糧に生きている俺が、俺だけが今更そうまでして歩んできたこの魂を捨てられるか』
喰い込む一撃。
吐き捨てた血反吐。
一層の傷がまたしても神崎に刻み付けられる。
相対する男もやはり猛者の中の猛者、そう簡単には神崎の行手を開きはしない。さらに控える兵士達が、神崎を仕留めんとその銃口にまたしても火を噴かせる。
しかし、血染めの刀はなおも屍の荒野を斬り拡げんと、奔る、唸る、轟く。
『何より、むざむざと何もせずこの魂をあけ渡すことを許せるか。この身にどれだけの業を、何より幾多の罪を背負っていようが、それだけは俺は許しはしない。
この命が朽ちるその時までは、為せる事を全力で為し続ける、そう俺は覚悟を決めたんだ』
腕は飛んだ。
腹は爆ぜた。
視界は紅。
満身創痍などという言葉では言い尽くせぬその姿、死は着実に神崎が襟首に手を伸ばす。
ましてや眼が先に阻む壁はなお厚く、いくら血反吐を吐こうとも未だ斬り捨て難いものがある。それこそ、もう絶望してしまった方が楽かもしれない、などとまで溢したくなるほどに。
だが、それに反して刀を握りしめる力はなお強く、より硬く、益々熱く。
『例え、それがこの屍の荒野を斬り拡げるだけだとしても、その荒野の先に生き地獄しか待っていなくとも、その更なる果てにまだ為せる事があるかもしれない。見逃せやしないことがあるかもしれない。
そんな可能性を捨て切れるか、諦め切れるか。いや、捨て切れないし諦め切れないからこそ、いつだって俺は進み続けなきゃ仕方がないんだ』
男は吼える。
無様に。
無惨に。
しかし、高らかに。
火炎を前に血花が咲き散ろうと、電光如き一閃を前に血潮が舞おうと、その意地は止まらない。
いいや、止まらせてなるものか。
止めてなんぞは、なるものか。
「そうだ、愚か者とでもなんとでも呼べばいい。
だがな、この身が朽ちるその時までは、俺は」
その生き様は、誰しも辿り着けぬ境地にあり。
……であるが故だろう、やはり時代は彼を許しはしない。
止まらぬ愚直さを貫く一筋の閃光。
見れば、止めと言わんばかりの一刀、無情にもそれは奴が心の臓へ深々と。さらには、その死に体に駄目押しの鉛玉が雨霰と撃ちつける。
最早咲かせる血花も、舞わせる血潮も失ったかと思えてしまうほどに鮮血は派手に散る。
そして、歩み続けた脚が揺らいだのを見て、遂にかの修羅が斃れる。
誰もがそう思えた。
それでもどうだ、その歩みは止まったか。男は遂に墜ちたか。
しかして、踏み出されるは確かな一歩。
見るがいい、その歩みは止まるどころか、この止まるという言葉を知らぬかのように進み続けているじゃあないか。
足取りは覚束なく弱々しいながらも、確実に一歩、また一歩。
時折倒れそうになるも、もはや使い物にならぬ筈の、だが握りしめては決して離さない血染めの刀を支えになんとか堪える。
流石にその身一つに背負いすぎたものがあるか。だが、最早それも苦ではないところまで行き着いてしまっているようであった。
この執念深き様には、決死に応戦していた兵士共も腰が引ける始末。かの修羅に止めを撃ち刺した幕末の男も、どうにも手が出せやしない。ましてや、彼に取り憑いていた亡者共でさえ、最早彼の歩みは止められるべくもない。今はただ、この場の誰もが男の最期の歩みを見届けるしかできやしやしなかった。
だが、当の彼としてはどれもこれもがどうでもいいか。邪魔をせぬというならば、それで構わない。彼は進み続けるだけなのだから。
……そう、覚悟を決めたんだ。意地でも、最期まで……通さなきゃあ……なぁ。
その命が朽ち果てるその時までは、進み続けるのをやめはしない。そうして生きることを、決して捨てはしない。
その覚悟は、意地を支えになお歩む。彼の行手は、誰にももう阻めやしない。
そういう男として、一片の揺らぎも無く生きてきたが為に。
そして男は、屍の荒野を独り逝く。
屍の荒野 一齣 其日 @kizitufood
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