第36話 エピローグ

 二日後、5月12日。

 ヤシュニナ北部の橋上都市、ハウルスクの小さな橋の上でシドはひとりたそがれていた。


 つい二日前の大事がまるで夢であったかのように彼の体は正常な状態に戻っていた。両腕も元通り、体に異常は何も見受けられなかった。ただ彼の記憶にだけ残る巨大な怪物、それが彼の気分を昏くさせていた。


 自分の右腕からあの怪物が現れたとき、意識の深層から何かが這い出てきたかのような感覚を覚えた。いつもとは違う、心の底まで支配されてしまうかのような、ひどい吐き気を覚える感覚だ。


 それがゲオハイドの一撃で消え失せた。

 まさか攻撃されると思わなかったのか、一瞬とはいえひるんだように思えた。

 気がついたときには旧都の大通りで大の字に倒れていて、ただ唯一彼の忘れ形見とも言える大剣だけが残されていた。


 結局、一人だけ。あの三人の中で自分一人が今こうしてソレイユの地で安穏としてられた。

 自然と涙がこぼれてきた。


 自ら親友に命を捨てろ、と命令したこと、そして自らの手で命を断ったこと。久方ぶりの罪悪感が心臓に鳥肌を立たせた。


 すでに戻れない。それはわかっている。先の領域を実現させるためにも、まずは人の時代を終わらせなくてはいけない。


 ただ、今は泣きたかった。誰かに見られたってかまわない。どうせ自分が流す涙はこれが最後なのだろうから。


 「そんなところで泣いてると風邪、引きますよ」


 不意に清涼な声が背後で聞こえた。視線だけ背後に向けると、大きめの黒い傘を持った銀髪の麗人が立っていた。無表情のまま立つ彼女の目はシドを責めるでも、憐れむでもない。なんの感情も抱いていなかった。


 「ゲオハイド君が死んだ、それが悲しいのはわかります。晴れるまで泣いてよろしい。ですが、貴方は一国の長です。いつまでもその調子だと困ります」

 「手厳しいな。俺の気持ちは組んでくれないの?」


 「ええ。国家のリーダーとはもっとも希少で小さい歯車です。真にリーダーたる存在は少ない。だから、代替品で補おうとすると国家は調子を落とすんです」

 「そうだな」


 石造りの橋の上でシドは体育座りをしながら、落ちていく雪を凍った河をそして遠くの大連山を見つめた。何か面白いものがあるとかじゃない。そうして思考を止めていることが今は心地よかった。


 「なぁ、タバコってあるか?」

 「一応。でもシドって私と同じくパイプ派じゃ?」

 「忘れた」

 「そうですか。うっかりさんですね」


 コートの胸ポケットからシガレットケースを取り出し、その中から一本のタバコをシドに手渡した。


 「オルヴァーンのやつか」

 「ええ、十四年前に剣統帝の式典に行った際に買ったもののあまりです。すごいですよね。防腐処理されて、十四年経っても普通に吸える」


 ふぅん、と興味がなさそうに相槌をうちながらシドは火を灯した。


 とても美味しい、とはいえないが、悪くはない。少なくともまずくはないいい味わいの煙だ。

 美味しそうにタバコを吸うシドを見て、セナも吸いたくなったのか、彼女もタバコを吸い始めた。ちょこんとシドのとなりで傘をさし、スパスパと喫煙している。


 「そういえば今年の……6月だったかな?剣統帝の式典があるんだよ。またオルヴァーンにまで出張しなきゃな」

 「ああ、そういえばそうですね。今回もリドルが?」


 そりゃ剣聖だからな、とシドは当たり前のように応える。

 オルヴァーンという国の儀式の一つにここ百年リドルはよく呼ばれている。彼が剣聖であり、この世界の剣の使い手の中では最強格と言われているからだ。


 「微笑ましいことです。先代の剣統帝が亡くなって……もうすぐで一年ですからね」

 「クリプ=ネオンとの戦争で仲間をかばって死んだらしい。あの国も俺らと同じでプレイヤーの国家だからな」


 いずれ戦うことになるだろう、と暗にシドは示した。悲しいことだが、国家戦略の利害が衝突している以上、ひたすら経済戦争というわけにはないだろう。


 「なんだろうな。こうやって話してると、やめたいなって思うんだよ」

 「国家元首をですか?」

 「いや、なにもかも。どこかの辺境で世捨て人になりたいってさ」


 「それは不可能でしょう。私はシドの後任なんて御免です。シドが辞めたら私も辞職しますよ。いい加減私達プレイヤーの影響力は消えるべきですからね」


 ヤシュニナの国民の大半は煬人だ。国民議会の大半が煬人であるように、国家の大部分を担っているのが煬人なのだ。

 一部のプレイヤーが利益を独占している、ということはないが、それでもトップに立つのが少数のプレイヤーであるということは少なからずしこりになる。


 よく百二十年も保てた、と自画自賛したいが、あいにくすでに成熟しきった世界がその安定を許すとは思えなかった。


 「とにかく目下の課題は軍備拡張だな」


 「ヴェサリウス級、そして駆逐艦のガレノス級合わせて随時生産中です。元がそれなりにできていましけど、リストグラキウスとの戦争に合わせてヴェサリウス級だけ急ピッチで製造しましたから、ガレノス級は製造停止してたんですよねぇ」


 ふぅー、と紫煙と共にセナはため息を吐いた。好き勝手にスパスパやっているが、彼女だって双肩に重いものを背負っているはずだ。数限りある資源、その使い方の認可をださねばいけないのだから、責任重大だ。


 「昨今ではスコル大陸北部の諸勢力が剣呑な空気を醸し出してますからねぇ。沿岸部を重要視する私達からすれば国家戦略を破綻させかねませんよ。金を西部防衛に回せる余裕もありませんし」


 それから二人の間でいくつかの意見がかわされた。こんななんの壁もない橋の上でする話ではないが、饒舌に語る二人には関係のないことだった。ただ何か忘れさせる話をしたかった、忘れさせる話をしたかった。その答えが二人にとっての国家戦略の話だった。


 「――とりあえずリドルには統治してる旧リストグラキウス領で練兵にあけくれてもらう必要がある。東の対策を考えるとな」

 「ええ。じゃぁ私はこれで」

 「もういくのか?」


 「仕事がありますし。それと雪は流れませんから」


 そうか、とシドはつぶやく。その時の彼の声は嗚咽が混じっていた。


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ソレイユ・プロジェクト 賀田 希道 @kadakitou

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