神様の胃袋の中

神様の胃袋の中

「ねぇ、ねぇ! フォークが!」

 飛んできた悲鳴に顔を上げると、マグが顔を青くして立っていた。その手に握られている銀色が、みるみるフォークとしての形を失っていく。

「別に構わないじゃないか。君だってそんなに使ってなかったし」

 もう一度床に寝転ぶ僕に、マグは恨めし気な声を投げる。

「なんでそんな呑気なの? 私はこれからどうやってごはんを食べるの? 大事にしてたやつなのに……!」

「食器なんてたまにしか使ってないじゃないか。だいたい、フォークならドラッグストアに売ってるだろ。あれ、君が買ってやらなきゃ、いつまで経ってもはけないぜ」

「あんなプラスチックのなんていや!」

 喚くマグの手の中で、フォークは溶解を続ける。滴り落ちた銀色が跡も残さず床に染み込む。その雫が涙のように見えた。

 フォークにもフォークなりの未練があって、フォークでなくなることを嘆いたりするっていうのは、あり得ることだろうか。そんな馬鹿みたいなことを、なぜだか考えてしまった。


 〈神様の胃袋〉が起動されてから、一週間が経つ。僕らの持ち物が溶けるのは、何もこれが初めてじゃない。この貸部屋にあったカウチも、ベッドも、ふわふわとしていて二人とも気に入っていたラグも、もう溶けてしまって跡形もない。ずいぶん殺風景な部屋になったものだけれど、まだまだこんなのは序の口で、隣のアパートなんかは三日前に丸ごと溶けてしまった。住人はみんな〈神様の胃袋〉が動き出した直後に引き払っていたから、溶解の瞬間も静かなものだったけれど。

 生まれたての神様は加減を知らず、こうして何もかもを溶かしていく。


 マグは機嫌を直すよりも先に固形ミールをひっつかみ、勢いよく包装を破ってかぶりついた。ボロボロと食べカスをこぼす彼女はとても愛らしかった。顔を覆い隠す栗色の前髪の隙間から、リスみたいによく動く口元がちらちらと覗く。

「今度、〈食堂〉に行こうか。もう半年は行ってないし、久しぶりにさ」

 マグは忙しなく動かしていた口を止め、恐る恐る顔を上げる。ほんの数秒前までへそを曲げていた自分と辻褄を合わせようとしているらしい。本当は飛び上がるほど嬉しいくせに。

「ほんとに?」

「だって、僕らもいつ溶けてしまうか分からないだろ。行けるうちに行っておかないと」

 マグはやれやれという風にため息を漏らし、仕方ないなぁとかなんとか言いながら食事を再開した。口の端が持ち上がってしまっているのに、自分で気づいていないらしい。そもそも〈食堂〉だって溶けてなくなっているかもしれないけれど、そのことにも思い至っていないようだ。

 彼女の無垢をこころゆくまで味わってから、僕は左腕のシリンジに目をやる。諦めと期待を込めてプランジャを押し、中に入った肌色の液体を流し込む。

 必要な十単位に達した直後、僕の身体は抗議の声を上げた。こみ上げた吐き気に、思わず口元を手で覆う。生命の糧を得た僕を怒鳴りつけるように、心臓がやかましく騒ぐ。


 世界中の人々から、欲求、とりわけ食欲が姿を消し始めたのは、僕が生まれるよりずっと前の話。人々は活動という活動を鈍らせ、味もそっけもなく、ただ効率よく栄養を摂取できる固形ミールをちまちまと食べるようになり、やがてそれさえ疎みはじめると、今僕が「食べた」ような栄養剤を嫌々摂取しては呆けるばかりになってしまった。

 当然、経済は見る間に停滞し、縮小した。かつて軽快に回っていたという世界の歯車は、今では軋む音のひとつも立てない。

 事態を憂えた国連は世界再構築機構WROを設立し、〈神様の胃袋〉を作り上げた。いつか取り返しのつかないところまでいってしまったら、一度世界を溶かして洗い流し、正しい形で作り直すための装置。世界全体の総幸福量が閾値を下回った一週間前が、「取り返しのつかないところまでいってしまった」日だった。

 確かに、こんな世界なら溶けてしまうべきなのかもしれない。上手く食事ができなかったこの瞬間だけは、そんな風に思う。



*  *  *



「あーあ、またやってらぁ」

 ニュースサイトの動画を再生したレノはへらへらと笑う。端末を覗き込むと、暴動を起こした遠い国の人々がWROの支部に群がっていた。

「まだ〈神様の胃袋〉を探しているんだね」

「形があるものだと思い込んでんだ。アホらしい。世界中を溶かしちまえる代物に、そんなもんあるわきゃあない。本部になかった時点で気づきそうなもんだけどな」

 身体を溶かしながら健気に破壊活動を続けていた暴徒たちの目の前で、肝心の破壊対象であるビルが溶解を始めた。怒りの矛先を失って右往左往する人々の気まずさを映したところで、動画は終わった。

「〈胃液〉はとっくの昔にばら撒かれてたんだ。起動されたのがこの間ってだけでな。もう世界中が神様の腹ん中、今さら逃れようなんざねぇよ」

 レノが白けた様子で放り出した端末は、芝生が溶けてしまった公園に落下してガチンと嫌な音を立てた。もったいないという言葉が出かかったけれど、どうせ遠からず溶けてしまうのだからどう扱おうと構わないのだと気づいた。

「人類をビョーキから救うために、世界を丸ごと作り直そうってんだ。贅沢な話じゃねぇか。何が不満なんだ」

「再建された新天地に、『自分』がいないかもしれないことだよ」

「なんだ、お前もそのクチか?」

 眉をひそめるレノに苛つきを覚えた。久方ぶりに会っても、レノはやはりレノのままだ。こうして彼に見下されるのにだけは、ついに慣れないままだった。

「自信があるみたいだけど、君だって分からないじゃないか。あちら側へ自我を持っていけるのは、限られた人間だけなんだぜ。僕も君も、仲良く誰かの、あるいは何かの一部になってるかもしれない」

 再構築される世界に自我を持っていけるのは、より多くを幸せにしてやれる者だけだというのが世間における通説だった。幸福を最大化する形で世界を作り直すように、〈神様の胃袋〉は設計されているから。幸せの涸れ果てたこの時代でなお、いやこの時代だからこそ、開発者たちは功利主義を信奉していた。

 つまり、僕やレノを含む平均以下の無用者は、おそらく、あちら側には行けない。〈神様の胃袋〉に魂まで溶かされた後は、再構築されることなく、もっと有意義な、世界をより幸福にできる何かしらの材料となる。

「あのな、どうだっていいんだよ、そんなことは」

 レノは左の袖をまくり上げ、腕を露わにする。

 シリンジの差込口が、痛々しく焼き潰されていた。

「君、食事は?」

「やめたよ。どうせもうすぐ溶けちまうんだ。バカ真面目に摂るバカがどこにいる」

「でも、こんなことしなくたっていいじゃないか。もし今餓死したら、新天地へ行ける可能性はゼロだ」

「どのみち行けやしねぇだろうが。だいたい、どうだっていいんだよ。新天地だの、幸福の最大化だの」

 レノは遠くを見つめながら言う。顔中の筋肉がなくなったみたいなその表情にぎょっとすると同時に、懐かしい気持ちになった。

「興味が持てねぇんだ、次の世界ってのに。それが普通だろ? おかしいのはあの暴徒どもの方だ。もうおしまいにしましょうってのが、世界中のブームだったはずじゃねぇか。なのに今さらジタバタして、みっともねぇ」

「……ブームに乗れない奴だって、それなりにいるさ」

 そう反論すると、レノは死んだ顔のままこちらに目を向けた。

「さっきから聞いてりゃお前、あの女にずいぶん毒されたらしいな。あれからずっと一緒だったのか? よくもまぁ飽きねぇもんだ」

「飽きるとか、飽きないとか、そういうことじゃないんだ」



*  *  *



 マグに出会ったのは、三年前、レノたちとドラッグストアに行ったときだった。いつもそうするように、ぶつくさ文句を垂れながら栄養剤を手に取る僕らの前を、栗色のぼさぼさ頭が通り過ぎた。手にしたカゴには、今や誰も進んで手に取らない固形ミールがありったけ入れられていた。

 気味悪がるレノたちに同意しながら、僕はそのぼさぼさ頭を目で追い続けた。会計を済ませたその少女は、店を出るよりも前に固形ミールにかじりついた。ぼりぼりと響く咀嚼音に、店中が静まり返ったのを憶えている。

 そして僕は、そんな傍若無人な異端者に会うために、用事もないドラッグストアに足繁く通ったのだった。その頃の僕は、永遠に続くかのような退屈にすっかり滅入っていた。つるんでいた連中も同じだったはずだが、皆「あんなのに近づくぐらいなら暇な方がマシだ」と、誰も着いてこようとしなかった。

 はじめの数日は苦労した。声をかけてみても、マグは「あう」とか「えう」とかうめき声のような返事をするだけだったのだから。ある日僕が固形ミールをほんの少しだけ齧って見せると、ようやく少しは嬉しそうな顔をした。

 普段の振る舞いからはあまり知性を感じられなかったけれど、マグは意外にも図書館に出かけるのを好んだ。食事に関する歴史書を漁るのが、彼女の趣味だった。

 利用者はもちろん、司書さえいない閑散とした図書館で、僕はマグの読む本を横から覗いた。人類がかつて動物を殺して食べていたこと、食事はただ生きる糧を得るための行為ではなく、人と人とをつなぐコミュニケーションの一環でもあったこと、食器の扱いにはマナーがあること――その章に辿り着いた時、たまに練習をしているからテーブルマナーは身についているのだと、マグは得意げに胸を張った――、そういう知識は少し気味が悪かったけれど、それ以上に不思議な魅力を持っていた。ページをめくるのが早いだの遅いだのと苦情を言いながらマグと過ごすその時間、僕は神秘的な世界の秘密を覗き見ているような気分を味わった。

「昔は、神様に食べ物をお供えしてたんだね」

 そのページには、祭壇に生きた羊を連れて行く男たちの挿絵があった。

「神様が羊を食べる必要なんてないと思うけどな」

 マグは僕の言葉に、恐る恐るという感じでこう呟いた。

「……でも、もし神様もものを食べるんだったら、ちょっと嬉しいかな」

 今から思えば、マグはあれらの本の中に、自分が特異な身体に生まれてしまった理由であるとか、栄養剤ではなく形あるものを食べるのをやめられないことに対する赦しであるとか、そういうものを探していたんだと思う。


 ある時、旨そうに固形ミールを齧るマグを見た僕の心の奥に、自分自身知らない何かが沸き上がった。

 食欲。僕の情念に、マグは目を輝かせながらそう名前を付けた。

「ほらほら、一口でいいから」

 それまで見たことがないようなはしゃぎぶりで、マグは僕の頬に固形ミールを押し付けた。不思議と不快感を覚えなかった僕は、されるがまま、それを口に含んだ。

 そして、次の瞬間にそれを後悔した。

「……そうだよね、うん、仕方ないよ」

 唾液まみれの固形ミールを一緒に片付けながら、マグは笑った。なんでもなさそうに、こうなることは分かっていたというように、何も傷つくようなことではないという風に、己にそう言い聞かせるように、笑った。


 僕はそれから、幾度もものを口に入れた。大抵は固形ミールだったけれど、たまにマグと〈食堂〉に出かけ、肉を食べようとしたこともあった。

 路地裏の〈食堂〉は、いかにも物好きというか、変わり者という風な連中のたまり場だった。誰も彼も料理を誇らしげに口に入れては、大して噛みもしないまま備え付けの容器に吐き出していた。食事という半ば忘れ去られた営みを知るためのその施設は、彼らにとって、不健全な承認欲求を解消するための場所らしかった。少数とはいえ、未だにそんな厄介な欲求を抱えた者がいるということが、僕には驚きだった。

 マグはそんな中、皿の上のハンバーグを器用に切り分け、頬張り、じっくりと味わって、飲み込んで、満面の笑みを浮かべた。近くのテーブルについていた連中は怪訝そうな顔をして席を変えた。

 牛や豚を潰し、捏ね上げた肉の塊。調理工程を想像しただけで、喉の奥から熱いものがせり上がってきた。〈食堂〉に充満する異様な臭いと雰囲気に中てられて、僕は強烈な眩暈を覚えた。

 何が正しいのか、まるで分からなくなった。

 食べられないことの不健全と、食べることの不自然と。

 牛か何かのように反芻を繰り返す人々と、この奇怪な肉塊を美味そうに飲み込むマグと。

 あまりにも独りきりな少女を肯定しようとすることと、見様見真似で無様にカトラリーを扱い、他の客と同じように料理を吐き出して、当の本人に「無理しないで」と言わせることと。

 それでも僕は、席を立つことができなかった。マグから離れるということが、ようやく見せてくれるようになった屈託のない笑みから離れるということが、まるで耐えがたい虚無に身を投げ出すことのように感じられた。


 マグに近づいたのは、ただ平板で退屈な日々に少しの刺激がほしかったから。そのはずだったのに、いつしか彼女は僕にとって、取り替えようのない不可欠な存在になっていた。レノたちからは白い眼で見られ、距離を置かれたけれど、それでも構わなかった。彼らとの空っぽな会話よりも、マグに寄り添い、その孤独に手を伸ばすことの方が、ずっと重要に思えた。たとえそれに触れることが、絶対に叶わないとしても。



*  *  *



「あんな女に入れ込んだせいで、お前は爪はじき者だ。俺らとだりぃだりぃって言いながら、死なない程度に生きてりゃよかったじゃねぇか。おまけに今度は〈神様の胃袋〉だ。俺らみたいに命にしがみつかないでいりゃあ、そうやって怯えずに済んだのによ」

 レノの言葉に何か言い返したかったけれど、何も出てこなかった。

 彼の見せた、「大切なものなど、心残りなど一つもない」という風な無表情を羨ましいと思ってしまったのは、紛れもない事実だから。

「さて、そろそろ行くわ。家も溶けちまって、行く当てもねぇけどな」

 黙ったままの僕を尻目に、レノは立ち上がる。こちらを振り返りもせず、軽く上げた右手をふらふらさせながら、公園の出口へ向かう。

 そして、突然ぴたりと立ち止まって、不思議そうに呟いた。

「しかし、神様ってやつも案外間抜けだ。これじゃ誰も救われない」

「え?」

「考えてもみろ。干ばつにあえぐ砂漠の街に雨を降らせたとして、そこの住人が一人も水瓶を持ってなきゃ、何にもならんだろ」

「なんだよそれ――」

 尋ねようとした瞬間、レノの背中がどろどろと溶けだした。

〈神様の胃袋〉に溶かされながら、彼はこちらを振り向いた。その顔は、不気味なほど穏やかだった。

「じゃあな。お気の毒さん。一応、お前が救われることを祈っとくよ」

 レノは悲鳴ひとつ上げず、荒れた地面に染み込んでいった。



*  *  *



 〈神様の胃袋〉が起動されてからひと月が経ち、僕らの街はほとんど溶けてなくなってしまった。人も草木も、もちろん僕らのアパートも形をなくし、街だったこの場所には今や物影ひとつ、物音ひとつない。

 今頃、見渡す限り広がる荒野の下では、再建される世界への期待と不安に満ちた人々の大騒ぎが響いているかもしれない。あるいは、新天地を前にしてもなお、彼らは白けた沈黙を貫いているかもしれない。

 いずれにしろ、僕とマグはそれに混ざれないでいる。

 幸か不幸か、僕もマグもずいぶん遅くまで溶けずに残ってしまった。僕らのような異端者を相手に、さしもの〈神様の胃袋〉も消化不良を起こしたのだろうか。

 いつ溶けてしまうか分からないまま過ごすのは苦痛で、いっそのことさっさと溶かしてほしいと、ここ数日何度も思った。けれど、こうして誰もいない荒野でマグと二人きりになってみると、溶けずにいたのは幸運だったような気もする。

「〈食堂〉、行きたかったなぁ」

 腹の虫を鳴らしながら、マグはぽつりと呟いた。

「もう溶けてしまってたんだから仕方ないさ。食器が残っていただけでも儲けものじゃないか。おまけに食べ物もあったし」

 マグは納得しきらない様子で、膝の上の皿に目を落とす。それから観念したようにため息を漏らし、そこに乗せた萎びた林檎をフォークで押さえつけ、ナイフを入れる。すべて〈食堂〉の残骸から拝借したものだ。

「ハンバーグがあったらよかったのに」

「好きだもんね、ハンバーグ」

「そうだけど、なんていうか、そうじゃないの。私が食べたいんだけど、私が食べたいからじゃなくて」

 マグはもどかしげにナイフを動かす。押さえつけた赤い果実が、皿の上でぐらぐらと揺れる。

「あなたが固形ミールを食べてくれたとき、嬉しかった」

「結局その場で吐き出してしまったけどね」

「そんなの関係ない。食べようとしてくれたのが嬉しかったの」

 声が、わずかに震えている。

「ずっと独りだった。パパとママは私を気味悪がって、目の前でものを食べるなって言った。友だちだってできたことなかった。もうずっと、誰も近寄ってくれないんだって思ってた。だから、あなたが色んなものを捨てて隣に来てくれたのが、私……」

 しゃくり上げるマグの頭を撫でてやる。彼女が本当に必要としているのはこんなことじゃないと知りながら。

「あなたに、もう一度試してほしかったの。私の幸せを」

 そう言ってマグは林檎の片割れを差し出した。僕はそれを受け取って、恐る恐る口に運ぶ。

 歯を立てた瞬間、異物を認識した頭が警報を鳴らす。目に涙が湧いてきて、普段は怠けっぱなしの喉奥の筋肉がここぞとばかりに動き出す。

 それらを無視して噛みちぎり、咀嚼し、飲み込もうとしたけれど、僕の喉は頑として林檎を通そうとしない。

 ついに僕はマグのくれたそいつを吐き出してしまった。

「――ごめん。君がいるところには、最後まで辿り着けなかった」

 マグが鼻をすするのが聞こえる。情けなくて、申し訳なくて、彼女がどんな顔をしているか確かめられない。

「私、悔しいよ。せっかく隣に来てくれたあなたに理解してもらえないまま、溶けてなくなっちゃうなんて」

 マグの泣き声を聞きながら、彼女にかけてやる言葉を探そうとした。けれど、この肝心な時に僕の口から出てくるのは唾液だけだった。だらしなく、だらだらと――。


 垂れ続けるそれが唾液でないことに、すぐに気づいた。

 どうやら、先に消化されるのは僕の方らしい。


「君を救えなかった僕が、こんなことを言うのは間違ってるかもしれないけれど」

 本当は、独り取り残されるマグを慰める言葉を吐き出してから溶けてしまいたかった。けれど、もうそんなものを探す時間はない。

 だから僕は、せめて思うままを吐き出すことにした。ただ、僕が伝えておきたいことを話すことにした。マグにも、もちろん他の誰かにも話したことのない本音。それが彼女を癒すかもしれないなんて、おこがましいことを思いながら。

「君のおかげで、僕は命を繋ぐ意味を見つけられたんだ。涸れ果てたムードでいっぱいの世界じゃ、到底見つかりっこないはずだったものを」

 異変に気づいて、マグがうずくまる僕を揺する。その直後、腕がぼとりと溶け落ちて、支えを失った僕の身体は無様に転倒する。マグが短く悲鳴を上げる。

「誰も君に触れることができなかった。それがどれだけ寂しいことか、僕には想像もできない。けれどね、僕の中には、間違いなく君からもらったものが宿っている。でなきゃ、僕はこんなに遅くまで溶け残らなかったさ」

 レノは溶けてしまう直前、僕が救われることを祈ると言った。けれど、考えてみれば僕はとっくに救われていたのだ。〈神様の胃袋〉が動き出すより、ずっと前に。

 マグに笑ってみせようとした。けれど、自分の表情も、マグがどこにいるのかも、もうよく分からなかった。


 マグがくれたものだけは


 せめて溶かさないでおいてくれたらいいのにと


 僕は思



*  *  *



 調理師が皿を置くと、少女は穏やかな表情のままナイフとフォークを手にする。その重みが心地よいのか、静かに微笑みを浮かべる。

 少女の周りには、他の客の姿も、ウエイターの姿もない。

 余計なものなどあるはずがない。ここは彼女のための場所だから。彼女を幸福にするために、〈神様の胃袋〉が用意した場所だから。


 新天地に辿り着く資格を有するのは、優れた幸福の提供者だけ。

 その通説が誤りだということは、後から考えればすぐに分かることだった。


 調理師が少女の前に置いたハンバーグ。それが誰の腹にも入らないのであれば、彼は幸福を生み出したことにはならない。調理師が提供者であるには、彼の料理を幸福として認識する主体が必要だ。砂漠に降り注ぐ雨を受け止める水瓶が。

 つまり、〈神様の胃袋〉はこういう答えを弾き出した。

 幸福の提供者と同じくらい新天地に必要なのは、優れた幸福の受容者。同じ提供物に対して、より大きな幸福を感じられるおめでたい存在。

 むしろ、自我が必要なのは受容者の方だ。厨房に引っ込んだあの調理師に自我が存在しなかったとしても、ハンバーグを頬張るという少女の幸福は少しも損なわれないのだから。

 幸福の涸れ果てたあの世界において、食欲を持つマグは優れた幸福の受容者だった。だから〈神様の胃袋〉は彼女を新天地に辿り着かせ、今こうしてテーブルにつかせている。


 そして、幸運なことに僕もその栄誉にあずかった。


「なんだか、ちょっと恥ずかしいな」

 切り分けたひと切れを顔の前まで持ち上げてから、マグははにかんでそう言った。

 恥ずかしいのはこっちだ。再会を諦めていたからこそ、あんな本音をぶちまけたのに。


 己の幸せを、誰かに理解してほしいというマグの願い。

 マグの孤独に触れたいという、僕の願い。


 それらがこういう形で叶うことになるとは、思ってもみなかった。いや、心のどこかで、僕はこうなることを望んでいたのだろう。でなければ、ただ冷徹に幸福の最大化を果たそうとする〈神様の胃袋〉が、こんなことを思いつくはずもない。

 僕の自我を、マグの好物に閉じ込めようなんてことを。

 それを口にする彼女の中に、僕を宿らせようなんてことを。

 そう思うとますます恥ずかしい。己の欲求が暴かれるということがこんな心地だなんて、知らなかった。

 そして、それを受け止めてくれる存在がいることが、こんなにも幸せだということも。


 僕はついに救い主の口に運ばれる。

 咀嚼され、飲み込まれ、その胃袋の中でもう一度溶かされる。

 彼女とひとつになり、誰とも分かち合えなかった彼女の幸福を、いつまでも、一緒に頬張るために。

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