第四章

【ただあるのはもはや変える事のできない記憶the only thing i see is a memory i cannot changeだけ】


 なにかの緊張感がすぐそこまで近づいてきているような朝には、自分の力だけではちゃんと起きられるはずがないと思っていても、前の日の夜に予め準備しておいた目覚ましのベルが夜を壊すそのほんの直前に、自力でその息の根をひっそりと止めてしまう事がある。私はこんな朝の幕開けが嫌いだった。どちらにせよ、普段よりも早めに起きなければならなかったという事情だけはその通りなんだけど、それでもなぜ自分がこんな中途半端な時間に、なんの前触れもなく自力で起きる事ができたのか、目覚ましのベルみたいな分かりやすい根拠が枕許のどこを探しても見つからなくて、起き抜けの冴えない頭とは裏腹に、暗闇の中でほんのりと色彩のイメージ持つ景色が、まるで時間の狭間にせり出したスカスカの雪庇を踏み抜いてしまったかのような取り返しのつかない緊張感を突きつけてくる。私は頭の先まで蒲団を被って、土嚢のような頭で枕と蒲団の隙間を塞いだ。それから枕許で冷たくなっていた金属製の目覚まし時計を蒲団の中に引き摺り込んで、文字盤に添えられた豆電球で時間を確認した。はあ。まだ五時前じゃないか。朝というにはまだ夜の領域に傾いた時間。予定より一時間以上も早く起きてしまった。私は蒲団の中でこの一時間分の緊張感の正体を探る。冬休みが終わって新学期最初の朝、給食が出ないからお弁当を作るために私は目覚ましをセットした。お米は三〇分もあれば炊けるし、その間に鶏肉と人参と蒟蒻を煮しめて、それから卵焼きと、おにぎりの具は梅干だけで。粗熱が取れたら、朝の連続ドラマが始まるころにはお弁当箱に包めるはず。お母さんに言われて、宿題の束は前日にきちんとランドセルの中にしまった。学級便りも何度も確認した。変に気負ったりするところはないのだ。厚く重ねた掛け蒲団の表皮で堰き止められている真冬の寒さが、キシキシと牙を鳴らしているせいなのかもしれない。私は恐る恐る蒲団の裾を捲って、外の様子を確かめた。酸欠気味の蒲団の中に新鮮な空気が滑り込む。ベッドのすぐ横の窓にかかった遮光カーテンの裾野から、夜に目が慣れるだけのじんわりとした露光が滲んでいた。夜空を濾し取ったような朝焼けの青鈍色じゃなくて、遠ざかる車のハイビームみたいな色味のない色。やっぱりなんだか歯車が噛み合わない感じがする。違和感だらけだ。確かに夜の中にいるはずなのに、夜そのものが薄ぼんやりと光を滲ませているような矛盾を、私は感じていた。私はカーテンの隙間を指で広げた。

 雪が積もっていた。

 大雪の朝だった。

 町じゅうに散りばめられたほんの僅かな軒灯のちらつきが、厚塗りのジェッソの上を絵の具のように引き伸ばされて、真っ暗な空の下でくすんだ白銀を浮かび上がらせていた。目を凝らせば凝らすほど窓ガラスが熱い息で曇った。まだ粒の粗い牡丹雪がひゅるひゅると風に巻かれている。十センチは積もっていた。

 どうりで寒いわけだ。すっかり目が冴えてきた私は、蒲団の中から毛布を引っ張り出して厳重に体に巻きつけ、ベッドから降りて電気ストーブのスイッチを入れた。石英管のオレンジ色が、氷漬けの六畳間にあっては冬籠りに備えた心臓みたいに健気だ。私はしばらくその場に坐って、素足の指先を揉み拉きながら丹念に焙りつけていた。

 後ろのベランダで雪が崩れた。屋根の雪が崩れ落ちる音じゃなかった。なにかが雪を踏み締める音だと気づいた時には、誰かの呻き声がベランダの掃き出し窓を叩いた。もう! いつもいきなりなんだから! 私はベランダに駆け寄り、氷のような窓の掛け金を外して、震える声の持ち主を部屋に上げた。隣の家の窓から基盤芳典が飛び移ってきたのだ。

 基盤は真っ青な顔で歯の根を震わせながら、関節というものがおよそ機能していない指で、鉤爪のように私の毛布の裾を引っ掛けた。

「寒い」

「やだ」

「半分だけ」

 私だって寒いんだから。黙って奪われるわけにはなるまいから、私は自ら毛布の中に基盤を招き入れた。ぎりぎりの幅の布地からはみ出さないようにぎゅっと抱きしめた。基盤の冷え切った掌がパジャマの隙間から腰のところの素肌に当たって、ちょっとだけむかついた。基盤は子犬みたいに私の懐で頭をうずめて、深く排熱された息がくすぐったかった。私は基盤の耳元に問い詰めた。

「なに。こんな夜更けに」

「もう朝だぞ。大雪だぞ」

「それで興奮して、窓からショートカットしてきたんだ。どうせ。玄関使ってよ」

「家族に迷惑だろ。まだ夜だぞ」

 言ってる事がころころ変わるのは、それ自体はどうでもいい事だからなのだ。きっと。

「勝手口は。鍵の場所、教えたでしょ」

「うるせえなあ。早く鹿島に会いたかったんだよ」

 うぬぬ。

 どうせ適当な言葉だけど!

「だからって、私の見てないところで危ない橋は渡らないで下さい。足を踏み外したらどうするのよ。基盤は見えない癖に」

 基盤の部屋の窓と私の部屋のベランダとでは、向かい合わせにあっても、飛び移ろうとするには大股で二、三歩足りないし、頭ひとつ分、高さも届かない。基盤はその足りない足場を、足許に壁を設置する事で、階段を昇るように、私の部屋に繋がる秘密の通路を作った。基盤だけが通れる道だ。

「鹿島、早く着替えろ。出掛けるぞ」

「まだ暗いよ」

「雪が汚れるから」

「親に怒られるかな」

「構うもんか。怒られながら出掛けるわけじゃない」

 それもそうかも。帰ってから怒られればいい。楽しい時間が台無しになるわけじゃないのだ。

「じゃあ着替えるから」

 基盤に毛布を預けて、私は学習机の上に畳んで置いてあった着替えに手をつけた。基盤はストーブを見つけて噛りついているけれど、じれったそうに私の様子をまじまじと見ていた。

「基盤」

「なに」

「なんでこっち見るの」

「見てないよ。そっち向いてるだけ」

「エッチなんですけど」

「俺が? それとも鹿島の裸が? ないない」

 どういう意味ですかそれ。

 私は適当にその辺に転がしていた少女漫画を基盤に投げつけた。基盤が興味津々にそれを検め始めた隙を窺って、私は手早く着替えを済ませて、ダッフルコートとニット帽を被った。ランドセルをどうするか迷ったけれど、基盤だって手ぶらなんだから、私もそれでいいやと思った。

「なんで百億の昼と千億の夜が少女漫画なんだよ」

「SFなんてどれも耽美系で観念的だからじゃない?」

「せめて夕ばえ作戦あたりにしとけよ。漫画ばえするだろ」

「それじゃ少女漫画にならないわよ」

 無駄話を二、三言交わして、基盤は持ってきたスニーカーを突っ掛けて、さっさとベランダから駆け降りていった。自分だけずるいと思う。私は基盤の壁に触れられないから、忍び足で玄関から出るしかない。

 濃い暗闇の中で階段を一歩ずつ踏みしめるのは、まるでプールの中を歩くように足先に纏わりついてくるものがある。ドアチャイムの真鍮のハンマーが激しく暴れてしまわぬように、慣性を押し殺しながら玄関の扉を広げた。

 舞台の緞帳がするすると袖に引かれて、ほんの隙間からでも、溜め水の栓を抜いたみたいに冬が渦を巻いて私の胸に滑り落ちてきた。わあ。本当に雪景色だ。庭木の梅の細枝も、柊の葉も大きな景石も、丸味を帯びて、見慣れた庭に宝物が散りばめられている感じがする。

 基盤が門扉の外で手招きした。敷石にはまだ足跡がない。基盤が私のためにとっておいてくれたんだ。嬉しさと一緒に雪を踏み締めた。長靴の裏側でずぶずぶと雪が潰れる感じが、むず痒かった。

 私は跳ねるように基盤に駆け寄った。家の前の歩道もまだ新雪のままで、新聞配達の自転車の轍すらない。基盤は歩道から飛び出して、二車線ある道路の真ん中で大の字に倒れた。それが思ったより勢いづいて雪がクッションにならなくて、頭の後ろを押さえているのがおかしくて、私は笑った。笑いながら私は、基盤を引っ張り起こそうとしたら逆に腕を引き摺られて、私も道路の真ん中に転がされた。ニット帽のポンポンが雪達磨みたいになった私を見て、基盤が笑い、それにつられて、私はまた笑った。

 私は雪を払いながら立ち上がった。誰が見張ってるわけでもないのに、ちょっとくらいサボったって構わないのに、交差点の信号機が遠くで律儀に色を切り替えた。

 誰にも邪魔されない時間がここで立ち止まってるわけじゃないのだ。

 地面は私たちの悪行をつぶさに記憶しているかのように不敵な表情を見せるけれど、それも時間とともに磨り減るように、他のなにかと見分けがつかなくなるまで踏み均されてしまうのだ。その恐ろしさに、私の足は縛りつけられて、私は、名前のよく分からない感情に胸を掻き毟られた。

「ねえ。景色が変わるまで歩こうよ」

 基盤が頷く。

 今だけは、町は私たちに違う表情を見せていた。歩き続けていたら、いつもとは違う、いつもならいけないような場所に行けるような気がした。


 雲のレースを通してそれとなく太陽が顔を覗かせると、まるで誰かが空の上でさっとカーテンを広げたみたいに、雲が西の奥に折り畳まれた。社規台の坂道を一番上まで登り切ると、見晴台の上にぽつんと大きな送電鉄塔が聳え立ち、尾根伝いに淀賀茂と千畳敷の町境を走っていた。基盤はできるだけ見晴らしの良さを維持したまま、高いところへ高いところへと道を選んでる感じだけれど、どちらかと言えば私は、鉄塔から伸びる五線譜を追いかけているくらいの感じだった。どれだけ野に山に分け入っても、これさえ手繰り寄せれば必ず見慣れた景色に帰れると、そう自分に言い聞かせた。どうせ基盤は帰り道の事なんてなんにも考えずに右へ左へどんどん進むから、私がしっかりしなきゃ。街路樹を悉く蹴りながら雪達磨になる基盤の冴え冴えとした青のダウンジャケットから目が離せなかった。千畳敷には、東側の千畳敷霊園に家族とお墓参りでしか訪れた事がなかった。西側の傾斜地には初めて足を踏み入れる。崖地に建つ積み木みたいなマンションの足許の広場から、真っ白な擁壁に敷かれた長い階段を登って、遠くの景色が急坂のカーブに隠れると、鬱蒼とした雑木林を抱えるお屋敷、教会みたいな綺麗なお屋敷、高いフェンスがずっと続くお屋敷が建ち並ぶ、どこか浮世離れした区画が暫く続いた。傾斜のせいで複雑に曲がりくねる道と道の交差が方向感覚を狂わせて、まるで閉じ込められているような感じだった。それは事実として閉じ込められているわけではないのだけれど、そのそれぞれの意匠に凝った豪邸に挟まれながら、いつまでも閉じ込められていたいと思う気持ちがわざと私たちの足取りを緩ませて、意味のない道草を食わせた。

「ねえ基盤」

「鹿島」

「なーに?」

「芝生が青い」

「真冬に?」

「違う。慣用句。羨ましい」

「豪邸住まいが?」

「初めから用意されてる特別な家柄が」

「どうせ塾とかお行儀とか厳しいよ」

「でも金持ちだぜ? 俺たちは働けないから、親の金が全てだぜ?」

「私は今の暮らしが一番だもん」

「二番を知らないのに一番は決められないよ」

「私はお父さんもお母さんも大好きだから」

「親に不満があるわけじゃないよ」

「新しいお父さんの事、まだ嫌いなの?」

「母さんが幸せそうだから、嫌いじゃないよ」

「それ、その相関図に基盤の感情が入ってないじゃん」

「俺が言いたいのは、見せびらかされると、すれ違うたびに後ろ髪を引かれて鬱陶しい」

「基盤は違う友達の家で遊ぶといいのに」

「嫌だよ。あいつらガキっぽすぎて嫌になるんだ」

「基盤だってガキっぽい事するじゃん」

「でも鹿島は、それをきちんと言語化できるじゃん」

「腑に落ちない事柄が嫌いなだけ」

「感情を感情のままに扱うのって馬鹿らしいじゃん。きちんと言葉に直された感情に従えよ」

「基盤が変なだけだよ。基盤だけだもん」

「変かな」

「変だよ」

「あーあ。違う自分を同時に生きられたらなー」

「胸焼けしそう」

「想像してるだけじゃ、胸が掻き毟られそうになる」

「想像だけ膨らませてたら、そりゃ空っぽがどんどん増えてるだけでしょ」

「なあ鹿島、宇宙空間も無限に膨張してるんだぜ?」

「じゃあ誰かが頑張って埋めなきゃ、空っぽがどんどん増えちゃうね」

「ほら、鹿島は話が早い」

「私、基盤の幼馴染だよ? 長いもん」

「長さの問題か?」

「こんなの基盤が相手じゃなかったら言葉にもならない事柄よ」

「毎日、胸が掻き毟られそうなのに、頭空っぽのあいつらと遊べるわけがない」

「ねえ基盤。学校、休む?」

「さあ。前提を基に動きたくない。帰りたくなったら帰るし」

「一時間は歩いたよ。来た時間が帰る時間を越えたら遅刻だよ」

「線路にぶつかれば電車に乗れる」

「お金置いてきた」

「俺はあるよ」

「へえ。のど渇いた」

「自販機ないね」

「基盤。あれ見て。凄い豪邸」

 まるでお城を凝縮させたかのようなロマネスク建築の洋館が、私たちの興味を惹いた。ヨーロッパから直接持ってきたみたいな存在感で、庭園には雪化粧の上からでも様々な草花が寄せ植えられている事が分かった。雪に負けないくらい真っ白な大理石のダビデ像が、ここからでもその精細さが分かるくらいに庭で背筋をしゃんとさせていた。

「ちっちぇーちんちんだな」

「基盤、デリカシーって言葉、御存知?」

「寒さで縮こまってんだぜ、あれ」

「敵のゴリアテと戦う直前だから縮こまってるだけよ」

「博識だな」

「絵画教室で教わった」

「どうせならアフロディテとか作ればいいのに」

「基盤、それおっぱい見たいだけじゃないの」

「コラディーニとかベルニーニとか見て褒めてるやつらだって、クオリティがエッチだから褒めてんだろ? 実際にできるだけエッチに作られてんだから、おっぱい見て当然だろ」

「エッチエッチ連呼しないでよ。官能的って便利な言葉、御存知?」

 そんな事を喋りながら、基盤は興奮気味に洋館の鉄扉へと駆け寄った。

「転ぶよ」と声を掛ける間もなく、基盤が足を滑らせて、盛大に尻餅を搗いた。

「痛え」

「興奮し過ぎ」

「こんなん誰でも転ぶわ。足許つるつるだぞ」

 本当だ。

 まだ六時に差し掛かるかという朝早い時間に、車のタイヤが何度も踏み締めたと思しき道路は、道すがらにもちらほらと見受けられたけれど、その洋館が面する道路は、律儀にアスファルトの雪が広範に亘って掻き出されているのにも関わらず、その仕事ぶりが雑で、大まかに上澄みをこそげ落としてはいるものの、アスファルトに肉薄するところまではしっかりと腰が入らずに、逆にシャベルの背で抑えつけられたような場所が散見され、アイスバーンになっていた。

 私は鉄柵が生えた腰壁に手を突きながら、基盤の許に駆け寄った。

「うわースケートリングみたい、楽しー」

「そんな大層なもんか。雨の日の昇降口みたいなもんだろ」

「誰がこんな中途半端したのかしら」

「誰がって、この家のやつがだろ」

「え?」

「え?」

 なんで基盤はそんな事が即答できるのだろうか。

「癪に障る。お代替わりに、あいつのちんちんもっと見なきゃ」

 基盤は顎で鉄扉の奥のダビデ像をしゃくった。

「興味湧き過ぎでしょ」

「鉄柵乗り越えられないかな」

「警備会社のシールが貼ってあるわよ」

「裏から探ってみるか」

「裏手は崖なんですけど」

「壁で階段を敷けば登れる」

「駄目よ。危険だわ」

「人に見せるために作られたんだから、見るだけなら怒られないよ」

「壁で崖登りするのが危険なの」

「だから鹿島は待ってろ」

 私の制止を振り切り、基盤は壁で器用に制動を掛けながら坂道を駆け下りて行った。

 私は道路の真ん中に取り残された。

 待ってろったって。

 それに基盤は、いったいなにを根拠にこの家の者の仕業だと当たりをつけたのだろうか。私は辺りを見渡した。どうやら雪が掻き出されて均されているのは、この家の表とその右隣、あるいはそのお向かいさんとなる家二軒分の範囲だけである。そこから先の道路も、既に何度か往来があったように雪が踏み締められているけれど、掻き出されているというほどではない。私は改めて鉄扉の奥を覗いた。鉄扉から玄関に繋がるアプローチには確かにぐちゃぐちゃとした足跡が窺えるが、雪掻きの跡はなかった。この家の者がやったとするなら、なぜ自分の敷地よりも先に、道路の雪掻きをしたのだろうか? 洋館の表札には「椚」とある。私は他の家も覗いてみた。右隣の家は、社規台でもよく見掛けるような現代建築様式の角ばった家で、庭というほどのスペースはなく、ガレージに続く石畳の上が綺麗に雪掻きされていた。表札には「林」と。それから私はお向かいの家を見た。一つは純和風の日本家屋で、玉砂利が敷かれた和風庭園に一筋の足跡が往復していた。表札は「安曇」である。もう一つは、こちらも現代建築様式の建物で、加納税理士事務所という看板が掲げられた、オフィス兼用の住居らしい。道路からすぐに玄関口が面していた。普通に考えれば、唯一自分の敷地の中まで雪掻きしてあるのは林さんだけであるけれど、加納さんにはそもそも庭がないし、仕事場という事もあって、横着な仕事振りとは言え、公道にまで気を配る意味合いは強いのかもしれない。それに林さんは自分の敷地を綺麗に雪掻きできているのだから、それを加味すると、一概に同じ人の仕事には思えなくなる。しかし、思えば安曇さんの家は和風庭園なので、玉砂利が敷かれているのなら、そもそも自分の敷地内は雪掻きのしようもなさそうである。

 うーん、消去法で考えるとなると、どうしても椚さんだけが一番根拠に乏しい気がする。

 でも基盤には、そんな情報を集めるまでもなく、この家がそうであると確信するだけのなんらかの根拠があったのだ。勿論、それが事実であるかに関わらず、である。この際、事実なんて私にはどうでもよかった。基盤がなぜそう思ったのか、それが私には分からない事が、単純にむかつくのだ。

 私の着眼点が違うのだろうか? もっと単純に、ぱっと見た感じでおかしいなと思える事があるのだろうか?

「違う違う、見えるものを探すんじゃなくて、見えないものを探さなきゃ」

 椚さんが自分の家の庭の雪を浚わずに、道路の雪だけを浚う理由でもあるのだろうか?

 私は一度、坂道の頂上の十字路まで戻って、その通りを見降ろした。

 一つだけ、気付いたことがある。

 掻き出した雪がどこにもないのだ。

 石灰や融雪剤を撒いたのならともかく、シャベルを使ったのなら、除雪した大量の雪が道路の隅にでも積みあがっているはずなのである。だけどそれがなかった。

 きっとこの道路は、歩きやすいようにする事が目的ではないのだ。他に目的があるのだ。

 例えば除いた雪そのものに意味があるとか。かまくらや、雪達磨を作るために、大量の雪が必要だったとか。

 でもそれなら、自分の庭に積もった雪を使えばいいのでは?

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例話稲生物怪録 @dormantgomazoa

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