第三章

【私は岩、私は島】


 硯鋳錫の事なんて私はなんにも知らない。私が知っている硯鋳錫は、それを私が「知っている」と言い張る事さえある種の後ろめたさを覚えるくらい、その上澄みを汲み取ったものでしかない。だから私は、硯鋳錫の事なんてなんにも知らない。

 確かに彼女の事について私が語れる事はそんなに少なくはないのかもしれないけれど、言葉に責任を持てない。

「私、取り扱い説明書の類は嫌いなの」

 伊勢栞が言葉を促す。

 私は言葉を探る。

 硯鋳錫は、毛先が僅かに日に焼けた栗毛の女の子で、校則違反のパーカーを羽織っていて、上下の八重歯を研ぐようにこすり合わせる癖があって、湶渓高校美術部の部員であり、名簿の上では五名ほど在籍しているはずの、放課後にその姿を見掛ける事のある、数少ない、私と同学年の美術部員である。

 だけど、私とはあらゆる点で異なる美術部員でもある。

 どちらかと言えば普段からあまり部活動に取り組んでいるというわけでもなく、カレンダーにマークされている課題の講評会とか、コンペの進捗報告みたいないわゆるお堅い催しが開かれていない日を選んで、美術部の一画を陣取り、どこでも誰とでもできるような楽しげな会話をわざわざこの場で楽しむような派閥に属するタイプの美術部員の一人に数えられる。

 同じ部活動に在籍していながらも、私たちとは全く種類の違う人間で、移動教室などでなんらかの機会があれば同じ部のよしみくらいには会話を交わす事もあれども、決してそこから先の接点はないし、そもそもお互いがお互いにとっての関心を寄せる対象になりえないくらい、趣味も違えば意識も違う。

 彼女たちは机の上に広げられたスナック菓子とか漫画雑誌とかアニメグッズなんかを取り囲み、およそ彼女たちの間でしか通じる事のない、共通見解の上に築き上げられた独特の言葉遣いで、お互いの趣味に関する談話を繰り広げるのである。

 私がいつもいる立ち位置から見える彼女たちの姿は、美術部員としてなにかを作り上げる事に熱意を注ぎ、研鑽を重ねるというよりも、そうやって誰かの手によって作られてきたある作品群を、鑑賞してみたり、所有してみたり―外側から触れられる限りの範囲だけで満足感を得る、消費者側の立場に留まる人々だ。たまにこそこそと仲間内で漫画作家かなにかの真似事をしたり、なにかのポスターの写しを描いて見せ合っているようだが、必ずしも作り手としてのメンタリティを備えているというわけではないようだし、ましてや私たちが持つような種類の情熱を部活動に持ち寄っているわけでもないので、それが部内における派閥の極化に拍車を掛けていた。

「その現状だけを指して特別に問題視するような気持ちは、私には微塵もない事を先に断らせて貰うわよ。私は、たかだか高校の部活動が一枚岩である必要性を感じないわ」

 私だってそう思っている。学校の部活動なんて決して特定の誰かのものであってはならないのだ。ただ活動のための場が用意されているだけの事で、そこになにをしにやってくるのかは人それぞれだし、なにができるのか、なにができないのかを見定めるのも、その人それぞれの采配である。

 自分が美術部をどのような場として扱おうと勝手だが、他の人たちにとって美術部がどのような場であるべきかを強制するのは、仮にそれが、副部長である伊勢栞の発案によるものであろうとも、あまりにも権限が過ぎる、横暴そのものとなる。

 事実、私はこれまでの美術部の状態にはある程度の満足を覚えていたし、私がやりたいと思っている事の殆どは実現できているので、そもそも問題を感じているわけではないのだ。もちろんなにもかもが完璧で私に対して優しくあるというわけではないし、気に食わない要素は幾つか散見されるのだけれど、それを加味した上でも居心地の良さが勝っているので、私はここに居続ける事ができる。

 そしてもしもそれが実現できなくなってしまったり、あるいはそこに居る事そのものが辛くなりつつあるとするならば、この世の全てを思い通りにしなければ気が済まないくらいの我が儘を振り翳すか、さもなくば惜しみながら黙って身を引くしかないのだろう。

 それは硯鋳錫にとってもそのはずだ。

 彼女にとっての美術部も、きっとそのような場所へと成り果てたからこそ、彼女は退部を選んだ。

 居辛くなったから。

 それ以上の意味なんて彼女にはないのかもしれない。

 そう思わせるくらい、硯鋳錫はあまりにも素っ気なく退部届を提出して美術部を去った。私は偶然その場に居合わせた。期末試験を終えて、大掃除したばかりの美術準備室の簡易デスクで、私は部長と居残りで冬季合宿のしおりを編纂していた(厳密に言えば、手を動かしていたのはほとんど私だけで、瓦礫濯はるるぶを斜め読みしながらあれこれ横でうるさいだけだった)。恨みがましさとか悔しさみたいなものをどこかに置き忘れてきたような手持ち無沙汰で、ただ事務的に退部する旨を部長に伝え、それを受けた瓦礫濯も、特にその感情を詮索する事はしなかった。

 私はただ、彼女が準備室を出る間際に私の顔を一瞥して言った「それじゃあね」というあらゆる角度から捉えても曖昧な言葉に、「じゃあね」と慎ましく手を振るのが精一杯だった。

 今でもまだ私の心がざわついている。

 瓦礫濯が答える。

「同じ学校の生徒だぞ? 別れを惜しむもくそもあるか」

 その通りだ。

 硯鋳錫が辞めたところでなにかが失われるわけじゃない。

 でも、たぶん硯鋳錫は、美術部を辞めたくて辞めたのではない。硯鋳錫にとっては、遅かれ早かれ、いずれは辞めざるを得ないような成り行きを辿っているだけのようにしか感じられなかったのかもしれないけれど、それでも、彼女が退部しなければならなくなった分水嶺は、チャプターマークのように私の記憶に鎮座している。

 ほんのささやかな、だけど確かな形を持った何者かの悪意によって、硯鋳錫はその立場を害され、美術部を辞める事になったのである。きっとそれが硯鋳錫に対する悪意であるとは、彼女にすら気付かせないままに。

 私だけが、その痕跡を悪意という形で捉えている。問題視している。

「文化祭の事故なら、あれは単なる準備会の不手際で決着しているわ。美術部内に異存はなかった」

 ならば、文化祭での硯鋳錫のあの絵の有り様は、どう説明するべきなのだろうか。

 突き詰めれば、あれが発端で、あれだけがどうしても受け容れ難い、ただ一つの出来事なのだ。

 硯鋳錫に始まる、大多数の美術部員にとっては、単なる偶然でしか済ませられない出来事なのだろうけれど、しかし私はこれを偶然では済ませられない。

 硯鋳錫の絵を塗り潰すように覆う、燻るように焼け爛れた悪意の痕跡を―非現実的な力の痕跡を、私だけが目に見える形として捉える事ができた。だけどその存在を伝える術もないまま、硯鋳錫は美術部から退いたのだ。

 私の後悔は、一つだけである。

 こんなのはフェアじゃない。



 最近は、普通に生活している中でも、怪しげなものたちがちらほらと目に付くようになってきた。現実に対する意識が緩んだり、目や感情の焦点が物事の表面をちょっとだけ突き破るように定まらなくなると、まるでなにかを象徴するような有機的映像が目の前に溢れ出す事がある。それは例えば誰かの感情の縺れだったり、その場所特有の空気感だったり、なにかの予兆だったり、とにかく普通の人ならば気にもしないような―気にしなければならない必要性に駆られたとしても、もっと迂遠で正しい順序を踏まえて理解するべきような物事の結果だけを先に見せられている感覚ばかりが、私の意識を掠め続ける。

 伊勢栞はこんな景色を十七年間も見つめてきた。伊勢栞との邂逅によるパラダイムシフトが、私の属する世界を著しく揺るがして、歯車の噛み合わせを広げてしまったのだ―いや、正確には世界が広がったというよりも、ただ歯車がずれてしまっただけなのかもしれない。

 正直、見ていてあまり気分のいいものばかりではない。

 同じ授業を受けているはずなのに、自分だけは問題集の答えの羅列だけを渡されて、逆算させられているようなものだ。友達と放送中の連続TVドラマの話をする時に、最終話のオチしか話題を提供できないようなものだ。嫌みでしかない。

 霊験あらたかなのも考えものである。

 見たいものを見、見たくないものは見ない。見なければならないものを見て、見るに及ばぬものは無視する。それができれば世話はないのだろうけれど、伊勢栞に言わせるところによるとそれはいわゆるその生業に通ずるところの奥義と呼ばれるものであり、誰もが目利きになれるわけじゃない。

 人の意識は突き詰めれば器質的で物理的なものだ。種から芽が生えるように、初めからいずれ変わるようにできていなければ、内発的に自らの意識を思い通りに変えられはしない。それは石が自ら石である事を否定して木に変わるようなもので、しかし石は物言わぬ石であるがゆえに自らの成り立ちを否定する事ができず、成すがままに、されるがままに、誰かがその石の中から木の形を削り出す時がくるのを待つだけなのだ。

 岩は痛みを感じないからand a rock feels no pain,島は涙を流さないからand an island never cries

 どうやら私は暫くの間、この恣意的な景色の波間で溺れないように息継ぎをしなければならない。

 試験休み期間の半日授業を慎ましやかに終えて、一時に差し掛かる校内には暇を持て余した生徒たちがそぞろに賑わいを見せている。どこの教室にも、これから部活動のある生徒や冬休みの計画を立てる生徒たちが一握りほど居残って、それぞれ単位面積の広がった机の寄せ集めにお昼ご飯を並べている。

 美術科の生徒は、家に帰るとなにか嫌な事でも待ち受けているのか、殆どの連中が意味もなく机に齧り付いて、見せびらかすように課題を進めようとしているから、とにかく喧しくて落ち着かないので、私は特別棟の南北を縦断し、連絡通路を渡って、一般棟にある普通科一年A組の教室を覗いた。

 私の幼馴染み、基盤芳典が在籍するクラスだ。

 私の目的は基盤に持たせた弁当箱の回収である。そしてどうせなら、今日みたいに大した予定も控えていないゆとりのある昼下がりは、基盤と一緒にお昼ご飯を食べようかと思って、浮き足立ちながら足を運んだのである。

 放課後に見慣れない顔が闖入してきたところで邪険にされるわけじゃないけれど、それでも見知った顔があると会釈の一つでも包んでおかなければいけなくなるので、私は教室の引き戸を体半分だけ滑らせて、目を走らせた。

 教壇付近で黒板を使って謎解きゲームみたいに数学の式を弄くり回している四、五人のグループの他には、仏頂面を引っ提げた基盤芳典が想像通り食事についているだけである。

 硯鋳錫の姿は見つからなかった。

 昔から外の寒さが厳しくなるにつれて基盤の放浪癖も落ち着いてきて、エネルギーを持て余したみたいにふらふらと街を彷徨うよりも、最近はよく放課後に図書室のだるまストーブの傍で、日が暮れるまで本を読んだりしている。下宿にはろくな暖房設備がないから、布団を被って読書するのは腰にも悪いし身が入らないのだとかなんとか。

 私は素知らぬ顔で机の合間を闊歩し、基盤の正面にある座席まできてそれを拝借すると、前後の向きを入れ替えて幅を寄せた。試験が終わったばかりだというのにさっそく落書きだらけになっている汚い机だったけれど、どうせ弁当箱を包んできた布巾をそのまま敷くので、気にするほどの事でもなかった。

 ようやく基盤と目の高さが揃う。

 予めそれらしい示し合わせをしてからきたとは言え、免罪符のような歓迎ムードがあるわけでもなく、予定調和のように淀みなくもぐもぐと顎を上下させている。食べるペースがとにかく遅いのだ。ここまで結構な距離を歩いてきたはずなのに、見れば弁当箱の中身はまだ五分の一も減っていなかった。渾身の出来であるスルメ入りのきんぴらごぼうまで辿り着いていないから、話の取っ掛かりとして、「何が一番おいしかった?」と尋ねる事もできない。仕方がないので私も無言のまま自分の弁当箱を開いた。

「おい。なんだそのミートボールとカップグラタンは。俺のにはないぞ。焼き鯖じゃねえのかよ。ずるいぞ」

 開口一番、不満たらたらなやつである。

 なんて失礼なやつなのだ。私が丹精込めて焼いた鯖を、出来合いのお惣菜と比べるな。仕方がなかったのだ。試行錯誤を繰り返して、結局出来上がったのが一人分にしかならなかったから、私の分は冷凍食品で隙間を埋めたのである。

「鹿島。大事な事を教えてやる。魚は肉じゃねえんだ」

「同じメニューにするはずだったのよ。ただあれこれ試している内にちょっと食材が足りなくなっただけだから」

「捨てたのか? もったいねえなあ」

「持ってきたら食べてくれた?」

「あるべき場所に責任を納めろ」

「今頃おじいとおばあが喜んで食べてるはずだから。通り一遍の責任を果たすよりも、トータルの幸福量を優先するわ」

「老い先長くない」

「まだ還暦よ」

 それにここで声高に主張するつもりはないが、失敗作の方も食べられないものを作った覚えはないのだ。ただほんのちょっとだけ張り切り過ぎて、趣向にこだわり過ぎただけなのだ。参考にした料理本の方向性が間違っていた。あまりにも大袈裟な料理ばかり作り過ぎて、冷静になってみると自分でもどん引きだったから、弁当箱に詰めるのが躊躇われた。

「そもそも基盤がこんな年の瀬に無駄遣いばかりしているのがいけないんでしょ。なんで男子の節約ってまず食費から削るのかしら。今の基盤は私に対して感謝の言葉しか喋れないファービー人形みたいなものだって立場を理解しなさい」

「うめー。うめー。八百彦の弁当よりもうめー」

 なんでこいつはそんなお高いお店の味を知っているのだろうか。普段のエンゲル係数が気になる。

「基盤。年末年始は実家に帰省するんでしょ? 折角だから一緒に帰りましょうよ。私も基盤の家族には挨拶するの」

「俺も帰らなきゃ駄目なのか?」

「どうせどこにいたって基盤は寝正月じゃない。たまには親に顔を見せなさい。それと私は熱田さんに初詣に行きたいな」

「無謀。神宮駅から東には絶対に近寄らんぞ。三箇日は近所の天神で我慢しろ。学業成就が本分だろ。引っ張り出されても俺は伝馬町の線路脇にあるショッピングモールみたいな本屋で暇を潰してるから自力で本殿を拝め」

 ……なんだ。行きと帰りは一緒にきてくれるんだ。それに地元には帰省している事が前提で話が進んでいる。やった。お正月デートできる。お下がりの着物を見せびらかせる。

「昔は縁日があると私がせがまれる立場だったのに」

「義理と貸し借りの差し引きを数えるのも馬鹿らしくなる」

 まあ、できる限り人混みを避けたいのは私としても同じである。あれこれ画策したところで結局のところ最後には私が基盤に合わせる事になるのだ。どうせ参拝もそこそこに基盤の後ろにくっついて本屋巡りでもしている自分の未来がありありと目に浮かぶ。確か堀川の新開橋に新しく大型書店がオープンしたはずである。是非とも立ち寄りたい。

「鹿島。湶渓は何日から冬休みなんだ」

「二十三日の金曜日。天皇誕生日」

「なら二十三日の昼に帰るぞ。新幹線の乗車券は任せる。立て替えろ」

「それは急すぎる! 私が無理」

「なぜ」

「美術部で冬季合宿がある」

「こんなくそ寒い季節にまた南アルプスの山奥くんだりまでスケッチに行くのか? 凍死するぞ」

「山は夏季合宿だけです。冬は東京。美術館を回るの。あと藝大の下見。受験する子もいるから」

「まじかよ。いつから」

「最終日の授業が捌けたらその足で」

「いつまで」

「クリスマスまで。ミレナリオのイルミネーション楽しみ」

「物見遊山だな。旅費は全額学校負担で全員参加?」

「いくら湶渓の美術部でもそんなに偏った予算編成は生徒会との癒着を疑うレベル。年度末の調整で九割自己負担の希望者だけよ。お土産は期待できない」

「硯鋳錫はお留守番か」

 基盤の口から、いきなり思い掛けない名前が飛び出した。

「……なんで基盤が硯鋳錫を知ってるの?」

 これは本当に無意味な質問だった。基盤が彼女の名前を知っている事についてはなにもおかしくない。硯鋳錫は、基盤と同じクラスの生徒である。名前くらいは嫌でも聞き齧っているはずなのだ。私が疑問視するのは、なぜこの場面で、いきなり彼女の名前が差し挟まれるのかという事である。

「お前が今坐ってる椅子、硯の椅子だぞ。確か美術部だろ」

「もしかして基盤、硯鋳錫と仲がいいの?」

「クラスメイトの中では喋る機会が多い部類」

「私と比べてどのくらい仲がいい部類?」

 がっつき過ぎなのは自分でも分かっている。考えるよりも先に口を衝いてしまったのだ。自制心がぶっ壊れたのだ。

「鹿島と俺は結構頻繁に仲が悪いだろ」

「違うから! そうゆう事じゃないから!」

「解釈が困難。馴れ馴れしいんだよ。硯は。勝手に話し掛けてきやがる。マイナーなだけが取り柄の古いライトノベルを読んでたら食い付かれた。根暗な趣味だぜ。おい鹿島。手鏡こっち向けんな。眩しいだろ」

「で。なんで硯鋳錫の名前がここで出てくるの?」

 基盤が考える間を作る。頭の中で情報を整理している。

「口約束された。硯には本を貸している。どんなに遅くてもクリスマスになるまでには読み終わるはずだから、読破したらその日の内には返すと。よもや東京からバイク便で送るわけでもあるまい。ありゃ読後の感想はすぐにでもぶち撒けなけりゃ気が済まないだろ。俺の下宿先まで押し掛けかねん」

「……基盤が、本を貸す? 私ですら借りた事がない」

「お前は俺の部屋でしか読まねえだろうが。貸せと言われれば貸せるものもある。むしろ処分に困るものまである。貸して困るような本を俺は持ち歩かんぞ。逆に硯は買ったばかりのハードカバーの新刊を平気で持ち出してきて、俺に貸す。担保にはなる。借りパクされても構わん」

「へえ。そう。やけに詳しい口振りするの。基盤の癖に」

「喋ればぼろが出る人間の代表格だぞ。あいつは自分が大事にしているものほどひけらかす種類の人間だ」

 実はさっきから気が動転していて話が頭に入らない。まさかこんな思わぬところで、基盤と硯鋳錫が距離を(席順を!)縮めているとは。全く気付かなかった。普段ここに硯鋳錫が坐って授業を受けているなんて。この場所からは、彼女の気配が感じられないのだ。あれ以来ずっと私が感じ続けている、彼女に纏わり付いた悪い気配が、ここには残されていなかった。

「……ねえ基盤。これが硯鋳錫の座席?」

「疑問を差し挟む余地あるか?」

「ちょっと違和感。それにしては残留思念が薄くて」

「鹿島。最近のお前は、恥じらいもなく超能力少女だな」

 ……超常現象の元締めがなにを言うか。

「あ。もしかして最近、席替えがあったばかりとか?」

「席替えしても使う机は同じだろ。専用のサイズがある」

「あ。そっか」

「――ん。待て。確かに言われてみれば鹿島の言う通りだ。そういえば硯だけは、試験期間の直前に、机を交換させられていた。落書きだらけの机だったからな」

「落書きがあると交換するの?」

「そりゃするだろ。カンニングになる」

「そうだけど、消せばいいだけなのでは? 美術科なんてみんな絵の具だらけだから、予め担任が激落ちくんを配るわよ」

「一般論としてはそうだが、実際に交換したのは事実だ。消したくなかったんじゃねえのか? それか消せなかったとか」

 ――消せなかった?

 その言葉はもしかしたら、私の探している手掛かりかもしれない。あの時の出来事と、似通っている気がする。

「基盤。一般棟の四階にある予備教室って、今はバリケードみたいに机が積んである物置だよね」

「保管場所は。廃棄物は講堂の裏で野晒しだ」

「ん。ありがと。部活が終わったら今日はそのまま帰る」

 基盤は、五十音では言い表せないような発音の生返事を一つだけ放つと、疎かになっていた箸を再び進める。私も、今はまだ難しく考えるのはあとにして、食事に集中する。



 湶渓高校美術部の展示物を積んだ軽トラックが、交差点を右折する際に対向車線からの直進車両と接触事故を起こした。過失は九対一で信号無視のシビック側にあり、荷台の後ろを掠めるような形での追突で、幸いにも命に関わるほどの大事故だけは免れた。しかし荷台を覆うシートから弾かれたいくつかの什器と、美術部員たちによるパネル作品のほとんどが、雨で濡れた路面に投げ出されたり押し潰されたりして、大なり小なりの傷や汚れを負い、その原形を損なった。

 硯鋳錫の作品だけが無事だった。

 このような事態に繋がった遠因を一つ一つ挙げていく事もできる。湶渓高校の伝統ある文化祭が、今年度は学外にある市民会館を借りて平日開催される事になったのは、校舎の耐震工事に伴う一部施設の建て替えスケジュールが重なったからなのだろう。設備搬入のための能率的かつ適宜適切な運搬計画がおざなりのまま、学校側に従うままに片っ端から軽トラに資材を載せて往復させる運びになったのもそれゆえの皺寄せである。

 事故はあくまでも事故だ。

 もちろん私たちに与えたショックの大きさを鑑みれば、もっと梱包のやり方とか固定手段とか積載位置とか、予め慎重を期するべきであったと誰もが考えるところではあるのだが、これが自分たちの手の届く距離にいるものには責任を問う事のできない種類の「事故」であるという認識そのものだけは、私たちとしても了解するところである。その一点が覆らない限り、硯鋳錫の作品だけが形を取り留めたというのは、単なる偶然の産物だし、本来ならば不幸中における僅かながらの幸いのひとかけらに分類されるもので、理性的に考えれば、この事を根も葉もない言い掛かりで曲解し、硯鋳錫を貶めるような人間は、この美術部にはいるはずがない。

 だけど、決して声にはならないような、それでもそこにある事だけが誰にでもうっすらと汲み取れるくらいの感情的な話をすれば、。蒔かれた種は芽吹かなければ摘む事もできない。

 

 みんなが心のどこかでそう思っていた。

 あの場に満ちる感情の形が、私にはそう見えた。

 こんなのは恣意的過ぎる感情だ。こんなのは、初めからみんなが事故なんて起きなければよかったと思えばいいだけの話なのに、それで終わるだけの話なのに、まるでみんな物分かりがいいふりをして喪に服するように事故の事だけは認めて、その口で慰めのように言うのだ。どうせこうなるのなら、硯鋳錫の作品だけが壊れればよかったのに。と。

 いいはずがないだろ。

 硯鋳錫という人間はそれだけ美術部のメンバーとしては軽視されていたし、そんな彼女が彼女たちの内輪のノリで出展リストに並べた即席の鉛筆画も、当然のように軽んじられた。

 私も事故で作品を駄目にされた被害者の一人だ。

 私だって考え方を引き摺られているのかもしれない。

 私には、あの彼女の作品にもたらされた偶然と、それによる彼女の立場と、その後における彼女の成り行きとを結ぶ閉じられた線がはっきりと見えてしまった。だから私も思わずにはいられなかったのだ。

 でもそうはならなかったから、硯鋳錫は美術部を辞めた。彼女は、そうはならなかった事を当たり前のように喜んで、誇らしげに触れて、当たり前のように嫌われた。同じ物事に向けているはずの感情の種類が、どんどん食い違っていった。それが転がる岩のような彼女の成り行きだ。

 私は硯鋳錫の痕跡を辿る。

 わざとそんな道を選んでいるわけでもないのに、講堂の裏側に回ろうとするルートは、建物ごとの地盤の高低差に微妙なばらつきがあって、外を歩いていてもちょっとした階段で死角の多い秘密の通路のような趣きがある。人通りがないわけじゃないけれど、一つ角を曲がるといきなり吹奏楽部がパート練習していたりして気まずくなるくらいにはひっそりとしている。

 敷地の東側の端まで来ると、コンクリートの舗装よりも、日陰で湿った苔と腐葉土を踏み締める頻度が増える。上履きのままで出てきてしまったから、先に進むのにちょっとだけ抵抗がある。廃材置き場のプレハブ倉庫には、式典の装飾品などが保管されている他には、そんなにスペースを占領しない型落ちした教材とか整備器具が仕舞われているだけである。いずれ捨てられる時をただ静かに待つだけの靴箱の残骸やザラ板、カラーコーンみたいなかさ張るものは、いつもなら横で野晒しにされているはずなのに、それが綺麗さっぱり見当たらなかった。

 年の瀬だし、業者が持っていったのかもしれない。

 スカートの裾を膝の裏に折り込みながら、私はその場にしゃがんでみる。なにかの下敷きにされていた土の窪み。赤いプラスチックの破片もある。私はなるべく霊感を働かせて目で見えるものを追ってみる。脱ぎ散らかされた靴下のように、体と心の関係が裏返しになる。暗い。というよりも、見える事に意味のあるものとないものとのコントラストが激しくなる。その場所に積もり重なった歴史の層を一枚ずつ捲り上げるのは、夢の入り口で一日の記憶が整頓されていく時の景色と似ている。

 落ち葉が踏み均されている。誰かの溜まり場なんだ。煙草を吸っている。運動靴。三人いる。一人は見張りで、一人は講堂の壁際―最後の一人はどこだろう? 何かに坐っている。スチールパイプと合板でできた教室机に腰掛けている。最近ここに運ばれてきたばかりものだ。天板の表面が腰で隠れてよく見えない。私はもっと目を凝らせるのだろうか? 額が軋む。頭が溢れそうだ。あともうちょっとなのに。索引のない辞書を一ページずつ遡るように、出来事の隙間を探す。

 私は硯鋳錫の机だけを見ている。景色が消える。ここは静かだ。落書きだらけの机がある。複数人の手で汚されるように黒ずんでいる。だけど一箇所だけ、まだ鉛筆が掠れていない、描かれたばかりのような拙いイラストがある。まるでそこだけがなにかに守られているかのように保たれている。

 手を伸ばす。誰が? 違う。私じゃない。誰の手? 指の先が拙いイラストに触れる。

 何者かが私の記憶を通して語り掛けてくる。

「奇跡的で不可解に見えるものだけが特別な力の影響を受けているとは限らない。知識の外側にあるメカニズムを説明する事はできない。だから実際に目に見える形でそこにある結果だけを勝手に結び付けて、そこにある関連性だけを特別扱いしてこの世界を理解しようとする。私たちのような見鬼としての感受性が見ているこの下らない景色は、そんな誰もが当たり前のようにやっているこの世界との向き合い方が、ただ暴走しているだけ。ただ壊れているだけ。度が過ぎている」

 伊勢栞。日が短くなった美術室。揮発性油の匂い。彼女の柔らかい体温が私の肩に伝わるくらいの距離にいる。でも、私の今いる場所は、あまりにも暗闇が濃く重なり過ぎて、すぐ隣にいるはずの彼女の姿が見えない。

 私は彼女に訴えた。

。文化祭の事故も、美術部における軋轢も。辿。誰かが、彼女を仲間外れにし続けているんです」

「……ねえ。鹿島さん。上からニスが塗ってあるわ。これ」

 ……■■。■■■■。■■■■■■■■■■■■。■■。

 深い海の底にいるように言葉が塗り潰されて聞こえる。どうして誰も教室の電気を点けないの? ここは暗過ぎる。遠くの稜線に見える日没の赤い筋が今にも千切れてしまいそうなくらいに心細く引き絞られている。

「放課後、教室から誰もいなくなるのを待って、準備室のアクリルニスと刷毛を持ち出して。硯鋳錫が。想像できる?」

 たぶん私はここで何かしらの言葉を返したのだろう。だけどどろどろのタールのような重たい空気が肺の中から溢れるだけで、言葉が黒く塗り潰されてしまう。

「美術部の彼女たちを初めとする大多数の人には疑わしい話なのかもしれないけれど。硯鋳錫はね。それに対する審美眼と技術を磨いてきた私たちからすれば拙く見えるものでも、彼女にとって自分の描いた絵というものは、いつだってその時点における彼女の自信作であり、見る人が見れば褒められて然るべきものであると、今でも本気で信じ続けているという事実を、なぜあなたは初めから可能性の一つとして考慮に入れようとはしなかったのかしら?」

 私は言葉を返す。

 言葉が塗り潰される。

「この事は既に私の中で、硯鋳錫の問題としてではなく、彼女の事を問題視する鹿島京子の問題に切り替わっている。なぜ鹿島さんは、そこまでして特殊な力の痕跡を探すのかしら? 最近のあなた、あちら側の世界に引き摺られ過ぎよ」

 私は言葉を返す。

 言葉が塗り潰される。

「こんな事で感情的になりたくはないのだけれど、本当に苛立たしいわ。あちらのものに関心を奪われるばかりで、こちらのものを蔑ろにしている。特別なものを見ようとするあまり、本来見えていなければならないものが見えなくなっている。履き違えるな。こちらのものが見えなければ、あちらのものが見えるはずもないのに。あなたにとって硯鋳錫という存在は死人かなにかなの? あなたの問題は全て手を伸ばせば触れられるし遮られもする現実なのよ。そこから目を背けるな」

 私は言葉を返す。

 言葉が塗り潰される。

「硯鋳錫はね。決して仲間外れになんかされていない。。自分は周りの人間とは違うのだと頑なに信じていて、周りが自分の考えを理解できないだけなのだと頑なに信じている。それを仲間外れにされていると表現するのはあまりにも語弊だわ」

 私は言葉を返す。

 言葉が塗り潰される。

「鹿島さん。あなたはまだ、こんなところでつまらない犯人探しや誰かの罪の大きさを集めて比べ続けるつもりなの? もう帰りなさい。ここは暗過ぎるわ。瓦礫を迎えに寄越すから。あなたのような人間にで長居されると迷惑なの」

 ――一番長く残り続けたものが、一番美しいものだよ。

 私の脳裡に、硯鋳錫の言葉が甦る。

 本人が殊更吹聴していたわけじゃない。どんな会話の弾みでその話題が飛び出したのかも私の知るところではない。彼女が誰と喋っていたのかさえ定かではない。美術室の中は三々五々とグループに分かれていて、その賑わいの中の一つの断片として、彼女の声が漏れ聞こえてきたに過ぎないのだ。

 ――たまにさ。席順も決まってないような特別教室の机に落書きするとさ。それが会心の出来栄えだったりすると、何週間もずっと消されずに残り続けるものがあるよね。2Bの芯でごりごりやってあるだけで、何人もの生徒がその席に坐ってノートを広げてるのに。なんだか消したり汚したりするのが申し訳なくて、わざわざ落書きを避けて肘を置くんだよ。あれで私はぴんときたね。結局のところ芸術の美醜を決めるための本当の基準があるとするなら、スケールは違うけど、あれこそが最もフェアな基準の一つだね。世界遺産だとか特別天然記念物だとか、それに対する関心がない人でも、なんとなくそれを守らないといけないなあって、ほとんどの人が常識レベルで接するわけだし、そうゆう大きな後ろ盾が働いて残り続けてるものこそが普遍的に優れてるわけじゃん。だから芸術における優劣なんて、突き詰めればどれだけ長く後世に残されたか。一番長く残り続けたものが、一番美しいものだよ。そうでしょ?

 文化祭の事故で、私はそれを思い出したのだ。そしてあの場にいた他の先輩たちもまた、私と同じようにその事を思い出すはずであると、私の中で悪い想像ばかりが薄絹のように糸を編むのだ。

 口の中の苦味で私は我に返った。

「おい鹿島。救急車いるか? 血の気が足りんぞ」

 瓦礫濯が私の顔を覗き込んでいた。

「……部長。なんですか。これ。苦い。うげえ」

「気付薬。伊勢から渡された。口移しでもなんでもいいからとにかく飲ませろって」

「はああ? 口移ししたんですかあ? ぶっ殺しますよ」

「せんわ。あんなおぞましいもの断じて俺は口には含まん」

 一体私は何を飲まされたのだろうか。

「……はあ。副部長は、なんでもお見通しなんですね」

「立ち位置の問題さ。部長、副部長の立場と、一年生の立場とじゃ、普段から気に掛けるものが違う。それに俺と伊勢は先週末まで掃除当番だからな。試験期間のあと、粗大ゴミの撤去を任されて、硯鋳錫の机を直接見る機会があった」

 けらけらと笑いながら瓦礫濯は私に手を差し伸べた。体の下敷きにされていた脚がまだ痺れているから、私は不承不承ながらその手を頼る。

「なんだか煙に巻かれた気分」

「もともと雲を掴むような話だったんだよ」

「じゃあ私が見たものは一体なんだったんですか」

「さあ。どうせありふれたものだろうさ。お化けでも見たんじゃねえの? 例えば煙々羅とか」

「なにそれ、部長って妖怪博士なんですか?」

「形のないものに形を与えて普遍化すんのはお国柄じゃん。なにせ火のないところに煙は立たない。煙を見たら、火元を探すだろ? でも煙のお化けに火種はない。今のお前が憑かれるにはまさにお似合いの妖怪だ」

 そうゆうものなのだろうか。

「お前、本当は硯と友達になりたかったんだろ?」

 ぎくりとするところを突かれた。それが図星だからというよりも、それに対する返答がイエスなのかノーなのか私の中で即座に定まらないような指摘だったからである。

「いや。今の表現はいくらなんでも端折り過ぎたわ。本当のところとしては、鹿島は美術部にいる間に、硯鋳錫と自分は友達になれるのかどうか、確かめておきたかったんだろ? あいつにとって自分がなにかしらの影響を与えられるほどの人間なのかどうかそれとなく確かめておきたかったんだよ」

「……なんだか打算的な友達作りですね」

「なにもかも偶然に頼るわけじゃないんだから、友達ができる切っ掛けなんてそんなもんだろ。自分にだって影響を受けるところがあるかもしれないって期待する気持ちもあれば尚更だ」

「尚更、ですか。それでも、どうせ今更の話ですよ」

「俺はこれからの話をしている。合宿までにはきちんと靄を晴らせよ。旅先で伊勢の機嫌が悪くなる。地獄が溢れるぞ」

「あはは。確かに。誰の得にもなりませんね。それは」

「一つ免罪符をやるよ。硯が美術部を辞めた今だからこそ、お前は板挟みにならずにあいつに話し掛けられるんだ」

 馬鹿と煙が高いところに上るのは、目立ちたがりだからでもある。雲に梯、霞に千鳥。本来ありえないものを相手にしようとしているのに、釣り合いばかりを気にして、波風立てぬようにするのがまず以って思い上がりだったのかもしれない。

 保健室までの介添えはいるのかと尋ねられたけれど、私は保健室には行かなかった。行きたい場所があった。

 予め約束をしてきたわけじゃない。基盤から彼女の予定を聞かされているわけでもないし、それを推測するための細かい材料があるわけでもない。本当なら日を改めたって構わない。でも今日このタイミングでこの場所にいれば、なんとなく彼女と会えるような気がするだけなのだ。



 朝から続いていた快晴が嘘のような昼下がりになる。浄芯にある基盤のアパートの庭先で、かれこれ一時間はこうして待ちぼうけている。当の家主には校舎を出る前に一言だけ断りを入れて、そのまま図書室に置いてきぼりにしてきた。あの生返事ではどうせ日が暮れるまでは帰ってきそうにもないだろう。なんなら我が物顔で部屋に上がり込んでしまってもとやかく言われる筋合いはないはずだ。合鍵はいつも郵便受けの天蓋にマグネットでくっ付けられたままである。なんでも同じアパートに住む古参の予備校生から教わったお勧めのやり方で、ここの住人はみんなそうしているらしい。何かがおかしい話である。田舎の防犯意識なんてそんなものなんだろうか?

 それでも私は、喉の奥に溜まるような肌寒い空気をぼんやりと感じながら、びりびりに破れた晴れ間からこぼれる僅かな青空だけを眺めて、ただ時間が過ぎる様を野放しにしていた。

「げ。鹿島だ。奇遇だね」

 人の顔を見るなり《げ》とはなんだ《げ》とは。

「――奇遇、ではない感じ?」

「待ち伏せだから。奇遇とは言い難いかもしれませんね」

 硯鋳錫は、怪訝そうな顔で私を睨み返した。

「待ち伏せ? 誰を。あ。ここ基盤の家だもんね。道理でたまに普通科にも来るわけ。健気じゃん」

「基盤とは幼馴染みで家族ぐるみの間柄ですよ」

 嘘は言っていないはずである。

「私は硯さんが来るのを待っていただけです」

「私を? なんで。あ。もしかして最近、私が教室で基盤とよく喋るから? 嫉妬してるわけ。メンヘラじゃん」

 ……思い込みの激しい女だなあ。

「硯さん。本。返しに来たんですよね?」

「なんで鹿島が知ってんの?」

「基盤から聞きました」

「返しに来る日まで教えたっけ?」

「さあ。基盤もうろ憶えだったから。当てずっぽうですよ。その意味では本当に奇遇なのかもしれませんね」

「ふうん。で。それが鹿島となんか関係あるわけ?」

「次、私が借りる番なんです。それ」

 私はちょっとだけ緊張している。もしかしたらこの言葉は彼女には台本を諳んじているように聞こえるのかもしれない。

「へえ。そ。じゃあどうぞ」

 硯鋳錫が本を差し出す。

 大工よ、屋根の梁を高く上げよ。

 私はまだその本を受け取るわけにはいかない。

「硯さんは、本当に美術部を辞めちゃうんですか?」

「辞めたでしょ。実際に。鹿島の目の前で」

「……絵を描くのは、もうおしまいですか?」

「は? 絵なんて紙と鉛筆がありゃどこでも描けるだろ。本当ならその辺に落ちてる石ころを壁に擦り付けるだけでも構わないくらいだ。

 ――煙っている。

 ――硯鋳錫は、煙たがられている。

「あ」そうか。

 ――燻っているのだ。

「これだから美術部には嫌気が差したんだ。美術部の奴らは幼稚園で油粘土を捏ね繰り回してる時からレンブラントだったりフェルメールだったりしたのか? そうじゃねえだろ。私は棒人間の手足を自由に動かしながら落書きしてるだけで楽しかったんだ。今だって似たようなもんさ。それが全てだろ。美術部に入れば、みんな同じ気持ちだと思ったんだ」

 この火種は彼女の怒りだ。

 彼女の怒りが彼女を燻らせているのだ。

 それが私の目にははっきりと見えた。

「とんだ期待外れだよ。どうせみんながみんな美大に受かるわけでもないくせに、自分よりも下手くそな奴の絵を見つけないと素直に自分の絵にも満足できないようなろくでなしどもの集まりじゃないか。だから私は辞めたんだ」

「……私は、どうやら硯さんとは気が合わなさそうですね」

「だから今まで馴れ合う事もなかったじゃん」

「でも。これからはそうはいきませんね」

「なんで? 喧嘩でも売ってんの?」

「私、どうやらこれからあなたと友達になるみたいなの」

「は?」

 私はなるべく臆せずものを言うように心掛けた。

「だって硯さん。基盤の友達なんでしょ?」

「ただのクラスメイトだよ」

「わざわざあなたが基盤とお喋りしている時に私はあなたに遠慮してタイミングをずらすとかしたくないの。だったら気が合おうが合わなかろうが、もはや気兼ねなく友達になるわ」

「……いや。まじで基盤とは本の貸し借りするだけだよ?」

 つべこべうるさい女だなあ。

「今、あなたから直接本を貸し借りするんだから、やっぱり同じ事だわ」

「はあ」

「私だってそれなりに強情なんです」

 そう言って私は硯鋳錫の手から本を受け取って、脇目も振らずに基盤のアパートをあとにした。そそくさと逃げるような感は否めなかったけれど、あのまま喋っていると本当に喧嘩になりそうなので、私の方が爆発する前に引き上げる事にした。

 正直に言えば、まだもやもやするところもある。吐き出せば風になるのかもしれないけれど、それで目の前の煙を晴らしたところで、焚き付けるだけという事もある。

「――ああもう。最低。なにあれ。本当にむかつく、あの態度!」

 浄芯駅の踏み切りを越えて荻蘇商店街のアーケードに入る辺りでようやく私は一息つけられた。八つ当たりのように自販機のボタンを急き立てて買った缶ジュースのプルタブに指を掛ける。空気の逃げる小気味いい音と、炭酸の弾ける音。

 硯鋳錫の性格は、私には共感できるところがないし、まだよく分からない事だらけだけど、それでも分かった事がある。

 彼女は一つの岩だ。そして一つの島だ。

 私が彼女と友達になりたいと思っているのは、紛れもなく私の本心でもある。なぜなら、彼女はもしかしたら基盤の数少ない友達になるかもしれない人間なのだから。だけどたぶん、今のままでは彼女の言葉に苛立つ事も、異を唱えたくなる事も多くなりそうだ。彼女の考え方を変えさせるか、私の考え方が変わるか。硯鋳錫を説き伏せるというのは、それも一筋縄ではいかなさそうな話である。なぜなら彼女は一つの岩で、一つの島だから。じゃあ私が彼女の影響によって変わってしまうだなんて事があり得るのだろうか? 俄かには想像できない。予想も付かない。でも一つだけ予感があるのは、それによって本来変わるはずのないものを変えられるような事があれば、私は、今よりも色々なものに対する自信をほんの少しずつだけ取り戻して、自分の居たいと思う場所に居られる気がするのだ。


(i am a rock, i am an island, is END)

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