第二章
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私が描いた絵の芸術性が、初めから私がはっきりとは意図する事のなかった偶発的な絵の具の塗り斑や滲み、筆の掠れみたいな筆致の機微なんかに擁立されてしまう場面が少なからずある事が、私には堪らなく我慢ならない。
人の手を借りて、人の考えによって描かれた絵が、単にその人を介して画面に顕れた、ツールの特徴に支えられたような現象としての美しさを露骨に押し出してくるのは、美しさに対する人の創造力の敗北だと私は考えるのだ。
だから私は、そうゆう偶然の美を期待して意識を研ぎ澄まさないまま絵の具を塗りつけたり垂らしたり滲ませたりしたような絵を、人が生み落としたものとしては手放しには受け容れられない頑なな感情があり、ましてその絵を描き上げた人を、心から褒め称すなんて事は絶対にしたくないのである。だから身も蓋もない事を白状すると、隔週で放課後に催される講評会に立ち会い、そのような系統の絵に出くわして意見を求められる度に私の口から発せられる数々の賛嘆の美辞麗句は――どのような経緯を辿ったにせよ――それが生み出される運びとなった経緯そのものに向けてあくまで投げ掛けられているものであり、つまり自然が持つ摂理や均整、威厳みたいなものが宿す美しさを称えているに過ぎないのだ(もちろん建て前の上ではそのような内情をおくびにも出さないのだが)。
それらは結局のところ、描かされているだけなのではないかと思える。美しくて価値のあるものが絵として顕れるための材料に選ばれているだけなのではないかと疑ってしまう。
無論いかなる出生の秘話が隠されていようと描かれた絵の価値は決して揺るぎないものであると私は考えるし、それを私たちの目に披露せしめる計り知れない貢献を果たした描き手の功績だって当然認められるものである。
でも、少なくとも私に限っては、美術部員として筆を手に取る立場にいるならば、この十二号カンバスの上に描き出されようとしている私の絵が、どうか全て隈なく私が意図する構想とそれを従える手腕に掛かり表現される事を願うし、それが賛否を問わず真っ当に評価される事を望む。私は私の実力を褒め称されたいのだ。ただ形にしたのが私だったというだけの、なんの自信にも繋がらないような手柄を褒められたいわけではないのだ。
そのような固執が災いしてか、厳密な描き込みと描き直しを厚く塗り重ねられる油絵が、取り分け私の肌に合った経緯を疑う余地はないし、アトランダムに生じる滲みや色斑を積極的に取り入れる水彩の画法がちっとも肌に合わなかったという事実もまた容易に頷けるところであった。
しかし、私が所属する美術部の現部長を務める、
まるで、彼が操る筆先にだけ、違う世界の摂理が働いているような錯覚さえ見せる、とても私たちには成し遂げられない技巧を、私は瓦礫濯の筆致に感じ取ったのである。
……そしてそれはまさしく言葉通り、瓦礫濯が操る筆は、あるべき摂理の外にある、超常の摂理に従って揮われているものである事を、それから暫くして私は知る事になるのだ。
「お、鹿島だ。やったね。学食で知り合い見つけるとほっとするよね。隣、坐るよ」
耳馴染みない声に思い掛けず肩を叩かれ、私は咄嗟に山菜蕎麦を啜る音を控えた。私は、蕎麦を食べる際に限ってだけはできるならば気兼ねする事なく一息に音を立てて啜り上げてしまいたい育ちの者なのだけれど、しかし人前でやるには些か憚られるため、クラスメイトの目を逃れて壁際のカウンター席を選び、食堂ホールに背を向け食事を楽しんでいるのであった。
口腔に退避させた分の蕎麦を慌てずよく噛んで飲み込み、ようやく私は落ち着き払って隣の席を確認すると、隣には私の返事を俟たず腰を降ろし、箸を割り、トレイに載ったカレーうどんに胡椒をこれでもかとぶち撒ける瓦礫濯の姿があった。
「カレーの汁が飛ぶから嫌です。離れて下さい。私が食べ終えて、席を立った後なら構いませんが」
「なんか最近、風当たりが強くないか? 俺に対する。後輩から慕われて尊敬されているものとばかり思っていたんだが」
「最近? もしかしてそれ、先輩が絵画展の登録申請すっぽかして副部長に公開土下座させられた辺りからじゃないですか? 私もそれくらいの時期から先輩を見損ないました」
「ああ、あれな。みんなの怒りと悲しみを代弁して副部長が書道部から借りてきたでっかい半紙の上で、頭から墨汁を被った半裸の俺が土下座したあれな。まだ準備室の壁に飾ってあるぜ? サイン入りだから将来値が張るぞ」
「…………」
こういう性格だからみんな手放しに尊敬できないのだ。瓦礫濯は私の言葉を意にも介さず上着を椅子の背に掛けてカレーうどんを豪快に啜り始めた。
「くうー堪りません! 辛い! 胡椒の味しかしねえ!」
当たり前だ。第一そんなに胡椒まみれにするなら味なんて素うどんだろうと変わらないじゃないか。差額の百円分のカレーが理解できない。既に辛い食べ物なのに、なぜ極限まで辛くしたがるのか謎である。
自信満々の白いカッターシャツでカレーうどんを啜り込む瓦礫濯の姿に、私は思わず顔を顰めずにはいられなかったが、しかし――私は直ぐさま見識を改める。
「瓦礫先輩、器用ですね。汁が飛び散らない」
僅かに違和感を覚え、注意深く観察すると、瓦礫濯の服はおろか、真っ白な琺瑯引きのテーブルを見渡しても、カレーの黄色い飛沫は飛び散っていなかった。
私の静かな驚きと指摘を受け、瓦礫濯は、まるで場違いな発言を耳にしたかのように面食らった顔で箸を持つ手の動きを疎かにすると、私の言葉を噛み締めるようにゆっくり咀嚼を繰り返して、たっぷり間を空けてからおもむろに応えた。
「そりゃ鹿島が飛ばすなって脅すから」
「なんですか。今の間は」
「いちいち細かい事を気にするなよ。あまつさえ口にまで出すなよ。俺の飯の食べ方ひとつ取ってまで俺の美徳を見出されても、俺、すぐ照れるから」
本当に顔を赤らめているのが腹の底から苛立たしかった。どうせ胡椒の摂り過ぎで血行が促進されているだけだろうけど。
「神経質で済みません。かく言う私も麺類には目がなくて、カレーうどんは大好物なんです」
「もの欲しそうな顔してもやらんぞ」
「いりません。違います。綺麗な食べ方があるなら見習うべきだろうと思って観察していただけです」
「殊勝な心掛け痛み入るぜ。何か分かったか?」
「いえ。さっぱり原理が分かりません」
「当たり前だろ。別に原理なんかないから」
「でも、さっぱり原理が分からないという事が分かりました」
「…………」
瓦礫濯の口元が薄ら笑いを浮かべたまま再び止まる。なにかおかしなものを見るような目で呆れ混じりに私の顔を見据えるけれど、その表情が物語るところの追及は取り敢えず保留しておいて、私は続けた。
「瓦礫先輩、それ絶対におかしいですよね。普通じゃないと思います。絵を描いてる姿を見ていても思いましたし、この間、部室で先輩がいちいち替えに行くのが面倒臭いとか言って筆洗い用の水をバケツで汲んできて、結局床に置いたそのバケツに自分で躓いて引っ繰り返した時も、バケツの水は私たちが床に並べていた展示用のパネルを狙い済ましたかのように避けて広がりました。技術どころか、種も仕掛けもないんだから、狙ってできる事ではないという意味です。偶然で済ます事もできますけれど」
「偶然なんだろ。偶然で済ませられるんなら」
「でも偶然で済ます気は毛頭ありませんよ。少なくとも私は。最近ちょっとした訓戒というか意識改革というか、とにかく考えさせられるところがありまして。こういう現象には、なんらかの意味合いを求める事にしているんです。極力」
もしも、私の考えの及ばぬ場所―あるべき摂理の外に、超常の摂理と呼べるものがあるのならば、私はその実相を解き明かし、立ち向かわなければならない。そう心に誓ったのだ。手掛かりは、絶対に見過ごせない。
――さもなくば、私は基盤の隣には並べないから。
「お前なんかおかしいぞ。最近なんかあったのか?」
「おかしい事をほっとけないのは、おかしい事ですか?」
「あー確か鹿島、最近失恋したもんな。幼馴染みの男と」
「…………」
……なぜ知ってる。
「瓦礫先輩ストーカーですか? 最低です。なんで知ってるんですか? いやそもそも別に失恋してないし。ちょっと口論になっただけだし。瑣末な事ですから。いつもの事ですから。てゆうかなんで知ってるんですか!」
「や、俺も聞き齧ったんだが、駅前の商店街で副部長がそれらしき現場を目撃したそうな。あいつ秋葉神社の娘だから」
「……確かにままならない遣り取りはありましたけど、気まずい感じにもなりましたけど、でもちゃんとそのあと無事学校までイーゼル置きにきましたから。一緒に帰りましたから」
ちょっとみっともないくらい狼狽えてしまった。
私は慎ましやかに箸で山菜を摘まみ上げて口に運ぶ。
あの場に副部長がいたのかと思うと、顔から火が出そうになる。あんなの遠くから見れば取るに足らない痴話喧嘩の一幕にしか見えないはずなのに。私たちの遣り取りが詳らかに分かるくらい近くで聞いていたのだろうか? なぜ私は気付かなかったのだろうか?
「なあ。先に確認するが、もしかして俺が原因?」
「―はあ? なんの話ですか?」
こっちが真剣にあれこれ考えを巡らしていると、瓦礫濯がなんの脈絡も関係もない意味も分からない虚無の言葉を放った。
「この間、鹿島を口説いたじゃん。俺」
「……やっぱりなんの話ですか?」
「身に覚えがないみたいな顔してんじゃねえよ! これでも配慮してんだよ、悪い影響を及ぼすのは不本意なんだよ!」
「もしかしてこの間のたまっていた《俺の十六番目の愛人にしてやるよ》とかいうただ最低なだけの冗談の事だったら、全然気にしてませんよ。そもそも本気にすらしてません」
むしろ瓦礫濯の軽薄な言葉を思い返して呆れ果てる気持ちよりも、正直な話、その一連の成り行きを引き合いに出して、極めて私的な思惑の出しに使った罪悪感で、胸が痛かった。
「でも俺、いつか女の子だけの野球チーム作って試合させる野望があるからさ。鹿島はいい野手になると思うんだ」
「やっぱりちゃんと謝って下さい」
痛むというか、なんかむかむかしてきた。
「冗談だ。鹿島に声を掛けたのは、冬のコンクールを見越して、張り合いのある絵描きを横に置きたかったのが八割だ。残り二割は純然たる女の子といちゃいちゃしたい気持ちだが」
「私なんかより絵が上手に描ける女の子は腐るほどいるじゃないですか。お世辞するポイントが間違ってますよ。目が腐ってるんじゃないですか? まだ私、自分が描いた絵よりも、自分の見た目の方が自信あります」
「いけしゃあしゃあとぬかすが、所詮素人の描く絵に上手いも下手もあるか。あるのは魂の重みだけだ。鹿島の描く絵を、俺は高く評価してるぞ」
「……よく分からない評価基準ですね」
「いい絵を描く女はいい女だ。それだけは間違いない」
「そのいい女が先輩の事を睨んでます」
「あ?」
私からの心許りの進言にそれらしいリアクションを見せる間もなく瓦礫濯の顔面は手元のどんぶりに叩き伏せられた。目を覆いたくなるような一撃。香辛料が目に悪そうだなあ。
「うぼぼ、目に沁みる! 沁みる!」
「部長会議ほったらかしてまで、後輩を誑し込まないで」
控え目で抑揚に欠けるが、凛と通る冷ややかな声が遅れて瓦礫濯を窘めた。ちょっと傍目から見ていてもどん引きするくらい苛烈な仕打ちを微塵も躊躇わず敢行して、それが少なからず様になってしまうのが――美術部の副部長を務める彼女――
「あの。私は無事ですから。迷惑は被りましたけど、少なくとも誑し込まれてはいませんから。伊勢先輩」
「あらそう。でも鹿島さんはあまり関係ないわ。私が私的に不快な思いをしただけだから。それとも、瓦礫を庇うの?」
「庇うつもりなんて。曲がりなりにも部長ですから。失礼のないよう、最低限の配慮を」
「なら憶えておきなさい。私の美術部においてまず真っ先に配慮すべき対象は私よ。この男はヒエラルキーの最下層」
言葉遣いの端々から滲み出る敵愾心に、私は身構えずにはいられなかった。あと単純に目が怖い。
「だから、あなたは今後一切この男に構わないで」
なにそれ?
瓦礫濯と伊勢栞を繋ぐ関係図は、包み隠さず白状すると、
普段から刺々しい性格である事には違いないのだけれど、相手が事瓦礫濯となると、厳しさが一際増す。
冷静さを欠いて、直情的な行動に走る。
具体的な暴力に訴えるようになる。
小学生か。(と思わず脊髄反射で判を押したくなるが)、しかし瓦礫濯の飄々とした立ち振る舞いがこの事に拍車を掛けていると言われれば頷ける話だし、なにより、言葉面だけ聞くと耳を疑うけれど、瓦礫濯が思いのほか、女性からもてるという抜き差しならない事情も、伊勢栞を焦らせ、感情的にさせる大きな素因であると、厳密に推測するまでもなく、大勢の人間が同様の見解を漠然と挙げるはずである。
瓦礫濯は、とにかく女性に声を掛ける。
女性から好かれる才覚があろうとなかろうと、それに関係なく、瓦礫濯は単純に回数をこなす。試行回数が膨大な分母を誇るから、目に見えてくる女性経験の値は、いわゆる通俗としての「女性からもてる」とされるそれと比肩するのだ。
いったいなにが彼をそこまでひたむきにさせているんだか謎だけど――瓦礫濯のあっけらかんとした人柄が、少なからず彼の美徳を演じ、そのはしたない行為から漂う浅ましさを大いに軽減してくれているのだと、私は大雑把に考えている(実際に私がそれらの材料を加味した上で改めて彼の姿を見ても、必ずしも心証がよろしいとは言えないが、しかし軽蔑に近い感情を覚えた試しはなかったりする。瓦礫濯だから仕方がない。その一言に尽きる)。
でもそれはあくまで、瓦礫濯に対してあまり特別な感情を寄せず、近からず遠からずのあいだを保って眺めていられる立場だからこそ軽口に言える言葉なのかもしれないし、それにその手の風聞にあまり耳が早くない私ですら聞き及んでいるところの、瓦礫濯のガールフレンドたち(それも関係性のほどはピンキリになるが)を見れば、みな一様に一過性のお遊びだと言わんばかりの肩肘張らない価値観で交際を承諾している風潮が、たやすく見て取れた。
もしも――そんな瓦礫濯に、本物の恋心を寄せてしまうような人がいたとして、その人が瓦礫濯の軟派な有り様を目にしたら、どんな風に思うのだろうか?
私は絶対に嫌だ。
誰だって嫌がると思う。伊勢栞だって嫌がると思う。
瓦礫濯の憎むに憎めない振る舞いと、ままならない感情の軋轢で、否応なくストレスが溜まるはずだ。
そしてそれを知ってか知らずか、瓦礫濯は、ストレスの捌け口を別の形で引き受ける事を選んだ。どれだけ自らをぞんざいに扱われても、それを受け容れる事を選んだ。関係を進展させずに、逃げ道を用意した。つまり、卑怯な男なのだ(諸星あたるか!(最近基盤の部屋で全巻読破したのだ))。
だから伊勢栞は、瓦礫濯に辛辣な態度を取る。いくらなんでもやり過ぎなんじゃないかとまわりが同情するくらい強くあたる。それだけのストレスを抱えるくらい、特別な思いを寄せているのだと、誰の目にも明らかなのだ(ラムちゃんか!(どちらかと言えばおユキさんかもしれないが)。
……だけど、私がそんな内情を飲み込んでいたとしても――そんな微妙で繊細な人間関係を知って、少なからず共鳴するところがあったとしても――だからと言って、それを免罪符に、あらゆる態度がまかり通るなんて事があるわけでもなし。
「――だから、あなたは今後一切この男に構わないで。迷惑なの。はっきり言って邪魔になるの」
喧嘩を売られた気分だった。いくらなんでも彼女のこの言い草には、私だって我慢ならなかった。
別に私は、瓦礫濯の事を慕っているわけではないし、そもそも向こうから私にアプローチを仕掛けてきたのだ。それなのに私が釘を刺されるのは、なんだか釈然としない。
「お言葉ですが伊勢先輩、別に私は伊勢先輩の人間関係に手ずから関与するつもりは全くありませんが、しかし瓦礫先輩を先輩として尊敬する後輩の言動一つ取って目くじらを立てられても、はっきり言って承伏しかねます」
「もう少し厳密に宣言するわ。あなたからそうやって色々と勘繰られる事が、既に私たちを貶めているの。他の人たちならともかく、あなたのような人からそれをされるのは、とても困るわ。本当ならあなたのような人には私たちの部からさえいなくなって貰いたいくらいなの。瓦礫には私からよく言い聞かせておくわ。だから金輪際、あなたはこの人に関わらないで」
力に任せて捩じ伏せるような目が、私を睨む。なぜ私がこんなにも責められなければいけないのか? 私が悪いのか? なんのいわれもなく虐げられた私は、委縮してしまいそうな体とは裏腹に――有り体に言って《かちん》ときた。
「ふざけないで下さい! いくら先輩だからって、あまりに無礼だわ。下らない勘違いだとしても、横取りされたくなかったら、きちんと先輩が手ずから捕まえておけばいいだけの話じゃないですか!」
……私は何を言っているのだ。思わずかっとなって、なんでもいいから、とにかく言い返したくなってしまった。いくらなんでも、デリカシーがない。意地悪な言葉だ。頬が急激に熱くなる。
言われた伊勢栞の方も、急に顔を紅潮させて憤る私の姿に面食らったのか、訝しむような形で言葉が止まっていた。
沈黙が横たわる。
その間、私は私の中で繰り返される私の言葉に耐え切れず、かなり死にたい感じである。沈黙を打ち破りたいけれど、いま口を開くと、確実に余計な事を喋って恥を掻く。
――そんな私の窮地を察してか、さっきから耳障りな呻き声しか上げていなかった瓦礫濯が、目元を指で慎重に拭いながらようやく人語と思しき言葉を放つ。でかした!
「あれ? あれ? もしかして修羅場ですか? たった一つしかない俺の体を巡って女の子が争ってるんですか? でも大丈夫だよ! 俺の家系、実は中東系だから!」
やっぱりただの雑音だった。
「……鹿島さんは、目端が利く割には、頭が鈍いのね」
伊勢栞は、頭を支えるように額に指を添えて、言葉を纏めながら、抑揚なく喋った。
「……どういう意味ですか?」
「いえ。いいの。《あなたの言葉》を素直に認めるわ。私は、瓦礫という男に惚れてしまっているの。……こら。いい気にならないのよ瓦礫、あなたはさっさと顔を洗ってきなさい。私の言葉をあと一文節でも聞いたら、二度と他の女と喋れない体にしてやるわ。そう駆け足。行った行った。もう帰ってこなくていいのよ。……ごめんなさい。話が逸れたわね。とにかく私は瓦礫にべた惚れなんだけど、彼があんな態度だから、何かと気苦労が絶えないわ。私はまともな思考もできない状態にある。取り敢えず瓦礫がいま手を出している十五人の女友達と思しき存在は順番に検分して対処を講じるとして、これから瓦礫が手を出す、あるいは瓦礫に手を出す女たちの事を考えると、気を揉んで夜も眠れないわ。これは偏に、私の人間的な不足に寄るものだけれど、でも、ある意味では健全な恋する女の子としてあるべき姿でもあるはずよ。それを窘める事こそできはすれ、否定する事なんて誰にもできないはずだわ。だから、恥を忍んでお願いする形になるけれど、私はいま情緒がとても不安定だから、瓦礫みたいな手の早い人間には、近付く事すら控えて貰いたいの。そうしなければ私の不安は拭えず、私はあなたを疑わなくてはならなくなる。これは、いまのあなたにその気があろうとなかろうと関係ない事よ。瓦礫が手を出して、あなたをその気にさせるかさせないかの問題だから。それは私の立場からでははっきりする事のない問題だもの。その事を踏まえて、再びあなたに問い掛けるわ。あなたが瓦礫濯という人間に向けた全ての意識を、諦めてくれる?」
眩暈がする。
案の定、藪蛇だった。
怒涛のように押し寄せる言葉の波間に潜ませた、一ミリたりともこちらに口を差し挟ませない、鬼気迫るものが物語られている。
私は言葉を失った。
ぐうの音も出なかった。
ぶっちゃけると、かなり馬鹿らしくなってきた。
なんで私は、さっきからこんなどうでもいい事でむきになっているんだ。
なんで私はむきになって彼女と言い争っているんだ。
気持ちの趨勢に抗えず、伊勢栞の言葉を聞いて、私はなんの考えもなしに、無条件に頷きそうになる。
――が、済んでのところで、私は踏み止まった。
納得できないまま、引き下がりたくはない。
少なくとも私は私の側の主張だけでも通すため、いまなにが問題視され、どのような意見が衝突しているのか、折衝できる余地があるかを探るために、話の発端を遡る。
そもそも私はなにがしたかった? 私の目的はなに? 瓦礫濯との取り留めない会話だろうか? ――違う。瓦礫濯に絡まれた時、私は直ぐにでも食事を済ませ、離席するつもりだったのだ。
でもしなかった。
何が私を引き留めた? それははっきりしている。
瓦礫濯を起点にして見え隠れする、不可解な摂理の振る舞いが、私を引き留めた。あるべき摂理が乱れた振る舞いだ。
基盤芳典が構築する防壁を解き明かすための、新たな手掛かりとなるかもしれない振る舞い。それを暴き立てるために、私は足を止めた。
あらゆる可能性を、私は見過ごせない。どんなに馬鹿げていて、荒唐無稽な可能性だろうと、直接この目で確かめて、はっきりさせなければ、私は前に進めない。
そして彼女――伊勢栞は、私が瓦礫濯に対する疑惑を確かめるためにやらなければならない働き掛けを、邪魔立てする。
私の前に立ち開かる、壁となっている。
ならば、あらゆる手段を講じ、排除するべきだ。
壁は絶対に取り除かなければならない。
……うん。落ち着いてきた。
だいぶ状況がクリアに見えてきた。
それが、私から見た現状の構図である。
ここまで考えを整理すると、私は、その構図の中にもなにか奇妙な違和感を覚えた。どこか歯車が噛み合わないような、腑に落ちないもどかしさがある。それは単純に、伊勢栞が抱える根も葉もない懸念と、私の本当の思惑との食い違いというものではなくて、むしろそのような食い違いが、正される事なく放置され続けたまま進められているという現状そのものが、なんだか不自然に思えるというか――なんだか、あまり、彼女らしくないというか――いや、でも、常識的に考えて、私の側が隠している事情を推し量る術なんて、彼女にはないはずで――ない、はず? 言い切れるのだろうか? もしも彼女が、私の立場なら……。
――ふと一つの可能性が象を結んだ。
そうか。そんな可能性も、考慮するべきなのか。
私の中で散り散りになっていた疑問符が、やっと、はっきりとした輪郭線で結ばれた。
「伊勢先輩。もしかして、見えているんですか?」
私は尋ねる。
伊勢栞は表情を変える事なく返す。
「鹿島さん。やはりあなた、見えているのね」
顔を洗ってきたはずの瓦礫濯が、今度はカレーの染みどころか、一粒たりとも袖口に水滴を滲ませる事なく、お手洗いからさっぱりとした笑顔で戻ってきた事に関する瑣末な違和感を、その目で意識的に捉える事ができたのは、恐らくこの場で、私と伊勢栞の二人だけだ。
結局のところ、昼間の一件で私が一番引っ掛かりを覚えていた違和感というものは、私と基盤芳典が交わした、ある夕暮れの一幕を、彼女がいかにして読み取ったのかという疑問だ。
あの時の私たちの遣り取りを客観視した場合、それは果たして本当に失恋の瞬間であるかのように見えるものであったのだろうかという疑問である。
改めて思い返すに連れて、情けなくて、恥ずかしくて、私の中で尾を引いている一齣だから、意味もなく反芻する気には到底なれなかったのだけれど、それでも冷静に省みれば、あれは私が勝手に一人で盛り上がってしまい、あまつさえ涙を見せてしまった事には間違いないのだが、しかし基盤は、決して直截にそれと分かるような言葉を発したわけでもなければ、行動に移したわけでもない。ただ一つ、私にしか視認する事ができないはずの「防壁」を生み出したという一点を除いて。あれだけが、あの場面で圧倒的な存在感を放って、私が基盤に拒絶された事を主張する唯一の、状況の説明だった。
「ふうん。鹿島さんにはあれが壁に見えるの。楽観的ね。私の目には、もっとおぞましい、空間を引き裂く断層のような、致命的な距離の隔たりに見えたわ。基盤芳典、ね。一応、憶えさせて貰うわ」
授業後、部活動の時間帯に突入すると、予め打ち合わせたわけでもないのに、私はデッサン用の静物を用意する役を買い出て、美術準備室を訪れ、黴臭い乾燥棚の奥で、画材の備蓄を確かめる副部長、伊勢栞と邂逅する。
まるで、取るに足らない世間話でも繰り出すかのような構えで、私と彼女は、そんな話を始める。
「今まで、私だけかと思っていました。あのような、常識では説明できないものを捉える事ができる人」
「それは欺瞞ね。心の裏側が透けて見える。あなたは、出会った事がないからと言って、自分と同じ誕生日の人が、この世には誰も存在しないと信じられるタイプの人なのかしら?」
「その置き換えは、あまりに事のスケールが違い過ぎると思います。だって、こんな力、現実から逸脱してる」
「あなたがまず最初に自らそれを体現しているという点で、どちらも同じテーマの話よ。それでも、その力があなただけのものであると疑わずに信じるのは、そうであると信じたくなるだけの後押しする隠された感情が働いているという事。浅慮な言葉で心をひけらかすのはみっともないわ」
「…………」
徹頭徹尾、敵愾心を振り撒くその姿勢はともかくとして、彼女が瞬かせる瞳には、確かな慧眼さを宿している。
「あなた、本当は自分と同じ事ができる人を見つけて、がっかりしているんじゃないかしら?」
私は言葉に詰まる。
初めて同じ景色を見える人と出会った。
とても有意義な出会いだ。
私たちの停滞した現状を打破する、新しいきっかけとなるかもしれない出会い。心から迎合すべき事だ。
……だけど、手放しには喜べず、落胆する私がいる。
思い当たる節はある。改まって彼女から指摘されるまでもなく、私は私の心を見据える事ができる。
私だけが、基盤にとっての特別な存在ではいられなくなってしまったからだ。基盤の防壁は、もはや、私だけが見て捉えられるものではなくなってしまった。私だけが特別なわけじゃない。その事が証明されたのだ。私と基盤を結ぶ、一縷の絆を証し立てていたものは、蓋を開けてみれば、私の希望的観測が捏造した、架空の絆でしかない。
……私は、そんなあやふやな形をしたものにまで、希望を託さずにはいられないくらい、心が弱い人間なのだ。
「笑えない話ね。たかがものの見え方一つで、縋りついたり、心の平衡を乱されるなんて、焦る姿が滑稽よ」
だけど、私の心に生まれる感情が、まるで、生まれてくるべきではなかったもののように扱われるのは、絶対に違う。
「心が正常なら、焦るのは当たり前です。きっとこの焦りがなくなるのは、今ある全ての気持ちが昔の事にされてしまう時だけだから。今はまだ、焦らなきゃ」
「苛立たしいくらい視野狭窄ね」
私からは少し離れたところにあるスチール製ロッカーの傍に膝立ちで佇んで、埃被ったニッカーのポスカの瓶をつぶさに観察する彼女は、そのままの姿勢で、声のトーンを変えず、表情を読み取らせる事なく続ける。
「この世界が私たちに見せつける機微を、それぞれがどのような形で受け取ろうと、受け取るまいと、そこにある機微そのものが形を変えたり、消えてなくなる事はない。瓦礫や、基盤芳典の近くで私たちだけがある種の形として観測できた事象だって、それを形として捉える事ができない人たちにとっても、そこで確かに起きている事象よ。そこで確かに起きているにも関わらず、彼らは恙なく日々の営みを送っている。私たちが見ているものは、その程度のものでしかないわ。その程度のものでしかないのに、私たちだけがその事に注意を奪われて、さも重大なものであるかのように囃し立てている事になるのではないのかしら。それって、とても恥ずべき事のように思えるわ」
「だから心を動かすなと言うのですか?」
「心で頭を動かすなと言ったつもりよ」
「私は別に、囃し立てるつもりもなければ、先輩が考えているほど、感受性だけでなにかを変えるつもりはありません」
「そのつもりがなくてもそのように見える事が問題でしょ?」
「私が私の感受性を尊重する事がそんなにいけませんか?」
「鹿島さん。静物画のモチーフ、探したら?」
言われて確かに、私は手を止めている。
「……急に話題を変えるのは卑怯です」
「別に私、鹿島さんとの会話を今すぐにでも打ち切ってしまいたいというわけじゃないのよ。疎かな点を指摘するのは、立場上、先輩側の責務」
感情のボルテージが高まり始めたところで、話の腰を折られた。行き場を失った熱量が、顔の内側に籠るのが分かる。
「なによ。睨まないでよ。そんなにむくれた顔しなくたっていいじゃない。青果の模造品は石膏像の台の下。段ボール箱」
「あまり嫌味に感じる言葉を聞かせたくはありませんが……見つかりました。立場上、感謝します。後輩側ですから」
「ねえ。鹿島さん。ここに仕舞ってある、使い差しの檸檬色を見て頂戴。副部長命令」
「……副部長は、仕事を催促する癖に、仕事を邪魔する」
抱えられるだけ腕に抱えたプラスチック樹脂製の静物モチーフに視線を落とす。彼女の横顔を見比べ、遣る瀬なくなる。回りくどい嫌がらせか。
私は、蹲る彼女の横に体を寄せる。視線の高さも揃える。
伊勢栞は観音開きのロッカーの扉を広げる。
「見える?」
「見えますよ」
ロッカーの状態は酷く雑然としているが、目に見える位置には、黄色系統のラベルが貼られた瓶は一つしかない。
「なら、瓶の残量を確かめて」
「…………」
それ私の仕事か?
「直ぐ睨む。誤解よ。よくある例え話がしたいの。この瓶の残量を、鹿島さんが見る場合、まだ半分も残っていると捉えるのか、もう半分しか残っていないと捉えるのか」
嫌がらせなのかどうかは保留するとして、回りくどい事だけは確かだった。
「……前提がなければ、当然、まだ半分も残っていると捉えたいです。精神論なら、それが裕福な考え方です」
「素直ね。助動詞が的確」
「こんな事で私のなにが分かると言うのですか?」
「違うの。気を悪くしないで。あくまであなたの事を知るための例え話ではなくて、私の事を、あなたに知ってもらうための例え話なの。私は、そのどちらの感じ方も、独善的な物事の見方だと思えてしまう。それをそのように捉えたくなってしまう人の心のつまらない裏側が透けて見えるような気がして、私を嫌な気持ちにさせる。私は、その瓶の中を見た時、自然に、厳密に、これは何ミリリットル入っているのだと捉えられるような心を持っていたいの」
伊勢栞はスカートの裾を払いながら立ち上がると、そこで初めて、あの冷やかな目とはどこか違う、なにか別の感情がほんの少しだけ混じり合ったような眼差しで、私を見据えた。
「正直、別に私は、あなたの生き方を断罪したりするような気はないの。私の信仰がそうであるというだけの話よ。こうなってしまったからには、一応、あなたには私たちの事を知っておいてもらわなければならないと考えていただけ。私も、同じような立場の人に会ったのは初めてだから、あまり的確な対応ができていないのかもしれない」
ごめんなさいね。と伊勢栞は短く言い添えた。それは謝罪の言葉にしてはどこか軽薄な感じに聞こえたけれど、それが言葉として発せられるに至った彼女の中の重厚な背景を匂わすだけの感情が確かに込められているものではあった。
「ちなみに、ここにあるポスターカラーは全てもう黴が生えてしまっているから、いくら残っていようと廃棄するわ。鹿島さんは、折角そんなに敏い目を持っているのだから、せめてそれくらいの実相は見通せるようになりたいものね」
最後に塩を送られた。
「伊勢先輩、絶対に私の事嫌いですよね?」
「確認するまでもないでしょ。瓦礫が興味を持った女子は、一人残らず嫌いよ」
……この女、よくもまあぬけぬけとぬかしやがる。
「そろそろ鹿島さんは戻りなさい。いつまでも引き留めたら部活が成り立たない。だけど最後に一つ、私の老婆心と警戒心から、一つ言わせてもらうわ。繰り返す事になるけれど、あくまで私たちのような、人には見えないものが見える巫覡の才がある人は、彼らを通して現れる、物事の摂理の揺らぎを、最も受け入れ易い形で、目で見て捉え、なにかしらの解釈を差し挟める立場にあるだけで、起きてしまった事実は、塗り替えられないんだから。目を逸らす人は嫌いよ。でも、逆に言えば、私たちのような立場にいる人だけが、他の誰も気づけない、そこで確かに生じている事象に、形を与えられるという事。彼らはただできる事をできるままにやっているだけで、それのメカニズムだとかプロセスを規定できるのは、私たちの特権だわ」
「その話は伊勢先輩の希望的観測ですか?」
「観測に関する一つの解釈よ。ただのコペンハーゲン解釈」
問い掛けに対する直接の答えには聞こえなかった。
伊勢栞は話を続ける。
「私は、長い時間を掛けて、瓦礫濯の力を規定してきた。そこに、私と近しい感覚が少なからずある、あなたの異なる主観を差し挟む事で、形を欠きたくないの。瓦礫濯の力に対するあなたの考えや捉え方が、必ずしも間違ってるわけじゃないの。ただ、私が長い時間を掛けて、私が望む通りの形に築き上げてきた彼の力の形相を、些細な先入観で乱されたくない」
「……分かりました。なんとなくだけど、説得されます」
きっと私は、現時点で、伊勢栞の言葉の全てを完璧に噛み砕く事はできていないのかもしれないけれど、少なからず、心が留まる位置に、収める事はできた。
頷く私の顔を、慎重に見定めるような間の後、
「私からも、基盤芳典という男に関する変な邪推は、一切しない事を誓うわ。お互い、これからは適切な距離を保ち、必要最低限の情報提供で、今後の学生生活を送りましょう」
伊勢栞は言葉を締め括る。ついと目を離し、まるでもう誰もいなくなってしまったかのような意識を漂わせて、こちらを振り返る事はなかった。そんな彼女の横顔から最後まで目が離せないまま、私は扉を閉め、美術準備室を後にする。
「……うるさいな。釘を刺されただけです。納得はしました」
陰影が色濃く落ちる真っ白なテーブルクロスが掛けられた中央の勉強机を巡る形で、十脚足らずの椅子とイーセルとその持ち主たちが、厳正を期す籤引きの結果、無作為に立ち並ぶはずなのだけれど、鬱陶しい事に、瓦礫濯は私の右隣にいる。
「へえ。ふうん。そっかあ。じゃあさ。実際のところ、鹿島から見た俺、どんな特徴があるの? 教えてよ」
「釘を弄るな、釘穴が広がる!」
できる限り声を押し殺して、私は怒鳴る。
「お前らのあいだでしか通じないような独特の言葉で細を穿った話されても俺にはよく分からんが、それってつまり、俺の人間としての矜持が、鹿島と接する事でぶれぶれになるかもしれないって話だろ? 冷静に考えてみろよ。そんな事あるわけないじゃん」
私としても、それはまさしくその通りであって貰いたいところではあるのだけれど――なんの遠慮もなく言い切る辺り、なんだか私の人としての影響力というか、尊厳みたいなものが蔑ろにされている感じで不愉快だ。
「あるわけなくても、あるかもしれないと思ってしまうのが、乙女心というものなんです。いつもどこかで見えない敵と戦っているのです」
「え? え? なにそれ? 実体験? 言葉選びが独特!」
鉛筆がへし折れた。
「瓦礫先輩の画材箱から拝借した鉛筆、握り心地が抜群ですね。爽快感あります」
「それ俺が大事に保管してた最強のバトエンじゃねえか! バタフリーが文字通りこの世から消え去る!」
「伊勢先輩に深入りするなと言われても、瓦礫先輩がちょっかいを掛けるのでは、無視するにも無視し切れません」
「だから、そのあらゆる懸念を取り除くために、俺は鹿島を巻き込む魂胆だ。俺は、敵を追い出して恐怖を遠ざけるより、仲間に引き込んだ後でいっそ裏切られる方が好みだ。敵がいるって事実はどこまで薄めても恐ろしい事だが、仲間の裏切りは、裏切られるまで怯えようがないからな」
「なんだか屁理屈臭い言葉ですね」
「なんとなくニュアンスが伝わればいいと俺は思う」
折れた鉛筆をマスキングテープで律儀に巻き直して、まるで何事もなかったかのように私に差し出す瓦礫濯は、不承不承それを私が受け取るタイミングを見計らって、もう一度、最初の疑問を私に投げ掛けた。
「そんで実際問題、鹿島には、俺のなにが見えた?」
私は躊躇う。今度は咄嗟に拒めなかった。本人の希望の上でもあるし、何より私自身が、この事について、もう少し踏み込んだ話が聞きたかったという気持ちもある。
結局、私は私の好奇心に抗えないのかもしれない。
「……水に関係している事は、はっきり確信しています。恐らく、液体の流動性に関わる摂理を制御しているような――表面張力とか浸透圧、親水性に働き掛けているのかも」
「理屈はともかく、俺も最初は漠然とそんな風に思ってたよ。水に溶いた絵の具なら、俺は思いのままに操れた」
「そうではないのですか?」
「そうだったらしい。らしいって語尾が曖昧なのは、結局、今となっちゃ事実は別の形に収まってるからだ。それが昔からそのような形をしてたのか、別の形をしてたのか、俺には疑う手段も意志もからっきしだから、他人行儀に表現するしかないんだけど、それでも俺がまだちんちくりんのがきんちょで、お絵描きが楽しくて楽しくてしょうがなかった時期は、俺も今の鹿島が考えるように、あまりにも自然にそんな事を考えてた。そんで、俺は心臓が逆流しそうになって死に掛けた」
「なにかの比喩ですか? ダサいけど」
「そんなつもりがなくてもそうゆう捉え方されたらいきなり恥ずかしくなるだろやめろ。俺はもともと心臓が悪くて不整脈気味だったんだ。そんで、自分の心臓がどんなリズムで動いてるんだとか、ふと考えたりすると、なんかさ、これが自動的に動いてるってのが不思議な感覚になってくるわけよ。夜眠る前とか、枕で塞がれた鼓膜に響く鼓動を聞くと、これ逆に流れたりする事ねえのかな? って考えが、なんか頭の表面に段々焼き付いてきて、そしたらある日、心臓の、僧帽弁とかいうパーツがぶっ壊れかけた。どうだ。びっくりするくらい真面目な話だろ。おちょくった事を後悔させてやる」
「それは不謹慎をなすりつけた自爆テロです」
それでも最後に話を砕いて飲み込みやすくするのが、瓦礫濯による配慮で、その結果、私の言葉が擁護されている事実を意識すると、私は複雑な気持ちになる。
「それを切っ掛けに、同じ絵画スクールに通ってた伊勢が、なんか色々と画策し始めたんだよ。俺の絵の描き方とか、絵に対する意識の持ち方に、あれこれ口を出し始めた。俺は俺の垂らした絵の具が、俺の望む形で完璧に紙の上に垂れてると思いながら描いてたんだけど、伊勢は違うって、頑なに俺に言い張ってた。じゃあなんなんだよって話なんだけど、それがなかなか分からなくて、何度も言い争いして、それでやっと伊勢が、お互い納得できる、しっくりくる答えを見つけたんだ。伊勢が言うには、なんでも、俺は未来を選び取っているんだとよ。流れて行くものの無数の行き先から、一つを選び取れる才能が、俺にはあるんだって、伊勢は表現してた。その表現が俺の中で一番すっと飲み込めたから、俺は一番その考えが俺に会ってるんだと思えるし、そうだと信じられる」
瓦礫濯の画用紙には、既にモチーフの大まかな明暗がはっきりと表れていて、描き込みの段階に入っている。瞬く間に線が面に、面が奥行きに変貌を遂げる。
「鹿島は、人の描く絵が全て人の意志によって形作られていたいって言ったよな? その営みそのものに美しさを感じたいって。だから俺の描く絵が好きだって」
「……瓦礫先輩の絵は、確かに私は好きです。その通りです」
「でも俺の絵は、ただ自然に起きるはずの現象を、選び取ってるだけなんだ。それは順番が逆なだけで、他の絵を描く奴らとやってる事は違わないんだ。描いた絵を美しいと認めるか、美しいと認めた絵だけを描くか、それは初めに選ぶか後に選ぶかの、そんな瑣末な違いがあるだけで、結果的に出てくる絵の美しさに違いみたいなものはない。たまたま俺は、先に選べる人間だったってだけなんだ。とにかく、そうやって美しいと思えるものを選び取るって考え方が、俺は真に迫った意味での、美術って言葉で括られる営みの根っこなんだと思えた」
瓦礫濯が描写を止めた。芯の先がへたった鉛筆を揺するような動きで弄りながら、瓦礫濯は、私の拙いデッサンを見て、彼を知る誰もが見た事のある、あの決して損なわれる事のない、穏やかな笑顔を見せた。
「鹿島も、いつか自分の絵を自分で選び取れるさ。まだ鹿島の前には、選択肢が少ないだけだ。未来にはいずれ追い付けるから、俺みたいに、今から全てを決めなくても、ゆっくり選びながら楽しめばいい」
――瓦礫濯は、いつも馬鹿みたいな事ばっかり喋って、物事の深い意味なんてなんにも考えない癖に、その人が絶対に見抜かれてたまるもんかと思っている部分の表面を掠めるような言葉ばかり選ぶから、誰もこの男を、心の底から憎めない。
私は悔しかった。瓦礫濯に対する悔しさじゃない。
……だって、それってつまり、伊勢栞は、確かな証拠を手にしているという事になるじゃないか。
瓦礫濯の雑談が終わる頃を見計らったかのようにして、伊勢栞が美術準備室から部室に帰ってきた。
瓦礫濯は、伊勢栞に急き立てられるように連行された。どうやら話を聞く限り、準備室のあの黴が生えた大量のポスターカラーは、瓦礫濯の私物だったようだ。他にもがらくた紛いの画材道具がそこら中に散らばっているらしい。
二人の姿を追う私の目と、伊勢栞の目が一瞬だけすれ違った。気のせいだと言われたらそれまでとしか言えないような瞬間だったけど、彼女はどこか、ほんの僅かに勝ち誇ったような顔を私に見せた。きっと今の私の、言葉では説明できない表情の裏側に、確かな感情を読み取ったのだろう。
「羨ましいな」
――私も、選ばれているという証拠が欲しい。
彼女は乗車券を握り締めている。
部室を後にする瓦礫濯と伊勢栞の時間とともに流れ着く未来は、どのような紆余曲折を辿ろうとも、二人が選んだ、行き着くところにしか辿り着く事はない。
(she’s got a ticket to ride, is END)
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