例話稲生物怪録

@dormantgomazoa

第一章

はだかる】


 基盤芳典きばんよしのりが最初に防壁を意識したのは九歳の夏の事だ。


 現代的な建築様式の建売住宅が一様に犇めく社木台やしろぎだいの、その間隙に佇む原風景を残した八幡神社は、基盤と私の貴重な遊び場だった。坂を下って間延まのべ町の方まで足を伸ばせば、ささやかな広場はごまんとあったはずだけど、しかし目ぼしいところだと近隣児童が大挙するのが嫌で頑なに基盤がそちらに行きたがらなかったのだ(その癖、家の外でばかり遊びたがって、私が提案する室内遊戯の殆どは、その日の天候とか、機嫌とか、やむにやまれぬ偶然が出揃わない限りは軒並却下されてきた)。基本的に、基盤は強引だし、排他的な人間だった。友達ができなかった。

 九歳の夏休み、基盤は区民祭りの射的屋で、三等の強力な水鉄砲を手に入れた。タンクに空気圧を溜める構造の銃だ。八幡神社の境内には手水舎の水盤があり、これが水鉄砲の重要な給水源として働いた。基盤にとって八幡神社は、この新たに授けられた力を揮うためにはあらゆる角度から好都合の環境だった。茂みの多さもさる事ながら、隣家のガレージに鎖で繋がれた獰猛な大型犬の存在が決定打で、門前を通るたび、執拗に吠え付けてくる恐怖の番犬が、基盤の狭量な敵愾心を煽った。

 恨みがましい男なのである。吠え付けられっぱなしの立場に倦ねて、欝憤を晴らす機会をずっと窺ってきたのである。

 斯様な経緯で、基盤はその日も――確か先負だった――いつものように境内から藪垣を挟んで十数メートル先の射程距離にいる番犬を狙い、意地悪なちょっかいをかけ始めた。飼い主が飛び出してきた事はついぞなかったが、その日、不測の事態が基盤を襲った。標的の番犬が一際激しく暴れた弾みに、番犬をガレージに繋ぎ留めていた鎖が引き千切れたのである。

 唐突に、逆襲の時が訪れたのである。やられっぱなしに我慢ならないのは、犬も同じだった。

 その犬(これは時系列上あとから蓄えた情報になるのだけれど、三歳になるメスのマスチフである。名前はハリマオ)は遠巻きからちくちくと憎たらしい基盤を目掛けて、一目散に突進してきた。もちろん基盤はたまげた。軽く腰も砕けていた。

 石畳に尻餅を突き、動揺を隠し切れず銃を乱射する。基盤はハリマオの強襲を躱すという発想すら失って、ろくすっぽ狙いも定まらないまま番犬の接近を許した。射的屋でも分かっていた事だが、基盤に射撃の才能はない(実を言うと水鉄砲も最終的には見兼ねた私が獲得した景品である)。

 やがて基盤は観念したのだろう。藪垣を突破し、今まさに飛び掛からんとする巨犬ハリマオを前に、基盤は咄嗟に目を瞑った。両手を突き出して、みっともないくらいに慌てふためいた格好で、体を庇った。そして、基盤の目の前に巨大な壁が現れた。半透明に濁る、空気が凝縮したような壁だ。番犬を弾き返すように、忽然と顕れたのだ。

 基盤は混乱した。

 基盤には眼前に立ち開かる壁が見えていない。

 私は基盤に言った「巨大な壁が現れたのよ。ほら。あなたの正面」壁は依然として基盤と番犬の間を狙い澄ましたかのように隔てている。基盤は、やはりそんなものはちっとも見えないと訴える。

「そんな事ない。私には見えるもの。本当の事よ。実際に犬が近寄れない事が証拠」基盤が恐る恐る正面を探ると、硬い平面の手応えを確かめて納得した。

 私はへたり込む基盤を引っ張り起こそうと駆け寄って、それから基盤に倣って壁の感触を確かめようと試みた。

「透き通るわ。私には触れないわ。見えるのに」壁は基盤とこの番犬にしか影響を及ぼさない隔壁のように見えた。他の物体に干渉する様子はないし、私にしか見えていない。

「きっと基盤が作ったのね」基盤は否定した「一部始終を見ていたもの。間違いないわ」最初は基盤にはそんな自覚なんて毛ほどもなかったはずなのに、その日から、基盤は徐々に意識的に壁を作り出せるようになっていった。


 それから随分経つが、記憶の限りでは、八幡神社の隣家は一度空き家となり、今は別の家族が生活している。境内には未だに基盤の防壁が消える事なく残されている。一度作り出した防壁を、基盤は二度と通り抜ける事ができない。



 十六歳の秋の暮れ。

 道路を荒ぶ秋の風に見送られて、本格的な寒さの兆候が肌近かった。剥き身の街路樹の枝ぶりに区切られた空が、罅割れて見えた。

「ねえ。基盤。下宿に帰るなら先に立ち寄りたい場所があるの。商店街の画材屋さん。荷物が嵩張りそうだから、手伝って貰いたいの」前方を歩く基盤は物憂げな調子で振り返る。

「呉服屋の並びに壁がある。俺、通れんし。迂回すると随分かかるし。甚だ面倒」

「嘘、基盤の生活圏内よ! 後先考えずに濫造するから!」

 高校受験を終えて、基盤は地元を離れ、下宿生活が一年目になろうとする。新しい街には既に、基盤の作った防壁が点在していた。基盤は自分の能力を発揮する事に糸目を付けない。

「不可抗力。悪漢に絡まれた。怒鳴る事かよ」

「覆水盆に返らずって自覚ある? 基盤は」

 私は――私は、基盤と一緒の進学先を選択した。

 母方の実家が近所なのだ。居候している。

「誰に絡まれたの?」

 基盤は顔を背けて進み出す。歩道に散る朽ち葉を、基盤は律儀な足運びで踏み均す。音を鳴らす。飴細工を崩すみたい。

 シャ、シャ、シャカリ。シャ、シャ、シャカリ。

「知るかよ。運動部の半端連中を寄せ集めた下らない徒党。仕方ねえし。俺、足遅いし」

「基盤は態度が悪いから因縁を付けられる」

 悪漢を撒くために防壁を作ったと基盤は説明する。軽率な行動に思える。基盤はこの荻蘇商店街のど真ん中に、二度と通過できない防壁を生み出した事になる。その場凌ぎとしての値打ちしかない選択の積み重なりが、将来の自由度を奪ってしまうなんて典型的パターン――分かりそうなものなのに。過去に雁字搦めにされてしまう日はいつか必ず訪れる。

「防壁は、基盤を閉じ込める強靭な檻になるかもしれない。迂闊に扱える能力じゃない」

「大袈裟な話すんな。扱えるものを扱わないままにしたら持ち腐れだろ。現に俺はぼこられなかった――防壁を出さなかったらぼこられてたかもしれねえんだぞ、十中八九ぼこられた」背を向けたまま基盤は「鹿島は、俺が防壁を作る事となると、とにかく難癖付ける。意味分かんねえし」

「分かんないはずがない。分かり切った事を」基盤の防壁は得体の知れない現象だ。決して完璧にコントロールできているとは言い難い。「基盤の防壁は、二度と消せない、消し方の分からない、歴とした現象よ。確たる影響が残る。影響が堆積する。そういうものが積もり積もれば、悪い影響だって生まれるかもしれない。そうなると、もう誰も基盤を助けられない」

「大袈裟な話に説得力ねえし」

「大袈裟な話はしてない!」基盤は間違ってない。

「大袈裟だろ」間違えているのは私の方だ。

 省みれば一目瞭然だった。基盤は基盤の価値観に倣って動いている事を、私の心象に蓄積された基盤芳典という人物像が詳らかに証明している。決して少なくない場面において、お互いの主張が必ずしも合致しない事を、私はとっくの昔から知っているのだ。今更こんな遣り取りを繰り返したところで、今まで得られなかった状況を打開するような答えが出し抜けに得られるわけがない。……大袈裟な話なのだ。私が大袈裟に基盤の危機感を煽ろうとしているだけに過ぎなかった。

「実際問題、完璧に閉じ込められちまうような状況に発展させるわけがない。防壁が増えて、暮らし辛いってんなら、また余所に移り住みゃいいし。それだけの話だし」

「そんなのあんまり自分勝手」

「当たり前だろ。俺の都合の事を話してんだから。俺がどうするべきだったかを話してんだから。俺がその方が都合がいいって言ってんのに、勝手に俺の都合を捏造して勝手に問題視してんのは鹿島の方じゃねえのかよ」

 交差点に辿り着く。信号は赤だ。足止めを食らい、私は基盤の真横に並ぶ。十字路に渦を巻く風が足下を濯ぐ。目の前を車が通り過ぎるたびに冷たい風が巻き上がる。耳が痛い。

 横切る大型トラックを見計らい、基盤は言う。

「結局の話、鹿島にはどんな不都合がある。鹿島が考える俺の不都合じゃなく、鹿島の不都合だ」

「私の不都合なんてあるわけないじゃない」不都合はある「私は基盤の不都合を憂慮しているの。普通は、自分勝手な基盤と同じように自分の事情だけを考えるわけじゃないの。他人の事情を他人の立場になって考えてしまうものなの」

 言って、私は少し基盤の返事を待つ。

 基盤はそれ以上なにも聞き返さない。

 会話が途切れる。沈黙が張り詰める。

「で。本題は。寄り道の話は決着したのか。鹿島」

「え? あ、うん。いや、日を改めるかも。次のデッサン講習会に間に合えば。部活の友達を連れて」

「人手がいる事に変わりねえなら手だけは貸すぞ」

「でも面倒臭いんでしょ?」

「面倒臭いのは感情の話だろ。面倒臭くてもやらなきゃならん事はあるだろ」

「いいの?」

「だから、迂回する手間と日を改める手間を秤にかけるのは鹿島側の問題。鹿島が面倒じゃなけりゃ俺は構わん」

「うん。それでいい。ありがと」

 更なる協議を重ねた結果、心ばかりの譲歩と情け容赦ない要求が言葉の上を錯綜し(半ば喧嘩腰になってしまった感は否めないが、でも先にごねたのは私じゃなく基盤)、一度、基盤が暮らす学生アパートを訪ね、アパートの駐輪場で野晒しにされている三輪自転車を徴発―もとい拝借する算段が整う。

 基盤が担う運搬物の規模を私が解説してみせると、「俺が茶碗より重い荷物引き摺って弱音を漏らさず五〇〇メートル歩ける畑の育ちだと思ったら大間違いだからな」

 ……なんでこいつはいつも息巻いているのだろうか。

 修理に出したイーゼルを受け取るのに、男手が一人加わればさして大変な思いはしないだろうと踏んだのが誤算だった。基盤は必ず私の期待を一枚下回る。

「茶碗を持つためだけに生まれてきた人じゃないでしょ。引き摺ったら承知しないから」

「いいか。俺はやろうと思えばなんでもするが、しかし俺には直接できる事と、直接はできない事がある。だから手段を選ばせろ」

「直接はできないけど間接的にはできるって、それは基盤の代わりに他の誰かがやってくれてるだけだわ。私は騙されない」

「鹿島。下宿の軒先に鍵のない荷台付き自転車がある。ブリヂストン製のスイング式三輪自転車。それで運ぶぞ」

 それは勝手に使ってしまっていいものなのかどうか、事の内情を知らない私には途轍もなく胡散臭い提案だったけれど、まあ、基盤がそうしたいと言うのなら、曲がりなりにも手を貸して貰う側の私は物言わず素直に従おうと思った。


 基盤が暮らす学生アパートに到着するが、しかし駐輪場に目当ての自転車は見当たらなかった。

 私は物言わず基盤を半目でなじる。

「なんだその顔。うるせえな。嘘じゃねえし。嘘じゃ」

「私はまだなにも言っていません」

 人の顔を指してうるさいと評するのは、とても失礼だと思う。

「この時間帯は近所の老婆がどこからともなく現れて晩飯の準備に持ち出してるだけだ。公共物だからな。順番待ち」

「……別にいいけどね。時間はあるから」

 私は基盤の部屋に上がって、自転車の返還を待つ事となる。

 木造の畳敷き。子供の頃の記憶が蘇る。基盤に宛てがわれていた子供部屋が畳敷きだった。基盤の部屋の匂いがする。

 子供の頃は、基本的に悪天候の日は基盤が鹿島家を訪れていた。基盤の部屋は結局、一度しか見ていない。

 一度だけ、急な夕立に見舞われて、基盤の家に避難した事がある。私の両親が留守にしていたのだ。勝手口にあるはずの鍵がどうしても見当たらなかった。基盤は渋そうな表情を露骨に呈していた。子供の頃に見た基盤の部屋はとても狭苦しかった。申し訳程度の書棚と、そこから見事に溢れ返った教科書、漫画雑誌。それと驚く事に、無味乾燥な表紙が一様に張り付けられた難解そうな小説の文庫が大量に(失礼な話かもしれないが、私は基盤に対して知性を感じさせる印象というものは全くと言っていいくらいに抱いた事がなかったのだ。今でも俄かには信じ難い話だ)、無造作に床に散らばっているのだ。

 下宿先の部屋もそれと大差ない状態に染まっていた。

 くすぐるような紙の匂い。いつも一人きりの時にはなにをしているのか、疑問に思っていた。

 制服を着替えもせず、基盤は卓袱台の片端に腰を降ろす。他人の部屋で、少し所在なさ気な私には目もくれないで、床から適当な小説を一冊選び取り、読み始める。

 私は、お粗末にも綺麗には畳まれていない蒲団が寄せられている側に坐って、そのまま蒲団にもたれ掛かってみる。制服が皺にならぬよう気を配る。基盤は恐らく、このまま何も起こらなければずっと小説を読み続けるのだろう。そんな光景が浮かぶ。自宅にいる時の基盤とは、そのような人なのだと思う。

 私は目を瞑る。蒲団のやわらかな抵抗と、かすかな汗の匂いが五感に誇張される。もどかしい緊張感が次第に和らぐ。

 私は考える。

 基盤は自分が備える防壁の能力に、疑念や警戒心を抱いていない様子だし、基盤自身、防壁と上手く折り合いを見つけて生活しているのであろう事は私にも分かる。将来に対する責任とか――どのような形を迎えようと、将来を享受できるかどうかは、結局、最後には当人の覚悟の問題に集約されると思う。基盤が覚悟を決めて防壁を作っていると言うのならば、その点に触れて私がとやかく口を出す筋合いみたいなものは薄弱で、我が儘でしかない。

 しかし基盤という人間を基軸に発生し続ける防壁が、極めて危うい現象である事には違いない。基盤の防壁の未知性をほったらかしにしていいという話ではない。

 防壁が抱えている得体の知れなさが、そのまま防壁の信頼性を大きく揺るがしている。最悪を想定してしまえば、基盤の防壁は、いつ制御不能の暴走状態に陥ってしまってもおかしくない――その懸念が常に付き纏うのである。防壁の本質を見抜く事がそのまま暴走への対処、予防に転じるのだ。防壁が作り出される仕組みを深く理解する必要がある。

 だけど私には、基盤の防壁を実際に触れて確かめる事ができない。その輪郭を薄ぼんやりと目で捉える事ができるだけでしかない。基盤にしたって、自分が作り出している癖に、私を除く殆どの人々と同様に、防壁を映像として捉える事ができず、ただ防壁と思しき遮りに阻まれて、それと知覚しているだけに過ぎないのだ。

 その点を鑑みると、基盤の特殊性と同時にもう一つ考察されなければならない状況が関連して見えてくる。

 なにも未知なる能力を抱えているのは基盤に限った話じゃないのだ――私の特殊性に関する疑問点の事だ。

 なぜ私は基盤の作った防壁を視覚的に捉える事ができるのだろうか? これまでの経緯を振り返って、しかし私を除いて基盤の防壁を見る事ができる人間は誰一人いなかった。

 得体の知れないという形容詞の矛先、境遇は私も同じだ。人に見えないものが見える。なぜなのかは分からない。

 ある種の霊感のようなものなのかとも考えた。仕組みが不明瞭な事には変わりないが、生物としての霊感からくる波長とか、魂のようなものが持つ存在感によって、私だけがそれを知覚する事ができる状況に置かれているのではないか、と。だが――驚嘆を禁じ得ない話だが、基盤の防壁の力は人や動物に留まらず、命を持たない単純な物体そのものですら対象に選び、効力を発揮してしまう事が既に実証済みだった。それくらいの試行錯誤や実験は、これまでにいくらでも繰り返してきた。生物が宿す内なる感覚に訴えかけているとは考え難く――逆に単なる物質にも、生物が持つそれと同じような側面が存在しているのだろうか? と考え出すと、段々オカルト染みた方向の深みに嵌まり込んでしまって、はっきりとした確証からはどんどん遠ざかりそうな気がする。

 筋道の通る見地から物事を考察できないものかと考える。

 なぜ基盤は防壁を作れるのか?

 なぜ私は基盤の防壁が見えるのか?

 二つの能力には不可解な関係性があった。基盤の能力はそれだけで自己完結しているが、私の能力は基盤の防壁が存在しない限り不必要な能力で、単体の特徴として見たら完結性がなかった。私の能力は、その主体性を基盤の防壁の存在に委ねているのだ。基盤の防壁が存在して初めて効果を発揮する。

 この疑問点を考えると、直観的に整然と筋道の通る解答が導き出される事を私は知っている。私は可能性を考える。基盤の防壁が、実は基盤の防壁ではない可能性だ。

 防壁の正体は、私の執着心だ。

 私が基盤に離れて行って欲しくないという執着心が、基盤の周囲を囲い込むように防壁を生み出させている。

 基盤を取り留めたいという気持ちが、無意識の内に働いていて、然るべきタイミングでそれが壁として顕れてしまうのだ、と。そう仮定すると、これまでばらばらに散見されていたいくつかの腑に落ちない点について、その取り留めのなさが綺麗に解消される――この現象が発生する原因、問題視されるべき矛先が、私ただ一人に集約するのだ。なんらかの切っ掛け――引き金によって、私にしか見えない防壁を、私が作り出しているのだと考えれば、これまでの防壁に関する解釈が大きく覆り、新たな見識が生まれる予感がある。

 だけどここでもう一つの疑問が現れる。私が見ていないところで作られた基盤の防壁についての疑問だ。私の意志が直接的には介在していない場面で作られた無数の防壁の存在が、この仮説を真っ向から否定してくれている。基盤は本当に、自分の意志によって防壁を生み出しているのだろうか? 小学生の頃からそんな前提が存在し続けてきた。でも、基盤は実は途中からこの事に気付いてしまっていて、無意識の内に防壁を生み出してしまう私に変な気遣いを働いて、黙り続けているのだとしたら。

 ……基盤は私になにも言ってはくれない。

 最近、基盤は私から遠ざかろうとしているような気がする。基盤の勝手気儘な精神はいずれ私の傍を離れ、どこか果てしなく遠くの場所に去って行ってしまうような気がする。

 だとすれば、私の感情は、本当に基盤を閉じ込める檻だ。

 夕日の沈みかけた荻蘇商店街の脇道を、基盤は歩く。

 三輪自転車の荷台にイーゼルを積み込み、手で押している。

 私はその後ろを付いて歩く。

 基盤は、私の存在を疎ましく思っていやしないだろうか。

「ねえ。基盤。基盤はさ――聞いてる? 基盤」

「聞いてる。でも聞き辛い。並んで歩けよ」

「だって基盤はせかせか歩いてくもの」

 私は少し小走り気味になって基盤に駆け寄る。

「基盤はさ、あんまり他の人と、こうやって歩いたりしてるところって見ないよね。昔から」

「んなこたねえし。歩いてる時は歩いてるし」

「そう?」私は、基盤が適当にものを言ってやしないか、表情を仔細に窺う。「基盤は私といるの、楽しい?」

「楽ではあるんじゃねえの? 分からん。それこそ昔からの事なんだし」こうもそっけないのだ。やんなってしまう。

「そう言えばさ。聞いてよ。びっくりしちゃった事があるの。昨日」昨日、部活の先輩から告白されたの。あまりにも突然の事で、驚きを隠せなかった。「なんだかその人、私が描く油絵のファンになっちゃったみたいで、ちょっと大袈裟なくらい褒めてくれるんだ。絵の出来栄えをさ」褒められて、私は素直に嬉しかったから、「今度、その人のアトリエで暫く共同制作する事になるかもしれない。冬のコンクールに向けて、誘われてるの」基盤はどう思うのだろうか。「その先輩だって、大した腕前の人なのよ。油絵の技術はからっきしみたいだけど、驚くほど水彩画が上手なの。まるで濃淡の具合を計算しているよう」黙って話を聞いているだけなのだろうか。「私、水彩画ってものにはずっと苦手意識があったから、この機会に勉強させて貰えたらって、思うところはあるんだな」引き留められたら、いま直ぐにでも思い直せる。「返事は、まだうやむやになっちゃってるけど、急な話で、そんなに直ぐには決められない事だし」基盤は―基盤は何も返事をしない。正面を向いて歩き続けた。

 私は、愚かしい。気が付けば、私は必死になって、基盤が私の事を好きでいてくれているという根拠を探していた。

「ごめん、なんか、つまらない話してたよね」

 いつの間にか私の頬を涙が伝っていた。木枯らしの冷たさを受けて初めて気付いた。いつから泣いていたのだろう。私は。

「俺は、壁だ」基盤が言った。「いずれ俺がお前を囲う壁になる事もある」何かの条文でも読み上げるかのように、基盤の唇が動いた。

「俺の作る防壁は、俺の平穏だけを守る砦だ。俺にはこの砦の中で人生を終える決意がある。だけど、俺の傍にいてくれるかもしれない人を巻き添えにはでいない。これは戒めだ。俺を困らせるな。戒めは絶対だ」

 基盤が私の顔を見る。基盤の鋭い眼光が私を突き刺す。私はその眼を知っている。基盤が他の全てを省みない時に見せる、冷たい眼光。手を伸ばし、私の頬に親指を添えて、涙の跡をなぞるように……。

 次の瞬間、私と基盤の間に、巨大な壁が現れていた。目の前の風景が歪む。空間が縺れて絡まり、透明な波紋の膜を揺らして、斜陽が闇の中で濁る。

 人と人との関わりは隔たり越しだ。隣にいても、同じ場所にいるわけじゃないし、いつまでも同じ場所にはいられない。お前にはお前の進む先がある。

 壁の向こうから基盤の声が聞こえた気がした。

 突然の既視感が私を襲う。

「人と人との関わりは隔たり越しだ。いつも顔を突き合わせてようが、必ずあいだに一枚壁が挟まる。俺とお前が必ずしも同じ場所にいるわけじゃないし、いつまでも同じ場所にはいられない。鹿島には鹿島の進む先がある」

 中学三年生の時だ。雨が降ったんだ。夕立だ。基盤は私が雨に濡れぬよう、私の頭上に防壁を展開した。傍には紫陽花が咲いていた。あの紫陽花は、これからもう二度と雨水を浴びる事ができなくなってしまったかもしれない。基盤は省みない。そして、初めて基盤の部屋を訪れたのだ。

 中学最後の一年。受験生だった。基盤は、進学先を地元の公立校ではなく、他県の進学校を第一希望に据えると言った。基盤の部屋にはそのための参考書が乱雑に散らばっていた。

 私はなぜかと訊ねた。

 基盤は、理由を答えあぐねた。地元が窮屈だからとか、適当な言い訳を並べて私の気持ちを煙に巻いた。基盤芳典という人間は、自分勝手で主義主張のためなら他の全てを省みない。私は、そんな基盤の傍に居させて欲しかった。基盤が傍にいて欲しかった。いつしか私は、永劫にも近しい夕闇の時間の中で、先を歩く基盤の背中を追い続けていた。

「私は、私と基盤との間を隔てるこの壁をいつか壊して見せるから、今は遮られたって構わないから、だから、お願いだから、壁の向こう側には、必ず基盤が居なきゃ、駄目だから」

 防壁は、心の隔たりだ。八年間の歳月がもたらした軋轢と隔たりに、私はようやく直に触れられる事ができた。

 気付けば、私は私の目に見えるこの隔たりと、この手が確かめられる感触を頼りに、私の目の前に立ち開かるこの壁が、本当の意味での壁なんかじゃなくて、今はまだ継ぎ目が見つからないだけの、固く閉ざされた扉である可能性を探している。


(stand in front of..., is END)

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