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「急に付き合わせちゃって、悪かったわね」


 街の中心から少し離れたところにある、外資系高級ホテル。そこの貸会議室を出るなり新山部長が申し訳なさそうに言ったので、私は慌てて首を横に振った。今日は関連会社が主催しているコンプライアンスに関する研修会が行われていて、これには部長ともう一名が参加する予定になっていた。でもそのもう一名が体調不良で欠勤してしまったので、急遽空いた参加枠に私が穴埋めという形で入り込んだのだ。


「いい勉強になりましたし、逆にお供させてもらえて有難かったくらいです。こういう機会があると、意識も高まりますし」


 昨夜寝るのが遅くなったせいで眠気と戦うのに必死だった時間帯があったことは確かだけれど、一社会人として大事なことを得られたと感じたのは本当だ。だからその辺の心情を素直に伝えると、新山部長は、真面目なのね、と苦笑した。


「まあ、あなたと二人きりで話したいこともあったし、ちょうど良かったかもしれないわね。帆高さん、何か食べたいものはある?」


 そう聞かれて考えを巡らせる。今夜は都倉さんと夕食の約束があるから、お昼は少し控えめにしておきたい。食べる量を減らすか、カロリーの低いものをしっかり食べるか……どちらにしようか迷っていると、ふと部長の表情が曇った。


「ちょっと確認しておきたいんだけれど」

「え、あ、はい」

「玲に、何か……無茶なことはさせられていない、わよね?」


 言葉を一つずつ選び取りながらの、かなり気遣われていることが手に取るように分かる質問に、私は眉根を寄せて首を傾げた。


「無茶、っていうのは……?」

「……ごめんなさい、こんな人の往来のある所で聞くことじゃなかったわ。近くにいいお店があるから、ランチはそこでとりましょう」


 新山部長は、脇を通り過ぎていくスーツ姿の人波を気にしながらそう言葉を濁すと、私に背を向けてエレベーターの方へと歩き出した。部長の言わんとしたことをうまく汲み取れず、私はハテナのマークを頭の中にたくさん浮かべながらも、慌ててその後に付いて行った。


「――お待たせいたしました」


 店員さんの落ち着いた声がおいしそうな香りと共に降りてきて、私はそちらの方に顔を向けた。

 新山部長に連れられてやってきたのは、オーガニックカフェだった。ペンキが雑に塗り上げられた板壁や、店内に置かれているイスやテーブルが不ぞろいだったりするところがシャビーな雰囲気を演出している。飾られている小物も手づくり感があってとても可愛らしく、こういうインテリアも女子力が高めで素敵かもしれない、なんて思いながら、テーブルに置かれた料理に目を落とした。

 迷った挙句私が注文したのは、小麦粉を使わないスパイスだけの豆カレーだ。ボリュームたっぷりのチキンサラダや十六穀米のご飯もついていて、栄養価は高い。食生活には気をつかった方がいい、という高宮さんの言葉を思い出した私は、量は減らさずしっかり食べるという選択肢を取ったのだった。


「部長、よくここに来られるんですか?」

「そうねえ……」


 私と同じものを頼んだ部長は、箸を取り上げながら少し考えるようにして首を傾げた。


「私は一度来たことがあるくらいかしら。鈴音がこういうお店をよく知っていて、つい先日教えてもらったばかりなのよ」

「ああ……何だか分かる気がします。奥平さん、こういうところ好きそうな雰囲気ですよね」

「あら、昔はあの子も私と一緒でジャンキーなものばかり好んで食べていたのよ? だけど最近はこういう優しい食べ物が体に合うようになっちゃって……ホント、二人とも歳を取ったなあって感じたわ」


 年齢を重ねることに嘆きながらも苦笑する新山部長に、私も笑顔を浮かべて応えると、そっとスプーンを手に取った。

 個室とまでは言えない、ただパーテーションで区切られた席に、私と部長は向かい合って座っていた。ランチタイムのピークを少し過ぎた時間帯だったためか、お客さんはそれほど入っておらず、静かな店内に流れるヒーリングミュージックが心地よさを感じさせてくれていた。

 喧騒の中で慌てて掻き込むのではなく、こうやって落ち着いた空間で摂る食事は、正しい形で体に栄養を行き渡らせてくれそうな気がする。毎日は無理でも、時間が取れる時はなるべくこんな食事を心がけよう、なんて考えながら、私はスパイスの効いたカレーに舌鼓を打っていた。


「それで……さっきの話の続きだけれど」


 一旦箸を置き、炭酸水の入ったグラスに手を伸ばしながら部長が話を切り出した。聞く姿勢を取るためにスプーンを置きかけたところで、そのまま食べ続けて構わないと手の合図だけで促される。私は少し迷いながらもカレーを一さじ掬い、口へと運んだ。


「昨日、玲と会った時に釘を刺しておいたのよ。仕事を休まなくちゃならない程の負担を与えたら承知しないって」


 這ってでも出社させる、と新山部長が言ったのは、急な欠勤をした過去のある私に対する念押しではなくて、都倉さんへのけん制だったようだ。私に大変な思いをさせたくないという都倉さんの弱みにつけこもうとした結果、あんな強い言葉になったということなんだろう。


「明日……今日のことね、何があろうと帆高さんは出社させるからそのつもりで扱いなさいって言ったんだけれど」


 部長はそこで一旦言葉を区切ると、険しい表情で私を見つめた。


「顔色が良くない」

「えっ」

「声も掠れてる」

「う、うそ」

「仲村さんも気にかけていたわよ、覇気がないのはいつものことだけれど、今日はそれ以上だって」


 覇気がないとか悪口にしか聞こえない部分は置いておくとして、今朝珍しく仲村さんが私に濃い目のコーヒーを出してくれたことを思い出した。もののついでだから、と言っていたからそこまで気にしなかったけれど、どうやらあれは元気のない私に気遣ってくれていたらしい。


「余計な心配かけてすみません。昨日ちょっと部屋の片づけに没頭しちゃって、寝るのがすっかり遅くなったんです」


 別日にずらせば良かったものを、今やる気のある内に進めておきたいとゴリ押ししたのは私の一存だ。確かに都倉さんにも一因があったりするとは言え、それが全ての原因というわけじゃない。

 そんな背景を部長に伝えるつもりでそう言ったけれど、部長は呆れたようにため息をこぼした。


「玲に関しては後日ギッチリ締めあげておくとして……帆高さん、あなたにも良くない兆候が出ているようね」


 締めあげられている様子を想像してちょっと緩みそうになった頬が、部長の声音や言葉の厳しさによって引き締められる。

 注意を受ける時の空気感を察知した私は、食べ進めていた手を止め、スプーンを置いて背筋を少し伸ばすと、椅子に深く座り直した。


「ヴァンパイアは人心を操ることに長けた種族よ。彼らは見た目の美しさに加えて、赤瞳の催眠効果で人の心を強く惹きつけるの。それはあなたもよく知っているわよね?」

「……」


 部長の問いかけにうなずいたその体勢のまま、私はぱちぱちとまつげを瞬かせた。触れたくない、とまではいかないけれど、なんとなく目を向けまいとしてきた箇所を抉られたような気がして、呼吸が少し乱れる。

 その様子に気付いたのか、部長は慌てて、勘違いしないで、と言葉を続けた。


「あなたの思いが、ヴァンパイアである玲の能力によって作られたものだと言っているわけじゃないのよ。そもそも、人間の側にその気がなければ赤瞳は何の意味もなさないんだし」

「え……そうなんですか?」

「万人に効果がある代物なら、今頃世の中はヴァンパイアが支配していたでしょうね」


 笑いを含んで茶化すようにそう言った部長に、私も口元を緩ませた。

 ずっと気にはなっていたのだ。もしかしたら私が都倉さんを好きになったのは、あの瞳を見てしまったせいなんじゃないかと。

 自分の気持ちを素直に認められなくてずっと二の足を踏んでいたのは、都倉さんの求める関係性に準じ続けたいという思いからだけじゃなく、そういった可能性があることをはっきり否定できなかったからでもあった。


「ただ、注意しておかなくちゃいけないのは確かよ。人の機微を自然に正しく読み取って受け入れてしまうタイプのあなたは、ヴァンパイアの能力と相性が良すぎる。良くも悪くも影響を受けやすいから、赤瞳だけじゃなくて声色や触れられた感覚からも催眠にかかる可能性があるの」


 その言葉に、昨日の自分がやたらと従順だったのはそのせいだったかと、ようやく得心がいった。都倉さんの赤い瞳を見た時のようだと感じていたけれど、あの感覚は気のせいではなかったようだ。


「何か、対策はないんでしょうか」


 都倉さんに従いたくなるのは私がちゃんと都倉さんを好きだからだという点においては安心できたけれど、あんな状態が会うたびに続くのは健全じゃないし精神的にもつらいものがある。そう思って、縋るような気持ちで部長に問いかけた。


「瞳の色が変わり始めたら目を逸らす、とかはできるんですけど……。日常のやりとりでも催眠にかかってしまうのは、何と言うか、リスクがあると思うんです。だから……後悔するようなことが起きる前に、手を打っておきたいなと」


 ゆうべ既にそういう事態に陥ったことは伏せたけれど、部長は何となく私の現状を察したようで、真剣な表情を浮かべて視線をわずかに下へ落とした。


「これは個人の性質に依るところが大きいから、何とも言い難いわね。慣れてくれば、その辺の気持ちのコントロールもできるようになるとは思うけれど……今は強気で対応することを意識するしか」

「強気で、ですか……」

「あとは、そうね。新月の夜には会わないようにするのも大事よ」


 急に方向性の違う具体的なアドバイスを受けて、私は思わず首を傾げた。


「ヴァンパイアの能力が月の波動に大きく影響されることは、生物学的にも立証されているの。よく晴れた満月の夜には外出することすらやめてしまう者もいるのよ。彼らの言葉を借りて言えば、月が見ていると狩りができない、ということらしいわ」

「ライカンスロープとはまた違うということですか?」

「そう、全くの逆。ヴァンパイアが真価を発揮できるのは、昨夜のような新月の夜なのよ」 


 部長はそう言うと、再び大きなため息を吐き出した。


「だから昨日、早めに帰らせるように言ったのよ。自分の能力の制御だってままならない状態のくせに私の忠告を無視するなんて……ほんっと、バカが過ぎるんだから!」


 苛立ちをはっきりと言葉に乗せるその様子に、私は瞠目して部長をじっと見つめた。

 新山部長は、社内では厳しい、怖い、というイメージがあるみたいだけれど、ひどい失態を犯した部下を叱る時でも、口調や表情は冷静沈着そのものだ。こんなに感情を前面に押し出す姿を見たことなんて今までなかったから、少し驚いてしまったのだ。


「……部長も、怒るんですね」

「そりゃ私だって怒ることも……ちょっと、何なの急に」


 無意識に呟いた私の言葉に、部長は怪訝な顔でそう言い返す。意図していなかったとはいえずいぶん失礼な物言いをしてしまったことに気付いた私は、ハッとして慌てて頭を下げた。


「すっ、すみません! 何があってもいつも落ち着いていらっしゃるから、何て言うか……そういう顔を見たのは初めてだなと思って」


 素直な感想を伝えると、部長はきまりが悪そうに視線を横に滑らせてから咳ばらいをして場の空気をリセットした。


「とにかく、あなたは気をしっかり持つように。玲のために何かしてあげようなんて考えはつけ入らせる隙を作るようなものだから、控えた方がいいわ。逆に自分の都合で振り回すくらいの気持ちで接しなさい」

「振り回すって……私が都倉さんを、ですか」

「あなたがそんな振る舞いをするところは想像もできないけれど……まあ、頑張ってちょうだい」


 人に流されて振り回されるのはほとんど自然体でできるけれど、悲しいかな今まで生きてきた中で逆の立場を経験したことは一度もない。

 わがままの権化みたいなあの人を自分の都合で故意に振り回すなんて、何をどうやればいいのか皆目見当がつかなくて、私は与えられた課題のあまりの難しさに頭を抱えるしかなかった。







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朔望のしずく~ある吸血鬼との浪漫的人生譚 よつま つき子 @yotsuma_H

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