(3)※




 空にたなびく雲はラベンダー色に染まっている。ベイエリアにある大きな公園の海沿いのデッキでは、トワイライトタイムというムード感いっぱいの時間を楽しむカップル達があちこちで寄り添って座ったり、手をつないで歩いたりしていた。私も都倉さんに手を引かれて歩きながら、自分たちも周りからはあんな風に見えているのかと思うと、何だか不思議な気持ちになった。


「どうした、浮かない顔をして」


 ふと立ち止まった都倉さんに覗き込まれ、どきりとする。夕暮れの青紫の光が瞳に流れているのが分かるくらいの至近距離で見つめられるのはまだ慣れなくて、全身の血液が顔に集まってきているんじゃないかと思えるほど頬が熱くなった。


「あちこち連れ回したから、疲れさせてしまったかな」

「い、いえ、大丈夫です。映画はすごくおもしろかったし、楽しい時間ってあっという間に過ぎるんだなって、ちょっと感傷に浸ってました」


 この距離感が恥ずかしいと思っているのに、もっと近づきたいという正反対の感情も同時に湧きあがってきていて、それもまた恥ずかしい。いろいろごちゃまぜになった恥ずかしい感情を隠して何とか取り繕ったつもりだったけれど、都倉さんはふっと意地悪な笑みを浮かべた。


「……違うことを考えているだろう」

「えっ」

「当てようか」


 何を、と言いかけて、都倉さんの唇に塞がれてしまう。たった一瞬触れただけのキスに私の体はまるで電気が走ったかのように反応し、心もそれに従って大きく波打った。


「わ、私、こんなこと考えていたわけじゃ」

「何でもいいよ。ただ私がキスしたかっただけだ」


 都倉さんはそう言って私の頭を撫でると、デッキと海を分断するように立ち並んでいる手すりの方へ足を向けた。

 海を跨いで街と街をつなぐ大きな連絡橋は、時間帯が早いこともあってライトアップした姿はまだ見られない。それでも、群青の空を背景にしたその佇まいはどこか幻想的で、思わず見入ってしまうほど綺麗だった。


「あ、そう言えば」


 ずっと気になっていて、結局今まで聞けずじまいでいたことを思い出した私は、隣で立ち止まった都倉さんを見上げた。


「都倉さん、昨夜はどうして別宅の方にいたんですか?」


 ここ数日は体調のこともあって、自宅の方にこもりきりになっていると新山部長から聞いていた。にも関わらず、一人きりであそこにいたのは何か理由があるはずだと思っていたのだ。


「身辺整理をするつもりだったんだ」

「……身辺、整理」

「いつどうなるか分からない状態だったからな。周りを困らせない位には片づけを済ませておこうかと」


 余計なことを聞いてしまったのかもしれない。何となくそう感じた私は、都倉さんの顔をまっすぐ見つめることができなくなって、視線を少しだけ下へとずらした。


「自分で言うのもなんだが、私にはそれなりに資産がある。有形無形問わず、全てを君に相続してもらおうと思っていたんだが」

「えっ……」

「普通の人間の手に負えるものではないと、紫藤に止められた。できるだけ社会に貢献できるような形にするというところに落ち着きはしたが、やはり君にも何か遺したくてね」


 都倉さんは手すりに肘を乗せて体重を預けると、遠くを眺めながら小さく息をついた。


「君の負担にならず、現実的で常にそばに置いてもらえるようなものがいいと思った。だからあの別宅に、君のためのものを色々と揃えていたんだよ」

「私のためのもの……」


 その言葉を受けて、私はふと自分の足元に目を落とした。ワンピースのスカート部分が海風に撫でられて柔らかく揺れ、街灯の光を吸い込んでブーツが淡い光沢を放っている。その様子を少しの間見つめてから、私は弾かれたように顔を上げた。


「じゃあもしかして……この服や靴は」


 驚きで声を上ずらせながらそう言うと、都倉さんはいたずらっぽく微笑みながらうなずいた。


「それだけじゃない。家具や家電、インテリアも全て新しいものを手配済みだ」

「うそ!」

「本当だとも。明日くらいからいろいろと届き始めると思うから、楽しみにするといい」


 楽しそうにそう話す都倉さんの様子とは裏腹に、私の方はもう声すら出すことができなかった。都倉さんが本気で死ぬつもりだったという事実を、改めて突きつけられたような気がしたのだ。

 私は風の冷たさを感じたせいではない体の震えを覚え、自分を抱きしめるように腕を組んだ。


「遺産と呼べるほどのものでもないし、夢もないが……それでも日々君の役に立つことができる。それに」

「……?」

「いつか壊れて手放す時が来るだろう。それと同じくして少しずつ、私という存在を君も忘れていってくれればいいと思っていた」


 ここは黙るべきじゃないってことは分かっている。だけど、ふと訪れた静寂を穏やかに埋められる言葉なんて、今の私に浮かぶはずもなくて。

 手すりに乗せられた都倉さんの少し冷たい手に、自分のそれを重ねるようにして包み込むと、都倉さんは少し驚いたように目を見開いて私を見下ろした。

 私のためにありがとう、とは言えなかった。私のせいでごめんなさい、というのも違う気がした。都倉さんの強い覚悟に対して湧き上がったのは、嬉しさや悲しさなんていうはっきりした感情じゃない。それでも私の心はこみ上げるものを必死で抑えつけなければならないほど、強く揺さぶられていた。


「今日、本当に楽しかったです」

「……ああ、私もだ」

「また映画、見に行きましょうね」

「そう、だな」

「あ、まだ返事をもらってなかったですけど、パエリアの作り方も教えてくださいね?」

「……」


 唐突な私の提案に、都倉さんは一瞬戸惑ったように眉を寄せたけれど、すぐにそれを受け入れる返事をしてくれた。

 心に揺蕩うこの思いが何なのか、たぶん言葉として説明できる日が来ることはないだろう。ただ、生きていてほしいと強く思った。今は私のためにという名目で構わない、だけどそこから少しずつ、自分のために生きるということを思い出してほしい。それまでは、私が都倉さんのために生きよう。

 私が選んだ道の先に、そんな一つの目標がポツリと灯った気がした。







 別宅のマンションに寄って、回収した洗濯物を乾かしておいたバッグに詰め直し、部屋を出る準備をすっかり終えた私は、こぼれそうになるため息を飲み込むという作業を繰り返していた。


「都倉さん、ってば。これじゃ私帰りにくいですよ」


 リビングのソファに座ってそっぽを向く都倉さん。夕食を食べに出ようというのお誘いを断ったのは、母の遺品整理を少しでも進めておきたかったからだ。今日こそは、今日こそはでズルズル引き延ばしてこれ以上放っておくと、手をつけずに今年が終わってしまうのは目に見えている。とりあえず今夜は引っ張り出すだけでもやっておいて、整理を終わらせなきゃ部屋が片付かない、という状況にさえしておけば後は明日以降の自分が頑張ってくれるはず、そう思っての判断だった。


「私だって一緒に夕飯食べたいと思ってます。でも、これ以上帰るのが遅くなったら明日に響いてしまうから」

「理恵に這ってでも出社しろと言われたのが気になっているのか? それなら、今から私が彼女に連絡してやろう」

「それはだめです!」


 新山部長の私への信頼はただでさえ危ういところにあるというのに、そんなことをしてしまったら完全に崩れ落ちてしまう。これから基礎固めを始めようという段階で、先行き不安定な状態にするのだけは避けなければ。


「だったら、遺品整理を明日に回すとか」

「そしたら私、半年は放置しちゃうと思います」

「わけの分からないところで急に頑固になるのは、仁哉に本当にそっくりだな……」


 どうしても譲ろうとしない私の態度に、都倉さんはポツリと呆れたようにそう言うと、ソファのひじ掛けに腕を載せて大きなため息をついた。

 わけの分からないところじゃない、これは私にとっては重要なところだ。拗ねたような子どもっぽい表情がかわいい、なんて心を掴まれてしまっているのは確かだけれど、だからと言ってほだされて折れてあげるわけにはいかない。

 ただ、不貞腐れた状態の都倉さんを放って帰れば、きっと気になって片付けなんて手に付かなくなるだろう。スッキリした気持ちで臨みたいなら、ここは別の手段で機嫌を直してもらうしかない、そう思った私は、都倉さんの隣に腰掛け、首を傾げて顔を覗き込んだ。


「夕飯、明日までのお楽しみにしちゃだめですか?」


 今日の内に楽しいことを全部詰め込まなくても、明日まで引き延ばせばその分長く楽しい気分に浸れる、という思いを込めてそう尋ねてみた。なるべく下手したてから出てこれ以上気分を害さないように、というのを意識したのが良かったのか、都倉さんはしばらく私を見つめてから、観念したかのようにがっくりとうなだれて大きくため息をついた。


「そんな風に言われたら、だめだと言えなくなってしまうじゃないか……」


 それが狙いです、とは口が裂けても言えない。私は黙ったまま、苦笑いを浮かべた。


「仕方ない。今日のところはあきらめて、また明日にしよう」

「……はいっ」


 昨夜からずっとやり込められっぱなしだったこともあってか、何だか都倉さんに勝てたような気がして、思わずガッツポーズをしそうになる両手を抑え込む。


「じゃあ明日、仕事が終わったら連絡しますね」

「いや、ここに直行してくれればいい。待っているから」

「ここに、ですか?」

「さっき言っただろう、明日からこの部屋に家具やなんかが届くと」


 都倉さんはその受け取りや設置で一日ここにこもるつもりらしい。

 明日は仕事中も近いところにいられるんだと思いついた途端、私の頬はだらしなく緩んだ。


「た、楽しみですね! 新しいものが届くのって、すごくワクワクします」


 ついにやけてしまった理由を探られないように慌ててそう誤魔化すと、都倉さんは何も疑うことなく、そうだな、と同調してくれた。


「君のお眼鏡にかなうといいんだが」

「都倉さんが選んだものなら素敵に決まってます。まだ何も見てないですけど、今の時点で気に入る自信がありますよ」


 私が力強くそう言うと、都倉さんは可笑しそうに肩を揺らして笑った。

 どうやらご機嫌取りの作戦は上手くいったみたいだ。明日も会う約束ができたし、私にとって全てがいい方向に向かってくれた。これで心置きなく帰れるし、明日の楽しみを糧に今夜の作業はきっとはかどるだろう。そんな風に思って腰を上げかけた時だった。


「咲葵」


 名前を呼ばれてそちらに顔を向けると、都倉さんの手がこちらに伸びてきた。


「送って行かなくていいのか」


 指先が髪を滑っていく。私はその感覚に、一瞬にしてからめとられそうになりながらも、ぎこちなくうなずいて答えた。


「私は、もう少し一緒にいたいと思っているんだが」


 まずい、と思った。この触れ方は発展させちゃだめなやつだ、そう感じて少しだけ距離を取ろうとしたところを、腕を掴まれて強引に引き戻されてしまった。


「嫌なのか?」

「そんなわけ、ない、です」


 ずっとこうして撫でてもらえるなら犬になるのも悪くないかもしれない、なんて倒錯的な思いつきをしてしまうくらいには心地いいと感じている。だけど。


「もう、帰らなきゃ」

「あと5分だけ」

「……」


 熱っぽい視線で攻められて傾いてしまいそうになったところを、気力を振り絞ってなんとか立て直しつつ、私は首を横に振った。


「今から出ればちょうど電車の到着時間に間に合うんです。だから」

「一本遅らせればいい」


 そんな風に囁かれて、つい誘惑に抗えず身を任せてしまう。その隙を見逃さなかった都倉さんによって、私の上半身はソファに沈められてしまった。


「と、都倉さ」

「咲葵。今日起きてから君は私の事を、名前で呼んだ記憶はあるか?」

「えっ……」


 急にそう尋ねられ、頭を必死に巡らせる私の様子を、都倉さんは意地悪な微笑みを浮かべながら見下ろしていた。


「ない、ような……あるような」

「曖昧に答えるんじゃない。分かっているくせに」


 都倉さんの言う通りだ。考えるまでもなく、私は都倉さんを”都倉さん”としか呼んでいない。

 やっぱり呼び慣れないし、そこに気を回せるほど余裕だってなかった。その点については特に触れてこなかったから、受け入れてくれているものだと思っていたのだけれど。


「昨夜は何度も、あんなに情熱的に呼んでくれただろう」

「じょ、情熱的って……そういう風に言うのやめて下さい」

「官能的、の方が良かったか」

「なおさら嫌です!」


 勢いで体を起こしかけたところを、肩を押さえられて再び背中は座面に戻っていく。都倉さんは私に覆いかぶさったまま、ゆっくりと唇を耳元に寄せた。


「なるほど、そうか。ベッドの上でなら素直に呼んでくれるんだな」

「はっ!? な、なんでいきなりそんな解釈をするんですか……!」

「それなら外ではこれまで通りで構わない。その代わり」


 スカートに覆われていたはずのひざの辺りに、ひやりとした感触が落ちてきて、私はびくりと肩を弾ませた。


「こういう時はちゃんと呼べるよう、練習しておこう」

「ちょっ……」


 その感触はまるで目標地点があるかのように、じっくりと上へと昇っていて、私は身を捩らせてこの体勢から抜け出そうとした。


「やだやだやだ、都倉さん! 私、もう帰るって言ってるじゃないですか!」

「昨日も言ったが、呼んでくれるまでやめないぞ」

「呼んだら呼んだで、またエスカレートするんでしょう!」


 その手には乗らないという意思表示のつもりで反論すると、都倉さんは少し体を起こして私をじっと見下ろした。


「よく分かっているじゃないか。どちらにしろ君は、私の求めに応じるほかないということだ」

「卑怯すぎる!」

「何とでも言え。むやみに焦らした君が悪い」


 理不尽な物言いに湧き上がってきた抗議の言葉が、深い口づけに飲み込まれていく。

 力いっぱい押さえつけられているわけじゃないし、顔を背ければこのキスからも逃れられるだろう。頭の中ではこの状況から抜け出す手順が幾通りも浮かんでいるのに、なぜか心身はそれに賛同してくれない。

 自分の意志とは裏腹に全て受け入れてしまいたくなるこの感じは、都倉さんの赤い瞳を見つめた時と似ていると思った。今だけじゃない、今日はずっとそんな感覚が何となく続いているような気がする。もっと自分の意志で、自分の考えで振る舞える場面はいくつもあったはずなのに、なぜか私は都倉さんの言葉や表情、視線に支配され、従ってしまっていた。


「……降参するか?」


 大人しくなった私に、都倉さんがからかうようにそう尋ねた。



「――玲」


 手を伸ばし、その頬にそっと当てる。本心から望んでこんな風に誘うような行動をとっているのか、自分にも分からない。ただもう触れたいというこの衝動に抗う術を私は持たなかった。


「咲葵、もう一度」

「玲……」


 望むなら、何度でも。そんな思いで再びその名を口にする。手のひらに押し当てられた唇が私の口をもう一度塞ぐのに、そう時間は掛からなかった。







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