(2)
どこに行きたいかと聞かれたから、最新のアクション映画を見に行きたいと答えたはずだったのだけれど。
「髪は毛先の長さを整えるくらいにしておいてくれ。巻くのは構わないがパーマはかけるなよ。カラーリングもだめだ」
「はい」
「あとメイクは過剰にならないように、特に目元はあまり触らないでほしい。魅力が半減してしまうからな」
「かしこまりました」
中心街の中でもいわゆるセレブリティな人々が行き交う通りにある、小ぢんまりとしたサロン。私はその奥の個室に押し込まれ、やたら座り心地のいいスタイリングチェアに座らされていた。
「あ、あの、都倉さん、これは一体……」
「髪を整えていないだの、メイクが済んでいないだのと騒いだのは君だろう。私はそのままで充分きれいだと言ったのに」
確かに仕度が終わっていないとは言った。でもそれはマンションに引き返してほしいという気持ちを表しただけのことであって、こんな高級そうなサロンで本格的にスタイリングしてもらいたかったわけではないのだ。
「ではすぐに取り掛かりましょう。店内でお待ちになりますか?」
「いや、私は少し人と会ってくる。一時間しないくらいで戻るつもりだが、それまでに終わらせられるか」
「お任せ下さい」
都倉さんは私の耳元に唇を寄せて、また後で、と囁くと、そのままスタッフの女性と話しながら部屋を出て行ってしまった。
「……」
一人残された室内で、鏡に映った自分と少しの間見つめ合う。一体何がどうなっているのか、どうしてこうなったのか。そんな風に頭を巡らせながら何となく足元へ視線を落とした時、お行儀よく並ぶワンピースのプリーツと、革の光沢がきれいなショートブーツが目に入り、ハッと我に返った私は慌てて椅子から立ち上がった。
「帆高様、どちらへ行かれるのですか?」
部屋のドアを開けると、先ほどの女性が柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
「すみません、髪のセットもメイクも結構です。私、都倉さんにそう伝えてきますので」
すでに服も靴も用意してもらったのに、これ以上は分不相応だ。そう思ってこの過剰な待遇を辞退しようとしたのだけれど、彼女は私を部屋から出すつもりはないらしく、私の前に立ちはだかったまま微動だにしなかった。
「どうぞ、お座りくださいませ」
「いや……あの、ですから」
「すでに代金は頂戴しておりますし、拒否するようであれば椅子に縛り付けて構わない、とのご用命を受けております。お戻り頂けないとなるとそれなりの対応をいたしますが、よろしゅうございますか?」
よろしいわけがない。優しい笑顔とは裏腹なその言葉にゾッとして後ろに下がると、彼女は私が下がったぶん前に進み出た。
「都倉様は、わたくしが不遇な扱いを受けていたところを拾って下さった上、サロンを開くという夢の手助けまでして下さいました。つまり、彼には返しきれない御恩がございます。……わたくしが何を申し上げたいか、お分かり頂けますね」
どうやら私は今、おかしな動きを見せれば”それなりの対応”をする、という脅しを受けているらしかった。でも、彼女はとても華奢だし動作もたおやかでゆっくりとしているから、とてもじゃないけれど乱暴な真似ができるようには見えない。実際に何かされたとしても、逃げるくらいならもしかしたら……。
「ご挨拶が遅れました。わたくし、
丁寧に頭を下げられ、私も慌てて挨拶を返した。
言いなりになるのは癪というか正直納得できないけれど、そんな必死で逃げ出すほどのことをされるわけでもないし、業務を履行できなければ高宮さんが都倉さんに叱られてしまうかもしれない。つまらない心情を押し通したせいで彼女に迷惑を掛ける方がよっぽど精神衛生上良くないと思った私は、背中をそっと押す力に抵抗することなく、スタイリングチェアへと戻った。
「あの、本当に簡単で構わないですからね。あんまりすごいことをされると私、落ち着かないというか」
「顔色が少し優れないようですね」
鏡越しに見つめながら私の言葉を遮ると、高宮さんは頬を指先でさらりと撫で上げた。
「お肌の調子は悪くないようですが……今後はもう少し食生活に気を配った方がいいかもしれません。ドナーが栄養不足では、レシピエントも満たされませんから」
その言葉に、驚いて目を見張る。私がドナーになることを受け入れたのは昨夜のことで、今のところそれは誰にも知られていないはず。それなのに、どうして……。
「都倉さんから、聞いたんですか?」
「いいえ」
高宮さんは首を横に振った。
「わたくしはライカンスロープという種族の亜人でして、人間よりも鼻が利くため、こういったことはすぐに分かってしまうのです」
「ええっ!?」
思いがけないカミングアウトに、私はつい素っ頓狂な声を上げてしまった。
ライカンスロープというのは狼人間のことで、普段は人間の姿をしているけれど、満月になると狂暴な狼に変身する、というのがよくある設定だ。姿かたちが変わるというのはフィクションの中だけのことらしく、当人を目の前にして分かる通り、実際は普通の人間とそう変わらない見た目をしている。だけど人間では太刀打ちできない位の腕力や脚力を秘めており、五感もとても鋭いのだそうだ。
「満月の影響を受ければ身体能力はさらに増幅します。心もかなり開放的になりますので、狂暴性が増すという点では、フィクションの設定もあながち間違いではないといえますね」
「じ、じゃあ高宮さんも、満月の夜にはめちゃくちゃ強くなっちゃうんですか……?」
「仰る通りです。月のない今の状態でも、人間の男性くらいなら片手でひねり上げる自信はございますが」
「……」
今の話を聞いた後では、こんな細腕の女性が乱暴なことなんてしないはず、とは思えない。私は口を引き結んで背筋を伸ばし、抵抗するつもりはないことをアピールした。
◇
せっかくスタイリングしてもらうのなら、プロの技を参考にしたい。そんな私の要望を聞き入れてくれた高宮さんは、私が普段愛用しているメイクアイテムを用意してくれた。お客さんのどんな好みにも対応できるよう、サロン内にはあらゆるメイク道具を常備しているらしい。
高宮さんは手を動かしながら、時々私にコツを教えてくれたりしたけれど、時間があまりないこともあってかメイクのスピードがおそろしく速くて、ここはこう筆を動かして、と言われてもその動きを追い切れず、私の頭の中はハテナマークが並ぶばかりだった。
「これ、本当に私が普段使っているのと同じものでメイクしたんですよね?」
毛先の痛んでいる部分をカットして整えた髪をゆるく巻いてもらいながら、いつもの百倍はきれいに仕上がった自分の姿を呆けたように見つめる私に、高宮さんは苦笑しながらうなずいた。
「下地以外は同じですよ。チークも色味は違いますが同じメーカーのものです」
ファンデーションのノリが明らかに違うのは、丁寧なスキンケアをした後にいい下地を使ったからだとして、あとは自分が持っているものだけでこんなに雰囲気が変わるとは思ってもみなかった。普段、自分がいかにコスメをちゃんと使えていないかを突きつけられたようで、同じ女性としてちょっと情けない気持ちにもなったけれど、それ以上に高宮さんには尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
「今日はあまり時間がない中でしたので丁寧にお教えすることができませんでしたが、当サロンのウェブサイトでメイクのコツを動画にして公開しておりますので、良ければご覧になって下さい」
「はい、今日帰ったら絶対にチェックします」
それだけでなく、高宮さんは動画SNSで個人チャンネルも開設していて、手広くさまざまなテーマの動画をアップロードしているらしい。意外と先進的なんだなあと思いながら、そのSNSの方もフォローしておこうと思った。
「高宮チーフ、都倉様が」
ノックの音の後にそう声を掛けられ、高宮さんは軽く返事をすると、私の首元や肩を覆っていたタオル生地のクロスをそっと外した。
「さあ、参りましょうか」
くるりと回転したスタイリングチェアから降り、高宮さんが開けてくれたドアから外に出る。私を見るなり、都倉さんは満足そうに微笑んだ。
「相変わらず素晴らしい仕事ぶりだな。咲葵の自然な魅力を失わせることなく、更に底上げしてくるとは」
「お褒めにあずかり光栄です」
都倉さんの言葉に、高宮さんは穏やかな笑みを湛えたまま恭しくお辞儀をした。
「あの、高宮さん、ありがとうございました」
「こちらこそ、楽しい時間を過ごすことができました。またのご来店、心よりお待ちしております」
はっきり、はい、と答えたいところなのに、こんな高級サロンに気軽に来られるほど私には金銭的余裕はないことが残念で仕方なかった。高宮さんが言ったように楽しい時間を過ごせたのは確かだし、またぜひ会いたいとも思う。でもここはよくある社交辞令だと割り切って、複雑な気持ちを抱えたままではあったけれど、今のところは曖昧にうなずいておいた。
「行こうか」
「はい」
都倉さんが差し出した腕に照れることなく自然と手を置けたのは、きっと身なりをきちんと整えたせいもあるんだろう。人は見た目じゃ決まらなくても、見た目で気持ちが変わることは充分有り得るんだと思いながら、私は都倉さんのエスコートに従って通りを歩いた。
「複雑な気分だよ」
ふと呟いた都倉さんを見上げて首を傾げると、都倉さんは困ったような微笑みを浮かべて私をちらりと見やった。
「こうして美しい女性を連れて歩いていることを自慢したいが、君が誰か別の人間の目に触れるのが嫌で仕方ない。……気付いたか、今すれ違った男が君に見とれていたことに」
そう言われて振り返りそうになったところを、私のあご先に触れる都倉さんの指先が止めた。
「確認する必要はない。それとも、どんな奴だったのか気になるか?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
つい条件反射で見てしまっただけのことで、本当に他意はなかった。でもこちらを見下ろす鋭い眼光が、私が悪いことをしたんだと咎めているような気がして、
「ごめんなさい」
その必要がないのを分かっていながら、つい謝ってしまっていた。
「きっと気のせいですって。その人が目を引いたのは私じゃなくて、所作の素敵な都倉さんの方だったりするかもしれないじゃないですか」
少し悪くなった空気感を払おうと、わざと明るい声で茶化してみる。都倉さんは穏やかに微笑みながら首を振り、そんなわけはない、と呟いた。
「男が目をやるのはたいてい女性の方に決まっている。彼は間違いなく君を見て、おそらく何か良からぬことを」
「そ、そう言えば!」
何か不穏なことを口にしそうな予感がして、慌てて都倉さんの言葉を遮るように声を上げた。
「都倉さん、さっき誰かと会ってたんですよね?」
「ああ……理恵からLINEが来たんだ。私用でサロン近くのカフェにいると言うから、少し話してきた」
「理恵?」
聞きなれない名前に一瞬頭を巡らせてから、それが新山部長のファーストネームであることを思い出した私は、あっと声を上げて口元を抑えた。都倉さんのドナーになることを受け入れるか否か、答えを聞かせて欲しいと言われていたのを忘れていたことに気付いたのだ。
「全て私から説明しておいたし、君から連絡できる状況ではないことも話したから心配することはない。ただ」
「……え、何ですか?」
「明日は這ってでも出社するよう言っていた。会って話したいことがあるから、昼の休憩は空けておくようにと」
私が会社を休んだことなんて、母が亡くなってからはほとんどなかった。それは部長も分かっているはずなのに敢えてそう強めに指示したのは、やっぱり以前急に有給休暇をとったことが原因なのだろうか。金曜日の夜に二人で話した時、部長は私を信頼すると言ってくれたけれど、その辺についてはまた一からの積み重ねが必要なのかもしれない。
「気負うことはないからな。ドナーだというだけでなく、大切な君に無理はさせたくない」
気遣うようにそう言ってくれた都倉さんに、私は何を疑うことなく素直にうなずいた。
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