裏切りのシネマ

(1)




 目が覚めて隣に誰かがいるなんて、子どもの時以来だと思いながら、静かに寝息を立てる都倉さんの前髪を撫でる。カーテンの隙間から差し込む光は既に強く、時計を見なくてもずいぶん寝過ごしたんだということが分かった。

 起こしてしまわないようにそっと体の向きを変えたつもりだったけれど、その動きは腰に回された腕から伝わってしまったらしい。


「……どこに行く?」


 掠れた声でささやかれ、改めて抱きしめ直されてしまった。


「そろそろ起きようと思って」

「だめだ。もう少しこのまま……」

「でも外はこんなに明るいし、きっとお昼前にはなってますよ」

「いいから」


 後ろから耳元に押し当てられた唇が、ゆっくりと首筋を撫でていく。肩口まで降りていくその感覚に意識を持って行かれそうになるのをこらえ、私は身を捩って振り返ると、都倉さんの両頬を手で挟んだ。


「良くないです! 私、お腹すきました」

「色気のないことを言うなよ……」

「いまは色気より食い気です」


 頑なに食欲を優先させようとする態度に、都倉さんは、仕方ないな、と苦笑して私の額にそっと口づけた。


「……体調はどうですか」

「すこぶるいいよ。だから、今からもう一度」

「それはだめですってば」


 やっと解放された体を起こしてベッドから出ると、足元に落ちていたバスローブを羽織った。昨日のジムで頑張った結果なのか、それとは別の要因なのかは分からないけれど、体がものすごく重くて、立ち上がっただけで体中の関節が軋むようだ。


「歩けないようなら運ぼうか」

「だ、大丈夫、です」


 痛みに声を詰まらせながらもその申し出を断り、なんとか部屋を出る。

 今はまだ起きたばかりだからこんなだけど、少しずつでも体を動かしていればきっと痛みは和らいでいくはず。そう自分に言い聞かせながら足を引きずりつつ、まずは昨日乾燥機にかけたまま放置していた服や下着を洗濯し直そうと、ランドリールームへ向かった。


「う、わ……」


 洗濯機を回している間にシャワーを浴びようと、隣のバスルームに移動してバスローブを脱いだ途端、鏡に映った自分の姿に思わず声を上げてしまった。昨夜は何と言うか、いろいろと夢中だったこともあって気付かなかったけれど、思ったよりもあちこち噛みつかれていたらしく、肩口や胸元、腰のあたりにも噛み跡が広がっていた。特に胸元はそれなりにひどいアザになっていて、赤と青のコントラストが痛々しい。


「な、治るのかな、これ……」


 そう呟いて、とりあえず全身をくまなくチェックしていく。傷があるのは普段露出することのない箇所だけで、明日の仕事に来ていく服には困らなさそうだ。ただ、昨日のように芹香にフィットネスジムに行こうと誘われても、しばらくの間は断った方がいいだろうとは思った。

 筋肉痛と傷の痛みに耐えつつシャワーを浴びる。腕がだるくて力が入らない。満身創痍のなか体を洗うという作業は本当に大変で、ふだん健康でいられることはとても有難いことなんだとしみじみ感じた。

 バスルームから出ると、バスローブを置いていたはずのラックにはレース編みの何かがあり、そばの壁際には、細かいプリーツがきれいなグレーのニットワンピースがハンガーに掛けられてぶらさがっていた。

 たぶん、着替えがないことを察して都倉さんが用意してくれたんだろう。ワンピースはシンプルだけれどつくりが繊細で、アクセサリーなんかを付けなくても華やかに見えそうだ。ニット生地のおかげか気取った感じもなく、上品なのにカジュアルな雰囲気で、私でも抵抗なく着られそうなデザインだと感じた。とは言え、目地は細かく肌触りもとてもいいから、私が普段着ている高見えプチプライスの服とはケタが一つ違うだろうことは明らかだった。

 問題は、バスローブに取って代わって置かれているこの黒いレースの何かだ。嫌な予感を覚えつつ、そっと手に取ってみる。広げてみて、嫌な予感は予感ではなくなり現実のものとなったことを思い知った。レースのデザインはすごく綺麗なんだけれど、何しろ透けている。どこもかしこも透けている。肌をちゃんと隠してくれそうな布地と思われる箇所はなく、レースだけで構成されているから当然と言えば当然なんだろうけれど。


「……これ、着けるの……?」


 両手でそれをつまみ上げた体勢で呆然と立ち尽くしながら思った。服はともかく、都倉さんは下着のセンスはかなり悪いんだと。


「何を言っているんだ。そういうコンサバティブで大人しい雰囲気の服の下でこそ、攻めたデザインの下着が映えるんだろう」 


 都倉さんが作ってくれた、野菜の色どりが鮮やかなオープンオムレツを口に運びながら、そっちこそ何を言っているのかという思いを込めて都倉さんをまじまじと見つめた。


「映えるったって……誰に見せるものでもないでしょう」

「見せてどうのこうのというんじゃない、あれを隠しているという事実がいいんだよ。そしてそれを楽しめるのは私だけだというのもまた」

「真顔でそういう変態チックなこと言うのやめてもらえませんか」


 顔をしかめつつため息をつく私の何が面白いのか、都倉さんはおかしそうに肩を揺らしている。細身のニットワンピースは下着の線が出やすいから、そういうことがないように配慮をしてくれたんだと信じてバカ正直にあれを着けるんじゃなかったと、いつまでも笑いの止まらない都倉さんを見て思った。

 今洗っている自分のものが乾いたら、こっそり着替えよう。今日はいい天気だからどこかに行こうと私の方から誘ったけれど、こんなのを着けたまま外に出るなんて冗談じゃない。そんな風に考えていた私の脳内は、都倉さんにはきっちり見抜かれていたようで。


「その服に合うショートブーツも用意したんだが、履いてサイズを確認してくれないか」


 ブランチをとり終えてテーブルの上を片付けた後、都倉さんはあっという間に身支度を整えると、思い出したようにそう言った。サイズを確認するだけならと素直にブーツに足を通したのが運の尽き、私は自分の荷物を何一つ持たされないまま、都倉さんに手を引かれて部屋から連れ出されてしまった。


「ちょっと待って下さい! 出掛けるのは洗濯物が乾いてからでも」

「そんなのを待っていたら、デートの時間が短くなってしまうだろう」

「だけど」

「心配するな。あれを着けていることを知っているのは、君と私だけだ」


 そうささやかれ、一気に頬が紅潮する。


「……や、やっぱり私行きません!」

「何を今さら」


 抵抗もむなしくマンションのエレベーターに無理やり押し込まれ、そのまま私は街なかへと引きずり出されてしまった。







 街の中心からは少し離れた郊外にあるショッピングモールは、日曜日というだけあって人であふれ返っていた。

 若いカップルが腕を絡ませ合って歩き、小さな子どもが風船をもらってはしゃぎ回り、買い物に付き合わされて疲れ切った父親がベンチで休憩する。そんな光景があちこちで見られる中、浮かれた空気感にそぐわない黒い影が二つ、人々の間を縫うようにして歩いていた。


「どうですか、相沢は。お役に立てていますか」


 口ひげをたくわえた40代半ばの男性が、まっすぐ前を見たまま隣の人物にそう話しかける。


「ええ、よく働いてくれていますよ。昨夜も遅い時間に、有用な情報が入ったと報告がありましたし」


 振り返ることなく淡々とした口調で答えたのは、CRO中央局内務管理室長の結城次官だった。


「見た目も口調もああですが、意外と真面目だしタフなんですわ。遠慮なく存分にこき使ってやってくださいよ」


 そう誇らしげに話すのは、同じく中央局総合情報管理部長の仁科にしなだ。いわゆる現場組を最前線で束ねる仁科と、内務トップの結城。中央局内において現場と内務は対立関係にあり、こうして仲良く肩を並べて穏やかな会話ができる間柄ではないはずだった。


「やはり餅は餅屋といいますから。現場組を従えているあなたが協力的で、本当に助かりました」

遠野とおの次官には嫌な顔をされましたがね。本人のいないところでこんなことを言うのはなんですが、彼は頭が固い。もっと漸進的にならなくては組織は腐敗していくということが分かっていないんですよ」


 遠野次官というのは技術・情報管理室長のことで、仁科にとっては直属の上司にあたり、結城と同じ立場であることをあらわす”次官”を冠している。昔は次期局長を約束された席だったが、時代の流れによってそれは結城に奪われてしまい、その頃の確執を未だに取り除けないでいるらしい。中央局内での派閥争いが続いているのもそれが原因であることは明らかだったが、仁科はそのわだかまりを解き、組織の団結力をもっと上げるべきだと考えているようだった。


「その信念は僕も支持しますよ。ですが……うるさく口を挟んでくる輩もいるのでは?」

「初めの一歩を踏み出そうとする者に対する風当たりは、いつの時代も強いモンです。後押ししてくれる強力な同志がいれば、話は別ですが」


 そう言って仁科は結城を一瞥し、にやりと口の端を上げた。


「……変わった御仁ですね、あなたは」

「情報管理部の人間だからといって、亜人の事しか頭にない脳筋とは限りませんよ」


 休日を楽しむ人の流れに乗って、二人は上階へと上がっていく。たどり着いたのは、映画館のあるフロアだ。

 チケット売り場を通り過ぎ、客のごった返すコンセッションエリアへと近づいた仁科はその最後列には並ばず、カウンターの一番端にたたずむスタッフに向かって片手を挙げて合図を送った。


「どうなさいましたか」

「11時上映予定のスクリーンはどこだったかな」

「お調べいたします。メンバーカードはお持ちですか?」

「ああ、ここに」


 仁科が差し出したプラスチック製のカードを受け取ると、そのスタッフは肩から斜めに掛けていたタブレットに磁気部分を読み込ませ、画面を確認し始めた。


「……本日はここの一つ上のフロア、8階のスクリーン3番になります」

「ありがとう、ご苦労さん」


 仁科はそう言ってスタッフの肩をポンと叩くと、再び結城と連れ立ってその場を後にした。

 仁科と結城がここを訪れたのは、もちろん映画を見るためではない。実はこのショッピングモールのどこかにCRO中央局があり、この映画館にはそこへとつながる連絡通路が隠されているのだ。時間帯や日によって入口はランダムで変わるため、中に入るには逐一確認が必要となっている。さっき仁科が声を掛けたスタッフも、映画館での通常業務をこなす傍らでCRO局員を局内へと案内する役割を果たしていた。


「それにしても……こんな休日に定例会議をするのは勘弁願いたいですね。日曜にどこにも遊びに連れて行かない父親なんて、家での肩身がどんどん狭くなる一方だ」


 そう言って肩を落とす仁科に、結城は小さく笑いを零した。


「怪しい黒い影が一堂に会するんですから、目立たないようにするためにはこれくらい混雑している方がいいんでしょう。平日よりも休日の方が、足跡を隠すにはもってこいなんですよ」

「それはそうでしょうが……また子どもたちと妻のご機嫌取りをしなきゃならんと思うと、気が重くて」


 ため息をつきながら、仁科は”Screen3”というサインボードが掲げられたシアタールームのドアを開けた。当然のことながら映画は上映されておらず、中はしんと静まり返っている。


「まあそう言わずに。さっさと終わらせてしまって早めに帰れば、夕食に連れ出してやることもできるのではないですか」

「ああ、なるほど……。今日中に挽回できれば、なんとか信頼を失墜させずに済みそうですね」


 二人はとりとめのない会話を交わしながら無人の客席を通り抜け、フロア後方にあるスタッフルームの奥へと消えていった。







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