13話 旅先のトラブル『霧』
「以上の事から、此度の現オーダー省本部の行いは、オーダーの捜査権から大きく逸脱した越権行為であり、しかも独立性、秘密性を高めなければならないオーダー独自の情報を金銭的に、かつ個人的な恨みという甚だ理解し難い理由で―――警察省に渡すという事実上の反乱、動乱行為を行ったとここに訴えかけます」
少し前、内部にすくっていたネズミの駆除とツグミの身の安全とを取引に来たオーダー本部には、法務科査問科のトップ陣、並びにオーダー情報部の代理、代表者達が訪れていた。
「第三者への漏洩という秘密保持に抵触する今、行為。このような事を繰り返されては、我ら情報部も、今後一切の活動を行えなくなります。警察関係者に私達が捜査した結果の情報類を差し出すという恥知らずな行い、到底看過出来る物ではありません。精々、我々が納得出来る言い訳を、この場で述べて頂きたい」
「その上、今回は何処からか湧いて出た資金を元に、民間のオーダー人員に直接指示を下すというオーダー本部独自の作戦であるのは、明白。逃げられると思うなよ?ネタは掴んでる。お前達の金の出処は、情報部から提出された通り―――至秘の売り渡しだ」
まさか、終ぞ見る事はないだろうと思っていた、否、見ないようにと祈っていた人間達がそこに立っていた。外部監査科だった。
オーダー本部の暴走が起こった時、そして元オーダーが反秩序的な行為に走った時、現れる始末人。彼らは、その時が来なければ、そもそも姿さえ見せてはいけないとされている。
そんな外部監査科が、遂に腰を上げて目の前に立っている。
「この場にはいないが、医療部、オーダー校学長陣も、この事には遺憾の意を示している。オーダー内での修復不可能な亀裂を起こす、反秩序的な行動だと。そして、この場にいる誰もが、危惧している事柄も述べられている。お前達が、警察関係者ないし過去の政権与党と繋がりを持ち、国家転覆を図っていると―――」
「それ以上の侮辱は許さん。口の聞き方を知らないようだな、小僧」
「それを多くの国民、オーダーに所属している人間が聞けば、何が答えかわかるのでは?」
身なりのいい老人が、重厚な革張り椅子に体重を預けながら、舌打ちをする。
やはりと思った。こちらの事など気に留めていない。うるさいから共々に警察へ引き渡そうとしたが、それが失敗し、尚更機嫌を悪くしている。まるで子供のようだった。
「私は長く、この国の為、オーダーという組織の維持に努めてきた。今回の件は、その一環に過ぎない。それに一体何処に損害があるというのだ?警察のガキ供は皆逮捕され、辻斬りの犯人も、オーダーが確保している。至秘の売り渡し?話にもならん。情報とは、使ってこそ意味がある。渡してやった一文を頼りに、法務科のガキに辿り着いたに過ぎない」
「その渡した情報に、どれほど価値、いえ、そもそもあなたは一度でも目を通したのですか?」
「知る訳がないだろう。たかがガキ一人の個人情報など」
つい先ほどまですました顔で、わざとらしくにやつきながら溜め息を吐いていた秘書達は顔を青色へと完全に染め、揃って吐き気を催し始める。それを聞いて、煩わしそうに咳払いをする老人は、やはり老人に過ぎなかった。
過去にどれだけの実績を築こうが、もはやその威光の影も形もない。
オーダー省大臣。
その気になれば、今後のオーダーの銃口は勿論、予算や国家間の同盟を個人的に左右出来る、この国の内政も外政も執り行える立場を持った権力者だった。
「現場での臨機応変な対応は、私達の時代からすれば当然の技術だ。それさえ出来ないガキ供もの戯言に、付き合ってやる必要はない。その意見書を持ってとっとと失せろ。次期責任者の選択権が、お前達にあると思うなよ?」
「こちらからも言わせて貰います」
通された部屋は、度々テレビやニュースで映し出される簡易的な会議場だった。
ここには厳粛な空気こそが相応しいと言わんばかりに、誰も彼もが身なりを整え、ひと発言する度に魂でも削り取るかのような覚悟を目に宿す―――けれど、その例に老人は含まれなかった。
時間を気にして、落ち着きなく舌打ちを続け、肘を突く老人に嫌気が刺してきた。
長大なテーブルの一席に座っていたイミナ局長が、その老人の目を突き刺すように、目隠し越しの眼光を向ける。
「今回の一件、内閣にすら話を通していなかったそうですね?」
その言葉に、老人の白く染まった眉が僅かに揺れ動いた。
「資金不明の作戦に、それを指示したのは大臣、あなた自身。それを内政の責任者達である内閣の全員が知らなかったと述べています。既に、返答は受け取っている為、撤回される事はありません」
「だから、なんだ?」
「現時刻を以て、あなたを法務科預かりとします。端的に申し上げましょう。あなたを国家機密漏洩の疑いを持つ被疑者として、逮捕する」
「どうして俺なんですか?」
「お前が適任なだけだ。黙って運転していろ‥‥」
「はいはい‥‥」
重苦しく、張り詰めた空気に成るのは想定済みではあったが、この老人らしからぬ追い詰められた言葉遣いに僅かに心がくすぐられた。やはり逮捕劇から逃げ出したという未だかつてない逃亡劇に、冷や汗の一つでもかいているようだ。
誰に対してもガキだ、小僧だと宣っていた大臣の歯切れが悪かった。
「流石に不味いんじゃ?法務科からの逮捕を、逃げ切った奴なんていませんよ?」
「ならば、お前が逮捕され、私が国外に渡る。『あの島』に行き、日本オーダー支部が革命を起こされ、制御不能に陥ったと円卓に掛け合えば―――あの女共を根絶やしに出来る‥‥」
「‥‥それって、いつ頃になる予定すか?」
そんな質問には一切答えず、自身の爪を噛み始めていた。
こちらの事情など一切気にしない所は、前々から鼻についていたが、オーダー省大臣という肩書きに従って、それなりに甘い汁を啜ってきた結果がこれだった。
後ろを振り返れば、いつ法務科や情報部、外部監査科達の手が伸びてくるか、わかった物ではない。勝てば官軍ということは、勝負をせずとも勝ち続けるオーダー省に着けば、人生の勝利者になれるものだと思っていたのに、このざまだった。
「着く側を間違えたかな‥‥?」
「何か言ったか?」
「着く方を間違えたって言ったんですよ。おっと、ここで俺を撃ったら、遂に殺人者にまで成ってしまいますよ。薬のお時間はまだですかー?」
「その飄々とした態度、前から気に障っていた‥‥。薬など飲む筈がない。私は、必ずやこの国に戻ってくるからだ。私はこの国の秩序の番人、番人として、ガキ一人捧げてやっただけで、何故ここまで犯罪者扱いされなければならない?恩知らずのガキ共が‥‥」
座席越しに、
「—――恩知らず共がッ!!私が、一体どれだけ身を粉にして!!」
その身を粉にしてきたのは、決してこの老人ではない事を、この老人の下に付いていた人間達なら誰もが知っていた。老人は、ただただ他人が身を犠牲にして作り上げた粉を、どこかの妖精の島の住人のように浴びてオーダー省大臣という分不相応な立場にまで飛んだに過ぎないという事を。
「確か‥‥秘書も10人は逮捕されてたな‥‥」
「あのガキ共もオーダーの礎に成れたのだ。今頃喜んで務めを果たしているだろう‥‥そうだ‥‥、あいつらを牢から放てば、私の私兵に‥‥」
「それは無理かと。それをやるなら最低でも法務省の大臣クラス、もしくは総理レベルの首を飛ばさねば。それに、金で雇ったプロの民間オーダーにも見捨てられておいて、今更手を貸してもらえると?あなたが失墜した事を知れば、あいつらが諸手を上げて、あなたの秘密を暴露―――だから、撃ってどうするんですか?事故りますよ?」
「ふざけるのもたいがいにしろ‥‥私は!!今生きるか死ぬかの瀬戸際なんだ!!出来ない出来ないと抜かすだけしか出来ないのか!?ひとつの案でも出してみろ!!」
今の自分の立場をわかっていないのだろうか?それとも、本当に今の自分が見えていないのだろうか?今の自分は、法務科から逃げ出し、情報部に名指しされ、査問科がそれを追認し、挙句の果てに外部監査科までもが現れてしまった。
この国に、もはやどれだけ味方と呼べる物があるだろうか?この人物が『餌』と呼称していたチェーンの飲食店でだって、監視カメラでこの老人を血眼になって探しているだろう。
あの法務科が本気になって逮捕に踏み切っている。
――――もうオーダーから逃げ出す事など不可能だ。
「‥‥ひとつだけ、身の安全を保障できる場所があります」
「どこだ!?早く、そこへ向かえ!!」
飛びつく様に後部座席から身を乗り出した老人は、唾液を迸らせ目を剥きながら迫ってきた。なぜ自分の上司は、こんな小汚い老人なのだ。法務科の女はあれだけ美しかったというのに―――――そんな嘆きが口を衝きそうになってしまう。
「はやく言え!!どこなんだ、それは!?」
「知っているでしょう。警察ですよ」
そう言った瞬間、肺を貫通する針が音も無く発射されるかと思ったが、聞こえて来たのは老人の高笑いだった。
「警察‥‥警察か!!確かに、あそこは私に恩義を感じている。法務科の至秘を売り渡してやったんだからな!!あのガキに、どれだけ価値があるかなど知った事ではないが、あの紙切れ一枚をやっただけで、あれだけ金を寄越したんだ‥‥。オーダー省大臣の私を、受け入れない筈がない!!」
いっそここで裏切られたとして、撃たれてしまえば知らぬ存ぜぬで向こうに戻ろうと思ったというのに――――想像以上に、この老人は今が見えていなかった。
数少ない特務課の大多数と特務課予備生、その中でもエリートに位置する候補生を全て逮捕したオーダーのトップが駆け込んで来るなど、自殺行為と然程も変わらない。
「‥‥どうしたもんかねぇ」
護送車襲撃に、監視官への暴行、そして民間人への車両強奪。しかもこの老人が文句を付けるものだから、超が頭に付く高級車を脅して奪ってしまった。
もし彼女が国家中枢に位置する席に座っていたとすれば、もはや警察からも忌避されるのは間違いないだろう。いや、そんな訳がない。
「あの子も可愛かったな―――なんか、先生困っちゃうとか、言ってたけど‥‥」
もしかして本当に教員だったのだろうか?それにしては、来ている服が卑猥―――否、露出度が高い物だったが。自分の頃の教員など、スーツかジャージ程度の物だったが、近ごろは違うようだ。しかも、あれほど美人であったなら。
「生徒が羨ましい‥‥。どうにか口説き落としてやるのによ‥‥」
「何ぶつくさ言ってる!?後どれくらいで警察省にたどり着く!?」
「警察省の前に、警視庁に行きましょうや。少なくとも、あそこまで辿り着けばオーダーからは逃げられます。後は、司法取引でもして適当に国外行きの飛行機でも手配すれば」
「あの猿どもと、私が交渉しろと抜かす気か‥‥?」
「—――俺がしますよ。大臣は、酒でも飲んで待っていて下さいよ」
しばらくのプランが決まり、寝息でも立ててしまうのではないかというぐらい、席へ身を預け始めた。実際、この場でこの老人を放って逃げても、構わないのだが―――この老人は記憶力ばかりはいい。
自分の隠さなければならない諸々の事実を、口外させる訳にはいかない。
「‥‥なんで、こうなったんだっけな?勝ち馬に乗ったのが、そんな悪かったのか?これが、権力闘争に負けた貴族の気持ちかねー?」
オーダー校を卒業し、オーダー大の学部からそれなりに知られている法曹学部に入学し直し、卒業したというのに。今の自分は逃走犯を抱える犯罪者だった。
「まぁ‥‥傷を持たないオーダーなんていねぇーし、これも経験か‥‥」
ハンドルを運転しながら、そう呟いてみるが、自分の中でもそれが言い訳に過ぎないという事は重々承知していた。それどころか、こんな物はオーダーが経験する物でもないという事も理解していた。
「—――あのガキ、えっと、まぁ、ガキですけど。本当に特務課とやり合って、候補生をまとめて逮捕したんすよね?マジで?あいつら、最低でも30人はいた筈ですよね?」
「それがどうした?所詮、子供同士のじゃれ合い。ごっこ遊びだ」
「ごっこ遊びねぇー。まぁ、それもそうですねー」
嘘だった。
本部に弱点を暴露され、何重にもオーダー校の生徒に追跡される。その上、民間とは言え紛れもないプロ達により位置を通達され続け、特務課候補生達による追手を常に差し向けられた。にも関わらず、渦中にいながら特務課の大部分を逮捕し法務科に預け渡す。同時にオーダーの裏切り者達を防衛に徹しさせ、死者を出さずに負傷多数、無傷で勝利した。
挙句、『自分達』も民間プロ組も逃げ出すという失態の極みを見せつけている。
正気の人間ではない―――まともな精神構造をしていない。
見渡す限り全てが敵の中、たった一人で逃げ出し、数日と立たずに復讐を成し遂げ、ついにはこの大臣が逃げ出してしまう程の結果をもぎ取っている。
「‥‥そのガキ、俺は結局直接見てないんすけど、どんな感じでした?」
「知る訳ないだろう」
「あの会議場にいたんでしょう?覚えてないんですか?」
うるさいと言った感じに、腕を組んで目を閉じてしまった。この老人も正気ではないようだ。もしくは、もうボケたフリを始めたという事なのだろうか。
「所詮ガキだが、ガキ共の喧嘩の渦にいても、生き残って帰ってきた―――俺達の代でも、そんな事やれた奴は数える程もいなかったのに。優秀な若者には、旅をさせろって事か‥‥。会ったら、なんか食わしてやってもいいかもな‥‥」
とは言いつつ、会ったとしてもただで返す訳にはいかないのが、護衛の難点だった。
もし街中でも見つけてしまったなら、大臣の命令通りに
もはや無傷で法の裁きを下される事はないだろう。
「可哀想に。こんな大人達に関わったのが、運の尽きなんだぞ。大人しくオーダーの生徒として、静かにしてれば良かったものを――――そう言えば、どうしてそのガキが選ばれたんですか?ぶっちゃけ、あなたの嫌いなあの女どもを差し出せば良かっただけなのに」
「あ?あのガキは、私の実入りを減らしたんだ。番人である私の秩序のバランスを崩すという行いをやったガキを、ただで生かす筈がなかろう。よく知らぬが、『あの小僧』も、秘書共もあのガキが適任だと抜かしおった、当然の報いだ」
「あーそうすかー」
前々から気付いてはいたが、どうやら警察や権力者との裏取引をして銃器の密造や売買をしていたのは、間違いなかったようだ――――これを聞いてしまった以上、この老人をオーダーには絶対に渡す訳にはいかなくなった。
「あなたがくれたこの刀も、あなたと懇意にしている企業に用意させたんでしたね。有難く使わせて貰ってますよ」
「ふん、ようやく私の偉大さがわかってきたか。ならば、私の足場になれる事を、」
言葉の途中だったが、ブレーキを踏まなくてはならない状況になってしまった。
舌でも噛んだようにうめき声を上げる老人が、またも改造拳銃を座席越しに押し付けてくる。口元を抑えながらミラー越しに目を光らせてくるが、そんな物よりも優先すべき事象が――――眼前で立っていた。
「—―――あのガキ‥‥」
口の中だけで呟いた筈だった声が、想像以上に空気を震わせてしまった。後ろの大臣が、舌打ちをしながら座席を蹴り飛ばしてくる。
「なんですか‥‥」
「何してる!?早く、あのガキを捕まえろ!!」
「‥‥本気ですか?」
「私を裏切るつもりか!!殺してもいい、私の足元にあの首を持って来い!!」
本当に、今の状況がわかっていない。
鞘を持つ長物―――自分の物よりも質素な見た目の得物を片手で握っているガキが、声を荒げる事もなく、歩み寄ってくる訳でもなく、ただただそこに立っていた。
「轢き殺すでは、」
「なんの為に、お前に金をくれてやったと思ってる!?『人斬り』の異名、ここで示さなくてどうする!?さっさと行け!!殺されたいのか!?」
自身の貫通弾にどれほどの自信を持っているのかが、よくわかった。完全に殺すつもりでヘットシート越しに突き付けてくる。しかもその弾が込められた銃で何度もシートを殴りつけてくるので、降りないという選択肢は取れなくなってしまった。
「‥‥行きますよ」
隣の座席に転がしてあった『二刀』を拾い上げて、腰に装着しながらアスファルトに足を付ける。その瞬間、後ろの老人が勝利を確信したように高笑いを上げたので、うるさいと蓋を閉める。
「—――人斬りか。確かに人なら何度も斬ってきたさ‥‥」
殺人は許されない――――そんなオーダーの世界で唯一許されてきた剣客が、この自分だった。殺さなければいいのだろう?そう言って、何度も腕や足は勿論、拷問目的に耳や指を落としてきた。その度に、被疑者の怪我の確認に来たあの医者の目を誤魔化すのに、苦心したのを覚えている。
「まぁ、今の技術ならすぐにくっつけられるんだけどな」
けれど、実際に切り落とされた腕の断面、筋肉の筋、零れ落ちていく骨や神経を見せられた人間は――――身体が震えだし、出血多量で気を失うのが必然だった。
到底取り返しのつかない血の量に、頭を抱えた時、あの老人の秘書やお抱えの医者達が現れるのも、また必然だった。気を失った人間をどこかへと持ちだしたと思った時、また新たな被疑者が持ち込まれる。一体、あの人間達はどこへ持ち去られているのか?終ぞ、それはわからずじまいだった。
「だから、人は斬れる―――斬らなきゃ、俺が切られたからよ」
歩きながら、左右の腰に流した二刀の鍔に触れるフリをして――――あるスイッチを起動させる。それは鍔と鞘の僅かな設置面に搭載された『火薬』への合図だった。
鞘に仰け反った刀身を滑らせながら振り抜くという抜刀は、自身の腕力だけでは到底届かない速度を表現してくれる。まさしく切り捨てるという行為に置いて、これ以上の技術などありない。そう断言できる業だった。
「予備動作なんて見せないよ」
予備動作など不要だ。腕の代わりを鞘と刀身が、代わりをやってくれるからだ。
抜刀での鞘を握るという行為は、刀身を握るという意味でもある。鞘を握り、刀身を放つ方向を決められるという事は、筋肉の力など不要。
力を込める必要はない―――なぜなら当たれば、切り捨てられるからだ。
速度がそのまま力に変換される――――つまり、火薬で速度を更に上げれば、見切る事も避ける事も出来ない。必殺を作る事が出来る。
「これ、腕が痛むからあんまりやりたくないんだけどね」
そう嘯いてみるが、やはりガキは微動だにしなかった。このスーツには、既に仕込みが済んでいる。人体力学の粋をかき集めた人工関節に電子神経。それらで保護された腕は、翌日筋肉痛になる程度で済んでしまう。
「—――さぁ、来てみろよ。オーダーの先輩が胸を貸してやろう」
「俺の目的はあなたじゃない。退いて下さい」
「そうもいかないんだよ。お兄さんにも、雇われたっていう責任がある訳だからね。オーダーとして―――あの爺様は、必要だと断言できる。どこぞの反社会的な組織みたくなるけど、爺様の圧力があったから、この国の秩序が維持できた」
「それは、俺を犠牲にしなといけない程の事か?」
「おっと、なかなかに自信家だな。勿論だよ」
想像していたようだ、こう言われ事を。鞘を握った力を、一切強めるも緩めるもしないで――――この眼を向けてくる。
「白羽の矢が立ったのは可哀想だが、オーダーとしてそれは当然の結末だ。守られたい?生き残りたい?誰かに抱いて貰いたい?—――不可能だ。お前も、オーダーとして今まで生きてきた。望むと望まれぬに関わらず、オーダーに成った以上、諦めなさいよ」
「—――そうか」
「わかってくれたかな?」
「決めた―――オマエヲキル」
俺は人斬りだ。人ならば、誰であろうが斬れる。例え鋼鉄に守られていようが、例え世界最大の戦力を持つ国家に守護された要人であれ、斬らなければならないのなら、斬るしかない。けれどけれど、俺は人斬りに過ぎない。
「我流だね。変な癖がつくから、どっかで頭を下げて弟子入りでもしなさいや」
「言いたい事はそれだけか?なら、あなたにはもう価値が無い」
一歩踏み込む――――けれど、向こうは動かない。
更に一歩踏み込む――――やはり、向こうは動かない。
ガキだガキだと評価を下していたオーダーの元に、首を垂れるように歩み寄っているのは、この自分だった。どちらが格下か?自らの為、目の前のオーダーを求めて近づく自分こそが、格下だった。誰がどう見ても動かぬ事実だった。
「動かないか?」
「あなたが来るからだ」
「それはそれは――――準備はいいかい?」
少年は、頷きもしないで柄に手を付けた。
まこと恐ろしい事に、一刀目を避けるという人間の極致にいるような人種が、世界には存在する。よって更に用意されたのが、もう一振りだった。
擬似的な燕返し―――片方を避けられた瞬間、もう片方で袈裟斬りを浴びせるという、幼児のような結論は、誰もが思いつきながらも誰もが―――反応できずに終わった。
「いざいざ―――参る」
自分は人斬りだ。人ならば誰であろうが切り捨てられる―――人ならば。
二刀の柄を掴み、火薬を起爆した瞬間だった。火花を散らせながら少年の両腕を切断する為に薙ぎ払おうをした瞬間だった――――既に、眼前に打ち砕かれた刃が舞っていた。
そして、返す刃で手首から下が軽くなったのを、感じていた。
「負けちゃったか‥‥」
斬られた人間達が総じて気を失っていった理由が、斬られてようやくわかった。
身体を切り取られる感覚、身体が軽くなった現実は、脳が今の現象を否定して意識を強制的に手放させるには、充分過ぎるからだった。
けれど、自分にはそんな柔らかな終わりは許されなかった。
「‥‥君、本当に人か?」
「—――あなたも、俺を事をろくに知りもしないで売ったのか」
トドメを刺すように、スーツ越しの胸から腹部までを、斜めに切り捨てられた。
「マトイ――」
「はい!!」
イミナ局長とマトイの布が、剣客の胸と腕、そして切り落とした手を保護、今以上の損傷を避ける為に包み隠していく。
「この人が、最後の砦でしたか?」
護送車の襲撃者のひとりにして、最後まで逃げ回っていた大臣の親衛隊。
警察に助けを求めるだろうとは、漠然とだが想像していたが―――まさか本当に選択するとは、思ってもみなかった。
精々が無理なチャーター機の手配程度だと踏んでいたのに。
「その通り。他の親衛隊も、全てあなたが切り捨てました」
剣客の止血が終わった途端に、オーダー街の病院へ搬送する為、路肩に隠れていた救急車が姿を見せる。これで5台分だった筈だ。
「親衛隊を名乗ってるから、本当に師団ぐらいはいると思ってたのに随分と少ない」
「あの大臣の心象の問題でしょう。あんな態度を誰にでも取っていたのですから、そもそも悪かった評判を更に落とし続けた。まだ幾人かいたのかもしれませんが、牢屋の中までも付き合う程ではなかったようですね――――さぁ、自身の役目を果たしなさい」
背中を押されるような言葉に従って、今も大臣が乗っている盗難車を見据える。
暗い窓ガラス越しにだが、歳の割に白い歯を覗かせて、野生動物のように睨みつける老人がそこにいた。
「あれが、大臣ですか‥‥」
「ええ、あれが今の大臣です。過去に、多くの人間達に望まれた一世代前の大臣は既に引退し、その後を引き継いだのが―――彼。私も数度話して来ましたが、あれが私達の頂点にいるだなんて‥‥ようやく逮捕できる」
イミナ局長、マトイと共に車両に近づき――――数発の357マグナムを窓ガラス越しに発砲する。それを見てマトイは噴き出すように笑い、イミナ局長は眉間に手を付ける。
「見ての通り、抵抗しようとしたので」
ドアに杭をねじ込み、無理やり解放すると、そこには見覚えのない銃を床に落とした老人が、手を抑えながら睨みつけていた。
「降りろ―――」
優しく言葉だけで命令したというのに、老人はこちらが悪だというような目付きで睨みつけ、降りる気配の一片も見せなかった。だから、仕方なしと自分に言い聞かせて老人の首根っこを掴み、無理やり引きずり下ろす。
「貴様!?私に、拳を振るって―――わかっているのか!?」
「似たような事を言った人もいましたが、結局どうにもなってませんよ」
鋭いアスファルトに身体を押し付けて、膝を乗せながら両手に手錠を付ける。それを皮切りに、多くの法務科や査問科、情報部、医療部の人間達が駆け寄ってくる。
「これであなたは―――権力者たる人物、大臣を逮捕したオーダーとして認知される事と成ります。同時に、私達異端捜査局も、大臣の身柄を拘束した組織として―――あなたはどうしますか?」
「‥‥しらばく休暇を取ります」
「許可しましょう。マトイ、彼を連れて行きなさい」
自身のマスターである人物からの指示に従って、マトイが大通りから路肩へと連れて行ってくれる。そこには、サイナのモーターホームが止まっていた。
「マトイ‥‥」
「はい」
モーターホームに乗り込む前に、聞かなければならなかった。
「俺は――――裏切られた。売られた。それは、間違いないよな‥‥」
「はい、あなたは多くのオーダーから裏切られ、オーダー校の生徒には、自身の実入り、実績や借りを作るという名目で売り払われました」
生徒達に聞いた結果だった。莫大な報奨金と共に、俺を警察側に引き渡し、件の人形までも渡せば―――オーダー省はそれぞれの将来を約束、生涯的な入金を約束するとの契約を結んでいた。
「‥‥それは普通か?」
「私にもわからない事はあります。けれど、お金は貴重で、何よりも優先したとしても決しておかしくない概念です。そして、オーダーがオーダー足り得るのも、金銭があるからです。同時に、金銭が発生するからこそオーダーはオーダーとして職務を全うするのです――――裏切りの対価は、決して安くありませんから」
「そうだよな―――だから、あいつらは俺を売ろとしたんだ。もう顔も見ないで済むから、別に構わないって。消える俺からどう思われようと、関係ないから‥‥」
「そう思いますか?」
繋いでいるマトイの手に、力が籠る。
「本当に、そう思いますか?」
「‥‥現実的に考えて、一度でもオーダーがオーダーを裏切る、しかもダブルクロスをしたと判明すれば、それぞれが制裁を喰らう。オーダー校とオーダー省が許したとしても、生涯裏切る者のレッテルが張られる。だけど、」
「生涯的な金銭の入金があるから、別に構わない。そう思った?」
「昨日までの行動をみれば――――これが真実だ」
あいつらは、オーダー省からの仕事を受けて、金銭を受け取る為に働いた。一定の武力抗争が想定されているオーダーで、己が身を守る為に仲間を『裏切る』のは、至極真っ当な行動だ。だからこそ、あいつらは全く拒否などしないで請け負った。
「ふふ‥‥」
「‥‥ごめん。卑怯な事しか考えられなくて」
「卑怯?それは、あの人間達の方」
ふわりと、マトイの髪が舞ったと思った瞬間、黒髪の麗人が抱きしめてくれていた。一瞬の隙を突いて行われた抱擁に心を落ち着かせながら、まぶたを閉じる。
「彼らは、金銭では到底埋める事の出来ない物を売り払おうとした。あなたをあなただけの物だと、まだ思っているの?」
「‥‥俺は、マトイの物だ」
「そうよ。あなたは私の物。私の物を勝手に売り払おうとした彼らを、なぜ私が気にかけないといけないの?彼らこそ、金銭で埋め合わせる事の出来る量産品だというのに―――私も、怒り狂ってます。あなたと一緒にオーダーを辞めかねないくらい」
長い休暇を取る話は、既にイミナ局長に通していた。少なくとも一か月、夏休みが終わるまでという長い期間を。
それはそのまま、オーダーを辞めてしまうかもしれないという意味でもあった。
「どうしますか?オーダー、辞めちゃいますか?」
「‥‥正直、何も考えてない」
「そう」
「‥‥無責任だよな」
「そうね。責任を負うべきは彼らだというのに」
第二のオーダー街から帰った時、あいつらは蜘蛛の子を散らすように消え去ってしまった。逮捕など出来ないのだから、何かしらの責任を負わされる前に消えるという選択は、とても賢い物だった。
「彼らの事はいいの?責任を追求しなくても、友達だったのに?」
「—――どうすればいいのか、俺にはわからないんだ。見つけ次第血祭りに挙げてやりたい気もするけど、だけど‥‥」
「苦しむ彼らの顔を見たくない?」
「‥‥わからない」
抱擁を終えて、眺めるマトイの顔は普段と何ら変わらない魔性の力を持つ笑みだった。優しくて恐ろしい、次の瞬間には銃口を突き付けられてもおかしくないような、底知れぬ微笑を。
「では、私に任せる?」
「いや、これはきっと俺が決めるべきなんだ。だから俺が答えを出さないといけない―――オーダーを辞めて、アイツらとの縁を完全に断ち切るか。それとも、アイツらを見つけ出して、二度とオーダーが出来ないような傷を付けて、投げ捨てるか」
「あなたはどうしたい?私は、あなたの望むままに」
「‥‥今は、考える時期だと思うんだ。今すぐに答えを出す訳にはいかない」
アイツらにだって、自分の都合と生活があってオーダーを続けている。しかも、オーダーとしてオーダー省の仕事をするのは、特段不思議な事ではないのだから。
「では、許すという選択も入れるの?」
「それも含めて、考えたい。行こう」
今も静かに笑い続けるマトイの顔を眺めながら、共に並んでモーターホームへと足を運ぶ。中にはサイナは勿論、ミトリにネガイが座って待っていた。
「あ、傷を見せて下さい!」
「怪我なんて」
「嘘ついたら、怒っちゃいますよ」
助けを求めるように、ネガイとマトイに視線を向けるがふたりはいそいそと車内のカーテンを閉めたり、救急箱を運んでくるので、諦めて上着を脱ぐことにした。
「ミトリは、大丈夫なのか?」
「大丈夫?」
わからないと言った風に、首をかしげるミトリが子犬ように見えてしまい、自然と頬が緩んでしまう。尚もミトリはわからないと言った感じに首をかしげるが、こちらの笑顔が移って、笑いかけてくれる。
「なんですか~?どうしたんですか?」
「いや‥‥ごめんな。ミトリだって、あんまりオーダー省に良い顔されないだろう。オーダー校ならまだしも、しばらくオーダー街を歩き回れないんじゃないか?」
徐々にゲートが近づいてきた時に、そう打ち明けてみた。ミトリは、俺付きの治療科として世話を焼いてくれている以上、既にオーダー本部にこの関係は知られている事だろう。あの大臣が消えたとしても、恨みを持った部下たちが残り続ける。
「あはは!!大丈夫ですよ。私だって、オーダーの一員。そんな個人的な恨みで襲ってくる雑多な方々の事なんて気にしませんよ。流石に、部屋に強襲を仕掛けてきたら、気には留めますけど――――その時は、治療科としてお仕置きしちゃいます」
「そ、そうなのか。それは、怖いな‥‥」
「ふふ‥‥お仕置き、もう一度受けたいですか?」
「‥‥頼むかもしれない」
子犬のような笑みから、ベットの上で縛り付けてきた魔女のような笑みを浮かべてくる。ころころと変わるミトリの雰囲気に、背中を向けて肩や腕の筋を任せる。
「素直な患者さんは、大好きです‥‥。腕、伸ばせますか?」
親衛隊と呼称されていた人間達は、はっきりと人間離れしていたと言えてしまう腕の持ち主だった。オーダーとしてではない、完全に殺す気で襲い掛かってきた彼ら彼女らに対して――――イミナ局長が、頷いてくれた。
「はい、ゆっくりとでいいので」
「そんなに、痛めてる気はなかったのに‥‥」
「前にも言いましたよね?あなたは、自分の傷に気が付いてないって」
前腕、肘、二の腕、肩など全てを包帯で巻いていき、最後に両腕を繋ぐように背中で包帯を渡してくれる。吊られているように感じながらも、動きを阻害しないで補助してくれる。
「それで、あの刀?あれは一体‥‥。前に一度見ましたけど」
「あれは―――ちょっと特殊でな。使う時は、俺達の上司の許可が必要なんだ」
確かに、ミトリの前であれを抜いた事がなかったのだから疑問に思って当然だった。あのような長物、オーダーでなくとも間近に見る事などなかっただろう。
「気になるか?」
「えっと、なんて言うか。あの弓みたいな剣みたいな武器を使ってる時とは違う雰囲気でして‥‥第二のオーダー街とはまた違って、あなたがあなた‥‥らしい?」
「らしい‥‥らしいか‥‥」
俺が俺らしいとは、きっとミトリの観点は正しい。あの刀を握っている時の俺は、人外達の血をふたつも飲み干している。まともである訳がない。
「怖かったか?」
「ちょっとだけ‥‥」
「そうそう使う物じゃないから、平気だ。今も怖いか?」
「うーん、今は‥‥可愛いです♪」
自分が求めていた評価とは違ったが、胸にも包帯を巻いてくれているミトリが、包帯束を両手で握るように、はにかんでくれたので、やはり笑みが零れてしまう。
「ミトリは、ずるいな‥‥ずるいくらい可愛い‥‥」
「ふふ、知りませんでしたか?実は私、ずるい悪い女なんですよ♪」
包帯が巻き終わった時、Yシャツを肩にかけて治療を終えてくれる。救急箱を
抱えたミトリが車内の奥に入っていくと、ネガイが話しかけてくる。
「帰ったら、まずは休んで下さい」
「ネガイは休まないのか?」
「私達は少しだけしなければならない事があります。大丈夫、今晩には帰りますから―――やっとゆっくり出来ますね」
「ああ、やっと夏休みが始まるんだ」
シャツのボタンを止めながら、そう告げる。既に世間は夏休みの始まりを迎え、バカンスを国外で楽しむ人間達は空港に列を作っている。長い休暇を取った最大の理由が、これだった。ようやくこれで――――。
「旅行の準備、済ませないとな」
「さてと、どうするか?」
「う〜ん‥‥ちょっと、やり過ぎちゃったかな?」
後ろにいる面々に、視線を向けても皆同じような姿勢をとっていた。腕や足の包帯を血で染めて、痛みに耐えている。彼らがオーダー省に強制捜査を仕掛けている隙に逃げ出したはいいが、実際の所、逃げる場所などなかった。
「知らねぇーフリして学校に戻るのも、有りだよな‥‥」
「それ本気で言ってる?今戻ったら同期にも先輩達からも制裁を受けちゃうよ。皆んな、今も探してるんだから‥‥」
「‥‥サイナ商事のお得意様か。にしては、なんでもあーも女ばっかしなんだよ‥‥」
「単純に、女性の武器商が少ないからだろうね。それに僕達からすれば、どれもコルセットにしか見えない防弾服一つ取っても、デザイン性に凝ってるらしいから。特に女性には人気みたいだよ」
キドウがそうなのかと、地下駐車場の暗がりで共に隠れている女生徒達に視線で聞くと、皆一様に頷き返してくれる。デザイン性だけ切り取っても、社会主義崩壊理由の『個性』がある上、彼が聞き取りしていたのも、その一因なのだろう。
「今更だけど、彼には悪いことしたみたいだね‥‥。まさか、オーダー省があそこまで彼を見放す気だったなんて‥‥」
「まぁな。割りが良くて、ワンコロ側にも1発殴れる仕事って事で受けたはいいが、あそこまで好き放題指示されるなんてよ‥‥話が違ってばっかしだ。おまけにこの怪我だしよ‥‥」
射抜かれた足を軽く叩いて知らせてくるが、それさえ歯を食いしばっているのだから、痩せ我慢のし過ぎで傷が開いたのだと、察してしまった。
「‥‥流石に、いつまでもここにはいられない。病院に頼ろう」
オーダー街の病院には、取り決めがあった。どんな人物であれ、傷と病に苦しむのなら分け隔てなく治療してくれる。ベットを明け渡してくれる。
それが例え自分達のような裏切り者、警察側に逐一情報をリークするという紛れも無いダブルクロスを行った恥知らずであろうと。
「それしかなさそうだな。自力で治療するにも、物資が必要な訳だし。お前達も、それでいいな?」
この厚顔無恥な提案に、誰も首を振る事はなかった。事実として、オーダー街に帰って来るまで、身内に拳銃を突きつけられながら車を運転していたのだ、その精神的にも身体的にも掛かっていたストレスは、並の物ではなかった。
重い腰を、それぞれがそれぞれ支え合いながら立ち上がって行くが、それも軽く小突いた程度で倒れてしまいそうな様子だった。
そしてそれは、決して自分も他人事ではなかった。
頭痛こそ治ったが、頭を打たれた衝撃が今も顎に残っているようで、気分としては最悪の物だった。その上、本当に余計な事をしたら容赦なく引き金に指をかける彼のお陰で、心肺機能は最底辺にまで下がり切っている。
「見つかったらどうしようか‥‥」
「そん時は、病院に行くからで突き通そうぜ。怪我人には、あいつらも手加減してくれるだろうしよ。にしても、あいつは容赦がなさ過ぎる。ほんとうにぶっ放すなんてよ‥‥」
「あはは、本当本当。きっともう硝煙の匂いが染み付いちゃってる‥‥」
影口という共通の話題で笑い合いながら、逃げる時に使った車両のドアに手をかける。
「数時間も本気に撃つ人から銃口が向けられるって、あんなに心臓に悪いんだね」
「今度会ったら、同じ目に合わせてやろうぜ。あいつにも、俺らの苦しみを」
「―――ヒジリなら向こうでの数日間、ずっとその苦しみを受けてたよ」
突然浮き上がった声に、腰の愛銃を拾い上げようとしたが、車内から飛んでくる鋭い靴底の踵が顎を打ち、唇を切り、血を吹き出しながら息が詰まる。
まるで気配がない所からの不意打ちに完全に脳が麻痺し、指が動かなくなる。
「あーあ、大人しくしてれば良かったのにね。ヒジリが言ってたでしょう、大人しくオーダー本部に行って貰うって、多分だけど、本当に大人しくしてれば、それで許したんじゃないかな?」
突き付けられるFNブローニング・ハイパワー、更にもうひとつの銃口が眉間に突き付けられる。彼女のコレクションのひとつにして、もはや実用的とは言えない希少性をもつ銃器—――ブレン・テン。
「はいはーい、大人しくしてねー。『殺し』はいけないけど、耳ぐらいなら逝っちゃうよー。あ、言っておくけど、マジだから」
見計らっていたように、車両の影からオーダー制服を纏った女子生徒達が浮き出て這い出てくる。人数としてこちらよりも多い30人前後。それだけならこちらも対抗処置があったかもしれない。けれど――――目が異常だった。
「‥‥そっちの仕事かい?」
「想像に任せようかな?だって、身に覚えがあるでしょう?」
従えている女生徒達は顔付きひとつ取っても、常人とは口が裂けても言えない異様さを放っていた。それどころか、周りの女生徒達の顔立ちにまるで見覚えがなかった。
――――焦点があっていない目、どこか機械を思わせる傷ひとつ、皺ひとつない表情。『不気味の谷』の先に行った自動人形のような気配を感じる。
「‥‥君達の私兵—――」
最後まで言い切る時間は与えられなかった。イサラの爪先が、容赦なく腹部を抉ったからだ。傷と打撲を深く付ける為、爪痕でも残すように腹から胸を爪先で切り裂かれた。
「私兵?ふざけた事言わないでくれる?次言ったら、冗談じゃ済まさないからね?」
「‥‥君も変わったね」
「成長したって言うんだよ。私以上に強い人種が、あんなにいたなんて知らなかった。ネガイさんにマトイさん、サイナに――――ヒジリ。オーダー校なんてって思って入学したけど、なかなかどうして私って弱い部類だったなんてさ」
腹部を抑えていた手ごと蹴りつけて、固いコンクリートの床に仰向けに倒れ伏した瞬間、中からイサラが軽い調子で「よいしょっと!」と掛け声を出して飛び出てくる。
「お、おい!イサラ!!」
「ん?どしたの?」
「どうしたじゃなくて!?こっちは怪我人だぞ!!」
「へぇ――――だから何?」
よせ―――そんな言葉を出す暇もなく、射抜かれた腿をイサラは容赦なく爪先で抉った。絶叫で痛みを堪えながら、渾身の力で横顔を殴り飛ばそうとするが、彼女は腕の間合いの更に中、キドウを抱き締める恰好になったと思った瞬間、
「あははは!!!軽い軽い!!」
キドウの腰を腰で持ち上げ、柔道の技をかけるように巨体をコンクリートの床に叩きつける。そして間髪入れずにトドメでも刺すように腿の傷跡を踵で踏みつける。
「卑怯って思う?」
「お前‥‥本気かよ‥‥」
「前にも実技棟で似たような事やったし、仕事でも見せてあげたでしょう?—――でもさ、これってあんた達が向こうでずっとやってた事だよ。ヒジリの弱点を探って、傷を抉ろうとしてたでしょう?」
「‥‥仕事なら、当然の」
「そう。仕事なら当然—―――じゃあさ、それを使ってもなお負けた犬には、それ相応のお仕置きがされる事も当然考えてたよね?」
ニードル―――イサラではない、見覚えのない女生徒のひとりがキドウの首と肩の間に針型の銃弾を撃ち込んだ。銃弾を受けたキドウは白目を剥いて痙攣し、頭を床に降ろして声も出さなくなった。
「大丈夫大丈夫♪ちょこっと寝て貰っただけだから。表側の生徒でも、強い奴がいる。こいつもその中のひとりだから、ここでは絶対に殺さない。私もオーダーだから、それだけは約束してあげる。まぁ掟を破った裏側のあんたは別だけど」
意識を失ったキドウから、周りの生徒達に視線を向けたイサラがやはり軽い調子で、「みんなーやっちゃってー」と言った瞬間、「「「了解」」」と幾重もの声が重なり、響き合うように言葉を発した。倒れながら視線を向けると、そこには同じようにニードルを受けて、『仲間達』が次々と倒れ伏していくのが見えてしまう。
「前向性健忘症—――だったかな?そうそう、ミダゾラム!!えっと、これを受けると薬を受けた直前の記憶があやふやになって、風邪とかの時に見る幻覚っぽく感じるんだって。すごいよねー」
スマホ片手に、ブレン・テンを向けてくるイサラからは優し気な雰囲気など皆無で、スマホ越しの眼球は一切のまばたきをしておらず、動きを常に監視しているようだった。
「だからさ、これを現実だって知ってるのは、あんただけ。わかるかな?この意味」
「‥‥外部監査科。君が彼に肩入れしていたのは、皆知っていたけど、僕にだって都合がある。討魔局の所属として、彼の力はもう無視できる範疇を大きく超えている」
「あっそう。だけどさ、それってそっちの都合でしょう?私達外部監査科の一部署はね、ヒジリをバックアップするって決めたの。そういう方針に決まったんだぁ~」
先ほど受けた顎への一撃など、ジャブですらなかった衝撃が脳髄、心臓へと響き渡った。このまま心臓が止まってもおかしくない、このまま白目を剥いても不思議ではない。だというのに、意識を手放す事を自分の知的欲求が邪魔をしている。
「‥‥理由を聞いてもいいかな?」
「強いから。それ以上の理由なんて、あると思ってるの?」
何を今更、何故そんなつまらない事を聞くのか?そんな語外の意思を表情で伝えてくる。心底、不思議だというような感じに首を捻ってくる。
「まぁ、それ以外の理由もあるかもだけどね~」
「なら、君達は完全に僕達と敵対するって事でいいのかい?」
挑発と情報収集の為、言葉を交わし出来る限り会話を続けようとするが、イサラは全く聞いていない様子で、「も~うねぇ。可愛いんだから♪こーうなんていうんだろう?猫が膝の上に乗ってくるみたいで。だけど、ちょっかい出したら爪で引っ掻くみたいなね~」と自慢とも愚痴とも言えない話を続けてくる。
「あ、敵対の話だっけ?当然でしょう。今まで通り、そっちと『こっち』も、【あっち】もみんな敵対してたでしょう?今更言う事?」
「‥‥上手くいかない物だね――――それで、僕をどうする気?」
「そこで、僕はどうなっても良いから、みんなは助けてくれとか言って甲斐性を見せてくれれば、気に入って上げたかもしれないのに。だから、あんたは敵としか見えないんだよ」
「彼ならそう言った?」
「まさか――――ヒジリなら、私達全員を叩き潰して、外部監査科も滅ぼしてたよ」
そんな戯言を―――と流す事は到底できないレベルにまで達してしまっている。
彼は警察にでも逮捕され、そこで永久に日を浴びれなくなってくれればと決めつけ、強行してしまう程に力を増してしまっている。
だから討魔局などという畑違いがしゃしゃり出てしまった。
「だけど、聞かれたからには答えてあげる。負け犬は負け犬の役割を果たさないと、地下の次は病院に逃げ込んでやり過ごそうなんて――――負け犬の最後は、相場が決まってるし、わかるんじゃない?散々、あんた達がやってた事だしね」
「それはそれは‥‥想像するだけで恐ろしいよ。情けなくてごめんね。今度また焼肉でも行く?」
「あ、いいね。みんな誘って行こうよ――――またヒジリのおごりで」
女生徒のひとりにニードルを受け取って、銃口を向けてくる。
「そん時は、外の高級な店に行こうね。あ、あと、こいつらは病院に連れて行っとくから。まぁ、査問科主催のながーい取り調べ監禁だろうけど。またあとでね~」
「彼の様子はどうでしたか?」
「気になりますか?」
「彼は、この法務科異端捜査局の一員、その上現役の大臣を逮捕するという業を背負ってしまった本人です。彼の言動ひとつで法務科全体の―――」
そこで手で抑えながら笑い出すのだから、この弟子には溜息を吐いてしまう。素直に教えこそ守っているが、あの人の真似をしていつもいつも素直には頷かない。
「そのような理由を造らずとも、彼に直接会いに行けば、彼は喜んで出迎えてくれますよ。今、彼はひとりですから」
「‥‥誰もそばに置いていない?」
「不思議ですか?彼にだって、ひとりでいたい時があります。それにようやくの夏休み、彼にも夏休みの予定のひとつやふたつ、あるのですから」
彼の精神は既に崩壊してしまっている。
だから、マトイらを彼の傍に置いているというのに、その意味を誰よりも理解しているのがマトイと彼女だというのに――――今彼は、ひとりでいる?
正気の沙汰とは思えない。
「命令です。今すぐ彼の元に」
「言った通りですよ、マスター。彼にだってひとりになりたい時がある。お忘れですか?」
要らぬ心配だと気付かされてしまった。
あの『混沌そのもの』と言っても過言ではない存在に加護されている彼がひとりでいるという意味を、この私がはき違えていた。
「‥‥私も、まだまだ彼の事を理解しきれていないようですね。あれだけベットの上で彼を善がらせる術を知っているというのに―――今晩にでも、また」
「マスター?」
「‥‥報告を続けなさい」
咳払いをして、夢の世界の空気を締め付けるが、私の人形達も気が気ではないようで、ソファーの上で落ち着かなく、首を振ったり、指遊びを始める。
「では、あなたの意のままに。現在、ヒジリは落ち着いた様子で眠り始めている筈です。彼の眠りを妨げる事ほど、恐ろしい物もありませんから――――あらゆる組織が、彼が目覚めるのを待ち続けています。ふふ‥‥」
「外部監査科のイサラ、でしたね。彼女は、彼をどう見ていますか?」
「彼女個人の心象自体は、とても良い物ですよ。彼と仕事が出来るならば、外部監査科を辞めて、こちらに来ても良いという程に」
「‥‥どこまで信用に足りうるか、調べる必要がありそうですね」
マトイからの報告には、さほど驚くべき発見はなかった。むしろ、彼の周りにいる人物というだけで、監視するには十分な対象だったからだ。
やはり―――昨今のオーダー内の組織も含め、あらゆる結社や集団が、力ある者達を求めているのは間違いなさそうだ。その中心にヒトガタという新たな生命がいる。
事実として―――あの医者が彼女らを引き渡してしまったのだから。
「‥‥派遣されたヒトガタ達は、どうしていましたか?」
「彼女らの心配も無用そうでした。とても顔色が良く、定期的に診断も受けているようですから。法務科とまた違って、外部監査科は新人研修に力を注いでいるようで、向こうも向こうで手間がかかっているようですね―――ふふ、あの大臣が法務科に逮捕された事が、それほど気に障ったのでしょうか?」
「それもあるのでしょうが、ヒトガタという書類上の身体性能に目がくらみ、あの医者の口車に乗ってあらゆる金銭的補助をすると約束してしまったのですから。出来る限り、はやく現場に慣れるように、便宜を図っているのでしょうね」
「それはそれは、ふふ‥‥」
外部監査科という、ある意味において法務科すら越える情報網を持った組織だとしても、今の今まで表に顔を見せなかったしわ寄せが、ここに来て噴出したようだ。
ヒトガタの性能は凄まじい物であるのは間違いないが、その実、彼女らは成育者によってのみ、自身の身体的パフォーマンスを発揮する。
「マスター、ヒトガタの呪縛を解くには、彼の力が必要—―――だから、彼女は彼に接触していたのでしょうかか?」
「‥‥そのイサラというオーダーの話を聞く限り、結果的に彼と親しい彼女に白羽の矢が立ったようですね。そもそも、彼がヒトガタの呪縛から解放されている事を知ったのは、あなただけだったのですから」
そう告げた瞬間、満面の笑みとなったマトイが楽しそうにクルクルと舞い始める。
この癖も、久しぶりに見てしまった。
「マトイ」
「はい、マスター」
「話の途中です。それを止めなさい」
「申し訳ありません、マスター」
やはり悪びれる様子もなく、頬に手を当てて朗らかに笑い始める。
「単刀直入に訊きます。彼は、まだオーダーを続けるのですか?」
「—―――」
頬に当てていた手を、自身のスカートに移動させて大きく深呼吸を始める。
膨れる胸に手を当てたマトイは、ゆっくりとまぶたを開き、口元を歪ませた。
「続けます」
「その根拠は?」
「私がいるからです」
身も蓋もない事を、さも当然、この世界の真実だとでも言うように述べた。
地球は回る、この星に端など無い――――そう言った者達がほら吹きと言われ、処刑されていったのを考えると、本人達からすれば、なぜこんなにも簡単な事が理解出来ないのか?、そう思っていたに違いない。
「それに、ネガイもミトリ、サイナも、皆オーダーにいなければ生き残れない。同時に、私達がいなければ彼は生きる事が出来ない。ならば彼はオーダーにいなければならない―――自信過剰と思いますか?けれど、言わせて貰います。これが真実です」
膨らませた胸を張るように、一歩踏み込んでくるマトイには迷いなどなかった。
あの街から追い立てられた時、心に食い込んでしまった―――思い出してしまった杭など、既に自身の力で引き抜いていた。
「‥‥マトイ、あなたが言うのなら、私は信じましょう」
「ふふ、ようやく私の事を一人前と認めてくれるのですか?」
「半人前にもなっていないあなたに、そんな期待は無用です」
「では、彼の事を信じているのですか?」
「無論です。彼は、私の勇士であり勇者、私の恋人を私が信じても、何も問題ありません」
このような真実をただ告げただけだというのに、マトイは頬に手を付けて笑い始める。そのマトイの心が読めず、私も眉をひそめる事しか出来なかった。
「よろしかったんですか?」
「想像と違っていましたか?」
「はい、そうですね――――胸の一突き程度はすると踏んでいたので~♪」
「‥‥思いつきませんでした。なら、今から戻って」
「ダメだからね!今の、本気だったでしょう!?」
「半分冗談です」
この返答に頬を膨らませるミトリの姿を見て、彼がこれを何度か用いていた理由がわかってしまった。不満そうに目を向けてくるミトリから、どこか子犬を思わせる可愛らしさ愛嬌を感じてしまう。
「でも、ちょっとびっくりしちゃった。オーダー本部直々の新組織発足の初期メンバーに選ばれたなんて」
「とは言いつつ、結局は彼を引き抜こうとしているに過ぎません。現役大臣を確保した彼の名を使って、新たな組織を作る大義名分を欲しているだけです。そこに私の名を入れれば、更に両親に世話になった人の後押しがされ、あらゆる力が集まるサラダボールな新世代を作ろうとしている――――大方、この程度の浅知恵。新たな資金の流し先が欲しいのでは?」
はっきりとそう断言した所、ミトリは愛想笑いを始める。けれど、ミトリも漠然とだが察していたようで、小声で「やっぱり‥‥」と呟く。
病院という閉じた権力闘争の親の背中を見ていたミトリからしても、愛想笑いが出てしまう程つまらない物だった。事実、つまらない戯言に付き合ってしまった。
「サイナも名が挙げられていましたが、サイナこそ良かったんですか?事業拡大の糸口になったのかもしれないのに」
「ああいった方々って、結局は自分と懇意にしてる民間企業があるんです。最初の内は利ザヤを取らせてくれるかもしれませんが、下請けみたいな扱いをされるって相場が決めってるので。おまけに、強制的に親しい企業のゴミみたいな品を希望小価格満額で売れ、なんて言われたら、そっちの方が信用問題に直面します!!」
「‥‥なるほど、今のサイナの商品が売れなくなってしまっては、リピーターが消えてしまうのですね」
「そういう事で~す♪」
飽和状態な現代で自身の特色を活かせなくなる店など、必要とされなくなるのは目に見えている。その上、既にサイナの顧客は固まっているのだから、路線変更して大量生産の物など売れる筈がない。
「それに、私は首輪をされるのって大嫌いですから~♪ああいった頷かれて当然とか思ってる中年と老人の方々って、実は視界にも入れたくないので♪」
「ああ‥‥やっぱり、そう見られてましたよね。ふたりが断ったら、なんで?って声に出てましたもん。自分達の理想を語ってる時は、あんなにも意気揚々としてたのに」
「自分達の理論に、一切の隙などないって思っていたんでしょうね♪所詮、猿知恵でしたが~。むしろ、何故あんな提案を受け入れると思い込んでいたんですかね?」
実行部隊は私達に押し付けて、人員の補充はオーダー本部の意向をくみ取って察しろ。
使う武装は半ば強制的に、指定された企業の物を使えと述べていた。サイナの話で、それがよく理解できた――――私達を、広告塔にしたいのだろう。
「マトイに連絡して、この書類を見せる事にしましょう。私達にタバコの煙をかけてきた罰です。自惚れた人間には、償いが必要ですね」
三人でそれぞれ役割分担をして、持ちだした書類一束分をテーブルの上で確認していく。誰もが知っている車種や電子機器メーカー、衣服も当然よく知られ―――つい最近、強制捜査がされた大企業の名すらもあった。
「不思議です。私達が法務科の人員と親しくしているぐらい、オーダー本部なら知っている筈なのに、なぜこんな物を持ち出しても気付かなかった、いえ、そもそも見せたのでしょう?」
「さぁ?法務科に通報するんだから、あの人達の顔はもう見収めだし、どうでもいいと思うよ。自分で返却を求めておいて、断られたのがショックで気付かなかったあの人達の事なんて、やっぱり考えてあげる必要もないと思うよ」
心底どうでもいいと思っているミトリが座席の下から飲料水を取り出して口を開けると、サイナが「うぅー‥‥私の商品なのに‥‥」と嘆くので、ミトリが慌てて謝りに走る。私自身も忘れていたが、このモーターホームはサイナの店なのだから、ある物ある物全てが商品なのだった。
「そうです、サイナ」
「うぅ‥‥どうぞご自由にお飲み下さい‥‥。今度から無料サービスとして計上させていただくので‥‥」
「では、遠慮なく後で頂きます。サイナは夏休みどうするのですか?」
「おっとと♪高校生らしい会話をご所望ですか?ではでは、お答えしましょう〜♪私は、一度家に戻って、身内の不始末の決着を付けようと思います。だから、少しだけ留守にするかもしれません」
ミトリは救護棟で実習、マトイは法務科で仕事、そう言っていたというのにサイナは一言も発しなかった。
その理由がこれだったのだとわかり、自分の浅はかさに嫌気が差した。
言いたくなかったから、言わなかったという単純な話だったのだ。
「‥‥ごめんなさい、サイナ」
「そんな重い話ではありませんよ♪ただただ忘れてきた物を取りに、あと要らない物を捨てに行くだけですよ。いつまでも、あの人に頼ってばかりではいけないって思ったから、言わなかっただけ。ありがとうございます‥‥私に話す機会をくれて」
やはりサイナは自分よりも、幾つもの世界を知っていた。自分はただただ自分の為に、後の事を全て考えないで外に出たがっていただけだというのに。
—―――サイナはまるで違った。
――――自分の過去と決別しに行こうとしていた。
「‥‥サイナは、私よりも強いですね」
「そう思いますか?」
「‥‥私には、まだ出来そうにありません。まだ、両親の事‥‥受け入れられない自分がいます」
既に両親が死して、10年は経っている。両親がいなくなってすぐさま生家から連れ去られ、この街に繋がれた。だから、戻れば帰っているのではないか?自分を待っているのではないか?そんな願望に憑りつかれていた。
彼を求めてまで早く外に出ようとしていたのは、これが理由だったのかもしれない。
「‥‥家族が大切でしたか?」
「大切で、大好きでした。今もそうです‥‥だけど、」
「では、それで良いのでは?」
いつの間にか下がっていた視線が、運転席のシートを見つめる。
「私にも家族がいました。きっと私の帰りを待ってくれている人がいます。この街に逃げる時、手を貸してお金まで持たせてくれた、大切な命の恩人です。今も大切で大好きな人です。‥‥その人との別れも、済ませて来るつもりです」
「‥‥大切な人なのにですか?」
「ええ、大切な人だからこそ、別れを告げなくていけません。そうしないと私は耐えられません。ずっと心の奥に残っていた痛みですから」
ハンドルを巧みに操って行くサイナは、顔など一切向けていないというのに、すぐ耳元で囁いているかのような穏やかだけど力強い声で語りかけてくれた。
「生まれ変わるなんて、それらしい事を言いそうですけど、それは違います。私は、この痛みをこれ以上引きずりたくないから、荷物を下ろしに行くんです。捨てに行くんです」
「痛み、大切な人との‥‥」
「はい。ではネガイ、あなたはどうですか?あなたの中の記憶は痛みですか?」
両親との記憶、今もそれは息づき色付いている。目を瞑れば母の息が、手を伸ばせば父の手を思い出せる。けれど、それらの記憶の中の声は既に消えてしまっていた。
だけど、だけど、今も心の中にある物は、決して痛みなどではない。
生きる糧であり、生きる意味だった。両親との思い出は傷などではなかった。
「いいえ、痛くなんてありません」
「では、抱えて生きていけますか?」
「生きていけます。両親との思い出を、捨てたくありません」
運転席に顔を向け、ミラー越しにサイナの顔を見つめる。
この記憶を捨てる訳にはいかない。両親の記憶を持つ者は自分しかいない。
自分が捨ててしまう訳にはいかない。
「両親との記憶は、私が私でいる為に必要な物です。いつか忘れる時が来るとしても、捨てる事は出来ません。捨ててしまったら、二人から贈られた物がなくなってしまいます」
「ふふ‥‥では、それが答えで良いのでは?」
「はい、これが私の答えです。捨てたくありません」
「はい、捨ててはいけません。それは育んで受け継ぐ物です。次の世代へ渡す為に」
それを教えてくれたサイナから、不思議な感情を覚えた。
「サイナが母のように見えました」
「私とあなたは同い年です!!それに、まだ子供もいませーん!!」
「ますます磨きがかかってきましたね。流石は私の宝石、あなたには今の輝きこそが相応しい。けれど、もっともっと美しく光り輝いて下さいね。そうすれば、回りの方々も恐れ去って行きますから」
玉座の上で、仮面の方を膝に置き、その言葉の意味を吟味していた。
光り輝けば人が去っていく。きっとそれは過去にネガイから言われた、宝石と火の関係に他ならない。大きな火で交信を取っていた人々は、火に魅せられ、火を恐れ敬った――――ならば、もはや手の付けようもない巨大な劫火にも匹敵する光を持ってしまえば、人間はこの眼球を求めなくなる。
「更に先に行くには、どうすればいいですか?」
「ふふ‥‥わかっている筈です。あなたは宝石であり、星です。ならば、多くの星々を巻き込み、己が血肉として受け入れる事です。あなたの周りには、私でさえ手の届かない星々が、歌を歌ってあなたを待っています」
「‥‥良かった。とても誇らしいです」
「はい、誇って下さい。あなたはあらゆる混沌の始まりであり、あらゆる事象の中心点でもあります。今はまだ人の手に収まってしまう大きさ、輝きでしかありません。けれどけれど―――」
「人の手では掴み切れない、火傷では済まない、手を失って目を焼き尽くす程の光を纏えば、俺は人間に勝利できる。面白半分に何に触れたのか、思い知らせる事が出来る」
自身の中の答えを告げた時、仮面の方はやはり楽し気によく響く声で笑んでくれる。だけど、一体そこの視点に立つまでに、どれほどの光を纏えばいいのだろうか、それまでにどれほどの星々を見つめればいいのだろうか。
きっと、それはこの方でさえ見る事は出来ない。
「二度目の視点は如何でしたか?」
「‥‥あれは、少しだけ卑怯なように感じました。—――何もかもが見えすぎて、何も見なくても問題なさそうで‥‥ただ振れば切り落とせました」
—―――踏み込む必要はなかった。踏み込んでくるとわかったからだ。
—―――避ける必要はなかった。見通した先には、俺が無傷で立っていたからだ。
—―――見ながら斬る必要はなかった。斬れば、切り落とせるとわかったからだ。
「そうですね。最短距離で人に恐れられたいのなら、あの刃を振ればいいかもしれませんけど、それでは私がつまらないので。それに、あなたの眼と身体が持ちません」
仮面の方とイミナ局長の血を飲み干した弊害が、これだった。
ネガイが今晩まで帰って来ないと言ったのは、今晩過ぎまで俺が起き上がって来ないとわかっていたからだ。神々の血を飲み干し、己が刃に乗せるという代償は、本来ならば途方もなく重く、鋭い物なのだろう。
「真っ赤ですね。それにとても熱い‥‥私好みの身体ですね」
舌を僅かに見せた仮面の方が、瞼から首、胸から腹部に手を滑らせて値踏みをしてくる。どこから食べるか、どこに穴を開けるか、どうやって殺すか―――決めかねている。
「ふふ、だけど今日はこれ以上、あなたの
「俺は、もうとっくに壊れています。まだまだ俺の事をわかってませんね?」
ちょっとした挑発を試みた結果、膝の上から頭蓋に向けて宝石を握った手を振り下ろしてくる仮面の方が、更に愛おしくて仕方がなくなってしまう。
白い顔を真っ赤に染めながら、深紅の瞳を更に朱に染めた仮面の方の拳を受け入れながら、背中に手を伸ばして身体を支える。
「前にも言いました!!あなたの事を一番理解しているのは、この私です!!ネガイさんにもマトイさんにも、この分野では決して遅れを取りません!!何回、あなたを絶頂に導いたと思っているんですか!?」
「すみませんでした。俺の事を一番理解して、一番快楽に浸してくれるのはあなたです」
「ええ!!そうです!!」
「だから、あなたの事を一番理解しているのは、この俺です」
「ええ!!その通り―――その通り‥‥?」
隙を突いて、宝石を手に持った仮面の方を引き寄せて、拳を振り下ろせない距離まで攻め入ってみる。もはや自身の胸で俺を抱き締めるしかなくなった仮面の方は、宝石を空に帰して、呆れたような怒ったような溜息をつきながら、肩を抱いてくれる。
「‥‥ドキドキしてますね」
「あなたも―――俺は、あなたが取り添えるに相応しい宝石に成れたでしょうか」
「ふふ‥‥あなたは私の宝石。私の手に収まるに相応しい宝石です。誰にも渡しません、あなたの全ては私の物。あなたの欠片としても、何者にも奪わせたりしません」
それを聞きながら、安堵しながら仮面の方の髪に頬を預ける。深宇宙を思わせる青と黒で水紋を造り上げる仮面の方の髪は、いつまでも眺めて触れていられる。
「どうか、これからも俺を見ていて下さい。あなたに選ばれた俺でいせて下さい」
「—――勿論です。あなたの事は、これからも私の手で磨かせて貰います」
「‥‥なんであんなに、柔らかいんだろう」
短い別れの挨拶として、結局長く窒息するほどの接吻をしてしまった。長い舌に瑞々しい唇。仮面の方の味しか感じない温かな唾液。それらで舌の付け根を抑えられた結果、あっけなく仮面の方に口内を明け渡してしまった。
「次は、もう少し長く続く様にしないと―――」
腹にかけてあった薄いタオルケットを放り出し、ベット、寝室から脱出する。
「‥‥誰もいないか」
今晩まではいないと言われたのだから、誰もいなくてもおかしくない。
それに本来ならば長い実習を受けていたのだから、解放された反動で遊びに出かけても不思議じゃない。そう思う反面、自分のように取り敢えず眠り続けるオーダーがいても、おかしくないと考えていた。
「—――ちょっと出かけるか。買物もしないといけないし‥‥」
リビングの椅子に掛けてあった武具の数々を腰に装着しながら、銃に装填されていた残弾を調べ上げる。弾丸とは不思議だ、感覚的には大量に残っていた筈なのに、いざ一度の戦闘が起った時、20も30も一瞬で撃ち切ってしまう。
「‥‥今後は、時間を切ってみるか」
弾丸などそこまで高い訳でもないのだが、消耗品である以上、一番の必需品であるのも間違いなかった。
玄関にかけてあったラムレイの鍵を手に取って、ふと見つめてみる。
「もしオーダーを辞めたら、これも返さないといけない‥‥」
ごくごく普通の事を口に出してみる。あのラムレイは、自分の物でもあると同時にオーダー技術開発部門から、法務科であるヒジリに渡された寄贈品でもある。
更に言ってしまえば、あれは実験機でもあるのだから、オーダー以外に貸し出す必要などない。オーダーが使う為に、調整された物である以上、返却しなければならない。
「‥‥さて、どうするか」
扉を開けながら呟くが、特段焦る必要もなかった。
「単位にしても、金にしても、だいぶやり切ってるから今は困ってないし、最悪オーダー街から追い出されても、オーダーは自分の意思がないと辞められない‥‥」
何かしらの圧力をオーダー省がかけてくる可能性も十二分にあるが、所詮はその程度だ。生徒ひとりに手を下すような矮小な人間達など、取るに足らない。
「‥‥しばらく休ませて貰うか」
オーダー校の学生寮は、一種の拠点。その理由は、多くの銃火器を持ち歩くオーダーの生徒が日夜寝食をする集合住宅だからだ。けれど、日常的に訓練や依頼、更に夏場になってきて心底不機嫌になったオーダーが、何故この寮に大人しく戻ってくるか。
「現時刻を持って――――オーダーヒジリを逮捕、」
ああ、思わず殴りつけてしまった。ああ、思わずM&Pの銃底をスーツの胸に叩き込んでしまった。胸骨こそ折れていない筈だが、肺や心臓への不意打ちは、息が詰まり倒れるには十分だった。
「これは公務だぞ!!公務執行妨害だ!!」
ああ、やはり人間は愚かだ。公務執行妨害とやらの戯言を言い訳に、威嚇だったとしてもH&KP2000の40S&W弾の銃声を気にせずに撃ってしまった。
そんな事をすれば、何が起こるのか―――この特務課達は調べもしなかった。
「動くな!!次は、」
その瞬間、常人の目に見える範囲を超えた扉の開く音が響き渡る。
幾つもの扉が一斉に開く音は、いっそ銃声よりも恐ろしかった。しかも、それらが総じて蹴り破るような勢いだった所為だ。蹴り破るのは慣れた物でも、蹴り破られる経験は始めてだったようだ。初めて耳にする音に、頭を庇いながらしゃがみ込む。
「なんだ‥‥ハッタリか‥‥」
「そう思うか?」
開かれた扉から視線を感じる。当然だ、開いた人間がいるのだから。
「おい―――どっちだ?」
「見た通り」
「‥‥そうか」
端部屋から一番近く、特務課の背後から姿を見せたYシャツを着た生徒のひとりにこの場の真実を告げる。それを皮切りに、この階層だけではない、下の階からも足音が聞こえてくる。
「郷に入っては郷に従え、知ってるか?」
「は、はぁ?」
「そんな態度を取れるって事は―――知らないんだな?」
この寮はオーダー達の根城だ。ならば、当然そこに住むのはオーダーのみ。しかも、オーダー校校舎とは違って、学校にでさえ届けを出さない自身の武装を隠し持つ、武器庫でもある。そんな場の廊下で銃声を響き渡らせたのなら―――。
「連れてくぞ‥‥」
軽い近所付き合いをしてきたお隣さんの言葉を合図に、ただ無言で幾人ものオーダーの生徒達が詰め寄り、今も呆けたままの顔を晒している特務課のひとりの肩や腕を掴み上げる。
もはや悲鳴を上げる事さえ許さないと言わんばかりに、ロープを噛まされて袋を被せられた男達は――――儀式の生贄にされる山羊のように連れて行かれた。
「‥‥馬鹿な奴だ。ここのルールを知らないなんて」
オーダーなのだから、流血沙汰自体はさほど珍しくない。けれど、オーダーだからこそ絶対に守らなければならない掟に近い物も存在した。
「寮の共同区域での銃声、暴力、刃物による流血は総じて禁止。無理に乗り込んだから知らないのは当然だが‥‥入寮規則ぐらい読んでおいた方が良かったな」
オーダーのルールを破ってここまで乗り込んだという事は、これは正規の取り調べではないのは勿論、まともな逮捕状でもない。
一発殴って殴り返してきたら、現行犯で逮捕でもするつもりだったのだろう。
「外も中も敵ばかりか――――買物、いかないと」
「ん?起きたか?」
「‥‥あぁ、すみません。眠っていましたか」
「まだ朝早くだから、眠ってていいぞ」
「‥‥あなたとのドライブ、実はとても好きなので―――勿体無いです」
「実は俺もそうなんだ」
サイナから借りたコンパスにて、運転席と助手席で軽い会話を続ける。ネガイの眠気覚ましと同時に、高速出口間際になってきた運転に刺激を与える。
大方の予想を裏切って、特務課の人員は追手を放って来なかった。
「運転、交代しますか?」
「いいや、もうしばらく俺にやらせてくれ。高速を降りたら、少し休むから」
「‥‥わかりました」
未だ夢現なネガイは、シートの頭を預けながらこくりと頷いた。
車というのは不思議だ。運転している側よりも、座って待っている方が疲れてしまう時がある。数時間の運転ならば耐えられるが、数時間座っているのは暇と時間を持て余し、気疲れしてしまうのは世の常だった。
「それに‥‥悪いけど、ネガイに運転を‥‥」
「うぅ―――。でも、大丈夫、今サイナから習っているので、安全運転を心掛ける事は出来ています。しっかりと後方確認を忘れないで、ハンドルを握って――――」
そうは言うが、もう既に左右の確認と方向指示器を忘れているネガイには、未だハンドルを握らせる訳にはいかなかった。事実上のペーパードライバーであるネガイは、ソソギと違った意味で運転が荒かった。
「意外と混んでるな‥‥水取って」
出口近くになった途端に、赤いランプを灯した車両達が止まっていた。手持ち無沙汰となった今の内に、水を受け取って喉の渇きを抑える。
「ありがと。どうした?」
「ふふ、いいえ。ここには私達しかいないのですね‥‥」
水を渡してくれたネガイの言葉に、こちらも頷いて返す。それを見届けてくれたネガイは、気恥ずかしさと嬉しさにいるようで、長い灰色の髪で顔を隠しながらも目を向けてくれる。
「ふたりきりですね‥‥」
「ああ、ふたりきりだ。—――他に誰もいないふたりだけだ‥‥」
ネガイと共に向かっていた場所は、仕事場などではなかった。ましてや訓練でも実習でも、法務科やオーダー本部、特務課から逃げ出した訳でもない。
—―――本当の私用。ネガイとの旅行だった。
「どうしましょう。もうドキドキしています‥‥」
「今日はまだ長いんだ。目的地もまだまだ先なんだから。ずっとドキドキしてたら心臓に悪いぞ」
「‥‥あなたは、ドキドキしていないんですか?」
「知らなかったのか?ネガイと一緒にいる時は、いつもドキドキしてるのに‥‥」
軽くネガイの髪に手を伸ばして、冷房の風に流す。取っ掛かりなどない艶やかな髪はいつまでも触れていられる気がした。しかし、それは気ではなかった。
赤に染まっていたテールランプが消えて、波が動き始めたのに気が付き、ブレーキから足を離してアクセルを踏みつける。そんな慌てる姿を見て、ネガイが笑ってくれる。
「そんなに私に夢中では、危険ですよ?」
「そんなに美人なネガイが悪い。どうして、そんなに綺麗なんだ‥‥」
「知らなかったのですか?私は、あなたが一目惚れをした女神。女神である私は、誰よりも美しく、誰よりもあなた好みの美人—――ようやく気が付きましたね?」
鈴を転がすような美声を響かせながら、ネガイが流し目で微笑んでくれる。こんな美人なネガイを隣に乗せて、共に旅に出られるなんて半年前には考えもしなかった。
「‥‥やっと約束、果たせるな」
「はい、やっと約束を守れます。次は、空の旅に行きましょう」
もう次の構想を練っているネガイに、こちらも笑んでしまう。後ろにはふたりの旅行カバン、ふたりの武装—―――そんなオーダーらしい旅の友を積んだコンパスは、大人しく頷く様に車輪を回転させてくれた。
そして長い時間、道の駅やコンビニ、ガソリンスタンドを経由した結果、既に砂利道をタイヤが踏みしめ、己が足でも細かい鋭い石を靴底で感じ始めた時、
「山は虫が多くて嫌です。海は日光が強いし、何より人が多いのが嫌いです」
ネガイも同年代の女性の例に漏れず、虫の類が苦手だった。
見間違いに済んだからこそ良いのだが、害虫に似た物が床に落ちていた深夜—―――ミトリや俺を起こして始末を任せる程だった。
件のミトリはと言うと衛生管理も仕事の内である為、意外と虫が平気であった。
「俺も、しばらく人を避けて生活すべきだから海は避けたい。山はいいけど、逐一隠れながら何処からか狙撃でもされたら溜まった物じゃない―――ここはどうだ?」
湖の畔にして、川の始まり。巨大な湖の傍に建てられているロッジに乗り込みながら、灰色の髪を靡かせているネガイに、感想を聞くと、
「‥‥見通しが良いですね。話によれば、明け方は霧が見えるそうです」
「気に入ったか?」
「—――はい、見たかった景色のひとつです」
紺碧の湖には短い桟橋があるだけで、風景を邪魔する物は一切としてなかった。湖は山々に閉ざされてこそいるが、一時間程度の距離にある街に降りさえすれば、いくらでも食材を買い足せる立地。
「‥‥夏の思い出になりそうか?」
灰色の麗人を際立たせるように日光を反射した湖が、傷ひとつない鏡のように眩しく輝く。なぜこれほどまでに美しいのか、それはここが完全なる無人だったからだ。
――――不思議なくらい人の気配がないここは、自力で調べ上げて見つけ出した穴場。恐ろしいぐらい何者の視線も感じない湖畔のロッジを、ネガイも気に入ってくれた様だった。
「―――はいッ!!」
と、笑みながら振り返って、抱きしめてくれる。
「危ないぞ。まだ荷物はあるんだから‥‥」
背負っている荷物をテラスに降ろして、ネガイを腕に乗せて持ち上げる。
「恋人は、感動を分かち合う物だそうです。私のこの想いを、あなたにも伝えたい‥‥。あなたはどうですか?ここは、気に入りそうですか?」
「—――ああ、勿論。ネガイと一緒にいるんだ、ここは必ず思い出になる」
「‥‥良かった。私、すごく嬉しいです‥‥」
頭と肩を抱きしめてくれるネガイの髪に顔を埋めて、しばしの静寂を楽しみ、湖の調べと涼しい風に身を晒しながら、お互いの呼吸音を骨で感じ合う。
「あなたは、私の期待に全て答えてくれますね‥‥」
「ネガイも、いつも俺の期待を超えてくれる―――良かった、気に入ってくれて‥‥」
無人な土地を良い事に、テラスに荷物を放置してネガイと共に桟橋まで歩み寄る。小魚一匹見えない鏡のような湖は、桟橋で抱き合うネガイと自分を映し出す。
「‥‥見えるか?」
「‥‥はい、沢山見えます」
湖の底にも、同じような山々と抱き合う自分達がいるように見えてしまう。同じだが、僅かに違う鏡移しの世界が、こちらを覗き込んでくる。けれど、同じ物も確かにあった―――向こうの世界でもネガイは美しく、自分達は恋人だった。
「少しだけ休みますか?」
「それもいいけど、荷物を―――いいや、少し休もうか。焦る必要なんてないんだから」
「はい、焦る必要なんてありません。ここには私がいるのですから、あなたはここにいるべきです。私の物であるヒジリに命令します、私の隣にいて下さい」
「‥‥勿論」
桟橋に座り、ネガイを膝の上に降ろして抱き締め合う。夏の日光も感じながら、湖を通して吹き付けてくる湖の風で身体を冷やし続ける。誰かが囁いているように聞こえる風が耳朶を叩く中、ネガイが頬に手を付けて顎に指を逸らしてくる。
「どうした?」
「‥‥あなたの顔が見たくなりました。ダメ、ですか?」
「いいや、俺もそろそろネガイの顔が見たくなった―――」
同じようにネガイの顎に手を伸ばし、指で僅かに上を向かせる。
「私達だけ―――いいのでしょうか?」
「‥‥心配か?」
「少しだけ‥‥」
あらゆるしがらみ、あらゆる思惑、あらゆる姦計—――それら全てをオーダー街に置いてきてしまった。オーダー省大臣の逮捕に関わった張本人たる自分が、数日も経っていないというのに恋人と休暇を取って、オーダー街を離れてしまった。
「マトイも、サイナも、ミトリも‥‥皆それぞれやるべき事をやっているのに。私だけ、こうして休みを取ってしまっています。オーダー街から逃げてしまっています」
「—――それは、違うだろう‥‥」
僅かに開かれたネガイの唇に唇を当てて、感触を確かめる。
「ネガイは逃げてるんじゃない。オーダー街から俺を遠ざけてくれてる。弱い俺を守ってくれてる。俺の立場は、今かなり際どい物になってるんだろう‥‥」
「‥‥マトイからそう聞いています。サイナの血縁者を逮捕した時から、徐々に特務課は勿論、オーダー本部からもそう見られ始めていたと。あまりにもあなたの作り上げてきた物が大きすぎて、諸人の手には収まり切れないと」
「‥‥ミトリがあれだけ付き添ってくれてたのは、それが理由だったのか」
「―――あなたがどこで襲撃されてもいいようにと、傍にいてくれました」
この数日、ミトリの夏季実習が始まる前までずっと傍で身体の調子を見続けてくれた。いつ何時襲われてもいいように。ネガイとの休暇中、体調を崩さないように。
「今、マトイのマスターが手を施している最中との事です。あなたのこれまでの経歴を―――分割して保存、関わった事件の経過報告書からあなたの名前を消していると」
「‥‥いつから俺は、エージェントにでもなったんだろうな‥‥」
「悲しいですか‥‥」
「‥‥どうだろう、わからない」
背中のネガイの髪を撫でながら、吹き抜ける風に手放す。
「自分の手柄がとか、そういうのはもうどうでもいいんだと思う。消そうが消さまいが現場にいたオーダーと、遠くから監視していた組織—―――特務課、祓魔師、流星の使徒。それ以外の結社の目を誤魔化すのは、もう無理なんだ‥‥」
一体どこから流れたのか知らないが、日本オーダー省大臣逮捕の件は、数秒で世界中を駆け巡った。気を使ったのが法務科かオーダー省かは知らないが、自分の写真はなかった――――。
けれど、ある程度の人員を持つ組織なら、一連の流れは調べがついているだろう。
「見られていたのですね」
「確証がある訳じゃない―――だけど、そう感じた」
黄金に染まっている瞳に、黒い化け物の眼球が映っている。
ネガイは、悲し気でも寂し気でもない。ただ自分の恋人が、どのような選択を選ぶのか待っている――――自身を女神と称したネガイは、裁定者のようだった。
「では、あなたを監視していた人間達を、あなたはどうしますか?根絶やしや殺戮にでも赴きますか?」
「まさか‥‥。それをするには、俺にはまだ実力が足りないってわかってる。結局、あの大臣逮捕だってあれだけの組織、法務科に査問科に情報部、外部監査科が膳立てしてくれたから叶ったんだ。俺一人じゃあ殺す事しか出来なかった」
最後のドミノを並べてすらいない。自分は、全ての機構が整った時に、軽く小突いて程度に過ぎない。それは最早誰かが押す必要すらなかったのかもしれない。
吹き付ける
「‥‥そう思いますか?」
「ネガイは、違うのか?」
「勿論、あれ程までの罠、あなたとの一騎打ちを作り出せたのは、彼らが全力を以って大臣逮捕という歴史を求めたからです。けれども、だからと言って、全てがそれだけで済んだとは、思っていません。斬り捨てた『彼』は、只者ではありませんでした」
黄金の瞳を湖に移したネガイが、そう断言した。
オーダー省大臣の護衛役にして文字通りの懐刀。『人斬り』の異名を持っていたあのオーダーは、オーダーとは名ばかりの人殺しだった。拷問の為、殺人すら辞さない彼は、あの大臣の多くの犯罪に関わっていた。
だからこそ、未だに刑が執行されていなかった。
「‥‥ああ、あの力を使わなかったら、多分斬られてたな‥‥」
「はい、私でも手間が掛かったかと。だからこそ、言わせて貰います、彼を斬れるようなオーダーは、あなたを除いてあの場にはいなかった。彼は、ある意味に置いて日本オーダー支部の頂点にいた者。そんな彼を斬れたのは、立場的にも実力的にも、やはりあなただけです」
あの刃を使えていなければ、俺はあっさりと斬り捨てられていた。
そうでなかったとしても、軽く言葉を交わしただけでわかった、あれは自らの行いを悔いてなどいない。全て今後の秩序の為を確信して行っていた――――必要があれば法務科であれ、外部監査科であれ、全てを斬って捨てていた。
「それと同時に、彼は自惚れていました」
膝から降りたネガイが、靴を脱ぎ始めた。
「自らの実力に自信を持っているようでしたが、マトイのマスターと比べるとまだまだ子供です。あの程度が大臣の直接護衛だと言うのですから――――オーダーも随分と様変わりしたようですね」
「‥‥設立時のオーダーを知ってるのか?」
「はい、記憶にあります―――『彼ら』はオーダーとは名ばかりの‥‥」
白い鋭いつま先を湖に付けたネガイが、可愛らしい声を上げて足を拾い上げる。どうやら想像以上に冷たくて、火傷か湖自身が足に喰らいついたように感じたらしい。
「大丈夫か?」
「平気です。私は、声なんて上げていません」
「‥‥ああ、何も聞こえなかった」
ネガイに肩を貸して、まずは片足だけを水に捧げる。しばし水紋を造り続けたネガイは、もう片方を少しだけ乱暴に水に突き入れる。楽し気に水を足で叩くネガイが、『どうだ』とばかりに、顔を見つめてくる。
「『彼ら』の話は今度にしましょう。上には上がいる、それを覚えておいて下さい。どこまで行っても彼らは
「そうだな‥‥。威圧感も実力も、マトイの師匠と比べれば、どれも勝ててなかったように見えた――――現場が違うんだから、求められる物も違うんだろうけど、あれは正面からやり合うのが得意じゃないっぽかったな」
けれど、正面から殺し合う訳ではないからこそ、あれは『強かった』のだと思う。
法務科の目的は、犯罪者の確保。あれら護衛の役割は―――殺してもいいから大臣を守護する事。捕まえると、殺すのとでは、求められる実力が天と地ほども違う。
「荷物を見てくるよ。ネガイは、しばらく休んでてくれ」
「はい、お願いします。実は‥‥限界でしたぁ‥‥」
桟橋に仰向けになったネガイが、大の字になって天を仰ぐ。長い髪を広げながら伸びをしてしまう程に、身体を凝らしてしまっていた。長時間の走行には慣れていなかったネガイにとって、なかなかの重労働だった。
「あ、後で責任者のいる棟に行くんでしたね」
「‥‥不思議だ。鍵がある棟と説明を受ける棟が違うなんて」
手の中の鍵を確認しながら、そう呟いてみる。この土地に入る時、施設管理者から鍵を受け取って、このロッジに案内されたが、荷物の世話が終わり次第、施設支配人という人間のいる棟に来てくれとの事だった。
それがここのルールと言われれば、それまでだが、どうにも不思議だった。
「‥‥まぁ、いいか。しばらく歩きたかったから‥‥」
自分も自分で長時間の運転に、足腰の関節を解きほぐしたかった所だ。湖畔の道を歩き続ける必要があるのだから、散歩としては丁度いいと割り切ろう。
「あとで迎えに行くから、待っててくれ」
「はーい‥‥わかりました‥‥」
「眠らないように気を付けろ」
その返事に、ネガイが「あなたじゃあるまいし‥‥」と返してくれたので、安心しながらロッジに戻る。テラスに放置してあった二人分の荷物をロッジに放り込みながら、軽く見渡してみるとわかった事があった。
「‥‥意外と、新しいのか‥‥?」
床板には傷ひとつなく、備え付けのソファーにも染みひとつとして無かった。システムキッチンは当然のように設置され、いわゆるアイランドキッチンの形を成していた。天井には形ばかりのシーリングファンが回っているが、その実態は外気を取り入れる箱のようなファンが天井近くで起動していた。
「—――さて、行くか」
オーダーとしての証明—――二人分の武器の類を旅行カバンから取り出し、背負い、ネガイを迎えに行く事にした。
腰にレイピアを差したネガイを連れて湖畔の果て、更に山の麓近くまで足を延ばし、支配人棟とやらの建物に赴いていた。自分達が宿泊するロッジから変わって、そこはホテル—―—―巨大な館のようだった。
「‥‥もしかして、私達のロッジは離れに近いのかもしれませんね」
「離れ?」
「はい、こういった土地の支配者層の人間達は、近場に『離れ』を作って血縁者達を住まわせたり、客人を迎えたりするのです。それと同時に、一目に付けたくない身内を軟禁したりも」
「軟禁か‥‥」
そんな自分とは縁遠い過去の歴史を教えてくれるネガイと共に、館の背の高い扉を叩いて待っていると、中から声が掛かる。
「‥‥どのような御用ですか?」
「ロッジに宿泊する者です。説明を受けに来たんですが、支配人の方はおられますか?」
「少々お待ちください」
扉から離れて行くのが足音でわかり、どうしたものかとネガイを見つめると、ネガイもネガイで困ったように顔を見上げてくる。仮にも客であるこちらを待たせて、それどころか事実上呼びつけるとは、どうにも違和感がある。
「もしかしたら、支配者がまだ存命しているのかもしれません」
「‥‥ずっと放置しておくには勿体無いから、貸し出してるって事か?」
「その可能性があります。どうやら貴族気分が抜けきっていないようですね」
「貴族かぁ‥‥」
やはり自分には縁遠い言葉や階級の話だった。
しばし待ち続けるが、先ほどの声、確実に女性の声が返ってこず手持ち無沙汰となってしまう。焦る必要などないのだからと思い、軽く館を見渡す事とした。
「移設してきたのかもしれないな‥‥」
見た目としては完全なる西洋館、開国から第二次世界大戦までに造り出された洋風建築だった。けれど、異人館から見受けられる煉瓦や石造りとは若干違う、木造の様式も見られる事から、移設と共に増築でもしてきたのかもしれない。
「もしくは、明治時代の権力者の見栄ですね。自分の力を見せつけたかったのかもしれません。自分の派閥の力を見せつける為に―――けれど、それも過去の物ですね」
ネガイがふり返って、それを言った理由がわかった。自身の権力の丈を見せつけたのなら、このように周りを放置するとは思えない。
洋館の周りは、樹々が生い茂り、人を出迎える為の道こそ除草しているようだが、枝が被さるように光を遮っている以上、洋館自体が暗い印象を与える。その上—――使用人へも、あまり教育が行き届いていないようだった。
「もしかして‥‥忘れられてる?」
先ほどから声のひとつもかからない。
試しに、もう一度扉を叩くが無言を突き通される
「もう帰りますか?」
「正直、それもあり‥‥」
「お待たせしました」
この声に待ったをかけるように、扉が開かれ使用人と思わしい若い女性—――少女とも言える人間が顔を見せる。表情は硬く目元も鋭かった。声にも柔和な様子はなく、どこか壁を感じさせる。
「こちらにどうぞ、中で説明をさせて頂きます」
クラシカルなメイド服、エプロン姿の使用人が扉の中へ誘うように手を向けるので、ネガイと共に館の中へ足を踏み入れる。
ネガイが自身の派閥の力を見せつけると言ったが、どうやらそれは正しかったようだ。出迎えるように巨大な階段が真っ先に姿を見せ、これも出迎えるように巨大な絵画—―光と影が特徴的な『レンブラント』のタッチを模写したかのような物だった。
ひとりの男に光が差し込み、その背後や左隣には口ひげを蓄えた老人が、そして右隣には鏡が描かれている。光と影の天才たるレンブラントには及ばないまでも、良い腕を持っているのは、間違いないのであろう。
レンブラントは、『ティプル博士の解剖学講義』という作品を切っ掛けに有名となった画家であり、代表作たる『夜景』においては、現代でもその名を轟かせた画才の持ち主だった。けれど、その後は妻を亡くし衰退の一途を辿った数奇な人物でもある。
「これは、すごいな‥‥」
あの方の玉座のような鮮血を思わせる巨大な絨毯、また鏡のように磨かれた大理石に、漆黒の樹と漆喰で造り出された壁、巨大なシャンデリア、それら全てを輝かせるように天井の窓ガラスから日光が差し込む—――やはり光と影であった。
だが、たったこれだけで己が力を鼓舞する必要があった時代、訪れた者達を恐れ慄かせ、己が権力の盤石さを見せつける為に力の全てを振っていた時の片鱗が見て取れた。
「こちらへ」
そんな時代に思いを馳せていると、使用人は焦らせるように部屋へと案内してくる。仕方なしと従って、扉から向かって右の廊下へと歩きづつける。
「この度は、当館のロッジをお借り頂き、誠にありがとうございます」
背中を向けて言われるとは、想像もしていなかった。
「やはり、あのロッジはこの館の離れなのですか?」
「その通りです。お借り頂いたロッジは、元はこの館の主の血縁者や自身が静養目的に作り上げた建物。けれど、長い年月によって朽ち果てしまい、既に原型も残っていません」
「ああ、だからあれだけ新しかったんですね」
「はい」
なぜだろうか。ネガイが話しかければ、それなりに対応してくれるが、自分が話しかけると、あまり言葉を返してくれない。そうせよと、教育されているのだろうか。
「こちらでお待ち下さい」
通された場所は、食堂とでも呼ぶべき長大な部屋だった。
やはり違和感がある。
これだけ巨大な館なのだから、応接間のひとつぐらいはありそうなものなのに、まるで招かれざる客のような扱いをされている事に一抹の不安が積もり始める。
「‥‥わかりました」
「あなたはこちらに」
そう言って、使用人はネガイの前に立ちはだかり、違う部屋へと連れて行こうとする。ネガイが首を捻って疑問符を浮かべようと関係なく、使用人はどこかへと連れて行こうとするので、間に割って入る。
「何故ネガイだけ別室なのですか?」
「‥‥支配人様のご命令です」
「その支配人様は、俺より偉いのか?」
「—――こちらへ」
何も答えない使用人は、遂には俺を払い退けてネガイの腕を掴もうとしたので、急いでその行いを止めようと身体と腕で壁を作るが――――遅かった。
「私に、なんの用ですか?」
無音でネガイがSIGPROを抜き、女性に突き付けた。
その瞬間、使用人が軽い悲鳴を上げて、尻餅をついてしまう。流石にオーダーの銃口を突き付けられたのは始めただったらしく、無意味に顔を手で守ろうとのたうち回る。
「私達は見ての通りオーダーです。無理に連れ去る、誘拐、監禁をしたいのなら―――覚悟して貰います。撃たれたいですか?」
「や、やめて‥‥ッ!」
「では、理由を教えて下さい。何故、私だけを?」
「わ、私はただの使用人なの‥‥!!言われた通りに動いただけで‥‥」
「そう言ってるが、これも命令通りか?」
食堂から一歩出て、廊下の果てからこのやり取りを眺めている使用人のひとり、もうひとりの若い女性が駆けるように歩き寄ってくる。
「も、申し訳ありません。これは‥‥」
「—――私は、ここに休暇に来ました。ここで銃を撃つ為ではありません」
銃を収めたネガイが、顔を振って同じように食堂から外に出る。ふたりで廊下に並び、上司らしい使用人に詰め寄る。16歳とは言え、身体中に武器を纏わせたふたりに顔を覗かれて、使用人の顔が蒼白に変わっていくのが見える。
「けれど、オーダーとして役目を果たすのは、やぶさかではありません。もし、このような事を訪れる客人に何度も行っているのなら、ここでオーダーを宣言します」
「お、お待ち下さい―――!!私達も、このような命令初めてで‥‥」
「—――では、その命令を下した人物の元に、案内してもらえますね?」
それがトドメとなり、新たな使用人の女性は崩れ落ちるように、床の絨毯に腰を下ろす。食堂の使用人に至っては、すすり泣き始め、話を聞ける状態でもなくなってしまっている。
「やはり、私達にはこういった事に縁があるようですね」
「‥‥面倒だな」
「ふふ、はい。とても面倒で、とても―――楽しめそうです」
甘い声を出したネガイが、恍惚の表情でレイピアの柄を撫でて女性に手を差し伸べる。ネガイのその顔を見てしまった使用人は、更に顔を白く染め、這いずるように逃げていく。
「そうやって案内してくれるのですね」
「流石に、それはないだろう」
這いずっている女性に手を伸ばして、半強制的に起き上がらせる。そこで呼吸が整った女性は、改めてこちらを見て、また恐れ慄き始めるので仕方なしと「案内しないなら、あなたを逮捕する。嫌ならご主人様の元に連れて行け」と命令すると、覚悟を決めたように足を運び始めた。
「それで、何故あの元大臣様はヒジリをあれだけ目の仇にしたのですか?」
「それがわかれば、ここまで苦労はしません」
「—――そうですね」
カマを掛けるつもりで聞いたというのに、マスターの答えは簡潔な物だった。自分では計り知れない事だがマスターならばと思ったが――――やはり、ここ数日の取り調べ資料の精査、それら全てを捜査したというのに何もわからなかった。
「特務課を強制的に捜査する為に、公安の人形を放置、しかもあれほどの事件を起こしたというのに―――その結果が、自身の犯罪の暴露、子飼いの私兵の逮捕。あのオートマタに至っては、そもそもなんなのかすら知っていなかった。あまりにも、割が合わない‥‥」
「彼を恨んでいた、と言われれば理由にはなるかもしれませんが、恨む程の事を彼は行っていない—――あの大臣も、所詮操られていただけなのでしょうか?」
「‥‥状況だけ見てしまえば、そうとしか言いようがなさそうですね」
彼の部屋にて、マスターと共に
「もしあのオートマタの価値を正しく知っているのであれば、彼を捧げて人形を得ようとしていた筈。だというのに、あの大臣は人形も彼も引き渡そうとしていた。運良く、特務課への捜査令状が取れたとしても、既に警察側が彼らをどこかへ移送させてでもしていたら、全てが無に帰されていた」
「こんな破滅的な捜査をした理由が恨みでは、やはり割に合わないですね。もしくは、あのふたりを天秤にかけてでも欲した物があった、という事ですか?」
「もしそんな物があったとして、未だに発見出来ていないのは違和感があります」
頭を振る制服姿のマスターは、なかなかケーキに手を伸ばさない。
「マスター、溶けてしまいますよ」
「ケーキが溶ける光景など見た事があるのですか‥‥」
思い出したようにフォークを手に取ったマスターが、スポンジを切り分けていく。
「あの大臣がどれだけ厚顔無恥だとしても、あの立場までのし上がった程の実力者です。自分に降りかかる火の粉には、人一倍気を配っている—――ならば、これはいずれ降りかかる火の粉を払う為の作業だった‥‥」
「けれど、マスター。取り調べの結果—――彼が自分の実入りを減らした事が、原因のように語っています。実入りとは、十中八九武器の密造かと思いますので、既に火の粉はかかっているのでは?」
「今更、言わせる気ですか?そんな物に、彼は関わっていない。あのヒトガタの研究所やサイナというオーダーの家の件で、確かに武器の類は捜査しましたが―――どれもこれも大臣が関わった形跡はなかった‥‥」
「そうですね。その上、オートマタを引き渡してまで特務課側を捜査したがっていたというのに、あの大臣様自身は彼に用があった」
取り調べ結果と、捜査結果の全てが矛盾している。
片方は彼が自身の事業に介入したから、警察に売ろうとした。
もう片方は、彼が大臣の事業に介入した形跡など存在しなかった。その上、あの大臣が巻き起こした、件の事件の中心にいたあのオートマタに至っては、オートマタという事すら知らなかった。
たまたま都合よく特務課が、『あの街』から盗み出そうとし、失敗したから白羽の矢を立てたのかもしれないが、それではあまりにも機運に任せ過ぎている。
「‥‥特務課による『街』への襲撃事件。改めて調べる必要がありそうですね」
「許可は取れるのでしょうか?」
「私達は、既に局となった部署のオーダー。許可は自身で下せます」
「では、私が行きましょう」
「‥‥まだ決まってもいないのです。言葉を慎みなさい」
やはり、この方はどこまでも優しい。敢えて突き放すように、自分の都合だと言うように、言葉を選んで述べてくれた。それが、自分にどこまでも嬉しかった。
「けれど、マスター。数か月前の特務課が行った『あの街』の襲撃、館からのオートマタの強奪。そして今回のオートマタ暴走に、彼を警察側へ売り渡そうとした諸々の行い。それら全てが、繋がりがないとは到底言えないのでは?」
「‥‥それはまだ結果論に過ぎません」
「けれど、マスターもそう思ったから―――『街』の事を口にしたのでは?」
「—――そうかもしれませんね。けれどその前に、下調べを行います」
あまりにも素直なマスターに面食らってしまい、目を丸くしていると、マスターが不機嫌そうに咳払いをするので――――思わず手を叩いてしまった。
「あのヒトに似てきましたね」
「‥‥それは、どちらのですか?」
「ふふ‥‥」
紅茶で口を衝きそうになった言葉を飲み干し、笑いかけてみる。
「マトイ、あなたこそあのヒトに似てきたのでは?」
「まさか‥‥私は、あそこまでダメではありませんよ――」
そう告げた時、マスターも向こうで良く見せた仕草—―――顔の上半分を手で覆って、顔を振り始めるのだった。
「その‥‥実を言いますと‥‥」
レンブラント風の絵画の真下で急に歩みを止めた。上階へと続く階段を目の前に、新たに現れた女性の使用人が何かを口ごもり始める。軽くネガイに視線を向けて、一歩後ろに下がって貰い、使用人に話しかける。
「どうしたんですか?何か思い出しましたか?」
「‥‥私達もこの屋敷の主には、会った事がなくて」
「なのに、命令をされていたと?」
びくりと、肩を震わせた使用人は、ぜんまいが途切れかけた玩具のようにコクコクと頷くだけにとどめてしまう。しかしそれを伝えられた使用人本人は、胸のつかえが取れたとように、安堵の息を吐く。けれど、こちらからすれば溜まった物ではなかった。
「‥‥そんな戯言、二束三文の時給で、私を連れ去ろうとしたと?どれほどの理由があろうと、オーダーに通報させていただきますけど、いいですね?」
自身の身の安全ばかりに気がとらわれていた使用人は、振り返って懺悔でもするようにネガイの足にすがりつくが、そんな人間に一瞥もしなかったネガイは跨ぐように無視して階段を上る。
「話になりません。面白みのひとつでもあればと思いましたが、所詮はこの程度ですか」
「みたいだな。どうする?通報するか?」
「そうしましょう」
「お待ちを」
上から差し込む影に、上から見下ろすという行為、自身の方が格上と言わんばかりの態度にネガイと共に僅かな心のさざめきを顔に浮かべながら、降って来た声に視線を向ける。
「私達は、当然の権利を振り落とそうとしているに過ぎません。あなたに、『通報』を止められる程の理由があるのですか?」
「私には御座いませぬが、私共の主様ならば、それだけの『力』をお持ちです」
絵画の上、階段の果てには初老と思わしきスーツ姿の女性が立っていた。
本来、客である自分達を上から見下ろすという扱いも然る事ながら、顔も向けないで鼻を高く上げた女性は、やはり何処までも見下ろすという行為に執着しているかのようだ。
「では、その主とやらをここに連れて来てくれますね?」
「‥‥主様にお会いになりたいなら、ご自分の足を運んで頂きます」
「話になりませんね」
スマホを取り出したネガイが、タッチひとつでオーダーに通報、けたたましい電子音が、近場のオーダーへ問答無用で通達されたという事実を知らせてきた。
このような場であれ、オーダーは日本中の何処へでも駆けつける。
しかも、街から1時間程度であるのなら、茶を沸かす時間で訪れるだろう。
「‥‥っ!!」
「この屋敷がどれほどの力を持っているのか、知る気もありませんが、わざわざ罠だとわかっている部屋に行くと思いますか?私の容姿に見覚えがあったのかもしれませんが、あなた達のご主人様は、もはや没落した貴族の末路を辿っている。話を聞く価値さえありません」
続け様に放ったネガイの言葉の数々に、初老の女性は手すりに爪を立てた。同時に表情こそ余裕を保っていると言えるが、僅かに目元が鋭くなったのが確認出来る。
「‥‥このような事をして、主様がお許しになると思いますか?」
「では、言わさせて貰います。その主様は、本当にいるのですか?」
「‥‥」
無言の答えに、ネガイの鼻で笑う音が木霊する。しかし、
「今は、おられません。けれど、あなたが此方に来て下されば‥‥」
「偶然目についた私に頼らなければ、姿さえ見せられない。それはいないと同意義では?」
「そこで悠長にしてて良いのか?ただ待ってるだけで、オーダーが来るぞ」
ネガイの直後に言い放ち、二重の意味で焦らせながら、女性同様手すりに手を掛ける。ここから離れる気はない、疑いを晴らすのは自分達の役目だと伝える為に。
「支配人って聞いたけど、こことロッジはもう殆ど無関係みたいだな。お前達がオーダーに任意同行されている間に、好きに使わせて貰う。もう金は払ったんだから」
「はい、重ねて言わせて貰いますが、私達はここに休暇で来ました。私達もしばらくここで待機する事となりそうなので、『離れ』は拠点と使わせて貰います」
「勝手な事ばかりをッ!!」
絶叫と同時に背中から取り出した得物を見て、声を出してしまった。
「日野小室式拳銃‥‥第二次の骨董品か。そんな物を持ち出してどうする気だ?」
「所詮子供ねッ!!これの価値をわかっていないなんて‥‥」
「少なくとも、子供の俺の方が使い方は知ってるみたいだぞ?そのままで撃てるのか?」
それを告げた瞬間、訝しむように手を曲げて銃身を傾けた隙を狙う。
撃鉄を親指で起こしながら、銃身をガンベルトから引き出したと同時に軽くなった引き金を引く。目視不可能な0.2秒足らずの間隙を縫った357マグナムによって、真上に弾かれた日野小室式拳銃は飛び上がったネガイによって回収され、初老の女性の眼前—――手すりに着地したネガイがSIGPROを突き付ける。
「どうやら、こういった物のコレクターでありガンスミスでもあるようですが、使い手がただの使用人では話になりません。自分の為にも、こういった物は『本家の血筋』以外が持ってはいけません。本当に滅びますよ?」
真下にいる自分では、理解出来ない言葉を言い渡したネガイへと首を垂れるように初老の女性が崩れ落ち、この光景を見た真後ろの女性も同じように階段に座り込んでしまった。
「私達の役目に、見当が付いている筈でしょう‥‥なのに通報なんて‥‥」
「知りません。私の知った事ではありません」
手すりから降りた事で姿が見えなくなったネガイが、手錠の音を鳴らしたので、こちらも同じように手錠を取り出して足元の女性の手に掛ける。
休暇で来たとは言え、オーダーの敵は数多い。
手錠や拳銃の類を置いて来ている筈がなかった。
「わかってるの‥‥?私達が消えたら、この世界が‥‥」
「だから知りません。それに、世界だと言いながら、所詮はこの屋敷一帯の話に過ぎない。話の規模を大きくさせて自分の行いの正当性を謳う犯罪者は、あなた以外にもいます―――どうやら真っ当な家系でもなさそうですね。何処で盗んだのですか?」
ヒールの硬い靴底が、絨毯下の板を叩く音がした。
ネガイの言葉は正解だったようだ。
「大人しく話した方が良いのでは?そちらの世界の貴族から、盗み出された品があなたの手から発見されたと知られたら、逃げ込む場所すら消えてしまうのでは?」
脅しとは言えない、ネガイからの助言を聞いた女性は自身の背骨を震わせるように笑い出す。ヒールをばたつかせて、立ち上がろうとしているようだが何度も倒れてしまう。
「‥‥やっぱり子供ね。そんな事しか想像出来ないなんて」
「では、それで結構です。しっかりとあなたが持っていたと知らせるので」
その瞬間、何もかもが終わったかのように、狂い嘆く女性の、のたうち回る音が響いた。
「素敵なロッジですね‥‥」
楽しげに呟いたマトイが、更に楽しそうに微笑む。
「仕事中だったのですね。驚きました」
「私も驚きました。まさか、ここで休暇を取っていたなんて‥‥」
テラスにて、灰色と黒髪の美少女達が茶会を開催していた。その傍らには、化け物たる自分一人。ネガイ持参の茶葉に舌鼓を打っているマトイは、ロッジが誇る鏡面のような湖に見惚れ、感嘆の声を漏らしていた。
「マトイにも、話していなかったのですか?」
「長期の休暇、バカンスとはそういった物。行き先も告げないからこそ、本当の息抜きが出来るのですよ―――まぁ、しっかりとGPSで辿らせて貰っていましたが」
「流石だな‥‥」
心の底からの感想を吐露した時、「光栄です‥‥」とカップに口を付けながら、返してくれた。
通報の折り返しにマトイの声が聞こえた時、多少の驚きはあったが、ある程度の想像はしていたので、安堵感を覚えてしまった。
けれど、まさか直接会う事になるとは。
「それで、あの白いローブの人間達は一体‥‥?」
「ああ、気にしないで。彼らもオーダーの一員。私達のような割と表立って動く部署とは違って、情報部のような影に潜みながら役目を遂行する方々だから。彼女らの様な特殊な犯罪者に、よく派遣されるプロですから、任せて大丈夫よ」
ただの風景だとでも言うように、先ほどの女性達を連れ去った者達を紹介した。
けれども仕事モードだとしても、この環境に幾分もリラックスしているマトイの言葉遣いは、普段の三割増しで優しげな物だった。
その上、ネガイのお茶もあるので、尚更上機嫌な事もあり、
「聞いてもいいか?なんで、マトイがここに‥‥」
「言えません。ふふ‥‥諦めて‥‥」
「じゃあ、そうしよう」
隙は見せないと言わんばかりのマトイの微笑みの牙城は、いつ何時でも難攻だ。
「では、すぐに行ってしまうのですか?」
「構わないの?ふたりの邪魔に成ったりしない?」
「いいえ、マトイが邪魔になった事などありません。せっかく旅先でも会ったのですから、マトイも一緒に休暇を取ってもらえれば、私もこのヒジリも喜びます」
そうなのか?そう聞きたそうに見つめてくるマトイに、頷いて返す。
「では、少しだけ時間を頂きますね。マスターも、私に暇を言い渡しそうにしていたので―――」
「暇?」
「そう、暇」
やはり、それ以上の言葉を使わないでマトイは、カップに口を付けて終わらせてしまう。イミナ局長もだが、マトイも大臣逮捕に尽力、関わってしまったオーダーのひとりだった。今、変化の時に来ているオーダー街にいては、マズイのかもしれない。
「それに、マスターも今は私に構っている暇も無さそうだったので、少しだけ寂しくて。みんなもそれぞれ帰省したり、仕事や実習に赴いてしまって、事実暇だったの」
「マトイが暇か‥‥珍しいな」
「ふふ、私だって忙しくない時ぐらいありますよ。まぁ、あなたと一緒にいる時は、大抵忙しかったので、仕方ありませんけどね」
「それもそうか。マトイと一緒にいる時は、大抵俺は利用されて、使われてたんだから、暇な時なんてなかったな」
少しだけ針を刺してみると、マトイは『それはそれは楽しそうに』カップと茶菓子のクッキーに手が伸び続ける。その光景にネガイも、楽し気に溜息を吐くに留める。
「では、今回も少しだけお仕事に付き合って下さいね。彼女らの目的は、どれだけわかっていますか?」
「正直な所、私達は全くと言っていいほど、何もわかっていません。私の事を知っていたのだから、特殊な家の者達であるのは間違いなさそうですね――――あなたは、どう思いました?」
「俺も、似たような感じだ。て、言うより俺はそもそも相手にされていなかったみたいで、食堂に置いて行かれそうになったから。少なくとも、ネガイに用があったのは、間違いなさそうだった」
鍵を借りた管理人も、既にマトイが連れてきた白いローブのオーダーに取り調べを受けていた。けれど、管理人はただの雇われに過ぎないらしく、詳しい話の一切を知らなかったようだ。
「十中八九、あなたのその容姿が目に付いたのでしょうね。つまり、その容姿と血筋についても知り得ている。理由はいまだわかりませんが、家の主がいなくなってしまったから、あなたを欲した―――仮定の話は、苦手ですから、まだわからない事ばかりですね」
ネガイとマトイは、既に家主は消えたという『仮定』で進んでいる事に、さほども気にしていなかった。
「口を挟むけど、なんで家主がいないってわかるんだ?」
当然の常識として進んでいた話に、待ったを掛けるとふたりが思い出したように息を漏らす。
「そうですね‥‥。あなたの言うう通り、何故そう思ったか、そこから調べないと‥‥」
「決めつけは危険ですね。危ない所でした‥‥」
「あぁ‥‥別に、俺がよくわからないから聞いただけで、」
謝罪でもない言葉を発するが、ふたりはふたりだけの世界の話を始めて、きっかけを作った自分は置いてけぼりになってしまい――――手持ち無沙汰となった。
仕方なしと、席から立ってテラスの手すりに腰を下ろし、湖を眺める。
やはり鏡のような湖は、完全と見間違うほどの円、満月や銅鏡とも言い表せる姿を誇っていた。今の今まで話題にもならずに、ここが放置されてきたと考えれば、宝の持ち腐れという以外なかった。
「綺麗な所‥‥」
思わず口を衝いて、その言葉が零れてしまう。太陽の角度によっては、目を焼く恐ろしい光だったとしても、目を向けずにはいられない。その上、現在は軽く雲が湖の真上にあり、明暗のバランスが不自然だからこそ、この瞬間瞬間が尊く感じる。
「ああ、そうだ‥‥このロッジ」
振り返って聞こうと思ったが、やはりふたり共俺を放置して話し込んでいた。不平不満を、今のふたりに伝えたとしても、「後で‥‥」と言われるのは、目に見えていた。
「少し、歩くか‥‥」
そう思い立ち、テラスから飛び出して湖の桟橋まで足を運ぶ。
「さっきの気持ちよさそうだったから‥‥」
ネガイに倣って、靴を脱ぎ捨て桟橋から湖に降ろす。冷たい水に一瞬手酷く爪を立てられたが、それもすぐ様済み、軽い抵抗感だけを残して己が内に迎えてくれた。
「‥‥悪くないな‥‥」
湖によって冷やされた風に抱きかかえられながら、冷たくて深い水、深淵に足を落とす。どこか母体をも思わせる包容力に身を預けて、しじまを楽しみ続ける。
「これをひとり占めしてたんだろう‥‥。どうして、帰ってこなかったんだ‥‥」
確かに都心までは遠いとしても、別荘としては最上級の物であるのは、間違いない。あの森の中の洋館も、使用人達の態度さえ目をつぶれば、良い物だった。
「—――誰だ‥‥」
洋館の姿を、『目』を使って衛星撮影のように見通した時、あの使用人達や白いローブのオーダーとは違う―――別の数人が眼に映った。
「‥‥どうでもいいか」
見覚えがある数人ではあったが、気にしなければいい。そう確信して目を閉じる。
改めて目を開けると、そこにあったのはやはり湖ばかり。魚一匹跳ねない水に、足で水紋を造り出している自分の姿だった。
「どうしました?ひとりでなんて‥‥」
「ふたりが構ってくれないからだぞ。寂しかった‥‥」
少しだけ『マトイの真似』をして棘を差してみると、背後から長い黒髪を垂らしながら首に手を回される。取っ掛かりひとつない滑らかなら黒髪が頬を撫で、甘い吐息を耳に滑り込ませてくる。
「震えてる‥‥。くすぐったい?」
「‥‥気持ちいい。続けて‥‥」
「あなたの望むままに‥‥」
耳朶に喰らいついたマトイが、唾液の音を響かせながら吐息で頭蓋を貫く。
「ネガイとは、話した?」
「‥‥少しだけ」
「どうだった?」
「—――考えない事にした。今はまだ」
結局、マトイと共に話した結論と同様の答えを、ネガイとも弾き出してしまった。いまだ迷っている自分を抱えている俺を知っているふたりは、時間を造り出してくれていた。
「では、そのように‥‥」
「俺、逃げたばっかりだな‥‥」
「そう思う?なら、そうなのだと思います」
相変わらず―――容赦がなかった。いっその事、後ろから心臓を貫いてくれれば、あの腕で絞め殺してくれれば、そう願っている自分がいる事すら、マトイならば知り尽くしている。だから、そんな甘い終わりを許してくれない。
「ネガイ、なんて言ってた‥‥?」
「あなたの世話をするには、私ひとりでは手が足りません。マトイにも、付き合って貰いますって。ふふ‥‥彼女も厳しいですね、逃げ道を全くくれなくて‥‥」
「お互い、ネガイには世話になりっぱなしだな‥‥」
「ええ。ネガイには、感謝してもし足りない。あなたを救ってくれたのだから‥‥」
首を抱いてくれているマトイの腕を抱いて、湖を見続ける。
「私の事、まだ許してない‥‥?」
「—――それは、自分で決めてくれ」
「ふふ、あなたも相変わらず厳しくて優しい‥‥」
「厳しくされるの、嫌いじゃないだろう」
この言葉に返事はなかった。
黒髪の恋人は、深く頷くように肩と首の間に、口付けをしてきた。
「彼女がいません‥‥」
「あなた達が見たのは、確か三人だったとか?」
「はい、女性の使用人がふたり、上司の女性がひとりでした」
ネガイとマトイと共に、洋館に足を運んだ時だった。洋館の中で見た使用人達も逮捕されたとの事だったが、見かけた顔のひとりが渡された写真の中にいなかった。
「私達を扉から部屋まで案内した、『あの女性』がいません―――逃げ出す可能性を考えるべきでした‥‥」
「いいや、あれだけ驚かせて部屋の中で待つように言ったんだ。誰かに連れ出されたって考えた方がいい。もしくは、まだ洋館の中にいる」
一番最初に案内された洋館の食堂にて、三人で相談していた。当初は、何故食堂なんだ?と文句のひとつでも言いそうになっていたが、よくよく見ずとも家財道具や調度品などなど、金糸のカーテンひとつ取っても、それが一般的ではないとわかる。
「隠れているかもしれない――――その女性は、如何でしたか?」
「いや、ただの使用人だ。銃口ひとつ向けただけで腰が抜けていた。演技じゃない」
もし自身の意思ひとつで潜行したのなら、彼女は多少なれど腕に覚えのある人間だ。ならば、オーダーの銃口ひとつに身を屈めたりしない。よしんば、あれが演技であったのなら、彼女はイノリにも匹敵する『プロ』だった。
「‥‥森に逃げ出したとして、街まで降りるのに時間が掛かり過ぎる。一体どこへ‥‥」
「探すか?」
「ただ逃げ出しただけかもしれない一般人の為、あなたの『目』を使わせる訳にはいきません」
マトイがそう断言すると、ネガイは一瞬だけ口元を緩める。
「その彼女については、外の方々に任せましょう。私達は、この屋敷の在り方について調べる事にします」
その意味は、今更聞くまでもなかった。この屋敷の主が、何故ネガイを連れ去ろうとしたのか―――ネガイをオーダーに留めていた者達自身か、留めざるを得ない状況に陥れた者達なのか。けれど、それらの区別に、意味はないかもしれない。
どちらにしても、根本から叩き潰せばいいだけだった。
「‥‥私も一緒にいいですか?」
「ふふ、勿論」
簡潔な回答に、一瞬影が差した顔から輝かんばかりの光が放たれる。
「この屋敷にはネガイが求められていたんだから、ひとりにする訳ないだろう?ここにいる間は、ずっと一緒だ」
「‥‥はい、当然ですよね」
「ああ、当然だ」
僅かに、ネガイが自身の髪に触れようとして手を挙げたが、胸に当てて瞑想を始める。
「‥‥落ち着きました。何から始めますか?」
「まず最初は、この屋形を調べる所から始めます。気になる部屋はありますか?」
「では、あの絵の上、階段を登り切った廊下の奥に行きたいです。責任者と思われる女性は、廊下の奥から現れました」
「はい、ではそのように」
マトイの腕を引いたネガイが、駆けだすように食堂の外に足を延ばす。その後ろについて行こうとした時、わずかに視界の隅―――窓の外に影を見つけるが、目を合わせるまでもなく、『それ』は消え失せてしまった。
「―――面白いじゃないか」
「どうしましたか?」
振り返っていたネガイが、マトイと共にドアノブを握っていた。
「いいや、なんでもない。行こう」
ネガイとマトイの間に割って入って、ふたりの腕を引いて廊下を踏みしめる。
疑問符を上げるネガイとは対照的に、マトイは思い当たる事があるのか、軽く笑んだような声が聞こえた。
廊下を渡り、再度階段を登り始めると、やはりあのレンブラント風の絵画が目に入る。自分の頭から胸以上、腹部にまで達する広いキャンバスを全て塗り尽くす、むせ返るような絵の具の重厚感に、目を向けなければならないと言われているようだった。
「これはこれは‥‥」
「知ってるのか?」
「いいえ、けれど、これに似た方向性の物は、何度か見かけた事があります―――特別な物であるのは間違いので、出来る限り触れたくはないですね」
「確かに、これは良い物だ。あるべき所に飾られるべき絵画だと思う」
マトイもこの絵が気になるようで、額縁の前をゆっくりと通過していく。
「そうだ、貴族とか言ってたけど、それって―――」
「あちらの世界の貴族、という意味です。両親と違い、私はあまり関わった事はありませんでしたが、誰もが思い描くような華族そのものと思って下さい。表にも顔が利くという事は、魔に連なる者達の中でも、それ相応の立場を得ているという事です」
「ネガイは、違うのか?」
「私ですか?自ら、そう名乗る事はありませんでしたけど、他所からはそう言われていたかもしれません。‥‥もし、出会ったとしても関わり合いにならないように」
その意味が理解できず、首を捻った所で、数時間前に見降ろされていた手すりに到着した。廊下の先は、想像通り木目調の壁に燭台、毛足の長い絨毯が敷き詰められて、そられの果てには両開きの巨大な扉が待ち構えていた。
「魔に連なる者の貴族とは、長い時を掛け、表以外の世界を牛耳る事に成功した―――卑怯者達の事だと覚えておいて下さい。自身の派閥を大きく育て上げる為、集落や村、それどころか街ひとつを己が魔道に捧げる事すら、厭わない者達です」
「—――あの研究所の人間達みたいだ」
ふたりの腕を引きながら、『目』を起動—――赤に染まり出す視界のまま、歩き続ける。長い時間を掛けて、表以外を牛耳った証として、この屋敷を構えるに至ったのなら、それはとてもお粗末な終わりを迎える事となったようだ。
「貴族って、言えば聞こえはいいけど、こんな地方に別荘どころか本家を構える事になるなんて‥‥権力闘争にでも、負けたのか?」
「ふふ‥‥」
その問とも言えない呟きに、マトイが微かに笑って返した。
「そうですね、私もそう思います。魔に連なる者達は、己が闘争に明け暮れた見返りに、数を減らし続け、こんな地方に身を固めてしまったのですから。彼らの権力闘争には、敗者はいたようですが、勝者と呼ばれる平定者は、どうやら生まれなかったようです」
「平定者—――ふふ。そんな者がいるのなら、もう少し彼らも幅を効かせて街を歩けていた事だと思います。自分達で造り出したと自惚れた、あの用意された檻を誇る事なく、外で没頭出来ていたでしょうね」
ふたりの話は、やはりふたりにしか理解できなかった。深く聞いた所で、あまり詳しくは教えてくれないのも、やはり目に見えているので、諦めるしかなかった。
「扉の向こうは、どう見えますか?」
「‥‥書斎、というよりも社長室みたいだ。開けるぞ」
ふたりの手を離した所で、杭で押すように開ける。そこには目で透視したように、重厚なデスクが出迎え、コートや帽子を掛けるポールハンガー、後は本棚程度しかなかった。強いて言えば、ソファーが向かい合っており、応接間でもあるようだ。
「意外と質素か?」
「人を出迎えて、見せる部屋ですから、あまり自身の手の内を教える者は置いていないんだと思います。マトイは、どう見えますか?」
「いくらか、小粒程度に気になる物はありますが、どれも量産品ですね」
不用心に屋内を闊歩し始めたふたりは、壁や本棚に手を付け始める。
「危なくないか?」
「むしろ危ない事が起こってくれれば、面白みがあったのに‥‥」
本棚からデスクの引き出しに手を伸ばしたマトイが、ごそごそと中を漁り始める。よくよく考えなくとも、せめて手袋でも装着すべきなのに、ふたりは素手のまま調べている。
「不思議ですか?だけど、大丈夫。そういった表面上の証拠は、『彼ら』にとって些細な物ですから」
「そういうものか」
「そういう物です」
「そういう物なのですよ」
ネガイとマトイの言葉を信じて、自分も扉周りを漁り始める。けれど、そこにあるのは一目で高いとわかる柱時計、金の燭台、そういった家財道具としか思えない物ばかりだった。
「無理せず、少し休んでいて下さい」
「‥‥そうするよ。ごめん、役に立たなくて‥‥」
「大丈夫です。後で活躍できると思うので」
「なら、それまで待ってるよ」
ネガイに背中を押された事で、大人しくソファーに座って待つ事にした。
ふたりが黙々と―――些細ではない証拠を探し続けているの中、自分ばかりまた手持ち無沙汰となってしまい、座り心地が悪くなってきた。
だが、話かけて手を止めてしまっては、いけないので縮こまるしかない。
「ふふ‥‥、借りてきた猫という感じですね」
手を止めずに、ネガイにそう呼ばれたが、その通りでしかないので猫に成りきるしかない。初めて来た家で、震えている猫とはこういった心持ちなのかもしれない。
「そう思うなら、構ってくれ‥‥」
「もう少し待っていて。そろそろ―――」
デスクを調べていたマトイが、そう告げながら引き出しから『何か』を持ち上げた。それは数世紀は経っている、海賊が使っていたような拳銃だった。
けれど、それそのものではない弾丸と共に雷管と呼ばれる火薬を詰める『パーカッションロック式』の銃身は、巨大なデリンジャーを思わせた。
「そんな骨董品、まだ撃てるのか?」
「趣味の範囲であれば発砲も可能でしょうが、使い手がいなければそれ止まりですね」
マトイとしても、それ以上の可能性は感じないらしく軽く握って遊ぶような仕草をするだけで、デスクの天板へ乗せるに留めた。
「これは、本物のようですね」
そう言って、ネガイが壁にかけてあった装飾品だと思い込んでいた猟銃、これも数世紀は昔のマスケット銃をデスクに並べる。
ソファーから立ち上がって、三人で拳銃類を並べるが、特段興味深くはない。
「コレクションって感じだな‥‥、手入れはされてるみたいだけど‥‥」
拳銃の方と持ち上げて呟いてみるが、やはり面白くない。マスケット銃の方にも、当然弾丸など込められていないので、殺傷は皆無で、ソソギのように振り回せる程の耐久力もない。
「やはり、その『目』は‥‥」
「ネガイ?」
「‥‥どうやら知識としてなければ、視る事は出来ないようですね」
「—――魔に連なる者の力なのか」
「間違いなく」
ネガイの言に、マトイも頷いてみせた。知識としてなければ、この眼では見通せない。『あの時のふたりの契約』も、マトイが小出しに知識を与えるという条件が含まれていたのを、思い出した。
「彼女が取り出した拳銃、あれも特別な物でしたが、この猟銃は比ではないようです。拳銃の方は使い手を選ぶきらいがあるようです。彼女も魔に連なる者—――ここの使用人の大半がそうだったようですが、これを使いこなせる程の腕は持ち合わせていなかったのですね」
「気付いてたのか?」
「勘でしたが。少なくとも、私の事を知っているのなら、こういった力の持ち主達であっても不思議ではありません」
マスケット銃を手にしたネガイが、興味深そうに撫で始める。
「けれど、どんな魔に連なる者達でも、弾丸には勝てません。彼らも人間である以上、どれだけ人間から離れようと傷を負ってしまいます。彼女らがあれだけ銃を恐れたのは、今まで『こちら側』は向けられた事がなかったからかと」
「‥‥この二つは、証拠として提出しますね。まぁ、貴族の家からこれらが発見されたからと言って、特に罰せられる事もないのですけどね」
自身の布で包み込んだ銃器を、マトイが抱える。
「魔に連なる者も、オーダーなのか?」
「この国で魔に連なる者と名乗っている方々は、総じてオーダーの庇護下に収まっています。中には、オーダーを嫌っていずれなりとも消え去ってしまう者もいますが、そういった方って‥‥くふふ‥‥」
急に引き笑いとなったマトイが、法務科でも普段の物でもない―――夜の雰囲気を纏い始めたので、ネガイと目を合わせてマトイの両肩に軽く手を当てる。
「あ、えっと‥‥?」
「取り敢えず、それを持って行こう。ローブのオーダー達も、これから屋敷を調べるんだろう?俺達だけ、この部屋を調べ回るのは、向こうの縄張りを荒らす事にならないか?」
「―――そうですね。そう言えるかもしれませんね」
落ち着いたマトイの腕から包まれた銃器を回収して、一足先に扉に向かう。
「これが欲しいなら、まず名乗ってくれないか?」
「あなたに名乗る名前は、持ち合わせていません」
年若い女性―――この声は、『あのホテル』でついこの間聞いた覚えがあった。
「私としては、それの価値など知った事ではありません。けれど、回収せよと言われている限り、その役目には徹しなければなりません」
「じゃあ、自分の上司に名乗れ名を貰って来てくれ。名前は、この世界で自己を証明する唯一性を持ってる。持っていない者には、物は与えられない」
「―――待っていなさい」
どこかへ駆ける足音を聞きながら、ソファーに座る。
「流石ですね。少し疲れましたか?」
「この程度なら、汗もかかないから大丈夫。それに、人払いをしたかったんだ―――ふたりは気付いてるか?」
この問に、ふたりは薄く笑って返してくれた。
「なら、今更確認するまでもないから、単刀直入に聞く。何がいる?」
「この手の話ならば、治療科の女子生徒達が救護棟に泊まっている日、夜な夜な話し合っていました。―――誰かに手を掴まれた気がしたから振り払っても、誰もいなかったと」
「法務科にも、何故か誰も収容されない拘置所の一室があると。そこに入った被疑者の大半が―――何者かを見て、叫び声を出していたとか」
ふたりがそれぞれ、『そういった話』をしてくれた事で、自分と同じ物を感じ取ってくれていたと、安堵する。
「どうやら、ここは常世、幽世の住人が闊歩する土地のようですね。マトイは、実際に見た事はありますか?」
「ふふ‥‥想像に任せますよ。ネガイは?お化けは嫌い?」
「いいえ、そろそろ見たいと思っていました。オーダーとして、隠された秘密は探究すべきです。それに、こういったお話、私は寝物語に母から聞いていました」
向かいのソファーに座ったふたりが、楽し気に談笑し始めるので、それを眺めながら柱時計を見つめる。先ほどから、何故か逆回転を始めていた、時の逆行を望む世界の離反者を。
「‥‥いい土地じゃないか。どうか、生身の人間程度には楽しませてくれよ」
「そこにいたのは―――幼子の顔と身体を別々に持つ、母親の姿でした――」
仮眠室には楽し気な悲鳴と共に、布団を被って本当の悲鳴を迸せる治療科の女生徒の声が木霊していた。自分は、もっぱらこういった話は好ましく、毎年の夏に放送されるドラマは、欠かさす見るぐらいだったので――――もちろん前者だった。
「あーもう‥‥やっぱりミトリは怖がってなーい!」
「あ、うんん。そんな事ないよ、とても怖かったから‥‥」
「じゃあ、膝を笑わせるぐらいしてよー」
「あはは‥‥」
今のところ、この内心が誰にも伝わっていない事に、感謝してしまう。怖い話は大好きで、誰もが腕によりをかけた、磨き上げた話を持ち寄ってくれるこの環境は、とても楽しく―――とても有難かった。
「ミトリなら仕方ないよ。だってミトリの部屋に偶に行くと、こういう映画とかドラマとかよく見せられるし。怖いのをここまで楽しめる人って、そうそういないと思うよ」
「だから、頑張って持ってきたの!!中等部でも、結局最後まで怖がらなかったのが悔しくて!!」
数人の同期達が、自分の話を始めてしまう。それは、どこかこそばゆいながらも懐かしくて、ネガイに出会う前の時間を共にした友人達との時間が、とても尊かった。
「ていうか、ミトリが怖がるところって見た事ないんだけど。怖がり中枢とか、無い人なの?」
「そ、そんな中枢神経はありませんけど、ごめん‥‥反応が悪くて、つまらない‥‥?」
「ぜーんぜん。むしろ納得したかも、あのヒジリ君と付き合ってるなら、それぐらいの豪胆さがないとって」
ホラーな話から、急転直下―――自分にだけ恐ろしい話に振り切ってしまった。
「豪胆さなんて‥‥。あのヒトは、すごいヒトだけど、特別怖いとか変わってる訳じゃ‥‥」
自身の膝にかけてあった毛布を引き寄せて、つい愛想笑いをしてしまう。あのヒトとの関係は、もはや隠す事すら出来ないレベルで、治療科の中には浸透していた。何故なら、ネガイが学校に用事がある日の放課後、何度か彼の送り迎えを受けていたからだ。
「彼の近くにいる人は、みーんなそう言うけど、そうじゃない私達にとって、彼ってちょっとした偉人なんだよ。あのイサラにソソギさん、トップ10入りの人達が、全員一歩下がってるくらいだし」
「‥‥実は、私、そのランキングって最近知ったんだけど。やっぱりあのヒトは、有名人だったの?」
「有名人も有名人、あれだけの実力者全員から声を掛けられて、結局誰の手も取らないで中等部を卒業したんだもん。あ、もちろん、それだけじゃないんだからね」
「それだけじゃない‥‥?実力的な意味って事?」
そう聞いた瞬間、仮眠室中の全員が、そうだと頷いた。完全なる肯定に面を喰らっていると、怖い話には定評がある同期のひとりが、顔を振ってわざとらしく溜め息を吐く。
「そ、それは私だって、彼が凄い実力者だと知ってます!!」
「じゃあ、なんで彼が5位って位置付けられてるか、知ってる?」
「え‥‥あのランキングは、実力で付けただけじゃ‥‥」
「それがそれだけじゃないんだなぁ〜。ミトリは知らないかもだけど、あの人には師匠がいるって知ってる?」
初耳な疑惑に、思わず目を開いてしまう。そんな話は、初めて聞いた。彼からもそんな事は聞いていなかった。話す機会が無かったからかもしれないが、そんな素振りもなかった。
そして、この話は皆が皆、初耳だったようで全員が声を出して顔を見合わせる。
「師匠‥‥?その人も有名人なんですか?」
「姿さえ見せないって事でね。言っちゃうと存在してるかどうかも不明、この学校の制服こそ着てる姿を発見されてるから、姿は持ってるみたいだけど生徒かどうかもわからない。年齢不詳、学科不明、最後に見たのは―――あの防衛訓練の情報科のテント」
「情報科ですか?なら、シズクさんに、」
「そのシズクさんでさえ、姿は一度も見てないの」
スマホを取り出して聞こうとして手が止まってしまう。オーダー本部にさえ自身の扉を持ち合わせている彼女が、一度も視認出来ていない。それはそのまま、監視カメラの類にも、一切己が姿を晒していないという事実、視認不可能の実力だった。
「‥‥だけど、あれだけ人がいた中で現れたなら」
「ところがね。そこにいた人皆んなに聞いても、顔を覚えてないの。彼の言葉遣いで先輩の生徒って事は間違いないんだけど」
誰かが声を発した、「まるで蜃気楼のようだ」と。同時に、その名はこの救護棟は勿論、学校中に知れ渡っているある都市伝説の一つでもあった。
蜃気楼――――すなわち『霧の人』という彼方の住人の話。
「霧の人、ですか‥‥。その『霧の人』に習ったから、彼はあれだけ凄いですね‥‥」
それこそ、あの夜にモーターホームで見せつけた射撃は、今思っても人間離れしていた。人外である彼だから可能な技術なのだと納得させていたが、それだけで理解出来ていた訳ではなかった。彼の行う技術の幾らかに、時たま類を見ない物もあった。
「その先輩に習ったから、ヒジリは5位に?あ、ヒジリさんは5位に?」
「あ、やっぱり、普段はそう呼んでるんだね〜。うん、そうだよ。まぁ、あの動きを彼が独自に造り出したって言われれば、そこまで。所詮、都市伝説なんだけどね」
自身の話を終えて満足したのか、傍らのスナック菓子に思い出したように手をつける。
「私は、見た事ないんですが‥‥皆んなは、見た事、ある?」
振り返り、周りを見渡しながら聞いてみるが、誰もが首を振るだけだった。先輩方であるならば、知っているかもしれないが―――その霧の人が、国外で実習、仕事を受けているとしたら、入学以来数える程しか姿を現していないかもしれない。
「気になる感じ?」
「‥‥少しだけ。だけど、きっと探してもいないんですよね」
「うん、そーいう都市伝説だからね」
それがこの話の締めとなってしまい、いつの間にか造り出されていた緊張感も、解かれていくようだった。誰もが息を吐き、次の怖い話を求める声を発した。
「じゃあ次はね‥‥この救護棟の―――深夜の見回り中に起こった事なんだけど」
「こ、この棟のですか‥‥」
「あははッ♪ありがとう、怖がる反応してくれて~」
唐突に始まったこの棟の怪談に、誰もが耳を貸し始めた。そんな周りの反応に、その気になった同期のひとりがわざわざ気を利かせて室内の明かりを消し去った。
「―――実はね。ついこの間、先輩達と話してた事なんだけど、私と先輩のひとりが巡回の番になった時、今は誰も使えない部屋の前を通った時、違和感があってね」
その部屋には心当たりがあった。彼が入院していた部屋であり、直後にあの人が使った部屋だった。事実上、あの部屋は法務科が買い上げていた。
「違和感‥‥?」
「違和感って生易しい物じゃなかったよ。完全に、人の息が聞こえたの‥‥」
あの部屋は法務科が買い上げている。何故なら、まだあの部屋には彼の血が残っているかもしれないからだ。誰彼構わず通す事すら出来ない。
—―――何が起こるかわからないからだ。
「‥‥あの部屋は鍵が掛かっているのに、中から人の気配があった。当然、先輩も聞こえた筈だから、中を確認するべきだって訴えたんだけど、無用だって言われたの」
「‥‥おかしくない?救護棟内で異常が発生、確認されたら速やかに異常の捜査、解決が義務なのに。それに、その言い方なら先生達にも伝えてなかったんでしょう?」
「そう言われたように、私も感じたの。だから先輩の前では従ったんだけど―――後から先生にも伝えたの。あの部屋から誰かの声がするって‥‥。だけど、先生も調べる必要はないって」
これはホラーではない、救護棟全体に蔓延する『疑い』を増長させる事件だった。
「聞いた事あるよね?ここには『何か』がいるって話」
「‥‥聞いた事は、あります。だけど、そんな物、今まで見た事も‥‥」
「この棟は、何かを収容している」
遮るようにも、断ち切るようにも発した言葉に、一抹の不安を握らせた。
「何を収容しているか―――遠い土地にあった、『遺物』を収容してるって話があるの」
「遺物、ですか?」
何故だろうか。その単語には、耳馴染みがあった。
「そう、遺物。まぁ、その言い方が正しいか知らないんだけど。その遺物は正体不明、行方不明、だけど確かにこの救護棟にあるって話なの。じゃあ、具体的に何があったのかって所を話けど―――皆んな、思い当たる節、あるんじゃない‥‥?」
投げ掛けてきた質問に、自分は首を捻るしかなかったが、周りは違った。皆が皆、肩を抱いたり頭に指をつけたり、思い思いの仕草を取る。
「あの‥‥遺物と部屋の中からの話と、どう関係が?」
「―――そっか、ミトリは聞いた事なかったんだ。ここに入院している患者は、今の所誰も死んでいない。そう言われてこそいるけれど、実際はひとり亡くなっている。なんで死んでしまったのか―――その『遺物』に出会ってしまったから」
まるで妖怪や魔物、ドッペルゲンガーの類のようだ。
「その‥‥遺物に殺されるんですか‥‥?」
「それはわからない。視界に収めた瞬間、心臓が止まるのか、それとも目を合わせた瞬間、不可視の力で殺されてしまうのか。だから、その遺物がどんな姿をしているのか、誰も知らないの。出会った人は、死んでしまっているから」
流れるように紡がれた声に、あくまでも『怖い話』である、という線を超える事はなく見えるが、その実、まるで『神話』か『おとぎ話』を聞いているようだった。
しかも、この話は、この
「今の所、亡くなってしまったのは、そのひとりだけって言われてるの。ひとりしか死んでいないのは、運良く誰も会っていないから?—――それは、違うって思ってる。—―――遺物は、相手を選んで殺そうとしている」
この言葉の意味がわかってしまった。これは、彼か彼女の事を差している。
「‥‥あの部屋に入院している人を、狙っていた?」
彼が、あのまま、あのふたりに始末されなければ、既に退院していただろうか?そんな筈がない。間違いなく、彼はあの部屋に戻っていた。それどころか、そもそも彼がこの学校に戻って来ようとした時、あの部屋を予約していた。
今も、あの部屋に囚われていた筈だ。
「それが、私が息を聞いた日なのかどうかは、もう今となってはわからない。だけど、もしあそこに入院していた人を連れて行こうとしていたのに、失敗しているのなら―――無差別に連れて行こうとするかもしれない」
またも唐突に電気が付けられて、数人が悲鳴を上げた。
「怖い話とは、ちょっと違ったかな?」
「い、いいえ‥‥。とても怖かったです‥‥」
「お、ミトリを驚かせられたのなら、ちょっと自慢できるかも~」
誇らしく看護服の胸を張る同期に、苦笑いを返すしか出来なかった。
彼の話は、法務科の彼女曰く、至秘の枠に扱われていると聞いている。ヒトガタに、彼方の神の血、彼が成し遂げてしまった偉業に、敵対した研究施設。そのどれもが彼を構成する時間と秘密である以上、それらの全てを秘匿するしかなかった。
「あ、そろそろ巡回か。次、誰だっけ?」
「わ、私です」
掛けてあった毛布の中から手を上げると、誰もが安堵の息を吐いた。
自分でなかった事に、安心しながら―――ミトリであった事に安静となった。
「ミトリかぁー。さっきまでの話を聞きながら、おっかなびっくり行くのは誰かと思ったのにー」
毛布から立ち上がり、枕元に用意してあった銃器を腰に差して準備を整える。
ここは救護棟なのだから、一体何から身を守る必要があるのか、と問われればはっきりと――――『否』と言える。これは守るではない。
逃げ出そうとする患者を、確実にベットに戻す為の装備だった。
「ここは救護棟ですよ?おっかなびっくりじゃあ、取り逃がしちゃうじゃないですか」
「流石、ヒジリくん専属看護師ミトリ!あの彼の笑顔にも、正面からダメと言えるのは、この治療科の中でもミトリだけでしょうね~」
「そんな、私だけの筈がありませんよ」
多くのベットが並ぶ仮眠室の中を、装備の最終確認をしながら歩き、出口へ辿り着く。けれど、呆れるように笑う同期達の声に、振り返らずにはいられなかった。
「あの‥‥どうしました?」
「あはは‥‥流石ミトリって話—――ミトリが世話しない時間、どれだけ彼のお願いに、みんなが耐えたかわかる?」
「‥‥またわがままを言ったんですね。今度、わがまま言ったら、叱って下さいね」
そう皆に伝えながら外に出て、先輩方へ頭を下げ、出歩いている患者を叱る。
過去、数世代程前の病院では、看護師達はキャップを被っていたらしいが、キャップに使われている素材が雑菌の温床になるとして、今は皆、髪をそのまま晒していた。
「巡回に行ってきます」
「はい、気を付けてね」
それだけの短い会話と報告を先輩と交わし、受け取った名簿を手に、入院階へと足を延ばす。ひとりで乗り込んだエレベーターから降りた時、自然と目を引かれてしまう休憩エリアの自販機を眺め、巡回を開始する。
「‥‥息が聞こえた、そう言ってた‥‥」
名簿を確認すれば、なんの事はない。普段通りに入院している患者の部屋を確認して、寝息を立てていれば立ち去り、寝たふりをしていれば小声で「怒りますよ」と告げて、布団の中のスマホを取り上げる。
「今回は返しますが、明日も同じならお仕置きです!」
長い髪の先輩が、申し訳なさそうに、同時に寝たふりには自信があったのか、驚いた目をしながらコクコクと頷いて返してくれるので、スマホを手渡す。
「おやすみなさい。わかりますね、今はまだ警告です!」
先輩に対しても毅然と接しろ―――それが、この棟で看護服を着る者の役割であり義務だった。文句を言い返す筈がない、救護棟の治療科とは、こういう存在だと教え込まれるからだ。
それぞれの部屋を回り、叱り、苦しんでいる患者がいないかの有無も確認する。
やはり、なんの事もない。普段通り、傷に痛み、
「‥‥普段通り。あんな事、彼ひとりしかいなかったんだから‥‥」
今も脳裏に焼き付いている。身体中は血塗れだというのに、その発生源たる身体は、半透明だと言い切れてしまった。半開きの眼は生気などなく、何かを求めるかのように手を解いていた彼は―――形ばかりで、人間には到底見えなかった。
血のりをばら撒いた人形だと、言ってしまえば誰もが頷いた事だろう。
「この部屋‥‥」
入室不可の札が掲げられた扉に、息を呑む。
何かが漏れ出ている訳でも、ましてや声が聞こえる訳でもない。だけど、やはりこの部屋は自分にとって特別であった。
「結局‥‥退院させて上げられなかったなぁ‥‥。ふふ、それが今は、彼の部屋でお世話なんて」
わがままで甘えん坊で、その癖いじめられっ子で―――とても可愛くて。普段は絶対に曲がらない、鋼のような男性なのに、部屋に戻れば膝を求める猫のようだった。
「子猫‥‥うん、やっぱり猫の感覚なのかな‥‥?」
ベットの上で腹を見せて、甘えてくるあの姿はまさしく猫の物だった。
「ふふ。こんな事言ったら、怒っちゃいますね。またいじめてあげないと―――治療科式のお仕置き、あんなに喜んでくれるなんて‥‥」
部屋の扉を後にして、過ぎ去ろうとした時だった。
「息‥‥?」
「実を言いますと‥‥ちょっと不安だったんです‥‥」
マトイという、外の世界にも明るい友人にネガイは首を垂れていた。
世間知らずではないと自負していたネガイだが、キッチンの機能や収納、エアコンの付け方に至るまで毎回四苦八苦しながら操作していた。それを見兼ねたマトイが須く手慣れた様子で始末を付けていく姿に対し、救世主の光でも見たかの如く縮こまっている。
「実を言うと、私もあなた達だけを送り出すのは、不安だったの。ふふ‥‥」
うな垂れながら感謝するという、巨大な宗教の礼拝にも似た姿を、灰色の麗人はソファーの上で取っていた。そして一念発起したネガイが、ソファーから飛び降りて隣に立つ。
「荷物は、これで全部か?言われた通り周りを見渡して来たけど、今の所は何も起こってないみたいだ」
「ありがとう。私も、少しだけ長期の宿泊をする予定だったから、重くはなかったですか?」
「全然。俺達も同じくらいだったし、普通じゃないか?」
マトイから指定された荷物を車両から運び、宿泊するロッジに戻った所だった。
荷物自体は差程も問題無いが、森と山脈へ目を凝らしながら歩く道は、景色を楽しむ暇など持ち合わせられなかった。荷物を軽く玄関に下ろすと、不可思議そうにネガイが声を発した。
「あの鎌はないのですか?」
「あれだけの長物ですから。それに、あれは流星の使徒の得物、マスターの許可も無しに勝手には持ち出せないの。私も、もっと振り回したのに、あなたにはまだ早いって」
初めてのブランド物や化粧の話でもする調子で、ネガイを抱きしめながら続けていく。そんな扱いに小首を傾げる、小動物にも似た反応をするネガイに、マトイは尚更微笑んでいく。
「何も起こっていないと言いましたね。では、彼らの反応はどうでした?」
「正直、気に障った。あれで隠してるつもりなのか?『盗み見る演技』でも見せられてる気分だった。眺めながら口を半開きにするのも気に食わないし、わざとらし過ぎるくらい、目も泳いでる」
「見た通り、彼らは魔に連なる者。私達のようなオーダーの本筋とは違うから、こういった技術には疎いの。許してあげて」
「‥‥マトイが言うなら、そうするよ。だけど、」
「だけど?」
「何故、あそこまで俺を見てくるんだ?魔に連なる者としての腕が、どの程度か知らないけど、あの方を理解出来るとは、到底思えない。はっきり言えば、モルモット扱いにも感じた」
あの目には覚えがある。孤児院で、研究職の人間達がガラス管に向けていた目と同じだった。目の前にある肉塊を、自分の快楽の為に消費したとしても、何ら問題はないと言いたげな物だった。
「魔に連なる者達は、総じて探求者です。彼らにとって目に映る物は、全て自身の礎になり得る物。あなたの話は、あちら側にも当然に届いています。あちらにとっても、同じ力が二つとないあなたに、惹かれているのでしょうね」
「‥‥この目みたいだな」
ソファーにどさりと座り、天井のシーリングファンを眺める。甘い木の香りに満ちたロッジは、目を閉じるだけで森林浴にも似た静けさを提供してくれる。
「少し疲れました?」
「いいや、まだまだ。色々あって少し緊張してるだけだよ。別の事を考えよう、あの拳銃は渡したけど、本当に良かったのか?」
「見つけてしまった以上、渡さざる負えない、と言ったところですね。私達が見つけ出すまで待っていた―――いえ、誰かしらの手で遅かれ早かれ見つけ出されていたでしょうから、なんにしても彼女らの手に渡っていた。一目でも見れて、幸運だったと判断しましょう」
「‥‥そんなに貴重な物なのか」
マトイから外の湖に視線を向けて、もはやアンティーク調と言えてしまうあの拳銃を思い出してみる。巨大な銃口を持つ姿は、ミトリの用いているデリンジャーを、そのまま巨大化させたかのようだった。ボール状の鉛玉を、砲弾の如く発射する過去の栄光を想像すると、渡してしまって惜しかったのではと思ってしまう。
「あの銃が、欲しかったのですか?」
「‥‥そうかもな。だけど、ネガイが言っていた通り、あれは特別な血筋じゃないと使えないんだろう?」
「はい、あれはその道のプロに任せるべき、危険物です。資格を持つ専門家に引き渡すのは、当然の判断。惜しかったと思っているのなら、あなたはまだ魔に連なる者達を理解し切れていません。反省して下さい」
自分が思っていた以上に、この思考は危険だったようで、強めに叱られてしまった。ソファーに縮こまって、「‥‥気を付ける」と告げると、マトイの腕の中から満足気に頷いてくれる。
「ふふ、怒られてしまいましたね。あの銃についても、この辺りにしましょう。彼らはその道の専門家、専門家の解析が終了するまで、現場の私達が出来る事は散策、パッチワーク程度。それも今日はここまでに‥‥」
「わかった、そうするよ」
ネガイを離したマトイが、くるりと振り返ってキッチンに戻ると、その後を追うように灰色の髪を振ってネガイが着いて行く。叱られてしまい、バツが悪くなった自分は、大人しくする他なかった。
「‥‥湖まで行ってくる」
ふたりにそう告げて、ロッジから飛び出すようにテラスの板床を踏みつける。心地いい軋む音を鳴らしながら、砂利、続いて桟橋まで足を運ぶと世界が変わったかのような涼しい風が頬を叩いてくる。
「さて、少しは真面目に探すか‥‥」
瞬きと同時に、中天の星に呼びかける。交信の返事に、金星と宝石の星の、ふたつの星は瞬く間に支配権を明け渡してくれる。誰に許しを請う必要もなく、ふたつの眼は、素直に眼球としてこの湖一帯を見降ろし、その情報と結果、直接脳に降り注いでくれる。
「‥‥なんだ‥‥?」
違和感など最初からあったのだから、予想外も想定内だった―――なのに。
「‥‥霧?」
この身体に備わっている目と、星々から見降ろした結果が、それぞれ違っていた。
ふたつの
「さっきまでこんな物は、それに、この眼で見通せないなんて‥‥」
『仮面の方』の力は何よりも強大だった。比類する物などない、比較する事すら無礼と言えてしまう、圧倒的な力そのもの。そんな方から寵愛を受けているのが自分だと言うのに。だというのに、深い霧は霧として佇んでいる。
「‥‥舐めるな」
自身の眼球に血を通し、『化け物としての格』を身体に降ろす。この霧は、どこまでも行っても、肉体を持った何者かによって造り出された壁でしかない。
そして、それを造り上げた者は、総じて人間でしかない。
ならば―――あの方の血と同化し、階段を数歩進んだ自分には、到底敵わない。
「‥‥もうひとつ館があるのか」
血を通した眼の視界の情報を、星に送信、自分の座っている桟橋の位置情報を元に星々から自分を見つけ出す。そこでようやく掴めた。
深い霧に包まれた湖へ、身投げでもするかのような自分、そしてそれを地上から俯瞰するかのように建てられている森の館達を。湖を挟んで生い茂る森の奥に隠された黒い森の更に奥、そこに新たな館を見つける。
「—――あれは」
「そこまでです」
後ろから慣れ親しんだ声と共に、柔らかな灰色の髪が覆い被さった。
「‥‥温かい」
「普段からあなたが抱いている身体ですから。温かくて当然です。無理をしましたね」
肩を引く手に従い、振り向き様に差し出された腿へと頭を預けた。冷たい湖から漂ってくる冷気と、温かくて柔らかいネガイの身体に意識を奪われ始める。
「目が真っ赤ですね」
軋む痛みに苛まれていた眼球が白い温かな手により解かれていく。ふとした瞬間には眠りの世界に落ちていきそうな微睡みの中、更なる快楽を求め、縋りつく様にネガイの身体に手を伸ばした。
「積極的ですね。まだ夜ではないのに‥‥」
傷ひとつない、もう片方の腿に触れてしまった事に気付いた。瞬時に体温が上がり、火傷しそうな程熱くなる身体から離れようと、咄嗟に上体を上げるが、真上から抑え込まれる。
「あなたの恋人の足ですよ。いつも通り、好きなだけ求めてもいいと、許可してあげましょう」
「‥‥まだ辺りを、あのオーダー達が出歩いてるかもしれないぞ」
「そこまで求めていたなんて。流石に、ここでするなら夜に────落ちないように気を付けましょう、初日から消費するなんて‥‥帰るまでに足りなくなってしまいます‥‥」
末尾に進むにつれ、弱々しくなるネガイの声で心意に気付いてしまった。誤解を解こうにも、この場で重ねられたらと想像し────この妄想を振り払うべく、寝返りを打って顔を空に向ける。
「どうだ?今の時間は」
「ん?申し訳ないと思っていたのですか。とても楽しいですよ。私達ふたりがいて穏便な旅行など出来る訳がないと思っていたので。それに、こういったちょっとした旅行先でのトラブルは、旅の醍醐味だと思っていました――――ごめんなさい。今の時間、とても楽しんでいるんです」
「‥‥良かった」
今の状況は、第二のオーダー街の時と同様だろうか?
否、大いに違う。あの時は、最初から罠を仕掛けられていた、自分は餌であり生贄であったが、此度は違う。ネガイの言う通り、これはちょっとしたトラブル。楽しむべき旅先での
「あなたはどうですか?」
「‥‥実を言うと、俺も何か起こってくれるといいかなって。今を楽しんでる自分がいるんだ」
「もし、何もなければどうしてました?」
「いつも通り、ネガイに甘えて、それで‥‥」
「それで?」
少しだけ意地悪な、夜中の顔で尋ねるネガイが、今は何よりも愛おしかった。わざと胸を押し付けて、挑発でもするかのような仕草に笑みが零れる。この意地悪な恋人が何よりも、
「特別、ネガイを好きになる―――」
「霧の人‥‥?」
扉を開けた瞬間、夏場だというのに鳥肌を覚える冷気が首元を撫で上げる。けれど、そんな些細な物に気を引かれる事はなかった。
眼前の人物に、息をも忘れてしまったからだ。
月明かりに包まれた麗人は、灰色の友人でも、黒髪の友達にも勝るとも劣らない容姿の持ち主。
背中を隠す程の長いスミレ色の髪に、スミレ色の瞳、同性でも息を呑んでしまう肉感性に、骨と内臓でも切り詰めたかのような細い線を持った美しさに、それ以上の声を喉から絞り出す事が出来なかった。
「彼は?」
「‥‥えっと、」
「彼は、どこに?」
振り返って問い質す眼球に、自分の姿など映っていなかった。
「あなたなら、彼が何処にいるか知っている筈。彼はどこにいるの?」
「い、今は‥‥」
喉が焼き付く。視認すら出来てしまい兼ねない美しい声に、耳を奪われ、開けっ放しの喉と口がひび割れていくのがわかる。唾液の一滴として生まれない自分の身体が、他人の物ように感じる。
「私には、教えたくないというの?」
視界の中にいた麗人が、ただの一歩で喉に触れてきた。
瞬きなどしなかった――――する暇もなかった。
見逃すほどに視線を外す事もなかった――――そんな隙などなかった。この麗人が、オーダーの先輩だというのなら、自分などよりもはるか傑物。
彼の師だという話も、頷けてしまう気がした。
「答えなさい。彼はどこに?」
「あ、あの人は‥‥」
「彼は?」
「—―――あの人を、どうする気‥‥?」
その返答に、麗人が初めて自分を見た気がした。
「あなたには、関係の無い事。私の言っている意味がわからないというの?」
喉に付けられている指の爪が冷たくて、鋭くて、彼女のほんの気の迷いで温かな自身の血を浴びてしまう未来が、易々と想像できた。そのおぞましい光景には見覚えがあった――――この部屋で、この眼で、カーテンを朱に染める彼を見たのだから。
「私の質問に答えないから、こちらも答える義理はない。あなたこそ、彼をどうする気だと言うの?」
「私‥‥?」
「彼を、ここで殺したのは、あなたも」
その言葉に心臓を掴まれた。この声に脳中の血が凍り付いた。
「彼女達を連れてきたのは、あなただった。あの夜、彼女と彼の雰囲気の違和感には、気が付いていた。最悪の事態だって、想像出来ていた。なのに、見逃したのはあなた。朝食を頼まれた時、この部屋を離れる事に不安を持ったというのに―――あなたは、逃げ出した」
絞り出す声など最初から持ち合わせていなかった。そんな資格、自分が既に手放していたのだから。自分は、守るべき、守りたかった彼から逃げ出した。
それだけじゃない。信じて、疑うべき友人からも逃げ出してしまった。
「逃げ出したあなたが、今更彼に何をするというの?」
「わ、私は、彼の、ヒジリの‥‥」
「彼は優しいって、誰もが知っている。彼の情は誰よりも柔らかくて甘美な物。だから誰もが彼に惹かれ、彼もそれに応えてくれる―――彼を殺したあなたが、恋人を名乗る権利があると思っているの?」
彼は、ネガイとマトイ、そして私を傷つけた事を深く後悔し、贖罪の時を過ごしている。だというのに――――自分はどうだった?彼のように、裁かれたか?
そもそも、裁かれたいとも思ってすらいなかったのではないか?
「優しい彼の愛情に、彼を傷つけたあなたが浸っているなんて。誰もがその立場に憧れているというのに、その地位についているのが、あなた?」
「‥‥私は、だけど、彼を―――」
「彼を愛したいのなら、好きにすればいい。だけど、彼を気に掛けるという『偽善』を張れる程、あなたは『綺麗なまま』だとは思えない。あなたに、彼を連れていく権利なんてない。あなたは、どこまで行っても、こちらでもただ逃げ出しただけの脱走者」
首を突き飛ばすように押され、力などとうに抜けていた腰から下が床に落ちてしまう。見上げる気力すら残っていない自分を、『霧の人』は尚も見つめたままで、「彼はどこ?」と問いかけてくる。
「‥‥あなたは、彼のなんですか‥‥」
「答える義理なんてない。彼に、一握りでも後悔があるのなら、」
「答えて下さい―――あなた、誰なの?」
「—――私は、彼の導き手。彼の」
「そんな事は、聞いていません!」
腰が引けたまま、顔も向けずに叫んでいる自分は、どこまでも無様で恥知らずだった。けれど、けれども、問わなければならなかった。
何故、彼が一度もこの人を事を話さなかったのか、想像してしまったから。
「あなたは、彼のなんですか?彼から、なんて言われたんです‥‥」
立ち上がって、胸に付けているカルテを強く抱きしめる。
「あなたが彼の師範だという話は、聞いています。だけど、それはあなたと回りの人からそう聞いているだけ、私のヒジリからそうは聞いていません!」
彼への贖罪など、自分は持ち合わせていなかった。想像もしていなかった。
自分の恥知らずさ加減に嫌気が差す。ベットで死にかけている彼を脅し、無理やり彼の生い立ちを問いただし、泣かして、自分からは一度も告白などして来なかった。
何もかも、自分は受け身で、彼の膂力に付き従っていただけだった。
「あなたは、彼からなんて言われてるんですか!?私のように、彼からの告白に、返事をしましたか!?あの人の生まれに、話を聞いてどう思いましたか‥‥どう答えたんですか!?」
「‥‥何が言いたいというの?」
「本当に、あなたは『彼』を探しているんですか‥‥彼を見ていましたか‥‥」
自分も同じだった。
彼の実力、容姿、言動、それらに惹かれた者など多くいる。自分もその中の一人に過ぎなかった。だけど、彼の内面はそれを補っても有り余るほどに、どこまでも深淵で、どこまでも恐ろしかった。到底、自分ひとりでは埋めて上げられなかった。
「‥‥あの人を怖がって、今まで姿も見せなかったんじゃないんですか」
「—――知った口を利かないで。あなたこそ、彼の何を知っているというの?」
「知ってます!!少なくとも、あなたよりもずっとずっと知ってます!!だって、私はあの人の恋人だから!!あの人の胸の穴を埋めて、埋めないといけないってわかった、人間の裏切り者!!それが私です!!」
血が身体中を巡るのがわかる。怒りじゃない、悲しみでもない。ましてや哀れみですらない―――これは、プライド、自分の誇りであり信念だった。
「あなたに、ここまでの地位に上がる勇気を持てますか!?誰もが、逃げ出して、誰もが彼を恐れて捨てて行った。そんな彼の苦しみを理解してあげられる!?」
武器に伸びる手など持っていない。今出来る事は、カルテを抱きしめて一歩、ただ一歩前で出る事だけだった。けれど、ただの『一歩』に目の前の麗人がたぢろぎ、スミレ色の髪で顔を隠していた。
「彼をどうする気ですか!?じゃないと、どこにいるかなんて答えられません!言わないと、ここであなたを捕まえます!!オーダー治療科、ミトリとしてここにオーダーを宣言します!!ここにいる理由を答えなさい!!さもないと、あなたをここで――」
「止まりなさい」
振り返るまでもなかった。既に、その声の持ち主が『霧の人』と自分の前に割って入っていた。叫んだ拍子に酸素を使い過ぎた、酸欠で視界が揺れるのがわかる。
「自力で立っていなさい。我らの誇りを、廃らせる気ですか?」
立っていたのは、マトイの
「‥‥まだ立てます」
「結構」
身を切り裂くような殺気を『霧の人』から感じるが、それは自分に対してだけでない。目の前の白いローブのオーダーに対してもだと、迸る洪水のような殺気だからこそ気付く事が出来た。
「‥‥なんの用ですか、スクルド‥‥」
「その名は既に捨てました。けれど、その名を呼ぶのであれば―――敬称をつけろ」
身震いする声だった。
足元から手が伸び、肩や頭を無理やりにでも下げらさせるが如き圧力に息を忘れ、膝を付きそうになる直前だった。
「背筋を伸ばしなさい。私の背にいるのなど、珍しくもないのですから」
「‥‥あ、あの私‥‥」
「怯えるのなら後で、その疑問を知りたいのなら自身の内を探しなさい」
それ以上は何も言わず、目隠しをしたオーダーは、今も殺気を送り続けている眼前の『霧の人』からの圧迫感に、自身の身から溢れる神にも似た威厳で圧倒し始める。
「‥‥スクルド様、何故あなたがここに‥‥?」
「我らの力を使えば、例えこの世界でも我らであれば誰もが気付きます。その上、全力の力の行使の前兆など気付かない筈がない。今の今まで目零していただけです」
「‥‥では、私を止めに来たと?彼女は、我らの」
「彼女は既に人の身。我らは守り手として、この世界に顕現している。私的な理由、勇者の簒奪で個人を殺害するなど、到底見逃す訳にはいきません。退きなさい」
「—――私達の役割は、崩壊を先延ばしにする事。彼女なら、それが出来ると?」
「‥‥フッ」
鼻で笑うような様子に、『霧の人』は更に殺気を纏っていく。
「彼女だけで出来ると?そんなもの、不可能に決まっているでしょう。そんな事もわからず、彼を求めていたなど。随分と自身の力を見誤っているようですね」
「ならば、あなたなら出来ると?」
「導き手など不要です。既に、崩壊は免れました」
息でも吐くかのような言葉に、『霧の人』が怒り怯えた。そのまま崩れ落ちるのではないかと、自身の今までの人生には何の価値もないと断罪されたかのような言葉に、自分もたじろぐ程の悪寒を感じ取った。
「我らの役割など、こちらに来た時点で別の物と変わりました。我らが出来る事など、外的要因による崩壊の先延ばし、既にそれさえ彼は自らの手によって掌握、塵としました」
「なら、私はどうしろと‥‥」
「好きにしなさい。いつまでも、あの世界の役割に執着しているのですか?」
完全なる無音の、漆黒の槍の一撃。首を断つ襲撃に、目隠しのオーダーは避けもしないで、二本の指で受け止めるだけだった。僅かに届いたのは風ばかり、自身の髪を揺らす一撃に―――なぜだろうか、覚えがあった。
「彼の力を伸ばすという役割に、自身の存在意義を見つけ出したのだと判断していましたが、やはり何も変わっていなかったのですね。今まで、己が身を遊ばせていた報いを受けなさい。命令です、私の元に戻りなさい」
槍を手放した『霧の人』が、やはり絶望したような顔を怒りに染めていく。
「誰が‥‥あなたの下になんて‥‥」
「ならば、自力で見つけ出しなさい。彼の為でも自身の為でも、いずれ新たに起こる崩壊に、己が槍で何が出来るのかを。二度目です、退きなさい」
胸を抑えた『霧の人』が、吐き出しそうな面持ちのまま窓から外に飛び出して行った。その行いに、必死に追い付こうとしたが肩に手を置かれて、止められる。
「こ、ここは!!」
「あの程度で、私達が傷ひとつでも負うと?」
「だ、だけど‥‥」
「落ち着きなさい。少なくとも彼女はあなた以上の実力者、4階からの落下など、彼でも出来る事です。気に留める必要もありません―――それよりも」
肩を掴まれて、振り返らされた時、もう片方の肩も掴まれる。
「どこまで、覚えていますか?」
「そろそろか‥‥」
網の上にて肉—――牛だ、豚だ、ソーセージだを焼き焦がしていた。無論、それだけではなく野菜と菌類も、炭で焼き続けていた。
「落ち着く‥‥」
風が良く通るお蔭で、火の勢いが途切れないで済む。コンロなど不要だと言わんばかりの放射熱が顔を照らし出す。それだけではない。強い鮮やかな炎は、ただ眺めているだけでホモサピエンスとしての本能、火を操る唯一の種族を―――模している自分の心をも穏やかに整えてくれる。
「ここは良いですね。涼しい風が通るので、虫が寄り付かなくて‥‥」
「気に入った?」
「はい、とても‥‥」
私服に着替えたマトイが、肩に頭を乗せながら呟いてくれる。元から艶やかな唇をしていたというのに、炎の光によって化粧された薄い桃色だったそれは、血でも啜ったかのように、深紅に染まっていた。
「また、見惚れてますね」
「‥‥ずっと見ていたいんだ」
こちらはつむじに口付けをしながら呟いた。拒む仕草をしなかったのを良い事に、肩を抱いて強く引き寄せる。けれど一瞬、ほんの僅かに声を漏らしたマトイを思わず手放してしまう。
「わ、悪い‥‥!痛かったか‥‥」
「相変わらず、怖がりですね。いいえ、痛くなんてありません」
「‥‥ごめんな。情けなくて」
肩から離した手でも火かき棒を握りしめ、大人しく火の番に徹する。
「ごめんなさい、怒らせてしまった?」
「いいや、全然‥‥。ただ‥‥」
「ただ?」
答えなどわかっているというのに、黒髪の恋人は首に吸い付きながら問うて来る。自分に、ほんの一握りの勇気でも持ち合わせがあれば反撃とばかりに唇を奪っているのに、つい先ほどの声は―――あの時の声と酷似していた。
「‥‥あんまりいじめないでくれ」
情け無い化け物に対して、微かな笑い声と共に自身の鋭い手を服へと滑り込ませた、身体の中に埋没させる。熱い己が内側に、冷たい手と鋭い爪を感じ、僅かに声を漏らす。
「気持ちいい?」
「‥‥続けて」
「あなたの望むままに‥‥」
胃、肝臓、大腸、小腸、膵臓、身体の中のありとあらゆる部位、骨も余さずに撫で上げてくるマトイに身をよじり、触れて欲しい一部分を晒し出す。
「どこを触って欲しい?」
「‥‥わかってるだろう」
「さぁ?私にはわかりません」
いじわるで優しいドルイダスの弟子は、自分を辱める快楽、気恥ずかしさを捨て去って言葉にする解放感、思いが通じる事への愉悦を楽しませてくれる。
「言って。そうしないと、愛したあなたを喜ばせる事が出来ないのですから」
「—――本当に、いじわるで大好きだ。心臓を、掴んでくれ」
「はい♪」
肺を貫通しながら掴まれた時だった。自分の内側を裏返された衝撃と先ほどの比ではない快楽に身のよじり、声を漏らしながら永遠と続く絶頂に耐え続ける。
「我慢なんて似合いません。さぁ、捨てて‥‥」
自分の意思とは関係なく揺れ動く身体を、言葉通りに捨て去り自分の頭脳ひとつで快楽を受け止める。火かき棒など握れる訳もなく、放り捨てるように手を離し、熱く滾り始めた生物としての本能の癒しどころを求めて、力任せにマトイを引き寄せる。
「触れていいなんていう許可、この私が与えましたか?」
いつまでも続く筈だった快楽が、手を離したマトイによって止められてしまった。
「‥‥だけど‥‥」
「答えてくれませんか?」
「‥‥貰ってない」
「なのに、触れたの?どうして?」
胸と腕の内側から一切、瞬きひとつしないで射抜いてくる妖しい眼光に心音が止まる。忘れてしまっていた。自分の恋人は、恐ろしい妖女であったのだと。
鋭く心臓を抉り続ける眼光に、下腹部が熱を持ち始めた所で、唇が開いた。
「ふふ、ごめんなさい。怖がらせてしまった?」
「‥‥少しだけ。でも、気持ち良かった‥‥。もう終わりか?」
「それはまた後で。そろそろどう?」
捨て去った火かき棒を握り直し、網と鉄板の上の肉類、野菜類の加減を調節する。マトイの言う通り、丁度いい加減に焦げ目がついたそれらは、我ながら自慢できる姿に変貌していた。
「ああ、いい感じだ―――だけど、その前に」
返事も聞かずに、許可も取らずにマトイの肩を引き寄せて唇を奪う。たった数秒の沈黙だったとしても、先ほどの絶頂にも届く快楽に、マトイと共に身を捧げて長い黒髪を撫で続ける。
「‥‥甘いな。さっきのクッキーか?」
「あなた、少しだけ塩気を感じますね。味見でもしていたの?」
「少しだけ‥‥」
「悪い人‥‥」
膝の上のマトイと、しばし抱き合って呼吸を整える。先ほどの激情を収め終わった所で、すぐ隣に降ろしていた皿にそれぞれを盛り付けていくと、何も伝えずともマトイが皿を受け取ってテラスまで運んでくれる。
「‥‥もう結構暗いな」
雲が僅かに空を隠してこそいるが、既に太陽は己が役目を既に手放していた。夏場であるこの季節にしては昼が短く感じる。それはマトイも同じだったようで、空を訝しげに眺めていた。
「明日も使うし、消火だけでいいか」
適当に近場の石を拾い集めて作った焚火だが、今すぐ崩すには忍びない為軽く炭を散らす程度で終いにする。鉄板と網もそのままに、テラスに戻ると既にテーブルに準備は整っていた。
「少ないよりはって思ったけど、これでまだ5分の1だからな‥‥」
所狭しと並べられた皿の上に、先ほど焼いた肉類は勿論、ネガイとマトイが調理してくれた米飯類に、酒につまみとしてのフィンガーフード、三人分だとは言い難い量となっていた。
「退廃的で私は好みですよ。何も天に向かって飛ぶ訳でも、ましてや堕落して押し流される訳でもないのですから。それに―――深夜に眠る訳にはいかないのですし」
「‥‥何か起こるか、わかるか?」
「さぁ?だけど、何か起こった方が私好みですよ」
それぞれのコップの準備を始めているマトイを眺めながら席に着くと、最後にロッジからネガイが現れる。マトイ同様、私服に着替えたネガイは頭から湯気が出ているようだった。
「温泉の類ではありませんでしたが、なかなかどうして‥‥。久しぶりに足を伸ばせる湯舟に浸かりました。寮のお風呂、サイナに頼んで改造して貰いましょうか?」
「その場合、寮の規約に抵触してしまう恐れがありますね。もしするのであれば、部屋を買い取らなければ」
「‥‥考えてみましょう」
隣に座ったネガイの髪を、自身の布で拭いながら談笑を始めるマトイの二人を見て、ようやくと言った感じに料理へと手を伸ばす。
タレは使わず、塩だけでまずは食してみれば、やはり我ながら良い焼き目がついたと自負できる味となっていた。自慢したい本音を我慢し、テーブル上にボトルに視線を向ける。
「ん?このお酒は‥‥」
「それは私が用意していました。ふふ、暇を言い渡されるのはわかっていたので」
「‥‥いいんですか?」
「気にしないで。それに、ひとりで飲むには勿体ないと思っていたから」
差し出された琥珀色の液を、ついばむように口に含むネガイが感嘆の声をこぼす。自分も勧められるままにコップに口を付けると、甘さとアルコールの調和、ほのかな木の香りに感動する。
「うまい‥‥」
「美味しいです‥‥」
具体的な感想すら言えないふたりを眺めるマトイが、どこか母性的に微笑んだ。
「ウィスキーは詳しくありませんが、これは良い物ですね。‥‥甘い香りがします」
「気に入った?だけど、一度で飲み干しては危険だから気を付けて。後、長く舌に染み込ませてもダメなの。眠くなってしまいますから」
ネガイの皿に料理を乗せながら、今も握っているカップを奪い取って箸を持たせる。そのまま大人しく料理を口に運ぶ姿を確認して、こちらに視線を向けてくる。
「では、そろそろ昼間の事についてお話します。まず最初に、あなた達の言う通りあの館の住人達は、ネガイを狙っていた。それはそのまま、このヒジリについては知らなかった」
「質問していいか。ローブのオーダー達は、俺の事を知っていたのに、なんであいつらは知らなかったんだ?」
「それは歴史の問題、と言えますね。ネガイの容姿は、長くこの国に巣くっていた者達ならば、多くが知っています。灰色の麗人は、処刑人の血筋だと」
「昨日今日知られるようになった俺を、知らなかったのは普通って事か‥‥」
肉類を盛り付けた皿をふたりに差し出し、料理のローテーションを行う。
「彼女らがネガイを求めた理由は、処刑人が口添えすれば囚われている自身の御主人様が解放されると踏んだから。可能かどうかは、ここでは言及しません」
「その囚われた御主人様は、どっちの理由で逮捕されたんだ?」
「向こう側です。それは、断言します」
ネガイがぶっきらぼうに返答していたのは、事実として知らなかったからだった。魔に連なる者の世界とは縁遠いオーダー街に囚われていたネガイにとって、俺と同じくらいに『未知の世界』だったのだろう。
「仮に私を捕らえたとして、何をどうするつもりだったのですか?」
酒と料理のピッチが速いネガイが、質問をしながらも次々と平らげていく。
「ああ。あの家の人間達は―――ここで何かをしようとしていた。それにネガイも付き合わせるような事を言っていたんだけど、それについては何かわかったか?」
「具体的には現在の所、不明です。魔に連なる者達の家々は、それぞれ力の方向性がまるで違います。それは推測や推理の範疇を大きく超えた世界、もし出来るとしたら―――『向こうのオーダー達』です」
今も『向こうのオーダー達』が何も出来ていないとすれば、結局は本人に直接問い質す事しか知り得る機会は訪れないようだ。だけれど極論を言えばどうでも良いので、ネガイも自分は今は夕食に邁進してしまう。
「だけど。少し専門的な話、そしてこれは私の経験上の憶測となりますが、幾らか解き明かせる内容が有ります。よろしいですか?」
琥珀色の酒で唇を濡らし、確実に頷く。
「ここはあの家の住人達が長く治めてきた土地。無理矢理にでもネガイを求めた理由である御主人様の解放は、それに備えての準備、司祭に近い事を執り行っていたようですね。ふふ‥‥」
「‥‥面白い話なのか?」
「ええ、とても面白いですよ。たかだかこの湖一帯の問題、田舎の貴族風情が世界を語るのですから―――ネガイに求めた役目に、巫女に近い物もあったようですね」
酒を口に付けながら述べた言葉も気になったが、巫女という単語が大いに気がかりだった。
巫女とは、古来より存在した―――神を自らの身体に降ろす事を役目とした、生贄そのものだった。神降ろし、神懸かり、言い方事多くあるが、どれもこれも神にその身を捧げるのと、ほぼ同意義だった。
「巫女か‥‥人身御供なんて前時代的だな‥‥」
「魔に連なる者の世界とは、未だにこういった事を真面目に粛々と行っているの。だから、どれもこれも時代遅れ、弾丸のひとつすら弾けずに‥‥続けます」
咳払いをひとつ、軽く深呼吸をしたマトイが言葉を続ける。
「では、なぜ土地を治める為に巫女を求めていたのか。それはこの土地が、いわゆる忌み地と呼ばれているから」
「忌み地、ですか?こんなにも綺麗な湖なのに‥‥」
ネガイの疑問、自分も頷いた。辺りが暗くなってきたとは言え、月明かりに照らされた湖は、写真家や画才、音楽家達すら求め羨む景観を造り出している。
「この土地は、長く霧に包まれていたらしく、その霧を生み出す何者かがいたそうです。何者かは怪物や鬼、中には神とさえ謳われていたとか。そしてその霧を抑えるべく、巫女と呼ばれる事実上の生贄を捧げていたと」
「よくある話だな。忌み地で、そういう伝承を残す事で人の足を遠ざけていたんじゃないか?」
「ふふ、夢が無い人。ええ、その通りでしょうね。もし、そういった伝説が事実だったとしたら、わざわざここに館を造り出す必要はない。元から治めていた土地に、後からそういった話が生まれたのであれば、貴族ごっこをしていたあの人間達が、若い娘を求めていたというだけの―――人を遠ざける事を目的にした寝物語」
往々にして、小さい子供が森に迷う、湖や川に溺れさせない為に、妖怪や怪物の話を村や町レベルで作り上げるなど、よくある話だった。
いつの間にか、その話が作り話だと知る大人がいなくなり、世代替わりを成した時、それが真実となってしまうのも、よくある話だった。
「けれど、それが『貴き者』達だったとしたら‥‥?」
「‥‥あり得るのか?」
「肯定する材料もない以上、否定する理由もありませんから」
唐突なマトイからの発言に、空気が静まり返る。
「あなたも知っての通り、この世界に訪れる貴き者達は―――他世界から現れる侵略者達。もし、ここに侵略者のひとりが今も眠っているとしたら、侵略者の欲望を少女ひとりの生贄で抑えていたとすれば?」
食事を続けながら、言葉を発し続けるマトイに目を引き寄せられる。
「あなた達が見た少女が、無理にネガイを連れて行こうとしたのは、自分の身代わりを見つけたからだったとしたら?決して、不思議な話ではありませんよ」
「‥‥そうですね。もし、オーダー街に囚われる前、いえ、囚われてからだったとしても、身代わりを立てさえすれば自由になれるとわかれば、私でも―――」
言葉を飲み干す事はしなかったネガイが、ゆっくりと咀嚼を続ける。
「身代わり―――人柱か。どのくらいの頻度で生贄を求めていたかわからないけど、逃げ出した理由が、ネガイを巫女にするのに失敗したからだったなら、あり得るのかもしれな」
「嘘ですよ。本気にしました?」
マトイらしからぬ高い軽い声に、顔を上げると、既にその顔は充血していた。
「マトイ‥‥?」
「はい、あなたのマトイはここにいますよ♪」
「‥‥さっきの話は?」
「所詮、伝承、噂話、憶測。もし事実だったとしても、あのローブのオーダー達が見逃す筈がない。あなたが見たという霧の話、どうやら何かしらの事実は紛れ込んでいたようですが、ここまで無防備に食事をしているあなたに、何もコンタクトを取らないなんて‥‥」
慌てて湖を眺めるが、それは風によって水紋を造り出すだけだった。ネガイも同様に目を凝らしはするが、同じ風景しか見えていないようだった。
「よしんば、生贄が本当だったとして、それも今年で終わりです。あの館は、オーダーが接収します。田舎貴族だったとしても、あの銃を保管出来ていた家、喜び勇んであちら側のオーダー達が解析に挑むでしょうね」
「‥‥貴き者に挑める戦力を、向こうのオーダー達は持ち合わせているのか?」
「勿論、法務科にとってのあなたのように―――格の違う人外がいます。覚えがあるのでは?」
その人外には、確かに見当がついた。あの錫杖を持った少年だ。
「それどころか、並列する世界を超える力を持つ方の加護を受けたあなたが、この場にいる。少なくとも、今年に生贄を求めるなんて愚行、まずしないかと」
その時だった―――森の彼方、ロッジから湖を挟んだ森の奥から、悲鳴にも似た風の音が響き渡った。三人で顔を向かい合わせながら―――次の料理に手を伸ばす。
「誘われていますね。彼らを向かわせましょう」
スマホを取り出したマトイが、軽く微笑みながらどこかへと命令を下す。
「ふふ‥‥何が起こっていると思いますか?」
「罠を仕掛けて来たって事は、準備が整った証拠。誰を誘ってるのかは、わからないけど、誘いを断った以上—――直接招きに来るだろうな」
「様ぁねぇーな」
「あははは!!言っといてあげる~」
ネガイとマトイを同じ寝室に送った後、イサラへと固定電話を鳴らしていた。
「揃いも揃って、制裁を喰らうなんて。地位と金に目が眩んだ奴の末路―――マクベスって所か?」
「マクベス‥‥あ、前に言ってた演劇だっけ?」
「そうそう、シェイクスピアの――まぁ、いいか。それで、あいつらどうなるんだ?」
秘密裏に持ち込んでいた自身の酒に手を伸ばしながら、事の真意を確かめる。
事実として、あの生徒達はオーダー本部からの指示で仕事に努めていた。であれば、もはやこれは犯罪でも裏切りでもない―――ただの依頼、普段通りのオーダーだった。
「なんとなく察しは付いてるでしょう?みーんな無罪放免。そもそもが、オーダー本部からの秘密裏な依頼。それ自体は特段悪い事じゃないし、裏切り自体は罪でもないしね」
「‥‥裏切りって、言っていいのか‥‥?」
「当然じゃん?だってさ、ヒジリを騙して、警察側に渡そうとしたんだよ。その見返りは、二束三文な依頼料。もしくは将来的なオーダー本部への口利き権、就職とかそーいうの。たった、それだけで身内のオーダーを陥れるんだから、これって裏切りだよ」
イサラは、極々当然だと言った感じに不満そうに断言した。励ましでもない、哀れみでもないのは、イサラの性格上わかりきっていた。オーダーに関しては、どこまでも冷酷に容赦を無くせる、そんな彼女が、これは紛れもなく裏切りだと言った。
「未来に向かってか‥‥あいつらも、苦労してるみたいだ―――俺を売り渡して、ようやく付ける地位だなんて、あやかってやりたい‥‥」
照明とシーリングファンを赤い液体を通して眺めてみる。
血に染まったかのような視界に、慣れと親しみを感じていると、自然と息が漏れる。
「今は病院にいるんだろう?しばらく、動く気配はないって事なら、ようやく休めそうだ。報復とか復讐に、ここまで来られたら、面倒になってた」
「さ、流石にそれはないんじゃない?あそこまで、容赦なく射抜かれてやり返しに行くなんて‥‥」
珍しく弱気な声に、ソファーから上体を起こしてその心意を聞き促す。
「容赦って程じゃないだろう。あいつらだって、ミトリとかイノリ、こっちの上司がいようが関係なく発砲したり、盾で殴りつけてきたんだ。あそこまで覚悟決めてたなら、後ろから一撃食らわせに来る事だって、あり得るんじゃないか?」
「だから、あり得ないって言ってるの。救護活動の為に同行してたミトリに、オーダー本部の違法性を調べに来てたイノリ、おまけに法務科のお偉いさんだよ。それだけでも法とか掟とかルールを幾つも違反してる。しかも、化け物として立ったヒジリの矢を受けた、真っ当な人間なら―――もう手を下しになんて行かないよ」
—――予想通りだった。ふたりを『来てた』と評した。
あの場に、イサラもいたのは間違いない。それどころか―――。
「でさ、どうする訳?」
「何が?」
つまみのフィンガーフードに手を付けて、胃袋の中に収める。
「‥‥オーダーに戻って来るの?」
「—――どうでもいいだろう」
「どうでも良くない!!」
スピーカー越しの絶叫に、耳鳴りが起る。
「‥‥悪い。あんまり、考えたくないんだ。正直、俺にもわからない‥‥」
「‥‥そっか、そう、だよね‥‥」
「しばらくは、在籍を続けるだろうけど、夏が過ぎても帰って来なかったら、そういう事だって、思っておいてくれ」
向こうも幾らか嗜んでいるのか、酒に理性を解かれて感情が押さえつけられない。
けれど、今の発言は最もだった。ここ数日で多くの人に問われたというのに、自分はまだ、自分の心に決着を付けられていないのだから、心配されて当然だ。
「あのね!!皆—――」
「そういう事言うのは、卑怯だろう。その皆に、俺は裏切られたんだから―――悪い、当たって‥‥。イサラは夏休み、どうしてるんだ?」
「‥‥普通だよ。普通に依頼やって、遊んで、昼まで寝て、あっそうだ!!次会ったら、外で付き合って欲しい所があるんだけどね!」
「例えば?」
間髪入れずに、聞き返すと、見切り発車であった事がすぐさまわかった。
「えっと、例えば‥‥例えばね!!」
「考えとけよ。イサラの為に、一度は帰ってやるから。またな」
問答無用で通話を切る。続け様に連絡が来なかった事を考えると、自分が思っていた以上にイサラもイサラで、自分を追い詰めていたようだ。
「真面目なオーダーなんて似合ないだろう。人を気遣うぐらいなら、自分の事を考えろ―――帰る理由が出来たか」
氷の追加の為、キッチンに足を運ぶと水場という事もあり、かなりの寒気を感じる。試しに窓から外を覗くと、風が吹いているようで木々が揺れている。
「らしいじゃないか‥‥」
ソファーとテーブルに戻り、寛いでいると二階の廊下から階段へと歩く音が響き始める。肩越しに足音の主を待っていると―――寝静まったと思っていたネガイと、その手を引いたマトイだった。
「状況は如何ですか?」
「誰からも扉を叩かれない所を見ると、まだ何も起こってないみたいだ。そっちは、どうだ?」
「もし、覗かれでもしたら――――あなたに任せますよ」
もうひとつのソファーに腰を掛けたマトイが軽く膝を叩いた時、一分の隙もなく灰色の髪をした美少女が、猫のようにしなだれて寝息を立ててしまう。
黒髪の麗人と灰の少女の姿に、さながら現代のシンデレラを思い起こさせる。
「起きてたのか?眠ってて良かったのに」
「少しだけ話が盛り上がってしまって。大丈夫、少ししたらまた連れて行くから」
「‥‥何かあったのか?」
「視線を感じました。それに窓から外を見た時に人影も。勿論、オーダーではありません」
「—――少し出てくる」
「目は使わないように」
マトイからの指定に従って、銃器だけを腰に外へと足を運ぶ。やはりそこにあるのは無人のテラスと、月明かりにだけ照らされた水紋のひとつとして無い湖のみ。
「撤収したのか、館の方を確認してるのか。警護のひとつもしないなんて。魔に連なる者はマトイの言う通り、自分の事ばかりか」
これでも自分達は被害者であるというのに、この扱いには私的な理由。言うなれば逆恨みに近い物を覚える。自分の身と自分の身以上に大切な二人の為、敢えて足音を大きく鳴らし砂利道を歩いて桟橋まで突き進む。
振り返る必要など無かった。ましてや目を使うまでもない―――確かに聞こえたからだ。自分の足音とは違う、もうひとつの砂利を踏みつける足音を。
そして――――肩に顎でも乗せられたような、至近距離の吐息が。
「退け―――」
振り返り様に、腕を薙ぎ払って肘で顎を狙う。目標と距離を造り出す為、転倒させる目的の一撃を繰り出した。だというのに、固い顎も柔らかい頬を抉る感覚もなく、ただただ空気を薙ぐ音しか聞こえなかった。
薙いだと同時に、魔女狩りと杭を十字に構え、安定性を図ったというのに、やはりそこには何も視認できなかった。けれども―――到底何もいないとは口が裂けても言えない、気配を、四方八方から感じた。
「‥‥貴き者か」
首を動かす隙も与えない、殺気とも言えない視線の気配に膝を突き、更なる安定性を求める。どこから何が飛んでくるのかわからない以上、無防備に頭を晒す訳にはいかなかった。
「—―――悪い、使うぞ」
昼間での桟橋と同様に目へと血を通す。視界に収まった情報を星に送りつけ、頭上から降り注ぐ光を自身の視界そのものとする。霧など易々と透過し、何一つ見逃さない、死角なき完全な眼球となる。
「そこか‥‥」
見出したのは、自身の足元。今も膝を突けていた砂利道だった。
確かに見通した。自身の骨や内臓すら透過した視線が、足元に広がる不自然な魚影を思わせる影を。自分を中心に―――巨大な霧が月を覆い尽くすかのような広がりを。
「長くここにいたらしいが、自然との調和を知るべきだったな」
受け答えも、問答も求めてなどいない。声が降ってくる期待などしていないのだから―――必殺の引き金を引く事になんの躊躇があろうものか。
「シネ」
6発の弾丸は雲を突き抜ける飛行機のように、何にも抵抗される事なく霧の体内に潜り込む。悲鳴にも似た、あの風の声を吹き鳴らし、今まで視界を覆っていた霧が裂かれた瞬間、雨でも降るように大量の霧が霧散して湖に落ちていく。
「手応えはあったけど、それだけか‥‥」
魔女狩りに装填をしながら呟くが、既にあの気配は消え去っていた。
「‥‥逃げられた」
「あれ、あの人は‥‥?」
「風に当たってくるそうですよ」
「‥‥私ばかり眠っていたましたか」
マトイの足から起き上がって、軽く伸びをすると、自然とマトイの甘い香りを肺に取り込んでしまう。彼が何かにつけてマトイの香水を求めていた理由が、事ここに至ってよくわかった。
「何か、起こりましたか?」
「今の所何も。けれど、彼は何か感じ取っているみたいで、一睡もしないで見張りをしてくれていました。あなたは?」
「‥‥人の気配だけではないですね。貴き者なのか、ドローンのような無機物なのかはわかりませんが、彼が一度も眠っていないのなら―――あの顔のないハエよりも、格上です」
「ふふ‥‥そう‥‥」
酒を嗜んだ事で抱きつき癖が生まれたのか、マトイがなんの躊躇もなく抱きしめて、微かにアルコールを感じる吐息で笑んでくる。温かな肌に眠気がくすぐられる。
「‥‥どうしましょう、すごく眠いです」
「眠っても構いませんよ。私達が連れて行きますから」
「‥‥もう少し頑張ります。それより―――気付いていますか?」
「ええ、しっかりと」
天井の空気窓。シーリングファンがかき混ぜた空気の一部を、外へと排出する為の穴から―――こちらを覗く何かが、張り付いていた。
「あれは、驚かせようとしているのかもしれませんね。私達を外へと誘き出す為に、わざわざ人間ひとり分の幻術を造り出すなんて‥‥。格上ではあるようですが、所詮は地方で幅を効かせていただけの、小物のようです」
「ダメよ。そんなに事実ばかり言っては。それに、恐らくあれは落とされた身体の一部。大本がどれ程かは知りませんが、あなたや彼に比べられては、どれもこれも小物になってしまいますから」
ついには膝の上に乗せられた私は、マトイの黒髪に顔を埋めてしまった。甘い香りに、甘い手付きで髪を梳いてくれる手に意識を手放しそうになる。
—―――その時だった。
「魔女狩りの銃声ですね」
マトイの発言と同時に、窓に張り付いていた何者かは、粉々に霧散してしまった。
「好奇心は猫を殺す。大人しく湖を提供させていれば良かった物を‥‥」
「だけど、終わった訳ではなさそうです。明日には、彼が見つけたもうひとつの洋館に行かなければ。彼女は、どういう扱いに?」
「行方不明者。よって使用人のひとりだったとしても、オーダーの役目が回って来てしまいました。白いローブの彼らは、どこまで行っても魔に連なる者達。行方不明のひとりやふたり、気にも留めないでしょうから」
そんな他愛もない会話を続けていると、よく知る足音と共に、目を真っ赤にした彼が戻ってきた。そんな彼がバツが悪そうに愛想笑いをするが、私達は許しはしなかった。
「使いましたね?相変わらず仕方ない人ですね」
「使うな、という私の命令ひとつ聞けないなんて。やはり、あなたはダメな人‥‥」
「だけど、使わないと‥‥」
床に座りながら、反抗的な目をしてくるので釘を刺しておく。
「気に障ったから殺したかった。そう言う気ですか?」
「悪かった‥‥。それにちょっと、気になったから‥‥」
「撃ちたかったの間違いでしょう?上に行きますよ」
眠気が覚める程に彼の情けない姿を見て、つい嗜虐心に目覚めてしまった私達は彼の言い負かして縮こませる。肩を震わせる被食者となった彼にマトイと共に溜息を吐いて、寝室へと連れて行く。真っ先にマトイが自身の力で彼を縛り付け、私が胸にマトイが腹に跨る。
そして私達の晩餐を始める。
「あ、あの‥‥」
「何か?」
「—――私、巡回の役割が」
「不要です。私の人形にさせています。知らないようですが、私もここを卒業しています」
初耳な真実に、声を上げそうになった時、真向かいの目隠しの麗人は僅かに眉を動かす。たったそれだけの仕草に、背骨が揺れるのがわかる。熱など持たない骨が、その一瞬で凍りつくのがわかる。
「言葉が足りませんでしたね。僅かな留学という体で入学していただけです。けれども、治療科として卒業生たる私を疑う気ですか?」
「い、いいえ‥‥すみませんでした」
「はぁ‥‥」
その溜息で誰もが羨望の眼差しと共に、嫉妬の情念を送りつけるだろうと確信してしまう。数度しか会う機会がなかったとしても、暴力的なまでの美貌に魂の尾を掴まれてしまっている自分がいた。
「マトイも昔は素直だったのに‥‥。なぜ、あそこまで‥‥」
「マトイさんは、今も素直な優しい人です」
目隠しの眼光を向けられた瞬間、首と背から汗が噴き出る。
「—――そう」
救護棟最上階、そこにあるのはこの救護棟の長たる人物の部屋。同時に、治療科の長でもあるその人は、このオーダー校のナンバー2であった。もし、校長に何かが起ったのなら、直ちにこの救護棟がオーダー校の全命令権を持つほどでもあった。
「あなたは、マトイの友人ですか?」
「はい!」
この言葉に返事こそしなかったが、僅かに背を逸らした目隠しの麗人は、頷くように髪を揺らした。
「あ、あの‥‥それでここは‥‥」
「気を休められる部屋が、ここしかなかっただけの事。気にしないように」
高価な金縁のカップに口を付ける仕草に、見惚れてしまい、なかなか自分に差し出されているカップを手に取る事が出来ずにいると、目の前の麗人が僅かに笑った。
「良い判断です。相手が飲むまで、口を付けないとは。オーダーとは、そうあるべき。あなたには、オーダーとしての気概を感じます」
「あ、ありがとうございます‥‥」
「けれど、これでわかりましたね。それとも私が振る舞った物は口に含めませんか?」
「頂きます‥‥!」
出来る限り、慌てないようにカップを手に取ってに唇を濡らすと―――あまりの芳醇さ、渋みやえぐみのない、ある意味水のような食感に溜息を漏らしてしまう。
「‥‥美味しい‥‥」
「いい勘性を持っていますね」
「ありがとう、ございます‥‥」
「‥‥全く、どうしてマトイは―――」
ふたりの間柄を特別知っている訳ではないが、時たま見せるあの人のあの顔を、そのままこの人にも用いているとしたら、この方の心労が偲ばれる。
「あの、質問をしてもいいですか‥‥?」
「私が話せる事ならば、好きにしなさい」
「—――彼とは、どういう関係ですか?」
「察しがついているでしょう。私は、彼の恋人—――彼の心を繋ぎ止める者です」
誰もが口に出さず、誰もが理解していた事。彼の心は、とうの昔に砕け散っている―――それだけではない。もはや、人間のふりさえ出来なくなっている。
「‥‥あの人は、今後、どうなると思いますか‥‥」
「あなたこそ、どう思いますか?私個人の考えなど、どれほどの価値もない」
容赦ない言葉と人物の連続に息が止まる。
「‥‥彼は、もう正気には戻れない。狂った彼を、元に戻す事は不可能だと思います。だから―――せめて彼の心だけは、平穏をって‥‥」
「出来ると思っていたのですか?そんな事を」
「‥‥いいえ。人間が、そんな事を許す訳がない。狂った彼を、人間は更に追い詰めて、あそこまで陥れてしまいましたから」
あの地方本部での攻防は、ひとつのラインだった。もし、あそこで嘘でもいいから、人間の誰かが彼の側に立ってさえくれれば、まだ望みはあったかもしれない。だけど、そんな幻想を誰も彼もが打ち砕いてしまった。
「‥‥私とイノリさんは、もう人間じゃないんです。最初から彼の側に立ってしまったから、もう真っ当な人間ではないんです。彼の恋人である私達では、この世界の人間のふりさえ出来ない」
彼は、きっと気付いてしまっただろう。
やはり、やはりこの世界には自分の味方はいないのだと。自分は、人間達にとってただの消耗品。醜い
「彼に、オーダーへ戻って来て欲しいですか?」
「‥‥わかりません。もう、彼に傷ついて欲しくない‥‥だけど」
「では、何故彼を追いかけないのですか?巡回など、誰でも出来るというのに」
マトイが、あれほどに仕事に関して遊びがない理由がわかった。ここまで、容赦なく心を抉る人の元で育ったのなら、あのようなオーダーらしい性格にはならなかっただろう。
「—――彼を追い詰めたくない。それに、あのヒトは自分の足で立つ事を望んでいる。消え去るにしても、帰って来るにしても、あのヒトはあのヒトのままでいないと、私の愛したヒジリがいなくなってしまいます‥‥」
受け身の答えだろうか?きっとその通りだ。
けれども、あのヒトは追い詰められたからこそ、あそこまで狂ってしまった。ならば、自分の出来る事は彼を自由にさせてあげる。雁字搦めとなった彼の心を、解放して―――それが正しいのだと許してあげる。
「私は、彼が望むのなら、彼を消して上げる必要もあると思います」
「‥‥本当に、彼を愛しているのですね」
「はい、あのヒトは私の恋人。強くて脆い―――化け物です」
この回答に、どれほどの価値があるだろうか。きっと、誇りやプライド、そんな陳腐な枠にも入れられない、愚か者の偶像。だとしても、自分は求められた役割、ピエタ像のように彼を慰撫してあげなければならない。
「ふふ‥‥けれど、あなたはひとつ見落としがあります」
急な微笑みと、予想だにしなかった返答にカップを揺らしてしまう。
「彼が、あなたを放置して逃げると?」
「あ‥‥」
「どうですか?」
「—――いいえ、しません。だって、あのヒトはとても弱いので」
何を恐れる事が、覚悟する事があっただろうか。そんな真似、あの弱い泣き虫が出来る訳がない。そんな
「彼は今、向こうでもオーダーとして活動しています。帰って来たらなら、手放しで褒めてあげなさい。自分の立場、それでようやく思い出す事でしょう」
マトイが、ああも自分に自信を持っていた理由がわかった。この人の元で、自分の立場が明確に知り尽くしたからだ。自分は、彼に愛される側なのだと。
「マトイさんに似てますね」
その時だった。僅かに、再度眉が動くが―――もう恐ろしくなかった。
「‥‥やはり、あなたは」
「はい、このミトリ。ヒジリの初恋の人である私に何か?」
「—――いいえ、いいえ‥‥。それでこそ、彼の恋人ですね」
「なかなかに、面白い所に訪れたようですね」
「面白いのですか?」
「はい!とてもとても面白いですよ」
寝ずの番を覚悟していたが、その役は今夜はもう無用とのマトイの助言に甘えて、既に意識を手放していた。仮面の方との逢瀬も、もはや数え切れない回数を経験してきたが、それでもなお、何度もでも一目惚れしてしまうお姿だった。
「ふふふふ―――まさか、あの身の程知らず目が、こんな辺鄙な所に飛ばされているなんて。しかも、細々と生娘を求めて、惰眠を貪り続ける?恥知らずは、どこまで行っても愚か者のようです。見た目が汚らしいのは、その中も汚いから?」
未だかつてない、殺傷力すら持ち合わせる評価に、自分の事でもないのに怯えていると、己が姿を俺の反応を鏡に察したのか、咳払いと共にいつもの笑顔に戻ってくれた。
「ちょ、ちょっとだけ私の美的感覚に障る方だったので、ちょっとだけ厳しい事を言ってしまったまでで!!」
「大丈夫です。あなたはいつも美しくて、何度でも恋に落ちてしまう素敵な方。厳しい事を言ってしまうのは、あなたがあなたでいる為です。それは恥でも性格の問題でもありません――――あなたが美し過ぎるのが、原因です」
「そ、そうですね!!この身体はあなたが何度も熱い視線を送ってしまう程の、窮極の美の体現。私の感性に触れてしまうのは、私が
落ち着く様に、胸を抑えて興奮していた心臓に安寧を与える。
「私の星よ‥‥あなたと一緒にいると、いつも私は自堕落になってしまいます‥‥。いつも、私を褒めて甘やかしてくれるのは、とても嬉しいのですが、偶には厳しいも」
「無用ですよ。あなただって、いつも俺を褒めてくれます。あなたのしてくれた事に、いつも救われている俺が、恋人であるあなたを叱りつける事なんて出来ません――――それはそれとして、少し物が増えすぎたのでは?」
「‥‥はい、そろそろ整理します」
昨今、謁見の間にも似たこの部屋の石像や調度品の数々が、無視できないレベルで増え続けている。この部屋の外がどうなっているかなど、自分では知る由もないが、所狭しと並べられた石像の軍勢に、威圧感すら受け始めていた。
「質問していいですか?あの湖は、一体なんなんですか?危険なら、閉鎖を」
「ん?それこそ無用ですよ。だって、あなたやネガイさんが足を晒したのですから。ふふ♪おかしな事を聞きますね、あれの接触は、ちょっとしたコンタクト―――ネガイさんを手駒にしようと考えたのでしょうが、格の違いを思い知ったと言ったところかと」
首を左右に振って応えてくれる仮面の方は、どこまでも楽し気だった。
「—――ネガイを連れ去ろうとしたのは、そういう事ですか」
この湖に来て、真っ先に足を付けたのはネガイだった。だから狙ったのだろうが―――であれば、生贄の話は真実だったのだと、確信した。
定期に生贄を求める貴き者が、この地を治めていた魔に連なる者に命令し、自分好みの少女が現れ次第、捕まえて自分の元へ連れて来させていた。
「ただ力を持つ
いくらか自分には初耳の言葉があったが、わざとらしく―――自分にとっては最大限の誤魔化しをした仮面の方の意のままに、聞かなかった事にする。
「あれは既にあなた達を恐れていますが、出来る事なら確保したいとも思っています。もし、触れてこよう物なら、それ相応の処分を与えて下さい。きっと、面白いぐらいに怖れ慄きますから」
「遠慮をする必要はないって事ですか。わかりました、あなたに首のひとつでも持ってきますね」
「まぁ‥‥期待して待ってますね♪」
心底嬉しそうに、銀の椅子から立ち上がった仮面の方が、手を引いて腰を上げさせてくる。それに従って、立ち上がると――――壁が空に浸食されていくのが見えた。
灰色の壁と柱が、深宇宙に覆い被されたかのように、青と黒の仮面の方の髪色に染まっていく光景は、未だかつてない恐怖と興奮を知らせてくれる。
「あの湖の姿は、なかなかに楽しめました。だから――――あの中に入っている気分に浸りたくて。如何ですか‥‥?」
口では辛辣な事を言っていたが、その実、あの光景がこの方の琴線に触れて、一口で言えば羨ましかったのかもしれない。美に関しては、どこまでも冷酷になれるからこそ、未だかつてないセンスに触れてしまい、許せなかったようだ。
「素敵です。やっぱり、あなたは美しい‥‥」
心配そうにしている仮面の方を胸に招いて、顎に指をつける。
その顔は、褒められて嬉しいのは勿論、リードされる事への好奇心に溢れていた。
「今日は特別に‥‥あなたの番からで許してあげます。待って下さい、今ベットを」
「大丈夫です。今日は床だけで」
この感性に触れたのも始めただったのか、仮面の下の目が驚きながら、口元が止められない荒い呼吸に歪み、息を吹きかけ続けてくる。
「あ、あの‥‥床では‥‥」
「俺が下になりますから。任せて下さい‥‥」
「‥‥お任せします」
そのまま仮面の方を引き込んで床に倒れ込んだ時、仮面の方は普段よりも幼く、生娘のように見えたが―――長い時間を共に過ごした時、気が付けば、辺り一面を自身の内臓が埋め尽くし、顔中を血に染めた仮面の方が微かに恥ずかし気に微笑んでいた。
「準備は‥‥準備って言う距離でもないか」
口ではそう言いつつも、オーダーとしての習慣は既に捨て去れる物ではなく、森林用の分厚いブーツ、大量の銃弾や装備を搭載できるバックパックやパンツ、防弾性のシャツで身を包んでいた。
ネガイやマトイも例に漏れず、自分ほどではないにしてもそれに準ずる装備を用意し、それぞれの確認を終え、テラスのベンチに座りながら時計を合わせていた。
「目はどうですか?」
「問題なし。もう血も止まってるから―――だけど、必要があれば‥‥」
「‥‥そうですね。必要があれば、使って下さい。だけど、私が許可した時に」
「約束する」
つい半年前の時のような事を言い合って、それにお互いが気が付くと、ふと笑ってしまう。約束を破って使ってしまった時、呆れるネガイがため息交じりに手で癒してくれる。それが日常だった。
「そうだ。詳しく聞いて来なかったけど、そのレイピアも魔狩りなんだよな?」
「はい、魔物狩りの弾丸です」
鞘付きのレイピアを腰から抜いたネガイが、刀身からバレルを外して中の弾丸を見せてくれる。それは純銀で出来ているのかと見紛うばかりの輝きを持ち、本来強度がなければならない弾頭や弾の末、リムまで全てが銀一色だった。
「あなたのとは違うのですね」
「ああ‥‥」
腰の後ろにある魔女狩りを渡し、代わりにレイピアを受け取ってみる。見た目通りの重量でこそあるが、思った以上に幅と長さがあり、慣れなければ空気抵抗に振り回されてしまうとわかる。
「これが魔女狩り‥‥」
「何度かそう言われたけど、魔狩りと魔女狩り、後魔物狩りって違うのか?」
「向ける相手が違います」
最後に連絡を済ませたマトイが、腕を引いてくるので、お互いの武器を返し合って新たな館へと向かう為に車両に乗る。ナビなど不要なので、ベルト確認も早々にタイヤを回す。
「魔狩りは汎用性を求めた武器や弾丸です。大量生産こそ可能ですが、場合によっては通常の銃火器を用いた方が、意味がある―――ただの人間から魔に連なる者になった者達なら、これで十分」
「‥‥だけど、あの街では」
「あの場にいた全員が、皆真っ当な人間ではなかったの。例え、最底辺の魔狩りだったとしても、致命的な一撃になりかねない。だけど、あなたが持つ魔女狩りやネガイの魔物狩りは、確実に致命傷を与えられる兵器です」
確実に始末出来る武器など、本来はオーダーが持っていて良い物ではなかった。すぐさま没収されてもおかしくない――――いや、一時マトイが保管していたのを思い出す。
「魔物狩りは、その名の通り人外そのものに向かって用いる物」
「なら、魔女狩りは人外と人間の間にいる―――」
「いいえ。魔女狩りは、人間から完全に外れた者、悪魔と契りを交わした者達へそして悪魔そのものへと向ける物。この場で言う悪魔とは、一神教以外のあらゆる奇跡を起こす神々だった者。いうなれば、神を傷つける、神殺しの武器‥‥」
「神殺し‥‥」
後部座席に座っているネガイが、その名をつぶやいた。まるで思い当たる節、処刑人として、この国の人外を狩り続けてきた一族の事を想い出したかのように。
「魔女は悪魔と同じくらいに恐れられたって事か‥‥」
一神教の教えは、今でこそ分け隔てなく平和を愛するかのように謳っているが、地球上、最も人を殺めてきた宗教こそ、現代の十字教だった。
ヨーロッパ大陸では、強国が地続きの小国を蹂躙、圧政下に置き―――まず最初に用いたのが、信教の強制。それはこれまで文化の破壊、植民地として奴隷を作り上げる為の洗脳だった。それで便利だったのが、今までの神を悪魔だと言い放つ事。
『強国に属している自分の神こそが、真の神だ。それ以外は神を驕る偽物だ』と説教し、それに異を唱えた者は、見せしめとして殺し、晒す。
『魚に説教する聖アントニウス』――――この絵には魚が陸に上がり、聖アントニウスの説教を聞く場面が描かれている。その意味は、魚でさえ説教を熱心に聞くほど、神の意志は尊いという事を表していると言われているが、恐らく違う。
――――魚でさえ、人の言葉を理解し、助けを乞う程の壮絶な拷問を受けている。
「当時の差別について語るほど、無意味な事もありませんが、知識人は『神』を使って洗脳を施す側にとって、ただただ邪魔な存在だったのでしょう。地動説など以ての外という愚か者達は、いまだ生き長られているのですから―――これもどうでもいいですね」
「‥‥向ける相手は気を付ける」
「ふふ‥‥」
この銃は、神だった者へ向ける兵器。ならば、それは神から貶められた、辱められた者達にトドメを刺す為に造り出された毒薬。あのエクソシスト達、絵に描いたような傲慢な人間達が持つに相応しい、穢れた歴史を持つ鞭でもあったようだ。
「ここからは歩きだ」
広い湖ではあるが、向かいから半径を回るだけだったので、数分で着いてしまった。冷房の効く車両から降りてみると、多少の熱に頭を蒸されるが、やはり思った程ではなかった。
「‥‥虫が多そうです」
「我慢してくれ」
「‥‥わかりました」
一瞬戸惑ったネガイの手を引いて、受け止めながら降ろすと余程嫌だったのか、視界を隠すようにしがみ付いてくる。服越しだとしても、背が低いのに肉感的でアンバランスなネガイの身体の柔らかさに頭が絆されていると、マトイが肩を揺らして正気に戻してくれた。
「頑張って」
「‥‥ネガイ、これはオーダーとして」
「でも‥‥」
腕を引いて、自身の身体に結び付けてくるネガイの仕草に、再度役目を放棄してしまいそうになった時、遂にマトイが――――何故か俺の脇を指で貫く。
「ネガイ、俺もマトイもいる。それに、変に振り払わらなければ、蜂も蜘蛛も」
「その名を言わないでください!!」
マトイとは違う角度から脇、否、肋骨を潜る刀のように指を突き刺してくる。
「ネガイ、大丈夫。ここには既に多くのオーダー達が足を踏み入れています。もし毒虫達がいたとしても、既に彼らが駆除しています。もし何かあったら、被せてあげますから」
「‥‥わかりました。すみません‥‥」
ようやく納得こそしたようだが、未だに背中にしがみ付いてくるネガイと、楽し気に腕を引いてくるマトイとを連なって森に踏み込む。
踏み慣らされた森の道は、半獣道と成っているようで、人が数人集まって歩くには不自由な広さだった。けれども、羽音ではない、葉っぱの擦れる音に唸り声を上げるネガイと、法務科の顔付きとなり遊びの無くなったマトイとが、決して離れてくれない。
「まだかかりますか‥‥?」
「もう少し。だけど、そろそろ見えてくる筈だ‥‥」
星から直接観測したのだから、それは間違いなかった。この森を抜けて、更に深い森を幾らか歩けば、同じ洋館が姿を現す――――そう確信していた。
だというのに、いつの間にか森に囚われていたようだ。
「‥‥迷ってきたな。どうする?」
「うぅ、やはりそうですよね。最短距離で出ましょう‥‥」
「なら、そうするか」
少し残念そうなマトイの声を無視して、身体の目だけを用いて森を見通す。霧のような曖昧な力—――霧の影と光で迷宮を模倣していた森の姿を視認化する。洋館へ向かう物を選ばずに迷わせる罠なのか、それとも試練としての形を持っているのか、どちらにせよ―――破壊しなければならない。
「‥‥星に耐えられるか?」
曖昧な力、掴めない霧なのなら、それを掴めてしまう程に見てしまえばいい。
生物は見る事で、それがそこにあるとわかる。ならば、全てを見通せるこの眼で、
—―――後は、星の重圧を以ってすれば、砕く事など容易い。
「見えた‥‥あれだ‥‥」
指を差して、影と光でその姿を消していた洋館を示す。つい数秒前まで見えなかった館の佇まいに、マトイとネガイが息を吐く。と同時に、ネガイが背中から離れてマトイとの間に入って腕を引き始める。
「はやく行きましょう!!」
そんな様子に、マトイと微かに笑い合って館へと駆けた。
「‥‥まさか」
「館には踏み込んでないのか。状況は?」
昨日、書斎の扉越しに話した向こうのオーダーこそ居なかったが、白いローブのひとりに軽く探りを入れる為に言葉をかける。だが、あの罠に昨夜から囚われていたらしく疲れ切った顔付きで、それぞれが木々の木陰に身体を預けていた。
「戻るなら、すぐに戻れる。罠は破壊した―――探索と索敵を始める」
ふたりを連れて洋館の扉を蹴り破るように入ると、真後ろの腑抜け共が悲鳴にも似た声を上げるが、だからと言って何も起こらない。何の事もなかった。
「なんなんだ一体?」
「ふふ‥‥さぁ?」
「強いて言えば、自分達に自惚れていたようですね。同様に、私達を侮っていた」
三人で入った時、醜い顔を閉ざすように扉を閉める。何故だろうか?魔に連なる者達は、どこまで大仰でわざとらし過ぎる反応をしてくる。マトイやドルイダスのように誰も彼もが冷静ではない。
「あんまり実践経験がない見たいだ。たった一晩の行軍、お泊りひとつであの様か」
新たな洋館も、全体的な装飾や構造は変わらないようで、巨大なシャンデリアと大理石は光と影を模しているようだった。けれども、巨大な階段の中間にはあの絵画か飾られておらず、日焼けした後が残るばかりだった。
「光と影ですか。どうやら彼らにとってこちらこそが本館、向こうが別館、いえ、客間であったようですね――――探索すべきは、こちらのようです」
「向こうが?だけど、あれだけ使用人がいたなら、向こうが顔なんじゃないか?」
「表側の人脈を迎えるのは、あちらだったのかと。けれど、こちらはそもそもが人に見せるつもりのない、魔に連なる者にとっての工房。世界中を巡って、己が賢智を形と成す為の儀式場でもあるのです。使用人さえ、歩かせたくなったようですね」
ネガイが得心が入ったと言わんばかりに、天井のシャンデリアを見つめる。
自分の感覚からすると、『影の館』であるこちらで人に見えない事をしたがっていたと受け取るしかない。けれど、事はそれほど簡単な話でもなかったようだ。
「私が昨夜話した事、覚えていますか?」
「‥‥生贄の話だな‥‥?」
「ええ。どうやら―――生贄には育成期間が設けられていたようです。あの森は、捕らえた生贄を逃さない為の檻、迎えに来た者達を追い返し、あわよくば新たな生贄とする為の罠。—―――ここは、自らの目的の為に人間を改造する為の‥‥」
マトイの説明はそこで止まってしまった。言うまでもないからだ。
ここは人間を、生贄として、調理する為の工房。霧の怪物好みの房中術を仕込まれる、学び舎であり教育機関でもあった。
「真実の程はわかりませんが、長くそれに類似する事を行っていたのかもしれませんね」
「解体だ。二度と、そんな真似が出来ないように、何かも消し去ろう」
「ふふ‥‥あなたの望むままに‥‥」
誰よりも一歩早く階段を登り、日焼けした絵画が飾ってあったであろう踊り場を越える。やはり構造は似通っており、登り切った廊下の奥には同じような扉が鎮座していた。誰からの指示を待つまでもなく、中を目で見通した時—―――
「あ、あの‥‥」
返事など受け付けないと言わんばかりに、年上の恋人が足早で前を歩いていた。ふと、試しに止まろうとする気も起きない圧倒的な威圧感に、身を竦ませながら後ろを歩んでいた。
「私、何か怒らせてしまう事でも‥‥」
「覚えがあるのですか?」
「‥‥少しだけ」
「では、今後は気を付けなさい。私は、彼ほど気が長くない」
昨夜の事を思い出しながら起床、身支度を整えて外へと出た時、彼女が立っていた。
数度、彼の隣に立っているのを見た紫色の目をした先輩。一目見ただけで誰も彼もが、心を奪われ、『怖いほど綺麗な先輩』と口を揃える次元違いの美しさの持ち主。
その正体が、この人だった。
「これからどこに、後、ここは一体‥‥?」
「本当に人と成ったのですね」
「えっと‥‥」
「忘れなさい」
先ほどから要領を得ない言葉を使われていた。けれど彼女は怒りを覚えている訳でも、呆れている様子でもなかった。ましてや嘆いている容貌を湛えている様にも見えなかった。
ただ―――それはそういった物である。天気の調子でも見るかのようだった。
「今から私の書斎に入って貰います」
「‥‥私、いつの間に車を降りたんですか?」
「質問を許しましたか?」
目など向けられてやいないのに、心臓を貫くほどの殺気を視線として受けてしまい、唇が震えるのがわかる。それを抑えようと歯を食いしばるが、手の震えばかりは止める事が出来なかった。
「身体の事なら気にする必要はありません。誰にも、触れさせたりなどしません」
「—――触れされる‥‥?だけど、私‥‥」
「静かに」
それがトドメと成り、ただ歩むだけの人形に徹するしかなくなってしまった。
長いカーテン状の壁を持つ廊下は、他に類を見ない異様な風体を解き放っている。時たま噴き出す風は、冷たく髪を揺らし、彼女の先導がなければ足を止めてしまいかねない緊張感と異様性を放っている。
「止まりなさい」
返事をするまでもなく、足を止めてしまう。
何もない先の廊下へ、紫の目を持つ麗人が手をかざす。その瞬間—――やはり見覚えのある金の樹が生まる。支えもないというのに真っ直ぐに伸びた樹の枝が、絡み合いながら扉へと変化する。不思議だ、何故アレが扉であると分かったのか。
「魔に連なる者‥‥」
「マトイから聞いているようですね」
自身の力で造り出したのだから、何を焦る事がある。とでも言うように、彼女は金の扉を無防備に開け放ち、軽く振り返った。
「入室を許可します、入りなさい」
手を差し伸べてくる姿に、一種の感銘を受けてしまい、自然と手を伸ばした時—――既にそこは別世界だった。白と黒で構築された背景に、黒い床と白いソファー。
それらの上にいる純白のローブを纏った美の窮極達を幾人も見つけて、声を漏らしてしまう。溜息など出ない、圧倒的な美に首でも垂れてしまいかねない。
「ここは法務科の建物ですか?」
「そう思いなさい。それと同時に、ここは他言無用です。いいですね?」
「は、はいッ‥‥!」
「座りなさい」
裁判所を思わせる高い机に付いた彼女を見上げるように、被告人の立つ位置に用意してあった椅子へ座る。自分が小さくなる感覚に襲われながら、彼女を見据える。
「落ち着いていますね。彼とは大違い」
「あのヒトも、ここに?」
「ええ、あの時は、終始マトイに抱きついていました」
「—―――そうですか」
一言、それだけ答えた瞬間、大きく溜息を吐かれた。
「殺気を抑えなさい。笑いながら殺気を浮かべるなど、オーダーには認められません。そして、それを向けるのは彼だけにしなさい」
「さ、殺気なんて‥‥」
「あなたを呼んだのは、彼の痛めつけ方を教える為ではありません。それを仕込むのは、マトイだけで十分。治療科としての仕置きなど、あなたの畑でしょう―――質問をします、あなたは、自分をただの人間だと自覚していますか?」
質問の意図が理解できず、首を捻ってしまう。
「わ、私はただの人間です‥‥父も母も、人間ですから‥‥」
「それで構いません。そのまま、人間として彼を愛しなさい」
やはり、言葉の意図が汲み取れず混乱してしまう。
「‥‥あの、私は」
「あなたは人間です、それは変えようのない事実。それでこの話は終わらせましょう。次です、あなたには長く彼付きの治療科として雇われて来ましたね。その任を、ここで解くとします」
想像していた別れだった。自分は、彼がオーダーだからこそ彼付きの治療科として傍にいる事を許されてきた。けれど、彼は今、オーダーから離れてしまっている。
ならば私の居場所が消えても、おかしく等なかった。
「何も言い返さないのですか?」
「‥‥あのヒトは、今元気ですか?」
「そう聞いています」
「なら、大丈夫です。必ず、私を見つけて、また私に甘えに来るので」
「‥‥見かけによらず、いえ、報告以上の自信家のようで」
「だって、あのヒトの初恋は私ですから。彼の特別を初めて奪ったのは―――この私です」
つい笑みが零れてしまう。普段、彼が甘えに来る足や胸、それにこの手を彼はいつも見ていた。隙あらば甘えて、隙あらば口づけをしてきた。
皆に隠れて逢瀬を重ねる時間を、誰よりも過ごしているのは、この自分だと自負できる。中等部から続けて来たのだから、自分が一番に決まっていた。
「それに彼の為に用意した物がまだあるので、全部試してあげないと‥‥ふふふ‥‥」
「‥‥聞いておきます、例えば?」
「‥‥秘密です。だけど、彼は楽しみにしてそうでした‥‥彼と私だけの秘密‥‥」
「怪我をさせない――――治る怪我に留めておきなさい」
声を我慢する彼は可愛らしくて、それでいて次を求めて甘えにくる彼の姿は酷く無様で。そんな彼の顎をつま先で突き上げて。そんな姿を晒してくれる彼は、なおの事愛らしくて。
「妄想に浸るのなら自室でしなさい。話を戻します、あなたは今後、彼が戻ってくるまで法務科付きの治療科ではなくなる。今後の為、あなたには法務科の保護を受けて貰いたいのです」
「え‥‥?」
「理解出来ませんか?あなたは、ただの人間では体験できない日々を送って来てしまっている。流星の使徒、ヒトガタ、バチカン、特務課、オーダー本部。その全てがまだ学生であるあなたでは振り払えない力の持ち主達。理解しておきなさい、何も後ろ盾がないあなたが、一番危機的状況にいる」
突拍子もない提案に面を喰らい、突飛な理由に豆鉄砲を受けてしまう。
忘れていた。自分は、ただの人間なのだから、それら全ての組織から影から襲われてしまえば、なんの抵抗も出来ずに路地裏に連れ込まれてしまうかもしれない。
「理解していますね?これらの組織は、総じて殺人も辞さない人間達。事実としてオーダー本部すら殺人と拷問を行っていたのですから」
「‥‥もし法務科の保護を受けたら、私はどうなるんですか‥‥?」
「これまで通りの生活を送れるとは思わないように。場合によってはオーダーを辞退。家を変え、名を変え、必要があれば顔すら変える必要も生まれます。言っておきますが既に前例がいます。冗談、脅しの類とは思わないように――――それで、どうしますか?」
「お断りします」
想像通りだと言うように、机の上で手を組んだ麗人が更に続けてくる。
「理由を聞いておきましょう」
「私は彼の物です。私を愛してくれた彼の為に、彼を置いて何処へ行く訳には行きません――――それに、法務科の保護なんて無用です。彼がいますから」
「はぁ‥‥法務科よりもあの化け物の方が信用できると?」
「はい。だって、もし私が襲われたら、彼が怒りますから」
私を襲い、乱暴し、怪我でもさせたら―――怒り狂った化け物が己の全細胞を使って取り戻しに来る。それは災害と似て非なる、殺戮の運命。星々が直接、彼と共に人々を襲い、怨嗟の声を上げて己が内臓を見つめる事となる。
それは神の裁きそのもの。その時、人類は終わりを迎える。
「だけど、もしもの時の為、私の警護はお願い出来ますか?」
「‥‥全く。その理由は?」
「彼が怒ってしまいますから。私を失って、心を失った彼を鎮める方法を持っていますか?」
その問に、法務科の彼女は答えられなかった。あるとすれば、世界中のオーダーや外部組織に頼って、彼個人に戦争を仕掛ける事。けれど、それさえ何処まで彼に通じるだろうか――――彼は、既に運命を掌握しつつあるのだから。
「わかりました。警護には限界があるとしても、あなたの『法務科付きの治療科』という枠はそのままにしておきましょう。あなたが傷を負えば、法務科が全力で味方となります。それでいいですね?」
「はいッ!」
「結構、全く‥‥」
机に俯いた麗人は、「これから忙しくなる」と呟きながら眉間に指をつけた。
「伏せろッ!!」
床に抑え込むでは足りない。床も目標とした入射角を見越し、階段を登り終えたふたりの腰を持ち上げるように抱え、日焼けした壁を持つ踊り場まで飛び降りる。
その瞬間、ふたりは何も聞かずに頭を抱え、続けざまに轟く銃声に構えるが―――何も起こらない数秒を過ごす事となった。
「‥‥不発‥‥?」
ふたりに目配せをし、つい先ほど飛び降りた階段を再度登る。目を起動し、この身体に風穴を開ける為に用意された弾丸のありとあらゆる
「調べてくる」
肺に酸素を取り込み―――心臓—――血管—――内臓、筋肉へ供給。血を受けた足の筋肉に命令し、靴底を床の板張りで弾ませ、本当の一息で扉まで飛びつく。人の目では到底捕らえれない速度を持って扉を身体ごと破り、既に抜いていたM&Pを膝を突きながら構える。
「‥‥劣化して動かなかったのか」
そこにあったのは、真鍮製で空気を取り込む事で冷却する銃身を持ち、薬莢の排出、弾の補充をひと回転で済ませ、1秒間に全ての工程を数十も数百も続ける兵器。
忌々しくも『あの先生』が使っていた物と酷似している車輪付きのガトリングだった。
「‥‥かなり古い。それに規格も見覚えがない‥‥個人でチューニングしたインテリアか?」
埃を被ったそれは、やはりインテリアだったのか。天体望遠鏡のように飾られ、多くの調度品の中のひとつのようだった。けれど、決してここは書斎などではない――――いうなれば、ここは研究室。もしくは金庫とでも言うのだろうか。
大量の
「‥‥入って来てくれ!」
ふたりにそう呼びかけて、目で部屋を見通し始める。
「これは‥‥」
「大丈夫だ、もう動かない」
「‥‥そのようですね」
戦場どころか、船舶やUAV、ドローン、ヘリコプターにすらも、もはや搭載されない旧型のガトリングを見て、ふたりも非現実感を受けたようだった。けれど、現代でも兵器に主力として搭載されているガトリングの制圧力は、目を見張る戦果を挙げている為、気が気でないのも、また事実のようだった。
「‥‥ここは、あちらの屋敷とは違うようです。やはり、ここは人を集め閉じ込める人喰いの館—―――自分のいずれ来る生贄としての運命を、施す孤児院のようですね」
「孤児院‥‥オーダーの初等部は、まだまだ良心的だったのですね」
本棚の中にテーブルに指をつけたネガイが、埃の量を調べるが、指は綺麗なままだった。
「定期的に使用人が掃除に来てたのかもしれないな。手すりとかも、べたついてなかったし。床も抜けてなかったから」
ガトリングを越えて、部屋の中央に足を踏み入れると、マトイが孤児院だと名称した理由がわかった。小さい子供が使うような背の低い机が用意され、その前にはひと一人が立てる空間が開けられていた。
「影の館か‥‥。聞いていいか?この館に罠が仕掛けられているなら、」
「いいえ、それはあり得ません」
「—――言い切れるのか?」
「はい。ひと一人を生贄として求めるような危険な獣を、自身の本拠に置いておくなど、真っ当な魔に連なる者であれば、絶対に行いません。それに、もし何かの間違いで周期を越えて、目覚めさせてしまったら、この地は既に滅んでいます」
「‥‥それもそうだな」
部屋の中は、大量の本が並べられてこそいるが、ここはどこか工房を思わせる品々が並んでいた。本棚で隠されるように壁に吊るされていた物は、のこぎりの刃やつるはしの先端のような物、それらの隣にはスパナやペンチ等々。
書物に埋もれている部屋には、似つかわしくない物ばかりだった。
「‥‥もしやここは――――彼女達は、ただここを買い取った、いえ、占拠していただけなのでは?」
ガトリングに顔を映していたネガイが、マトイにそう投げかけると、驚いたように顔を上げたマトイが大きく頷いた。
「‥‥これほどの書物を蓄えた魔に連なる者の屋敷を占拠なんて―――。一体、どれほどの規模で攻め込んだというの?いいえ、それ以前にどうやって他人の研究室に‥‥」
「ここの建物は、元々別人が?‥‥あんまり詳しくないけど、俺の関わってきた魔に連なる者達って、そんな敗北をするとは思えないんだが‥‥?」
「それはあなたの会ってきた方々が、到底普通ではないからです。マスターにあの人の弟子達、信じられないかもしれませんが、彼女らはあちらの歴史の分岐点にも立てる、秀才達に異端達。いくら貴族だからといって、自身の力や歴史を越える者には敗北を喫するのは、決してあり得なくなんてないの」
本職であるマトイがここまで断言した以上、それはあり得るのだと理解した。
「それで、どうですか?彼女は」
「‥‥見当たらないな。もう逃げた可能性も考えた方が良さそうだ―――」
視線で扉の外を指し示し、外出を促す。その意味に気が付いたふたりと共に、大人しく外へ出ると、屋内から足音が聞こえてきた。
急に飛び込んできたのが、これほどまでにストレスだったようで、人がいなくなった瞬間に痺れを切らした。
室内に隠れていた人間の溜息を吐く音と、椅子を引いて座り込む音が響いてくる。
「俺が入ると、警戒させる。ふたりに任せていいか?」
「ええ、交渉で女性が矢面に立つのは、自然な流れですね。任せて」
「‥‥なんか、怒ってるのか?」
「まさか、ふふ‥‥」
僅かながら棘を感じる文言を言い放ったマトイが、ひとり扉を潜ると、中から短い悲鳴が聞こえた。それに対してマトイが優し気に声をかけて、警戒を解きにかかる。
「この館に入れたという事は、あなたは過去に誘拐された人間では?あなたも知っての通り、この湖一帯を支配人していた魔に連なる者達は、私達オーダーと機関の人間が逮捕しました」
「‥‥あなたは、何もわかっていない」
「ええ、そうかもしれません。けれど、あなたがこちらに来てくれれば、」
「あなたは何もわかっていない!!」
腰のレイピアに手をかけたネガイが、扉に軽く触れて
「この館は、あなたが想像できる構造をしていないの!!」
「落ち着いて下さい。現在、この屋敷に最も詳しいのはあなたひとり。あなたは、もう自由、使用人などに身を捧げる必要なんてありません。さぁ、手を取って」
「‥‥外に、男がいるのね」
「はい、いますよ」
「その男を殺して」
ある程度だが、察しがついていた言葉だったので臆する事はなかった。
確実に、あの使用人は―――男性という物を毛嫌いしている。それが悪い事だとは思わない。俺が人間を総じて嫌うように、ネガイがオーダーという組織を憎く感じているのと同じだった。
特定の種族の片割れを嫌うのは、さほどもおかしくなどなかった。
「‥‥報告通りですね。あなたは、男性を嫌っている」
「そうよ‥‥だから私の視界に男を入れないで。手を取って欲しいなら、その手を外の男の血で濡らして―――」
「調子に乗らないように」
にこやかに言葉を返した時、屋内から肉を打つ音が聞こえた。
被害者でもある使用人に対して、あの法務科のマトイが手を上げたのだ。頬を打たれた使用人は突然の平手に反応出来ず、弾けるようにテーブルや椅子を巻き込み倒れた。
「私はオーダーです。その私に対して殺人を犯せなど、侮辱以外の何者でもありません」
「‥‥なら私は何も言わない」
「二度目です、調子に乗らないように」
倒れた使用人の襟を掴み上げたマトイの姿が見えた時、ネガイの背中を押して中に入れる。その状況に、マトイは笑顔で応対するが一瞬目が合った使用人は汚らわしい物でも見るかのようだった――――その顔には、見覚えがあった。
「ごめんなさい、私‥‥」
「いいえ、あなたを止めに来た訳ではありません。私も、取り調べに手を貸させて貰います」
「ふふ‥‥ありがとう」
襟から手に握り直したマトイが身体を引き上げると、倒れたテーブルにしがみつくように使用人が離れていく。
「オーダーが暴力‥‥覚悟して!!男に触れた手で私に触れた!?絶対に許さない!!」
「それだけですか?では、好きにしなさい、犯罪者が」
終始優し気だったマトイが、息をするようにあの冷徹な視線を向ける。多くの犯罪者、裏切り者のオーダーへと向けられた視線は、この化け物をも凍えさせる。心臓を冷たい手で鷲掴みにし、肺の形を思いのままに変形させる。
生きた心地のしない瞬間を感じている事だろう。
「は、犯罪者‥‥?」
「あなたはオーダーではなく、この屋敷の田舎貴族に与した。手を差し伸べたというのに、あなたは手を振り払い、あまつさえ外のあの人を殺せと言った。女性だけで保護と言えばよかったものを、殺人を強要した―――あなたのやっている事は、ただの犯罪」
「私は犯罪なんて犯してない!!無理やりここに連れて来られて、その時まで使用人にさせられて!!‥‥あなたにわかる!?これまでの仕打ちをッ!!」
「だから、なんですか?ようやく救われるというのに、その手を拒否したのはあなた。最後の審判をいらないと言ったあなたに下せるのは、手錠だけ」
瞬時にネガイが使用人の腕を取り、床に押し付ける。関節を奪われた使用人は、再度悲鳴を上げるが、ネガイは表情のひとつも変えずに淡々と手錠を掛けた。
「なんで!?どうして!?私は、この館に囚われていただけなのに!!」
「いいえ、あなたは館に囚われてなどいなかった。望んで、この館を安息の地としていただけ。彼女を代わりに捧げようとしたにもかかわらず、それが失敗したら逃げ出そうともせず、ここで待ち構えていた」
「‥‥え?」
「まさか、私達を返り討ちにしようとしていたなんて」
そうだ、この場に既に彼女が隠れていた。オーダーの保護を受けたかったのなら、姿を現し、保護を叫べばよかった。だというのに、彼女は殺人を強要、オーダー側の力を削ごうとした――――これは仲違いを起こさせる心理攻撃。
「そ、そんな事してない‥‥!!」
「いいえ、あなたはオーダーに対して攻撃をした。あなたが今日眠れるのは、どこかのホテル一室かもしれない。だけど、明日には檻の中に入れられる。諦めて罪を償って」
あの初老の女性が教育係だったのか、ひきつけを起こし、癇癪やヒステリーでも起こしたかのように、足をばたつかせ始める。哀れとは思うが。やはり同情は浮かばない。ただ、自分の態度の報いを受けるだけだった。
「ずっとここにいたあなたには酷かもしれないけど、いつまでもお姫様気分で物を言った責任を取って貰います。私はあなたの部下でも奴隷でもない。オーダーとしてここに在る以上、あなたを逮捕するのも可笑しな話でもないのです」
「一方の話だけを信じるとしたら、彼女はこの館にて『蝶よ花よ』と愛でられていたそうですね。教育、生活の保証をされ、掃除など一切した事もないと。あなた達に無礼な態度をとっていたのも、自分しか応対できる者がいなかったからだと」
「‥‥館への反撃って言えば聞こえは良いけど、ただの反抗期か‥‥」
「わがままに見えていたのは、外敵への警戒ではなく、やはりただの性格だったようですね」
気づいていたのか?とふたりに視線を向けると、何を今更と言わんばかりに、視線を向けてくる。どうやら、お年頃の少女特有の異性嫌いだったようだ。
「‥‥使用人ぽかったのは服の所為か」
「手塩に掛けて育てた生贄が、連れ去られてはマズイ。
「何度も練習した使用人の文言だけは、自然と口を衝いたようですが、あれは自分の身を守る為だけの
ロッジに戻り、ふたりと共にテラスで余暇を過ごしていた。件の少女は逮捕され、既にどこかへと連れ去られている。あちら側のオーダー達が連れ去った為、然るべき場所に拘置されるのだろう。—――恐らくは『秘境』と呼ばれる場所に。
「さて、仕事は済みましたし、彼らも私達に構っていられる程、暇でもないでしょう。やっと休暇を過ごせますね」
「はい、やっとゆっくり過ごせます。‥‥どうしましょう、何をすればいいのか、わかりません」
「ふふ‥‥私もです」
風に髪を流したマトイが、飛び出しそうな顔のまま、椅子に座っていた。
「泳ぐなよ‥‥」
「残念—――大丈夫、冗談ですから。湖は、とても冷たいので」
海と違い、湖には冷たい『水の塊』が存在している。普段は深い水の底にある
その上、時たまその塊は――――水面まで浮上する事があり、足を取られるという事も間々あった。恐ろしい事に、躍層に掴まれた本人は、溺れるまで体温が奪われていた事に気付かない。
水底に連れ込む、
「だけど、沖まで行かなければいいでしょう?」
「‥‥わかったよ。気を付けてくれ」
「やった!ネガイ、水着を見に行きましょう」
「はい。街まで降りれば、ある筈です」
ふたりが競争でもするように車に駆けこんだ後を追いかけようとした時、「あなたはお留守番を」と首だけ出したマトイが、告げてきた。何故か?と首を捻ると、「女性の買い物は長いので、それに―――期待していて」と宣告しながら発進してしまった。
「‥‥時間をくれたんだな」
ふたりが造り出してくれた時間を無駄にする訳にはいかなかった、すぐさまロッジから飛び出し、桟橋へと向かう。
「まず最初に、あの『生贄』はネガイを連れ去ろうとした―――それは、ネガイが邪魔だったからだ。狙いはネガイじゃない、この俺だ」
砂利道を踏みつけ、自分の存在の証を付けていく。
「灰色の髪を連れて来いと言ったのは、あれはカモフラージュ‥‥もしくはサブプラン。ご主人様の意図がわからなかったあの使用人達は、ネガイこそが目的だと思ったが、それは違う。処刑人たる血筋であるネガイは、自分にとって天敵だった‥‥」
桟橋に届いた時、辺りが霧に包まれる。
「俺が待てと言われたあの部屋は、食堂じゃない―――儀式場、聖堂そのもの。恐らくだが、あそこでやろうとしていたのは神品機密」
魔女狩りを引き出し、引き金を握る。たったそれだけでこの身体を取り込もうとしていた霧が、怖れ慄き身を引いていく。けれど、臆病者には臆病者の戦い方があるらしく、決してこの
「
「—―――ほう」
桟橋の果て、板張りの橋の更に向こうに佇んでいた。
「神品機密か。なるほどなるほど‥‥」
「お前がやろうとしていたのは、自分の意識を俺に移し、ここに封じられている貴き者を証明し続ける事。—―――霧の怪物を、消さない為に」
「なんの為だ?封じられているというのなら、忘れ去られるというのが、最終的な目的でもあるのではないか?何者すら忘却に捨てられれば、この世界では力を無くすに同意義。答えろ、私は、何故霧の怪物を証明したがっていたのかを」
「単純だ。外の世界に憧れているからだ」
そこに立っていたのは、一見すれば高潔な老人だった。
だが、
到底、真っ当な人間には見えない。
「—――くくく」
「続ける。お前が外の世界に憧れているからこそ、霧の怪物を捨て去る訳にはいかなかった。なくせば証明出来なくなるからだ。いつ捕らえたのか知らないが、ここに封じたのがお前自身なら、ここは本館でも離れでもない――――この土地一帯が、研究室」
「その通り‥‥。だが、魔に連なる者である私達は、そうは言わない。自身の魔道を突き詰め、窮極と究極を目指す為に己が血肉を蓄える探索部屋。己が世界を創造する為に作り上げる
その瞬間、霧の上に佇む老人は
「さぁ、その身体を渡し、中身を見せろ」
「出来る訳がないだろう」
「お前の許可など必要ない。私が手を伸ばすのだ、私の為に血を捧げろ」
—――愚か者は、須らく、自分の実力を見誤っている。
—――そして愚か者とは、総じて分不相応な欲望を抱えている。
到底自分の手では掴み切れない力を求めた
「なんだッ!?」
霧の手で、身体を掴もうとした瞬間、霧から血を噴き出した。
狼狽しながら辺り一面に血を迸らせて湖を体内のように染めていくが、血を吹き出した霧を放棄するように散らした時、ようやく出血が止まる。
「一体、何と繋がっている‥‥?」
「—――俺とあの方の繋がりを奪おうとしていたのか‥‥」
魔女狩りを向ける。そこに立っていたのは、千切れてもいない腕を抑えて、こちらを睨みつけてくる負け犬だった。先ほどの高潔さなど一切ない、あるのは今後の運命に一抹の期待を祈る、囚人の顔そのもの。
「言っておきたい。お前の知ろうとしている世界は、まだ身体に拘っているお前には身に余る。未だに知識に拘ってるお前では、垣間見ただけで発狂して終わりだ。大事に抱えていた知識を失って終わり―――死ぬよりもつらい目に遭うぞ」
「‥‥それを決めるのは私だ!!」
霧の腕を6に増やし、自身の背から槍のように貫きにかかる。
「それが魔に連なる者の選択か」
魔女狩りを向け、一本の霧の槍の根元を撃ち散らす。
祓魔師にのみ許された装備であり、『あの先生』が家に預けて、サイナが持ちだした兵器は、例え魔人であろうと撃ち抜けた。やはり霧の槍は身体の一部でもあったようで、槍に入った亀裂が背に達しそうになった時、槍を散らす。
「遅いぞ!!」
ほくそ笑んだ老人が、残った指分の槍を振り払い、胸から下を切り落としにかかる。けれど―――測定、誘導通りに動いた老人に、失望の溜息を吐きながら身を翻す。
「お前はきっと、俺が会った中でも実力者なんだろうが―――この使い方は間違ってる。それは魔に連なる者の世界にだけ通じる」
実力者とは、ふたつの意味がある。
オーダーであれば、ドルイダスのように権力闘争と共に、対象の難攻不落な支配域を見極め、実行部隊たる俺達に的確な
決して、権力で着飾って腰を落ち着けていたあんな者達ではない。
ならば、魔に連なる者にとっての実力者とは何だろうか?
「お前は、戦力外だ。探究にのみ心血を注いでいれば良かったものを」
想像は出来ていたらしい老人が、瞬く間に霧を濃く、深い物に変えるが、だからなんだと言うのだろうか?やはり、ろくに知らずに身体を求めたようだった。
霧の槍を避け切った時に振り返り様で、頭蓋、喉、心臓の上半身の急所へ発砲し、抉りにかかる。—―――戦闘と探究の違いがこれだった。
「俺を殺す事は出来ても、粉々には出来ない。だけど俺は違う‥‥」
悲鳴すら上げずに失った喉を抑える老人に痛覚など期待せず、既に白一色となった霧を星から見降ろす。既に見敵は済ませている、ならば後は見つめるだけ済む。
金星と宝石の星に見つめられた霧の老人は、容赦なく的確に銃撃を仕掛けられ続けてようやく気付き、頭上を見上げる。星を眼球に変え、観測していたこの化け物を。
「‥‥貴様、オーダートウマの検非違使か‥‥」
「なんの話だ?話に聞く討魔局か?」
こちらの答えに納得したのか、霧で失った身体を補って背筋を伸ばした。
「知らないと‥‥くくく、存外オーダーの裏を知らないようだな」
「生憎と、その裏に散々煮え湯を飲まされて来たんだ。知りたくもない」
「それは僥倖だ‥‥。討魔局であったのなら、近々—―――」
そこで止まってしまい、口の中だけの高笑いを続けていた。
どうやらこの老人を捕えているのは、討魔局の何かしらだったようだ。恨みこそあるが、あまり関わりたくはないのだろう。
「最後に聞かせろ、生贄の話はお前が始めたのか?」
「それを聞いてどうする?貴様には、なんの価値もあるまい」
「なら質問を変える――――お前が追い立てた元々の住人達は、何処へやった。もし殺して埋めているなら、死体でも見つけ出さないといけない」
何処へやったのか、この問にはふたつの意味があった。ひとつは殺したのかどうか?そしてもうひとつは、何故この土地を奪ったのか。
魔に連なる者達がやる事に、無意味な事はない。ならば、何処へ送り出したのかにも意味がある。
「‥‥いいだろう。その質問には、こう返そう―――ただ都合が良かったからだ。元いた田舎貴族共の事など、興味もない。だが殺した記憶がない以上、『秘境』か何処へ逃れている。私から言えるのはこれだけだ」
また『秘境』だった。
この地の近くであろう、その秘境には―――俺が想像も出来ない世界が広がっている。恐らく、そここそが魔に連なる者達の拠点。世界なのだろう。
「星を使えるとしても、隙があり過ぎるぞ。私を捕まえるのではないのか?」
「牢屋から逃げ出していたなら、無理にでも捕まえるつもりだったが、そうでもなさそうだ。大人しく檻に戻れ。俺は休暇でここに来てる、旅先のトラブルで済ませてやってもいい」
「‥‥見逃すつもりか?」
「違う。そもそもお前はここにいない、いないのなら逮捕も出来ない。捕まえようにも、霧を収める壺も持っていない。あまり手間を取らせないでくれ」
「‥‥あのガキと同類かと思ったが、お前は、既に同化しているようだな」
「次何か言ったら捕まえる」
「いいや、それは避けておこう。‥‥この世界は、まだ探究するべき所があるようだ」
最後に、霧の魔人は軽くほくそ笑みながら湖中の霧を身体に収め、乱反射した光が差し込んだ瞬間には、その姿を消し去っていた。周り見渡すが、まだまだ午前の陽光を携えた太陽と、深い鬱蒼とした山の木々ばかりだった。
「終わりに‥‥」
湖へ銃口を向ける。
「この銃弾は、魔に連なる者の身体を壊せる。それと同時に、力を崩す事も出来た―――あの方を羨ましたがらせた報いだ。そこから失せろ」
「サイズはどうですか?」
「‥‥計ったみたいだ」
「あなたの下着のサイズは既に把握しています。あれだけ直接見ているのですから」
ネガイが、真珠のような胸部を張って強気に微笑んでくる。真珠とは言い換えなどではなく、事実として日光を反射する肌が、七色に鮮やかに輝いていた。
「どうしました?私の素肌は、毎晩見ているでしょう?」
「それとこれとは別だ。‥‥本当によく似合ってる」
桟橋に座りながら、まだ足が付く浅瀬にいるネガイを見つめる。普段、肌の露出を控えているネガイから様変わりし、純白のビキニという―――女神もかくや、ローマの石像をも打ち倒せる美貌を余す事なく表現していた。
「‥‥綺麗だ」
「そんなに何度も言ってしまう程、美しいですか?」
「‥‥綺麗‥‥」
もはやため息すら出ないこちらの状況を悟ったネガイが「当然ですね。私は女神ですから」と更に胸を張って水面に倒れ込むように潜っていく。
「あんまり深く潜らないでくれ。湖は冷たいぞ」
「大丈夫ですよ。私も見張っておきますから」
「飛び込んでから言う事か?」
「ふふ‥‥」
冷たいぞ、と言った瞬間に飛び込んだマトイが、水晶のようなしぶきを上げながら浮上した。長い黒髪はそのままに、新雪を思わせる白いバストを下から持ち上げる黒い布を巻き付けたような水着に身を包んだマトイが、やはり子供のように手を振っていた。
「いかがですか?」
「‥‥美しい」
「他には?」
「美しい‥‥」
「良かった‥‥」
数か月前よりも膨らんだ胸に手を当てたマトイが――――あのマトイが顔を赤く染めて微笑んでくれる。黒の布に締め付けられたかのようで、どこか淫靡ながらもドレスにも似た清廉さを身に纏う彼女の、幼い少女性を見せつける姿に脱帽する。
「あなたはどうですか?」
「ああ、少し浸かるか」
ローレライに誘われるように、手を伸ばしたマトイのすぐ隣に足を下すと、湖の底は柔らかい水草と小さな小石で埋まっていた。そう思った瞬間には柔らかい砂が顔を見せる。
「冷たい‥‥」
「気を付けて。だけど安心して下さい、もしもの時はネガイと引き上げてあげるから―――昨日みたいにふたりで縛ってあげるから」
「‥‥期待してる」
微かに笑うマトイが沖にいるネガイの元へ、やはりローレライのように去っていくので、その幻想的な光景に目を奪われてしまう。マトイを迎えたネガイが、手を引いて水中に潜るとマトイもそれに応えて、黒と灰のい髪が沈んでいく。
その光景は、戦乙女の水浴びを思わせる神聖さを持ち、顔を上げたふたりの微笑は神秘さを解き放つ。
「‥‥言葉にできない」
「どうしましたー?」
「何でもない!今、そっちに行くから!」
肌を大きく露出したふたりの袂へ、大きく腕を回して駆け寄るしか、今の自分には出来なかった。そして背中を向けたふたりのすぐ近くに着いた時、大人しく両手を広げると、やはり言葉では言い表せない笑みを浮かべたふたりに飛び掛かられ身体を沈めるのだった。
「もう一度感想を聞いておきます」
「‥‥ずるいくらい綺麗で、大人みたいだ」
「いいでしょう」
腕の中にいるネガイと肌を合わせて、身体を打ち付ける
「やっとここまで来れましたね」
「‥‥ああ、そうだな。やっと恋人とだけ静かに過ごせる」
水で滑らないように腕のの力を籠めて、胸や腹部の質感を逃がさないように閉じ込める。この支配欲にも似た感情は、時折ネガイに向けてしまう物だった。
「大丈夫、私は逃げたりしません」
「‥‥ずっと傍にいて欲しい‥‥」
「ふふ、くれるか?ではなく、欲しいんですね。私がそんなに欲しいですか?」
「ああ、欲しい。ずっとネガイが欲しかった。俺ならいくらでも渡せるから、ネガイを渡してくれ。ずっと一緒にいたい‥‥」
「―――弱い化け物を、放置など出来ません。ずっと一緒にいて下さい」
せせらぎのみが観衆の告白に、せせらぎのみが祝ってくれる。静かにふたりの呼吸を合わせて、一瞬だけ離れた時、灰色の頭を腕で抱きしめて口を合わせながら水面に沈む。
「‥‥ふふ」
舌を合わせながら笑むという技術を見せつけるネガイに頼りながら空気を交換し合い、揺れる水草を視界に収めながら甘い唾液を味わい続ける。すぐさま空気がなくなってしまったが、肺と脳にはまだ余裕があり、ネガイも僅かに舌で答えてくれる。
「ふたりとも!!そろそろお昼に‥‥どこへ?」
マトイの声が水面越しに聞こえた事で、時間だと思い、灰色の髪を手放そうとするが、それに異を唱えたネガイが水底に押し倒すように逃げ場を失わせる。
ローレライとはマトイではなく、ネガイの事だった。
歌で男を誘い、水底に自身の美貌で引き込んで身体を食する。恐ろしい水魔に囚われた自分は、ネガイの水着に手をかけて、身体を求めてしまった。その瞬間、ネガイもこちらの水着に手を伸ばそうとする―――が。
「溺れてしまいますよ」
というすぐ近くまで泳いでいたマトイの布によって、強制的に引き上げられる。
「‥‥た、助かった。ありがとう」
「くふふふ‥‥そう、助かったのですね。やはりあなたはダメ、私が見ていないとどうしようもないくらいダメのダメ」
「―――そうです。この人を監視するのは、私だけでは手が足りません。マトイと一緒じゃないと、このダメな人のダメさ加減は手の打ちようがありません」
裏切ったネガイに視線を向けると、既に自身の水着を元に戻したネガイがいつの間にかマトイの腕を取っていた。それだけならまだしも、「このヒトに押し倒されました」と見え見えの嘘を付き、「やはりそうでしたか」とマトイを騙す。
「あなたには、お仕置きが必要ですね。―――この布の感触、その身に教え込んであげましょう――――気絶しないように、気を付けてね」
暗黒とも形容できるマトイの笑顔に、我ながら恐怖と同時に期待と興奮を持ち合わせてしまっている。
「全く‥‥脅かしているのに、何故そこで笑っていられるの?」
「笑ってなんかいない。昼だろう、行こう」
ふたりの手を引いて、水草を踏みつけよとした時だった。誰もいなかった筈のテラスに、人影を見つける。小さく手を引いてふたりにそれを伝えると、自分以外にも見えたのだとわかる。
「‥‥誰だ?」
「見覚えがありません」
その人影から視線を動かさず、ネガイの手を強く引き、前に呼び出す。
「わかるか?」
「ええ」
「勿論」
隙など与える訳にはない。
ネガイに腕と肩を貸し、頭上に飛び上がらせる。その瞬間、ネガイはマトイの造り出した布の壁を踏み付け駆け上がり―――縮地に必要な高度まで到達した時、足の筋肉を膨れ上がらせて壁をしならせる。
日光がネガイを映し、影を落としたとわかった瞬間には、既に桟橋まで無音で到着していた。更に桟橋からロッジまでの間、一切の足跡を砂利道に作らず、人影に脛を振り向けるが――――その時には影は消え去っていた。
「頂点捕食者が消えた事で、小競り合いが始まったようですね」
腕の中に入って来たマトイと抱き合い、静まり返っている木々の視線に抗った。
「何かありましたか?」
「‥‥今の所、特別気になる物はないな。そっちは?」
「何もなさそうです」
影こそ目に入ったが、たったそれだけでマトイが用意した昼食よりも優先される事などないと、箸を持っていた。それに窓から湖とテラスを覗いて見るが、人影など一切見当たらない。
「見間違いだったのでしょうか‥‥?」
「そんな筈ないだろう。確かに、俺もマトイも見えたんだ」
絶対的に自信を持っていた己の瞬足の一撃が空振りに終わった。心苦しそうにしているネガイを引き寄せて、膝の上に乗せる。
「あれは影の投映だったんだと思う。実際の人物は他所にいる」
「ええ、多分監視や挑発の為に、飛ばしてきた使い魔の類かと。だから、そんな顔はしないで」
マトイが指を伸ばして、灰色の髪を梳くと落ち着いたように頷いた。
「‥‥マトイ、質問があります。何故、影だけを飛ばしてきたのだと思いますか?」
「それにはふたつの意味がある思います。まず一つは、術者は姿を現す事が出来ない場所にいる。推測に過ぎませんが、あの力は自身の工房にいるからこそ、可能になった遠見の術。もうひとつは、私達を恐れているから」
それぞれの席に戻るふたりを見送って、自分は冷蔵庫へと向かう。
「戦闘に向いている術者ではないという事ですか?」
「その答えは、彼が知っているのでは?」
「ああ、そうだ。ここの支配者らしい魔に連なる者と話し合って、お引き取りして貰った。あの術者に負けたのが、影の持ち主なら―――俺を恐れているんだと思う」
コップに麦茶を注ぐが、面倒だと思いポットごと持ち出す。テーブルに重い麦茶ポットを置くと、ネガイが納得したように昼食に手を伸ばす。
「支配者からは、元々ここにいた連中が何処へ逃れたのかはわからない。だけど、殺した記憶がないから、秘境か何処へ逃れていると言われた。‥‥今思うと、あの使用人達は、負けた自分達の矛としてネガイを求めていたのかもしれないな」
秘境の名を告げた時、ふたりが視線を逸らした為、軽く流すに留めた。
「その可能性はありますね。ならば、敗北者はこの近くにいる」
「そうだったら有り難いけど、あり得るのか?」
「魔に連なる者は、土地の力を強く受ける者がいます。例え生き恥を晒してでも、土地から離れる事が出来ず、おめおめと許された小屋で生き永らえる者が」
その時だった。ロッジ全体が地震を受けたかのように揺れる。
「何か起こりましたね」
「はい、何か起こりました」
恐怖を娯楽として楽しんでいるのか、それとも恐怖とも感じていないのか、不安気な表情ひとつしないで、麦茶で喉を潤しに掛かった。
そんな通常のふたりに、自分以上の知識人に試しに聞いてみる。
「今のは、ポルターガイストとか言う奴じゃないのか?」
「そうですけど、それが何か?」
「‥‥ああ、そういう感じか」
「ふふ、あなたが恐れる物ではありませんよ。どれだけ恐ろしい幽霊屋敷でも、あなたが一晩泊まってしまえば、そこは夢幻の彼方の異郷、眠りの最果てそのもの。真っ当なこちら側の住人では、手も足も出せなくなりますから」
何処までが本気で、何処までが真実なのかはわからないが、少なくとも心配すべき所はないのだとわかり、腰を落ち着ける事が出来た。
「あの影がテラスにしか姿を現していない所を見ると、彼が泊まったから、中には入って来れないという事ですね。安全地帯であると同時に、ここは支配域の中心—――此処こそが許された土地だったようです」
あの老人がいつからここを占拠していたのかはわからないが、あのご令嬢が言っていた朽ち果てしまい、作り直したという話がもし本当ならば、ここにいた筈の何者かにとってこれ以上の侮辱もあるまい。
「あの使用人達が終始不機嫌だったのは、主君代えをしていたからだったのか‥‥。八つ当たりする相手が間違ってるだろう、客相手にすがりつくなんて‥‥」
「正直、私達の事を舐めていたのでしょうね。魔に連なる者でない、ただのオーダーならば、使ってやってもいいと。では、そろそろ始めますか?」
昼食が終わり、食器をマトイと共に流しに運んでいくネガイが、確認を取ってくる。それに応えるべく、今一度装備を整えに行くが、「それは、まだ」とマトイから待ったが聞こえた。
「相手が、どれだけの卑怯者であったとしても、まがいなりにも魔に連なる者。ローブのオーダー達を呼び寄せてから、赴くとしましょう」
「‥‥居場所がわかってるのか?」
「ええ、勿論。何故影を飛ばすのか、その意味が私達ならばわかります。影を自身の思う通りに使いこなすには、光が必要です。ならば、光は何処に行けば得る事が出来ますか?」
「‥‥光が差す場所、とか?」
「半分正解です。だけど、それでは影を変形させる事が出来ません―――そして、影を撃ち出す事も出来ません」
影を変形さえ、影を撃ち出す。ならば、思い当たる場所があった。
影の館の踊り場に、何故額縁ひとつ分の日焼けの跡があったのか、それは元々あのレンブラント風のタッチをした絵が影の館に在ったから。
何故移したのか、それは影を必要としたからだ。更に言えば―――あの絵こそが影を生み出す、影の館そのもの。変形させる者であるからではないか?
「‥‥御主人様の元に連れて行けと言った時、使用人はあの書斎じゃない、絵の前に連れて行った。確か、使用人も全員が魔に連なる者だったんだよな?」
「はい、その通りです。知識として、どこに御主人様がいたのか、知っていたのでしょうね」
「‥‥術者は光の館、あの絵の中にいる。—―――自分で言っておいて、なんだけどあり得るのか?」
「さぁ?それはこれから調べればいいかと。どちらにしても、あの絵こそが心臓とも言える存在価値そのもの。絵の中に世界があるなんて世迷言、信じるに値するか知りませんが、確保する価値はあるかと―――ふふ‥‥」
この話を、堂々と行っている自分達はきっと張本人から見れば、何処までも愚かであろう。だが、この答えが何処までも自分の正体に近づいた物の証と言わんばかりに、再度ロッジが揺れ始める。
「怒りではなく、怯えですね。自分以上の実力者が消えた途端に雄弁になるなんて、沈黙は金と知らないのかしら?まぁ、震えばかりは止められないようですが」
アイランドキッチンで洗い物を終えたマトイが、スマホを取り出して何処かへと指一本で何かを送る。顔にかかった前髪を指で整えて晒した顔は、底冷えを覚えさせる、能面のようだった。
「今夜にでも、襲撃を仕掛けます。その時までに準備を」
「あ、ああ。良いけど、法務科として相手に猶予を与えるのはいいのか?」
「何も問題ありませんよ。それに、私にも準備があります。取り寄せる物があるので、時間を下さい。‥‥ダメ?」
急なお願い、そして跪くような仕草に心を奪われてしまい、自然と頷いてしまった。ころころと雰囲気が変わるマトイに翻弄されていると、ネガイが思い出したように声を上げる。
「‥‥もしかして、二階の寝室を―――」
「入り込めない以上、覗き見る事は出来なかったと思います。だけど‥‥声は聴かれていたかも‥‥」
「—―――始末しなければなりませんね」
「‥‥ああ、始末しないと。俺達の声を聴かれていたなら」
「むぅ‥‥」
仮眠を取ってくれとの事なので、有り難く従ったが、仮面の方はどこかご機嫌斜めだった。自身の膝を叩いて出迎えてくれたはいいが、先程から唸ってばかり。
「あの‥‥もしかして怒ってますか?」
「‥‥いいえ」
「‥‥ごめんなさい。あれが居なくならないと泳げないと思ったので」
「その事でしたら、私は気にしていませんよ。ただ―――あの小物!!私に、あなたは勿体ないって!!」
その小物とやらの発言に、心底腹を立てているようで、足をばたつかせてベットに倒れ込んでしまわれた。頭蓋を蹴られている自分は、一度起き上がってめくれ上がりつつあるドレスを整えて差し上げる。
「あなたの価値は私が1番わかっています!!だと言うのに、あの小物がッ!!お前の我儘さ加減は昔から治らないだ!その我儘に付き合ってくれる彼は得難い物だ!愛想を尽かされないように気を付けろだ!!勝手な事ばかり!!自分は、身体の一部を奪われていた癖して!!」
お留守番を命じられていたマトイを思わせる我儘っぷりを見せる我が神は、なかなかに燃え上がった憤怒が治らないらしく、ベルベットを抱き寄せてごろごろとベットの上で悶え始めてしまう。
「哀れと思って無視して上げたのに、最後の最後であのような戯言をッ!!今すぐにでも、あの者の力を行使して粉塵と化して上げましょうか!!」
「落ち着いて下さい。あなたに俺が愛想を尽かす事なんて、絶対にありません」
「‥‥はい、わかっています」
ベットから引き上げた仮面の方は、尚もベルベットを抱き締めたままで見つめてくる。
「俺にとって、あなたはずっと特別です」
「はい‥‥」
「あなたが俺を大切に思ってくれているのと同じくらい、俺はあなたを大切に想っています。勿体ないと思われたのなら、俺はまだまだ磨き足りないという事、どうかあなたの手で俺を更に輝かせて下さい。俺は、あなたに磨かれたい‥‥」
「‥‥嬉しい‥‥ありがとうございます」
ベルベットを離したと思った瞬間、跳ね返るように此方へ倒れ込んで来た仮面の方と共に、ベットに横になる。未だ燻っておられる仮面の方だが、幾ばくか機嫌が治ってきたようで、愛でるように頭を胸に引き込んでくれる。
「そうですね。あなたはまだまだ磨き足りない。私の未完成の手では、あなた程の原石は不相応に見えてしまうかもしれません。だけど、あなたは私の物。誰にも渡しません―――だからあのコウモリには絶対に渡しません!!」
「コウモリ?」
「聞き流して下さい。あなたの耳に、あれの名が入る事すら、私には我慢なりません」
それっきり何も言わずに、ただただ頭を抱いて慰撫してくれるだけとなる。未だ不機嫌なままなのは、言わずもがな、どうしたものかと首を捻っていると、大きな溜息は耳元から聞こえる。
「‥‥折角あなたがいるのに、怒ってばかりです。これだから、小物は‥‥」
「あなた以上の者など、まずいません。‥‥いくらでも食べていいので、笑って下さい」
無理やり頭を引き離したと同時に、入れ替わるように仮面の方を抱き締める。胸に鋭い仮面が突き刺さるが、些細な痛みなど無視したまま、背骨を折るつもりで続ける。数分後、ようやく微かに笑ってくれる。
「—――本当に、私にあなたは分不相応かもしれませんね。今日は激しくないのですね、ゆっくりと心音が聞こえますよ」
「あなたも、やっとゆっくりになってきました。俺の話、聞いてくれますか?」
「勿論です‥‥」
仮面の方を胸に抱いたまま、内の疑問を吐露する。
「あの絵がこの土地の主、いえ、旧支配者だという事はわかっています。だけど、どうしても俺には理解出来ません。どうして、絵に己を封じているのですか?」
その時、胸の中で僅かな痛みを感じた。齧られてしまった。
「あ、ごめんなさい。だけど、頂きますね」
「どうぞ‥‥」
胸骨の一本に噛みついた仮面の方が、骨と骨の間から零れる血を啜っていく。
「何故、絵に己を封じているのか。それは許された土地が絵の中だったというだけです。あの人間は、完膚なきまでに敗北した結果、自分の従者を奪われ、一歩たりとも土地を踏み荒らす事を許されなくなってしまった」
「そういった‥‥命令ですか?」
「まさか―――あぁ、美味しい‥‥」
既に露出した心臓を、骨越しに舐めとる快楽に耐える為、温かな股に膝を突き入れ抱き締めると、予想外の突き上げに驚いたような声を上げさせてしまう。
同時に細い身体に欲望を血としてぶちまけて、仮面越しの顔を自分の色に染める。
「びっくりしました‥‥ああ、だけど、何故こんなにも美味しいのでしょう―――ふふ、命令ではなく、あれは呪詛の類です。絵の外から出てしまえば、途端にあの霧に捉えられ血祭りにあげられる。けれど、それを成していた者達は消え、自由になれる」
「自由に―――。もうひとつ疑問があります、あの霧が現れる前、それ以前にも生贄を求める何者かがいたんですか‥‥?」
「ええ、いましたよ。人間という獣が」
全て合点がいってしまった。考えるまでもない、生贄という存在は、ありもしない土地神に捧げられる人身御供であり――――ただの迷信であった。
もしくはその土地を守護する、使う事を許す立場である権力者に対する服従の証。
少女達は、ただの身代わりでしかなかった。
「あなたもマトイさんも言っていた事ですよ。人の足を遠ざける為に、そのような寝物語を造り出したと。ふふ‥‥人体を求めるのは魔に連なる者であれば、尋常の事。あの森を思い出して下さい。何も知らない人間が迷い込んでしまえば、囚われるのは必定—――自分達で、それぞれの館で必要な生贄を育成し、外も内も造り変えてしまう。これを怪物や鬼、神と言ってしまっても人間では仕方ない事では?」
唇を染め上げている体液を舌で舐めとり、「マナー違反でしたね‥‥」と照れくさそうに笑いかけてくる。既に答えは生まれていたのだ、悩む必要などない。
むしろ、あの新たな支配者に敗北するのは当然だったのかもしれない、人間を求めるか、貴き者を捉えるか――――どららが格上か、魔に連なる者に明るくない自分でも、瞬時に理解出来てしまう。
「ふふ‥‥白くなってきましたね。だけどここは真っ赤。それに膨れています」
自分以上に、この身体の中身を知っている仮面の方は、慣れ親しんだ楽器の弦でも手に取るように、心臓に繋がる血管に触れてくる。
琴をつま弾くように爪で傷付けられる血管から少しずつ、けれど確実に致死量に近づく血が流れ始める。
「最近は気の赴くままに頂いていましたが、あなたのお蔭で落ち着きを取り戻せました。今日はゆっくりと食べてあげますね―――死ぬ直前まで、私を楽しませて。そして死ぬまでに、私を導いて‥‥」
一本一本、胸骨を指で折っていく振動に絶頂し、中身がなくなるまで白い手で貪られる。内側から内臓を慰撫される感触に慣れない自分は、その度に震えてしまい、その度に笑われてしまう。
けれど、優し気な仮面の方は身体の内も外も抱きしめて、続け様に訪れる終わりを共に過ごしてくれた――――けれど、戯れに身体の八割がなくなった所で起こされたので、「‥‥ごめんなさい。その出来心でして‥‥」と言わせるまで叱ってしまい、代わりに自分が眠るまで抱き枕となって貰った。
「恐ろしいのは幽霊でも怪物でもなく、意志のある人間というのはホラーでも定番ですね。ミトリと一緒に映画をよく見ますが、犯人は隣人という事がよくありました」
「‥‥そう言えばよく見てたな。映画は気に入ったか?」
「入った事のない土地が見れるので、楽しんでいます。いつかスウェーデンにルーンを‥‥」
「どうした?」
ルーンとは英語の元となった言語である。占いや儀式に用いられた文字とは言われているが、その実、常用文字としても親しまれた文字体系でもある。
発祥の地はもはや釈然としない為、あらゆる土地、勿論スウェーデンでも見る事の出来る文字ではあるが、その映画の話を詳しく聞いてもネガイは俯いて話してくれない。
「‥‥忘れて下さい。あれはまだ見てはいけないのでした」
「えっと、なら聞かないけど―――なんでマトイはそこで笑ってるんだ?」
「まさか‥‥ふふ‥‥」
寝起きであった為、欠伸を噛み殺しながら既に暗くなっていた湖の周りをぐるりと走り、光の館の方へとコンパスで向かっていた。おしなべて気にする事ではないが、湖にも館への道にも白いローブを身にまとったオーダーが闊歩し、異様な雰囲気を放っている。
「これだけ戦力がいれば、俺達は休んでていいんじゃないか?」
「例え敗北者だったとしても、新たな支配者に勝利出来ているにはあなただけ―――これは秘密にして下さい。あなたが退去させたその人間は、あちら側にとって有数の実力者、魔人のひとりとして数えられています」
「魔人か‥‥」
「それに、常に誰かに覗き見されているかもしれない、ポルターガイストの巻き起こるあの館で――――重なり合いたいなんて‥‥そんな趣味、私はとても‥‥」
「なるほど、見せつけたかったのですか。自分の性癖に私達を巻き込みたいなんて、あなたの色狂いにも困りものですね。縛られて抱き締められたいなんて‥‥」
「‥‥頼んだ訳じゃない」
昨夜のふたりの高笑いの記憶を頭を振って払い、触れられた部位の感覚すら忘れ去る。けれど薄暗い後部座席の視線に気が付くと、触れてしまった感触がハンドルから思い出してしまう。
「しっかりと前を向いて下さい。それで、先ほどから後ろに張り付いているアレはどうしますか?」
「無視して構いません。もしあれが呪いの類だったとしても、数日も経たなければ何も出来ません。それに、仮に一年以上あれと付き合ったとしても、私達には指一本触れる事も不可能ですから」
敢えて言わなかったが、ふたりとも既に気付いていたようだ。発車から共に乗り合わせていた影は、ぼやけながらも眼球を持ち、リアガラスに張り付いていた。やはり驚かす程度、事故を起こさせる為に飛ばしたようだが、正直映画の方が恐ろしい。
「つまらないですね。もっと、こう‥‥正体不明な何かが這いずってくる方を私は見たいのに。モンスターパニックと普通のパニック映画は私の趣味ではありません」
持論を持ち合わせているネガイは、後ろに冷たい視線を向けながら『影』の採点に入っていた。その様子にマトイが微笑みながら、座席に戻してシートベルトを締め直す。微笑ましい光景ではあるが、招かれざる同乗者には、そろそろ退去を命じる。
「—――失せろ」
星からの
「そろそろだ。降りる準備を」
森の前に到達した所で、車の形に草が萎れている駐車場に止まる。周りにも同じようなワイルドハントが停まっていたので、無防備に降りた時—――、
「弾代も安くないんだ。大人しくしてくれ」
漆黒となった森の
「エキストラとして出演したらどうだ?いい値になるんじゃないか?」
「どうしますか?車両のまま行きます?」
「いいえ、これは借り物なんだ。傷ひとつでも付けたら、サイナに泣かれる」
その光景には思うところがあったのか、ネガイは頷きながら「これ以上サイナを悲しませる訳にはいきません」と心優しい友人の顔を見せた。
きっと最近泣かせたのだろう。
「だけど、ただの徒歩で行くのも時間と弾の無駄だ。マトイ、こっちに」
「はーい」
「ネガイは先導を頼む。最悪、着いて来れないと思ったら」
「見捨てません。あなた達が私をひとりにしなかったように」
「‥‥一緒に行こう」
魔女狩りを渡したマトイを抱きかかえ、縮地で飛んだネガイの背中を追う。太い木の枝や幹を足場にバネに跳ね、灰色の髪に追随、漆黒としか常人で有れば言い表せない夜の森の中から手を伸ばしてくる影に対して、ふたりの『恋人達』が魔狩りを放ち続ける。
けれど、こちらは有限である弾丸だいうのに、あちらは影という概念だった。
時間の問題で、この均衡状態は瓦解する。
「キリがありません」
わざと地面に降りたネガイが、その一身に影を呼び寄せ――――舞い踊るようにレイピアを煌めかせる。僅かに月明かりが差したレイピアは、ここが舞台だとでも言うように、影を一瞬で切り刻み、怖れ慄き一歩止まった影達を撃つ抜いていく。
なびく灰色の髪を身体に巻き付けたネガイが、縦横無尽にレイピアを振り払い、白銀の天体を造り上げ、迫るも逃げるも許さぬ重力圏、大気圏を造り上げる。
「影を触媒に使っている以上、いくら切り裂いても終わりはありません―――けれど、発生源が見えたのでは?」
「‥‥ああ、ミエタ」
四方八方から跳びかかってきていた影達は、森全体から生み出されていた訳ではない。マトイが飛ばすと表現したように、ある一点から影を生み出し、弾き飛ばしているという事だった。
—―――ならば、ネガイによって飽和しかねない生産をしている影の出処は、一目で見つけられる。
「そこか―――」
マトイを地表に降ろしたと同時に、足元から生まれる影すら切り裂く漆黒の刃に身を任せ、今も影を造り上げている扉にも似た石碑を――――森の彼方、湖を過ぎ去り、館を越え、洞穴を通り、拓けた地底湖の石碑を撃ち抜いた時、影全体に亀裂が生じる。
「止まらないか」
確かに崩れたと見えた。けれど、スポットライトか監視塔に見つめられたかのような光の一瞥に包まれた影達は、崩れた身体など無かったように歩き始める。
「恐らく、あなたが砕いた物こそ、影達の触媒。後は全て砕けば終わりかと」
「だとしても、弾の無駄だ。影の次は光—――いや星を‥‥」
三度、目を使おうとするが、その瞬間目を布と手によって塞がれる。
「後は彼らに任せましょう」
「‥‥わかった」
背後のマトイを抱きかかえ、ネガイに目配せをした時には、地から足を離していた。続け様に放たれた槍の一振りと火炎の閃光、両方の轟音》に後を任せて館へと駆ける。
「あれもオーダーか?」
「ふふ‥‥」
「マトイ?」
「想像に任せます」
つまりは言わないという事だと判断し、足を掴みにくる影を踏みつけて先を急ぐ。
その後は、あちら側が派手に惹き付けてくれていたお蔭で、森のさざめきに隠れる事ができ、光の館の扉へと飛び込めた。
何所を見るか?考えるまでも問われるまでもない。向けた視線の先には、あのレンブラントのタッチを真似た絵画があったが、その描写は既に消え去っていた。
「‥‥絵の中だけに許された支配者か」
「—――憎らしい」
毅然とした佇まいに、悠然とした長いストールを身に付けた初老の男性は、自分以外の者を全て見下しているように、踊り場から睨みつけていた。
「私の屋敷を身の程知らにも這いずり回り、オーダーに明け渡した?あの奴隷共にも飽きれたが、私に手を貸すことすらせずに―――この世界を滅ぼしにかかるとは‥‥私が帰って来なければ、あの怪物が解き放たれていた所だ」
そのような過去の戯言に、マトイが満足気に笑う。
「‥‥可愛い」
「ふふ、ありがとう」
「‥‥何が可笑しい」
吸血鬼貴族のように、余裕そうに見降ろしていた男性が眉間に
「何もかも、と言ったところですよ。お聞きしても宜しいでしょうか?あの少女以前の生贄達は、一体なんの為に用立てたのですか?」
「お前も、魔に連なる者であろう。この世界の為、怪物を抑える為だ」
「流石です。私には、到底理解できない己が理由、感服いたします」
頭ひとつ下げない態度に腹を立てたのか、拳を作らずに手を上げた男性が、完全に焦点をマトイに合わせる。間に入りながら、こちらからも質問を放つ。
「その怪物とは、一体どこへ?」
「貴様に話す事はない。ただのオーダーの分際で―――」
思わず、魔女狩りを抜きそうになった時、ネガイとマトイが肩を抑える。その様子に、勝てもしない相手に挑むな、という意味だと悟ったらしい男性は僅かにはにかみ、鼻で笑ってくる。
「彼も人間です、殺す気ですか?」
「‥‥殺したい」
「ダメです。折角の湖を血に染める気ですか?」
「—――わかったよ。大人しくしてる‥‥」
魔女狩りから手を離した時、またも鼻で笑うが、今度は抑えきれない高笑いとなる。—――何故だろうか、違和感がある。あまりにも俺の事を知らなさ過ぎる。
「流石は処刑人の末裔だ。その血、ただいるだけで私の使い魔を打ち破るとは」
「‥‥ああ、そう思っているのですね。私の血ばかりを見て、気付かないとは‥‥」
「何が言いたい?」
「いいえ、何も。何か言う事も無さそうです」
呆れたような物言いに、再度機嫌を悪くする――――ほぼ同時に、ネガイが肩をレイピアで突き貫いた。一点のみの光しかなく、影が見えない館内にて、無音で埃ひとつ立てない完璧な縮地は、あまりにも都合が良く、武闘派ではない魔に連なる者には相性が良さ過ぎた。
「褒めてあげます、よく悲鳴を上げませんでしたね」
肩からレイピアを引く抜く為、腹に膝を入れて壁に蹴り飛ばしたネガイは「ようやく蹴れました」と呟きながら隣に舞い降りてくる。
「どうだった?」
「ただの血肉ですね。易々と刺せました」
「き、貴様ぁッ!!」
発砲の許可を与えるかのように振り下ろされた手は、実際に発砲を許可する合図だったようだ。暗闇から響き渡る合金の擦れる音に、察しがついた。
書斎へと続く手すりを砕きながら、あの旧式のガトリングが放たれる。
マトイと抱きかかえて、ネガイとは左右に分かれて一階の廊下へと逃れる。
「あーあ、折角の洋館が‥‥」
「ええ、勿体ないですね。ふふ、自分で自分の工房を破壊するなんて、手足を焼き切るにも等しいというのに‥‥」
「楽しそうだな」
「‥‥少しだけですよ」
口ではそう言っているが、やけになって洋館を破壊し続ける男性が楽しくて仕方がないようだ。けれどマトイとネガイがあれほどまでに恐れた理由がわかった―――影をそのまま発射しているかのような漆黒の曖昧とした弾丸が、ほぼ無尽蔵に続く。
「‥‥なんだ。いくら何でも―――近代的過ぎじゃないか?」
「気が付きました?」
「‥‥あの拳銃ならまだしも、ガトリングなんて‥‥」
今も指揮官気取り、もしくは指揮者気取りで手を降ろしている男性は、腰が引けながらもガトリングを放ち続けている。確実に廊下の曲がり角を抉り続けているガトリングだが、その姿は魔に連なる者ではなく、むしろこちら側—――
「もしあなただったら、どうしますか?」
「手短に頼む」
「ふふ‥‥恐らく、この館の者達は得物を持ち替えたのだと思います。昨今の魔に連なる者の中には、それぞれ思い思いの力の表現、杖を持ち合わせています」
「この家は、杖を銃に改造、いや、銃型の杖を使ってるって事か」
「正解かと」
マトイの伝えたい事、向けてくるネガイの視線の意味が理解できた。
銃器を使っている理由は、誰が使おうと結果は変わらない。腕さえ持ち合わせていれば、誰であろうと頭蓋を貫け、脳髄をぶちまける事ができる。
「—――素人が、俺に向けるべきじゃなかったな」
けれど、いくら高性能、制圧力の高い銃器であろうと決して修復も克服も出来ない隙がある――――小回りが利かず、一度撃ち続けてしまえば急には止められない、それはそのまま槍の間合いの奥、無防備な腹を晒すに等しい。
「—――マトイ」
「はい、あなたの望むままに」
あの夜、流星の使徒との抗争の時と同じ夜だった。月が見えず、ただ向こう側の圧倒的な数に手も足も出なかった。そしてミトリがいなければ間に合わなかった。
だが、今は違う。
化け物である自分を狩りに来た流星の使徒ではない。ただの敗北者が、オーダーである自分に対して銃器で挑み、高笑いのままで隙を晒している。
—――何も知らず、銃器の力に酔っている犯罪者を取り締まる。
—――これは普段の仕事、オーダーだった。
ただ名を呼んだだけで、マトイは自身の力で編んだ毛皮を被せてくれた。白銀の一刀を投げ渡してくれたネガイが、天の窓ガラスを視線で示す。
「‥‥アア、ヤロウ」
自身の指の長さがわからない。喉の奥から聞こえる声は、腹の内に獣を飼っているようだ。首から腕に繋がり、腿から足先まで繋がる筋肉と筋に血が届き、血管を血が焦がし始める――――ああ、だからなんだと言うのか。
視界の隅を血が漂うが、それも一瞬で消える―――だが、また戻ってしまう。
「今のあなたは、どのヒジリ?」
「‥‥そうだな‥‥いや、まだオーダーには帰れない」
「では、何故あなたはここにいるの?」
「旅にトラブルは付きものだ。これはただの―――」
一歩、廊下から踏み出す。
その瞬間、満面の笑みを浮かべた初老の男性が手を振り上げ、ガトリングに指示を下す前段階に入る。数秒後の勝利を確信した魔に連なる者は、肩口から溢れている血など気にも留めず、なんの訝しみもなく―――手を振り下ろした。
「旅行だ—――」
集弾性など皆無なれど、その一撃一撃には必殺の意志が宿っている。
このまま数秒どころか半息の時間を過ごせば、この身はただの肉塊、挽肉とも言えない残骸と化す。
だが星を送られ、混沌そのものであるあの方に愛された自分が、撃ち落とされる筈がない。天に靡き、天を焦がす星々に眼を捧げ、今も迫りくる弾丸の反射光を見通す。
「杖は銃、光はガラス‥‥」
魔女狩りを天井へと撃ち放ち、窓ガラスを破壊する。外の影の軍勢と同じだった。石碑によって生み出された影は、この館から放射された光によって形を持つ。ならば石碑という杖は銃に代わり、放射されていた光は、ガラス越しの月明かりだった。
「暗闇は怖いか?」
身に迫る筈だった影は完全に力を失い、身を叩く風すら届かなかった。
それにもっとも驚愕としたのが魔に連なる者であり、直後に耳に届く音よりも早くガトリングに到達したネガイのレイピアの一閃によって、銃口が切り落とされる。
「な、なんだ!?」
破壊の音と自分の真上から聞こえた足音に、震えあがった男性が顔をようやく前を向けた時、更に驚愕に眼を見開いた。
炎にも似た暗黒を纏い、表情どころか顔すら見えない化け物が眼前にいたからだ。影ばかりで何者をも見通せない、観測不能の深宇宙の果てにある深紅に輝く眼球のような星々と眼が合ってしまい、痛みさえ忘れている。
「声を出すな。血が止まらなくなる」
声に我に返った男性が見た物は、明白だった。化け物の前腕の先、自身の足に深々と刺さる脇差しを見て気絶してしまった。
「使いませんでしたね。なんでですか?」
「相手を選んだだけだよ。ネガイの刃なんだ、あの血で汚す訳にはいかない」
「ふふ‥‥同感です」
術者を失った館は、マトイ曰く無力化され安全との事だったので、既にロッジに帰宅していた。けれど、当事者たるマトイは館にて現場検証が必要との事で、ネガイとふたりベットに入り込んでいた。
「遅くなると言われましたが、先に眠っていいのでしょうか?」
「‥‥確かに悪いな。起きてるか」
「はい」
という建前の元、冷房が効き始めが遅いエアコンを憎らしく感じながら、ロッジに用意されていた浴衣に着替えたネガイと共に一階のソファーに重なる。
「—――どうすべきだと思う」
「あなたは、どうしたいですか?」
「何も考えたくない」
「では、それでいいのでは?まだまだ夏は長いのですから」
何所までも甘やかせてくれるネガイを胸の上に置いて、胸を潰させる。
だが、この態勢は息苦しいと思ったようで、腹這いから仰向けになったネガイが、一息ついて伸びをした。
猫のように身体の上で回り続ける灰毛を、後ろから抱き締める。
「何処にも逃げませんよ」
「‥‥夏は長い。だけど、逃げてばかりだと夏を楽しめないんだ。いい加減、道筋ぐらい決めるべきだってわかってる。—――自分の身の振り方ぐらい、自分で決めるしかない」
「‥‥ふふ」
抱き締めている手に手を重ねたネガイが、朗らかに笑いかけてくる。
「弱虫で不器用なのに真面目なんですから。何もかも自分の所為だと言いたいのですね‥‥自分の内側ばかり探っても、あるのは化け物の血肉ばかりですよ」
「‥‥そうかもな」
「そうですよ。毎日毎晩あなたの内も外も見ている私が言っているのに、信じないんですか?」
手に癒しの力を宿らせたネガイが、強張っていた手の筋肉を修復してくれる。爪に滲んでいた血が溶けていく、骨が膨れていたような痛みが引いていく。
「前にも言いました。あなたは私の物、あなたが傷つき苦しんでいる姿は見たくなんてありません。あなたの進もうとしている道は、いばらの道であるのは間違いないのに、その実、終わりには何もない。来た道を帰るしかない」
「ただ傷つくだけって事か‥‥」
「そうです。例え、何かを得た気になったとしても、それは元からあなたの内にあった物。無理に見出す必要はありません。あなたが見るべきは、自分ひとりでは見出せない宝物です」
宝物とは、ネガイらしくない敢えて選んだ子供のような単語だった。
だけど、ネガイと見つけ出せる宝物があるのなら、それは紛れもない価値ある物。
「どこに行けば、見つかる?どうすれば俺の物になる?」
「それは私達で決めましょう。他人には、無価値に映る物だとしても、私達のような人外には人外の宝物がある筈です。誰にも見向きにされないのなら、それは既にあなたの物—―――だけど」
腰の上で起き上がったネガイが、肩に手を置いてソファーに縫い止めてくる。
「あまり私に甘えてばかりではいけませんからね。あなたの甘えん坊さ加減には、マトイもミトリもサイナも、困り始めていますから。少しは自立して下さい」
「‥‥だけど、俺はネガイ達がいないと何も出来ないんだ。見捨てないで‥‥」
「はぁ‥‥相変わらず、あなたはダメです。ダメダメな患者を路頭に迷わせないのも、主治医の仕事ですか。では、ここに誓って下さい、ヒジリはネガイに全てを捧げると」
俺の恋人は、言葉をお望みだとわかった。
求められるままに起き上がり、ソファーで見つめ合いながら声を出す。
「ヒジリはネガイに全てを捧げる事を、ここに誓います。だから、ネガイも」
「はい、ネガイもヒジリに愛を捧げる事を誓います―――証を下さい」
言われるまでもなかった。両手を広げたネガイをソファーに押し倒し、口同士から粘液の音を響かせ、とめどなく訪れる快楽に逃げ始めるネガイを引き寄せ続ける。
「‥‥激し過ぎます」
「今は上にいるネガイが言うのか?」
「私に逆らう気ですか?」
「悪かった」
「いいでしょう。特別に許して―――」
その時、ロッジの呼び鈴が鳴った。
「マトイか?行ってくる」
「はい、私は‥‥あなたの唾液を洗ってきます」
駆け足で風呂場に走って行ったネガイと対照的に、寝巻を直しながら玄関に近づき、鍵を開けながら声をかける。
「言ってくれれば迎えに行ったのに、暑くなかったか?‥‥マトイ?」
扉を押しながら更に声をかけるが、そこにはテラスと、その先の暗闇の湖ばかりで何もいなかった。試しにテラスまで出てみるが、やはり誰も居らず車のエンジンさえ聞こえなかった。
「どうしました?マトイはー?」
「‥‥いない。嫌がらせ、の訳がないよな。誤作動か?」
そう自分に言い聞かせながら扉を閉めて、首を捻りながらしがみついてくるネガイと共に、自分も首を捻る。試しに眼を使おうとするが、ネガイがダメだと言わんばかりに首を振ってくる。
「マトイに連絡してきます」
「ああ‥‥任せた」
ソファーに落ちていたスマホを拾い上げて、連絡を取り始めたネガイの後ろ姿を見届け、扉を眺めていると「はい、気を付けて下さい」と通話を切った声が聞こえた。
「もうすぐ着くそうです」
「‥‥もうすぐか」
あの術者は、自分が帰って来なければ怪物が解放されると言っていた。怪物とは、あの霧の老人が捕らえていた『コウモリ』の事ではなく、自分達自身、人体を求める人間の筈だった。
「怪物か、この化け物とどっちが人間離れしてるかな?」
「どうしました?」
「‥‥いいや、何でもない」
ただの独り言を聞かれ、気恥ずくしていると、再度呼び鈴が鳴った。
「あ、今度こそ」
「俺が開ける」
立ち上がったネガイに待ったをかけて、ドアノブと鍵の摘まみを掴み、肩で破るように構える。この姿勢に合点がいかないネガイが声を出す前に、逃がさないように扉を開ける!!
「誰だ!!」
「—―――」
そこにいたのは―――。
「あ、マトイ―――本物のマトイですね」
「え、はい、マトイですが‥‥」
「ふふ‥‥今、時間はありますか?」
M66、M&P、SIGPRO、魔女狩り、脇差し、杭、レイピア、十文字エストック―――ありとあらゆる武具をテーブルやソファーに投げ出し、身を放り出していた自分と、自慢をするように嬉々として椅子に連れていくネガイを見て、マトイは疑問を口にする。
「どうしたの?」
「ちょっと、旅先のトラブルを経験してた‥‥」
外への扉の鍵は、血と眠り 一沢 @katei1217
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