記憶を踏みつけて愛に近づく

青い向日葵

記憶を踏みつけて愛に近づく

 愛とは、果たして美しいものなのだろうか。

 人や物や何かを愛する気持ちそのものは讃えられるべき綺麗な思いだけれど、愛という漢字の成り立ちに象徴されるように、愛とは、ある種の苦しみ、どうしようもなさ、みっともなさを伴う人間らしい気持ちの最果て、心の到達点、言い方を換えれば生きる意味だ。

 愛には様々な形がある。他者との間に生まれる恋愛、友愛、慈愛、または自己愛。屈折した愛、人間以外の動物や植物などに対する愛もあれば、無機質な物体や概念に何かを投影して愛する人も居る。


 愛という字は、がんじがらめに心を締めつけられ、胸が痛くて苦しんでいる人の形から出来ている。

 恋に落ちた時、愛しい人のことを遠くから想うだけで、息が苦しいような切ない気持ちになる。

 或いはまた、大切に育てた子供が非行に走ったり、意見が合わなくて家を出て行ってしまったり、自分を裏切るような行為に突き進んでいたとして、愛情のある親ならば、ただ我が子の行く末が心配で堪らなくて、自分のことよりもつらく苦しい気持ちになる。

 例えるならば、愛とはこのような気持ちではないだろうか。愛さえなければ、そこに苦しみや葛藤は生まれない。どうでもいいからである。マザーテレサが言ったように、愛の対義語は無関心なのだ。


 愛の裏には憎しみがある。表裏一体、ほんの些細なきっかけで反転する愛のもうひとつの一面とも言える。愛している(いた)からこそ、憎い。強い執着があるのだ。関わりを断ち切ることができない大切な思いが存在する(した)からである。

 つまり「可愛さ余って憎さ百倍」となる。愛しく思う気持ちが強ければ強いほど、転じて憎しみとなった時の激しさも強くなるという法則性を表す言葉だ。

 ストーカー殺人などの犯罪も、こういった感情が根底にあるのだろう。

 感情というものは厄介である。


 しかし感情こそが、人間が人間たる所以であり、今風に言えば「エモい」状況を生み出すのである。

 古典文学から脈々と受け継がれてきた人々の心の機微は、人間は誰しも少なからず感情に基づいて生活していること、のっぴきならない理由で本心を抑圧すれば、何らかの苦しみが強く伴うことを示す。

 思考、感情、深層心理、と深くなるにつれ自覚しづらくなってゆく思い。心の声に耳を傾ける機会は、多忙な日常の中で、大人になるにつれ少なくなってしまう場合が多い。


 感情を抑圧するとは、空腹に耐えて断食するとか、眠いのに無理矢理寝ないで働くなどの自虐行為の一種と言えるのではないだろうか。

 本能に逆らうこと、生きる為の自然な欲望を犠牲にすること。一体何の犠牲なのか。社会的な立場による大人の事情や、個人的に時間や金銭の余裕がないなどの消極的理由ですべてを諦める場合もある。

 一度ひとたび見方を変えてしまえば、どうでもいい足枷である。そんなものは蹴散らして愛を掴み取ることだって、生きる道の一つであろう。

 だが現実は厳しい。強引に奪い取るようにして攫って行くことが相手を幸せにするかどうかと考えた時、人は迷い、葛藤の中で悶え苦しむ。


 現代では少なくなったように思われるが、心中という方法も一昔前までは愛をまっとうする手段として現実的なものであった。

「一緒に死んでくれますか」

 まあ、究極の愛の告白とも言えよう。物凄いエゴだけれども。そもそも、愛とは究極のエゴなのだ。愛している私は何処まで行っても一人称である。愛してくださいと言われて、はい喜んで、という展開はまず無い。あまりにも具体性を欠いている要望にイエスと答えることは不可能だからだ。受け容れる気持ちがあったとしても、まともな言語を話す人なら質問を返すだろう。

「ところで、どうすればいいのでしょう」

「では、一緒に死んでくれますか」

 となって会話が成立してゆく。相思相愛の場合。


 そしてもうひとつ。愛は現在形、現在進行形であり、過去形になった時には、実際には存在しないのである。

 当たり前じゃないか、と突っ込みが飛んできそうだが、過去に想い人と愛し合っていた時期があって素晴らしい思い出だとしても、それは現在においては愛ではなく、記憶でしかない。愛の記憶は、既に生きてはいないからである。死んだものほど美しく、時が経つほど美化は進み、愛のむくろは輝きを増す。

 それは、良いことだと思う。記憶は美しいほうがいい。幸せな過去に支えられて苛酷な日々を耐え忍ぶ人生だってあるのだから。偽りなき事実に基づく胸の奥の輝かしい記憶は、生きてきたその人の財産である。


 人間が人間として生きる為には、衣食住などの最低限度の環境のほかに、心の糧というものが必要なのである。

 生存権、或いは基本的人権とは、最低限度の文化的な生活を保証されることと定義されている。文化的とは、心の糧を得ることができる状況を差す。美しいものを見る、音楽を聴く、美味しいものを食べる、いろんな糧がある。精神をあたたかく満たすもの、人を人らしく保つものを欠かしてはならないのである。

 この文化的なものに代替可能な唯一のものが愛ではないかと、私は考える。恋愛感情に限らず、広い意味での人間関係だ。インターネットに文章を投稿することもまた、見る人が居る時点で人間関係の一端と言える。


 愛は心の糧となる。たとえ、過去に死んでしまった存在であっても。

 生命は、科学的(肉体的)には死んだら終わりである。存在が消滅する。それでも記憶を通して、人は誰かの中に生き続け、影響を及ぼし、存在し続けることがある。

 愛する人、かつて愛した人、愛してくれた人、社会的にどんな関わりであったかは関係なく、心の繋がりを持っていた相手だけが永遠に生き続けるのだ。

 人生の節目や、ふと立ち止まった時に、心の中の存在に問いかけていることがある。愛ある存在に、事の是非を問う。こんな時、あなたなら、どうしますか。


 そして、自ずと答えは導き出され、自力で行動する中でも、何となく誰かに支えられているような気持ちで、人は進んで行くのではないだろうか。

 人間とは、そんな弱い生き物だから、時にみっともないほどの弱さがどうしようもなく愛おしくて、人は誰かを愛さずにはいられない。

 愛のない世の中は、とても生きづらい。誰もが、そこはかとなく感じていることではないだろうか。


「記憶を踏みつけて愛に近づく」と聞いた瞬間、私はここに記したようなことを改めて考えていた。

 小説にしてしまうと、読み手の人数分の解釈が生まれ、それはそれで良いとしても、私の意見を置く場がなかったので、今回はエッセイの形式を取った。

 今の私は、死者の愛と、既に存在しない遠い過去の記憶に縋って生きている。

 そんなどうしようもない自分を肯定してもいいと思えたのは、生と死が、愛と憎しみのように表裏一体であると考えるようになったからであった。


 生きていても魂が死んでいるとか、死して尚生き続ける精神とか、そういう時空が歪んだ考え方を取り入れたから、この世の不条理にも負けず、こうしてまだ生きている。

 私の得たこの世の愛は、現実には、全部儚く途絶えてしまった。だからこそ、私が生きて全うしようと思う。記憶を踏みつけてでも。今度は与える側に立って。

 私が死んだ時、彼女は愛を全うした、と誰かに思ってもらえるような生き方をしたい。そう考えたら、まだまだ死ねないと思ったのだ。

 愛に近づくには、まだ道は長い。ゆっくりと歩いて行こう。過去を許し、自分を許し、現実を受け入れて。その先には、小さな光がある。

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