第13話 事故(最終話)
十三 事故
成一は大阪の三国駅近くにバリ・レストランを作る提言をした。上山の息子雅彦がやると言った。
成一はこれを立ち上げる。すべての資材はバリ島で調達し、船で運ぶ。配置、設計もBBTがする。建築士のコンピャンとバリで床用の板も、天井の材料も、外壁も内壁の石や窓枠や玄関ドアも、テーブルと椅子も、金の繭で作った照明器具やインテリアとしての蚊帳も、石彫類も冷蔵庫類や食器類以外は全部バリ島で調達した。徹底的にバリ風にした。花柄渦巻模様の木彫りもレジの背後に置き、キッチンとカウンターの間にガラスをはめ込み、その枠も花柄渦巻模様の木彫で枠にした。席数は五十であった。トイレはグランブルーと同じ磨かれていない赤茶系の大理石のでこぼこした十センチほどの塊を壁に使った。高級感がでる。
バリで材料を設計に従って切り刻み、日本では大工の前準備を不要にした。
あくまでも日本でのように見事にきっちりと貼り付けたりするのではないと左官の男を納得させた。雑、不規則がよいのだった。
グランブルーのソースシェフやバワの第一の弟子たち四人、バースタッフ一人の日本在留許可証と労働ビザを取った。日本人スタッフを三人雇った。コンピャンも大工との打ち合わせのために一ケ月日本に来させた。
グランブルーの休業中に駆け足で「ハッピーバリ」を完成させたのだった。しばらく成一は大阪と尾鷲を行き来した。
爆弾テロ事件から六ヶ月が過ぎ、バリ政府による慰霊碑が建立され、レギャン通りに観光客が入れるようになった。グランブルーも再開した。だが、観光客数は容易には戻らず、バリ島は不況が続いた。成一も苦しい日々が続いた。妻の祥子は文句も言わず、成一を支えてくれた。彼女がいなかったら「ハッピーバリ」もできるものではなかった。娘の奈緒子は東京の大学に入り、息子は伊勢の高校に通っていた。
爆弾テロから一年が過ぎて、徐々に観光客数が増えてきた。
観光業というのは難しいものだ。バリ島で鳥インフルエンザというニュースが流れればすぐに来客数が反応する。
成一はすでに五十歳を過ぎていた。バリ島の仕事はマキがいてくれればやっていける。大阪は中村がいればやっていける。対葉豆の輸入は尾鷲でやる。
再びグランブルーが盛況になり始めた。
成一は帰国する晩、グランブルーで食事をしながらマキと打ち合わせをした。マキもインタビューに出かけることで人脈も増えている。濃い付き合いはしないようだったが、人間への興味はある風で、インタビュー記事は快調だった。奇妙にマキの文は面白かった。
出しゃばることなく、淡々としている。と言ってお茶目な一面も時々見せる。時々、大胆に「男なんてひっかければいいのよ」とも言う。マキのこころの奥底はわからないが、表層上は「あ・うん」の呼吸で、成一の言うことを理解した。成一もマキを理解した。
「さあ、今度来るのは多分二ヶ月後だ。バリでは呑気に仕事をするのが一番いいんだから。デング熱には気をつけろよ。生物の中で一番ヒトを殺しているのが蚊なんだよ」
「アイアイ、サー」
とマキは敬礼して、成一がスーツケースの整理しに行くのを見送った。
空港で成一は今回の「バリ日記」の最終を書いた。
関西空港に到着すると、バスで上本町まで出る。上本町からは近鉄で松阪まで行く。祥子がいつも松阪まで迎えてくれる。それから二時間、紀伊半島の尾鷲までかかる。故郷に帰ってホッとするのでもない。
家に着くと、OFFにしてあった携帯電話をONにした。するとバリ島らしきところから何度か電話がかかっている。何だろうと思っているうちに電話が鳴った。女性の声だった。
「工藤成一さんですか。BBTの社長さんですね。バリ島の日本領事館の者です。何度か電話をさせていただいたんですが、電話がつながらなくて」
「申し訳ありません。飛行機に乗っていたのと帰りの電車などで、ONにするのを忘れていました。たった今、家に着いたところです」
「そうですか。実は田辺真希さんが昨晩交通事故に会いまして。バリの総合病院に運ばれたのですが、命は今のところ無事ですが危ないということです。こちらでは田辺さんのご両親にも連絡が着き、ご両親は今日到着されることになっています」
「真希さんの過失ですか」
「違うと思います。車にはねられたということで。詳細はわかりません。その車に日本人の女性も同乗していました。彼女が言うには運転手の脇見運転だそうです。すぐにこちらには来れませんね。ご両親にはこちらで対応しますので。またご連絡いたします」
何か怒っているような声の調子だった。
成一は祥子に電話の内容を告げ、どうするべきか考えた。上山に告げた。
夜になってまた領事館の女性から電話がかかった。
「ご両親が到着して病院におります。骨折部分が多く、特に肋骨の骨が肺に刺さっているようです。緊急の手術が必要だということで、シンガポールの病院に搬送されることをご両親は承諾されましたので、今晩、シンガポールに運びます。それはEMSとバリの医師が付き添うそうです。シンガポールの病院の名称と、住所と電話をメモしてください」
「あっ、はい。どうぞ」
事務的な口調ではきはきとシンガポールの病院名と住所、電話番号を成一はメモし、再度確認して、
「ご迷惑をおかけしました。ありがとうございます。私はシンガポールの方に行きます」
領事館の仕事はこれで終わったと言わんばかりに、最後に強い口調で、
「社長さんなのですからきちんとお願いしますよ。社長が来ないなんて批判も多いんですよ」
と言ってその女性事務員は電話を切った。要点はきちんと伝えるのだが声が威丈高だった。どうすればこんな声の調子の女性に育つのだろうかとふと成一は思う。
「EMS」というのは主に先進国の外国人が緊急の病気や事故のときに海外の設備が整った優秀な医者のいる病院を紹介し、搬送の手配、看護師を付けるサービス会社だった。
おれがいたら、と思うと残念だった。
どうせ、その事故を知った領事館やマキの知り合いなどが、バリの病院にいたら死んでしまうなどと息巻いているのちがいないと想像した。バリの病院の質が悪いと決め込んでいることにも腹が立った。担当医師ときちんと話せばわかるではないか。どうせEMSに騙しこまれたのではないか、と勘繰った。マキの両親は何もわからないはずだ。とにかくマキはシンガポールに搬送される。今夜には手術だろう。
ぼんやりとテレビを見ていると、十一時頃、またバリ島から電話がかかった。別の女性の声だった。
「加害者の車に乗っていたものです。このたびは誠に申し訳ありませんでした。どんなことでもいたしますので、お許しください。私が責任を持って行いますので。運転していたものは私の友達でして・・・、どうもすみませんでした。お許しください」
と言って一方的に電話を切った。成一は、
「ちょっと待ってください」と言ったが遅かった。名前も言わねば、電話番号も住所も言わなかった。領事館が聴取してくれているだろう、と思い、警察に行けばわかることだろうと思ったが、運転していたものに賠償能力があるようには思えなかった。
レストランで別れたあと、バイクで帰宅している途中の事故だったのだろう。マキは生死の間をさ迷っているのだろう。
翌日上山と打ち合わせていると、上山は不吉な事故が相次ぐことに少し嫌気がさしてきているように見えた。表情は冴えなかった。
貯金の回収について話し始めた。すでに相当な利息が貯まっている。マキの事故で自分のお金の回収の話をする上山の気の小ささがわかる。あるいは慎重と言えるのかもしれない。成一であれば、毎日為替レートが変わり、それに一喜一憂するという環境を元々作らないのだった。上山は欲が働いて、その代わりに心配するのだった。
成一より一回り年上の成功者は女にも夢中であった。そのアリバイ作りにも成一は加担し、バリの事業は上山の資金で大きくなったものだから、恩ある上山に成一は協力を惜しまなかった。感情は自分を利する方に流れるという行動経済心理学で知ったことは本当だった。町中のビジネスホテルに時間借りの予約をし、鍵を開けていてもらうように交渉し、上山に部屋番号を知らせるということもした。
上山は徹底的に成一を頼った。
マキの両親から電話がなかった。マキが死んでいたら電話はあるだろう。だからマキの手術はうまくいったというべきなのだろう。そう判断して手術から三日目くらいにシンガポールに到着して、見舞う段取りにした。そしてそこからバリ島に行く。
それにしても交通事故とは。自殺? いや精神の自殺? とも思ってみたが、それだったらマキひとりでやることだろう。マキは他人を巻き込むことはしないはずだ。たまたまの偶然か。それにしても不運な。
マキにお金があるはずもない。察するに両親から離れて暮らしたがっている風なマキはこうやって両親の世話にならなければならない。自立と言ったって、親から離れると言ったって、所詮こうなる。マキは苦しいだろう。情けないと思うだろう。
湿気でむせるシンガポールに着くと、セントポール病院までタクシーを使った。大きなホテルのような病院だった。病院を囲むように個人医のクリニックがあった。
受付でマキの病室番号を訊き、十階の病室までエレベーターに乗った。
病室のドアをノックすると男性の声で返事があった。
マキは足も折れたようで、顔も傷だらけで、頭には包帯を巻き、首は動かないように固定されていた。
「BBTの代表をしている工藤成一と申します」
「真希の父親です。社長さんですね。娘がお世話になりまして」
とマキの父親は礼をすると、隣にいたやや小太りの女性も礼をした。
「手術は成功したんですか」
「はい、おかげ様で。命は取り止めました」
マキは成一の顔を見ても言葉が出ないらしく、涙を流すこともなく、じっとしていた。
「ぼくがちょうど日本に帰国した日のことでしたので、何の役にも立てず、申し訳ありませんでした」
「いえ、それはしかたありません」
マキの父親は温厚そうで、髪の毛はやや白毛が目立ってきているようだったが、六十くらいに見えた。マキの母親も何の愚痴をこぼすことなくマキを見守っていた。マキがどんな生活をしていて、どんな仕事をしていたのか、そんなことは一切訊かなかった。とりあえず、我が子が命を落とさなくて済んだという思いで精一杯なのだろうと成一は思った。
父親と廊下に出て、
「マキちゃんをどのように運んだんですか」
「MESの方がクレジットカードはありますかというので、審査にかけてもらって、飛行機をチャーターしまして」
「飛行機一機をチャーターしたんですか?」
「はい。それでないとだめだっていうものですから」
あいつらめ、と成一は思った。おれだったら六席分を買う。座席にクッションを運びこむ。そのくらいのものは航空会社にもあるだろう。なかったら買ってくる。
「それで料金は? 」
「看護付き添い、手配すべてを入れて一千万円でした」
ぼったくられたとも言えず、本当に必要なことだったのかもしれないからそのことには触れず、
「たいへんな金額ですね」
と成一は言うだけであった。
「それでMESの方からは電話がよくかかるんですよ」
「何てですか」
「日本への搬送はどうするんだって。MESで引き受けるって」
成一は苛立ってきて、
「それはこうしましょう。座席五席を買いましょう。日本航空にしましょう。毎日飛んでいます。三席にマキちゃんを乗せて。付き添いの看護が要らないと判断されたらここを出ればいいじゃないですか」
「そうですか」
「ええ、それでいいんですよ。日本航空でしたら日本語で事情も説明できますから。私がしますよ」
「いえ、私がしますよ。できますから。そうですね、マキの三席をちゃんととればいいんですから。担架もありますものね」
「そうですよ。航空会社の方でこういう場合、お手伝いしてくれるはずですよ」
とにかくマキの両親にこれ以上のお金を使わせたくなかった。穏やかで嘆くのでもない父親だった。
「あの子には苦労かけましたからね。復讐されたのでしょうかねえ」
マキの父親田辺誠二は苦笑いしながら言った。成一は初めてマキの過去を知ることになった。
「あの子が産まれる頃は夫婦仲が悪くて、わたしは夜帰るのが遅いし、当時は接待交際なども頻繁でしてね。家内も親がいなかったものですから、たいへんだったでしょう。それを私がわからずにね。子供なんて勝手に育っていくものだと思ってました。家内はマキを異常に可愛がりました。マキを抱いて、わたしと口喧嘩になる。泣く。マキを抱きしめる。三年は続きました。それに転勤です。知らない町へいく。家内には友達もいない。マキが幼稚園に入ると、一年経って慣れて来た頃転勤です。
わたしらの時代に育ったものは離婚など考えられませんでした。耐えるよりしかたがなかったんです」
「子供は全部知っていますからね。胎児の頃から聞いているんですよ。心臓の音も、血流の音も聞こえているはずです」
「そうでしょうね。今ならわかりますよ。マキは記憶力の良い子でしてね。それに静かな子だったんです。突然、思春期の頃に親の言うことは聞かなくなりました。大学にも行かせたかったのですが、拒否して、とにかく私たちから離れたいようでした。高校を卒業すると「さよなら」と言って出て行ったんです。それきりです。わたしもあんまり強く引き留められませんでした。家内は泣いていましたが、過干渉もそれで終わりです。紐を切ったのでしょう」
だいたい成一が想像していたとおりのようであった。マキは賢いから親を離れたのだ。そしてその救いの場所を宗教の方には行かなかったのだ。自分で生きることに決めたのだ。
羊水の中でマキの皮膚はヒリヒリしていたのではないか。突然の叫びに怯え、悲しんだのではないだろうか。雷が突然落ち、心臓は早い音をたて、血液の川は激しく流れ、その音も恐怖だったのではないか。
「札幌の病院に入院するか、とマキに訊いたのですが、目で嫌だと言うんです。今になっても親の近くは嫌なんでしょうかね」
「頑固なものですね」
マキの徹底ぶりがわかるような気がした。
マキの母親もいろいろと話したいこと、あるいは謝りたいこともあったかもしれないが、見守るしかしかたがないようだった。事故の身体が会話を拒否していた。
マキは二週間シンガポールの病院に居て、その後、東京の病院に搬送された。五ヶ月後、マキは再びバリ島にやってきた。そして成一が言っていた「マキの独り言」もブログにアップし始めた。
あれから五ヶ月。すべてのことには理由があるという。 なにかが起こるとその時にはそれがなぜ起きたのかがわからなくても時の経過を辛抱強く待ってさえいればいつかその理由は明らかになってくるらしい。工藤さんはそう言う。起こることは起こるべくして起こったのだから受け入れるしかない。抗わずに流れに身をまかすのだと自分に言う。
一時は危篤状態にまでなり誰もがマキはじき死ぬだろうと疑わなかったあの事故から五ヶ月。 長いようでその通り長かった入院生活を終え無事生還したマキにとって「第二の人生が始まった」と工藤さんは気取ったことを言うが、第二の人生とやらも以前となんら変わらない。 よく死の淵から生還した人が突然悟りを啓いた僧のような人格になったりするらしいがそんなことも全くありはしなかった。
走れない。 しゃがめない。 前かがみになってはいけない・・・ということを除けばあとは何の問題もない。あぁ、そうそう、びっこなのを忘れてた。 日常生活の中で〈走る〉は、まぁ置いといて、〈しゃがむ〉、〈まえかがみ〉でなければ都合が悪い場面のなんと多いことか。
大体バリの家具は一様に低いし、しょっちゅう物を落とすので拾うのにかがまなければならないし、そして未だバリで大部分を占めるしゃがみ式トイレ。これは絶対に無理である。でも、家具は高さの合ったものをオーダーすればよいし、しょっちゅう物を落とさなければよいし、トイレはバリ人の家に行かなければ良いだけの話でやっぱり問題はないわねぇ。
日本と違ってラッシュ時の駅などないし周りの人に歩調を合わせなければ迷惑になる場面もない。ゆっくり歩いていようが一歩に五分かけて階段を上がろうが十分かけて下りようが誰も文句など言わないし迷惑もかけない。 それどころか健康体のバリ人と同じスピードかそれより速いかも知れない。まぁ ピョコタン では優雅さで負けるけど。
しかしそんなことに情熱を注いでいたりなんかすると注目を浴びた上、十分間に合う筈の時間に家を出たのにもかかわらず仕事に遅れてしまうことになんかなったりするので普通に ピョコタン することにしよう。 とにかくニュピ後の、島の全てが浄化された後のバリに私は戻ってきた。これもなにか理由があるのだろう。 ピョコタン、ピョコタン・・・
ブログにアップしていたのを読んで成一もさすがだと喜んだ。こいつはできる、とまたマキの才能を思った。
観光客も戻り、盛況なグランブルーになっていた。大阪のハッピーバリの管理もあったが、成一はかねてから興味のあった、人間の身体についていくつかの本を読み、エステサロンで試し、「エステ入門」というテキストを作った。エステサロンを開きたい、勉強したいという人には役立つものだと自負した。成一のこの自分なりの研究はその後もずっと続くことになった。ホームページで「エステテシャンになりたい人募集」と宣伝するとはるばる日本から実技と理論を勉強しにくる人がポツポツといた。成一はエステ入門では基礎的な知識、マッサージの種類やその効用、オイルの知識、神経と血管の知識、自律神経と白血球の関係、筋肉と骨、皮膚についてなどを書いたが、特に力の伝え方、つまり客に気持ちよく、エステテシャンの体が疲れない身体操作の原理を列挙したところに大きな特徴があった。どうやったら力が伝わるか折りを見て研修会に参加する、武道系の本を読む。特にゴルフの打ちっぱなしに行き、実感を得た。知り合いは工藤がゴルフを始めたのかと熱心に教えてくれたが、目的が違っていたので、コースに出ることは一度もなかった。
テキストを作るにしても肝になるところがないとさほど意味がないように思われた。
成一はテキストの次の段階で「ボディ チューニング」という造語を作り、身体の整え方を仕事の合間に研究していた。
マキが事故を起こしたあと電話をかけてきた女性からはその後一切の連絡もなかった。
マキに支払ったお詫び金はわずか十万円程度であった。
マキの交通事故の加害者からマキが戻ってから何の挨拶もなかった。
成一は部下で経理をしているイダ・アユの夫に刑務所にぶち込んでくれ、と頼んだ。
警察へ行って両者の事情聴取をしてほしいと頼むが、のらりくらりとお金でもせびりそうな態度である。ようやく事情聴取をしてくれることになったが、マキは事故の前後の記憶がない。事故の記録と、加害者の事情聴取もようやく取り出してきた。イダ・アユの夫からの要請が入ると、警察はその後、態度が切り替わり、結局加害者は拘置所に拘留されることになった。そのあとどうなったかは知らない。ない者からは取れない。マキもマキの両親もさっさと諦めていた。
漸く落ち着きを取り戻したバリ島での事業。マキが帰ってから一年ほどが経った、十月一日、また思わぬ事件が起きた。クタとレギャンで再び爆弾テロが起こったのである。
このニュースを聞いた時、ああ、と成一は天を仰いだ。
実際の被害はなかったが観光客の激減がまた始まる。
上山と息子の雅彦と辛い話し合いとなった。
グランブルーは折りを見て売却する。エステサロンは廃業とする。大阪のハッピーバリは雅彦が継続して行う。
「よい夢を見させてもろたよ。工藤さん。これ以上突っ込むのはあかん」
「おとん、ウエヤーマは残そや」
「お前ができるというんやったらそれは好きにしてくれ」
「じゃあ、おれがやるわ」
雅彦はハッピーバリの人脈を使って、継続する意志だった。ウエヤーマは十分儲かっていた。成一たちがいなくなるが、すでに仕入れルートも決まっているものだから、観光客のいない時期は人を減らして、耐えることにした。グランブルーを維持するには経費がかかり過ぎた。
成一はサヌールにBBTを引っ越すことにした。そして学校法人を設立して、エステの学校を開こうかと思っている。もう方法がなかった。成一が開発したCDもマグネットも香水もすでに同じようなものが出て来ていた。すぐに模倣されると思っていたが五年ほどかかったというわけである。ホテルで販売することもやりたい者にやらせようと考えた。エステ備品は雅彦から買い取ることとなった。
バリ島に行き、全スタッフにこの方針を告げた。スタッフも文句ひとつ言う者はいなかった。
「イダ、学校法人の方に来るか」
イダを誘ったが、ひとり呑気に運転手がしたい、というので、車をあげた。エステスクールの生徒の出迎えや観光案内を引き受けるという条件をつけた。成一はエステスクール経営に役立つと思えるナルミニ、イルー、他数人らに声掛けにすると、彼女たちは成一についてきた。オカはホテル販売を引き継いだ。オカの兄、建築士のコンピャンはウエヤーマに移動させた。バワは自分の店を開くことになった。
サヌールの場所探しはナルミニたちがした。ナルミニはインドネシアントラディショナルのマッサージ技術やら他の技術を専門家に習いたいというので、そこに通わせた。学校法人にする手続きもナルミニが行った。日本語教室にも通わせた。
マキは二回目の爆弾テロ以降、何か別のことを考えているようで、無口であった。
「なんだかんだあるわね」
マキは自分がどうなるのだろうと思ったことはなかった。
「そうだな。歓迎しないことばかりだ」
つい成一が弱音を吐いた。
「でもな、また前に進んで、逃げて、躱して、後退して、また進んで、嘘もついて、隠れて、とにかくなんとかやっていくよ」
「工藤さんはそうなんだろうなあ。今度は学校でしょ。日本では何するの」
「不動産を売るよ」
「不動産? そんな資格持ってるの?」
「いや、持ってない。ただ上山さんのやり方を見ていると、もったいない、と思う。彼らは尾鷲に住む人を客としか考えていない。ぼくは田舎暮らしをしたい人は相当多くいると思う。そんなホームページを作ればいいんだ。田舎暮らしをした人が絶対読みたくなるような情報を載せて、紹介できる大工さんや電気屋さんの素顔も載せて、田舎暮らしの先輩の暮らしぶりを乗せて、とこんな発想がないんだ。だから当面ぼくがリードしてやってみる。上山さんはびっくりすると思うよ。空き家もね、問題のあるものが多いんだ。担保に入っていたりね。土地と建物が別々の名義になっていたりね。相続登記してなかったりね。そんなものも解決してやる」
「次から次へとよくそうアイデアが浮かぶものね」
「雇われたことがないんだから、しかたがないじゃないか。マキちゃんはどうする」
「グランブルーとウエヤーマに関するインドネシア語書類すべてを日本語訳にする仕事、二十五万円でまちがいないね」
「もちろん」
「それ済ませたら、中国にいくわ。中国語ができるようにしとこって、思うのよね」
「なんでなのかね。マキちゃんだったらまたホテルでもどこでもひっぱり凧だと思うよ」
「語学は面白いのよ。あたし才能あるからね」
「なんとしても日本には戻らないんだな」
「戻らない」
「テロも自然災害みたいなもんだな」
「交通事故も」
「人災なんだけどね。どうにもならない状況ってあるんだね。補償もとれない。自然災害だよ。うんぷてんぷだ」
「何それ?」
「ぼくらのことだ」
「うんぷてんぷ?」
「そう。また落ち着く日がくるかも知れない。永遠に来ないのかもしれない。運を天に任すってことだ」
「たいへんな運を経験したけどね。でも、そうかもね。すごく楽観的だわ」
まあ、しょうがないか、という風に目を合わせて苦笑いしたのだった。
うんぷてんぷ 本木周一 @shuichi-motoki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
バリ記/本木周一
★0 エッセイ・ノンフィクション 完結済 2話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます