第12話 封鎖
十二 封鎖
二〇〇二年十月十二日。日本時間の十一時。バリ島では十時である。上山から電話がかかった。
「工藤さん、すごいなあ。大盛況やな。しっかり見させてもらったで。よかった、よかった。これから空港にいくとこや」
成一も上山親子がグランブルーの盛況ぶりを確かめたのを聞いて安心した。
日本時間の十二時を過ぎて十三日十二時を過ぎた頃、テレビを見ていたら臨時ニュース速報がテロップで入ってきた。「バリ島、クタで爆弾事件発生。死亡者が多数出た模様」
成一はまさかと思った。クタと聞いてレギャンではないことがわかったからレストランは無事だろうと思った。すると、バワから電話がかかった。
「ミスタークドウ、レギャンで車が爆発した。ディスコの前に置いてあったようです。エステサロンのガラスが割れ、グランブルーも二枚壁ガラスが割れましたが怪我人はいません。壁ガラスは予備があるので交換できます。ただ道路が封鎖されて観光客はレギャン通りには入れません」
成一は事故がレギャン通りで起こったことに驚いた。
「それでグランブルーからどれくらい離れたところなんだ」
「二百メートル。ものすごい音でした」
「怪我人が出ずよかった。無事でよかった。連絡ありがとう」
マキはその時、上山親子を見送りに出ていたはずだ。続いてテレビを見ていた。すると、「バリ島で爆弾テロ」とテロップが出た。ジェマ・イスラミアの連中なのか、と成一はぼんやりと思った。死者数は二百人を越えていた。負傷者も多数であった。多くのオーストラリア人とイギリス人、インドネシア人などの死亡が伝えられた。
翌朝、関西空港に到着した上山親子から元気な電話がかかった。何も知らない様子だった。
「上山さんがグランブルーを出て、空港に向かっている時に、レギャン通りで爆弾テロが起こったんや。道路封鎖。なんてこっちゃ。それにしても無事で良かった」
上山はピンと来ない様子であった。
「グランブルーは?」
「壁ガラスが二枚割れたらしいが、それは替えがあるで。エステの方は玄関のガラス、窓ガラスが割れた程度で済んだらしいわ」
マキは、やれやれ、と思いながらタクシーに乗った。上山親子の喜ぶ様は可笑しかった。得意気な上山と息子の雅彦はありきたりな質問をマキに向けた。どこの出身? 親は何してるの? どうしてバリに来たの? 結婚はしてないの? マキはどの質問にも適当に答えておいた。バリ人が「あなたどこから来たの?」と尋ねてくると必ずマキは「トーキョー」と答えるのと同じように。工藤さんはどこかぼんやりと未来を見つめているようなところがある。また事業をすることで得意気にはならない。上山親子の会話を聞いていると、彼らはリアルな商売人でありながら臆病でもあるようだった。工藤という存在にすべてを委ねていた。
「わしもいずれは定期貯金を日本に移動させんとな。ヒヤヒヤするんや。どうやって運んだらええもんやろかの。ガードマンもつけんとな」
「振り込んだらええやないか、父やん」
「銀行の手数料は相当な額やど。できたら持って帰りたい」
「税関で引っ掛かることもあるで」
マキはタクシーの中でそんな会話をしていたのを思い出した。
マキはグランブルーに寄り、客が多いのを見て、バイクで帰宅したのだった。
いつものように部屋で神経を鎮め、空を見た。星はひとつも見えなかった。月も姿を隠していた。
成一や上山親子がいないとやはり緊張も緩和する。
マキはノートを取り出してランプの明かりで昨日書いたものを読み返してから寝ようと思った。
鉄の市
UBUDの外れに居着き始めてから程なくした頃。
毎日朝・昼・晩と出向く近所のワルンに、朝だか昼だか晩だか出向いた私は、若かりし頃から今日までの取巻きである「昔は青年、今はオジジ」達を相手に「昔は看板娘、今は看板オババ」が一説ぶっているのを元青年現オジジ達と一緒に聞かされていた。
「なんでもさ、UBUDに鉄でできた屋根付き・壁付きの「市」ができたらしいんだよ。こんなに歳食ってなきゃ行ってみたいんだけどさ」
その当時…、といったってほんの二、三年前のことである。
俗に言う〈UBUD〉とは、隣り合った幾つかの村の集合体を指して言う。
今ならバイクで十分程走って行ける所でも、昔から移動手段と言えば〈歩く〉に限るオジジ・オババにしてみれば〈よその村への進入〉ということもあって何とも遠い所であるらしい。
なんたって、日本の話を語らせられた時に〈ジャパン〉というのは知ってても、その距離感が無い彼らオジジ・オババ。
「ベモ(乗合小型ヴァン)で幾らの距離だぁ? 五百ルピアか?」
と訊くオババ。
「おめぇよォ、ジャパンっつうのはよォ、知ってんだかぁ? 遠いんだてばよォ。千ルピアはすんにきまってんだべよォ。なぁ、ジャパンのねぇちゃんよォ?」と別のオジジ。
〈乗合〉の値段が徒歩だと約四十分の距離で二百ルピア前後の時の話である。
〈鉄の市〉はワルンのオババにしてみれば死ぬまでに行けるとは思っていないところだったのである。
ある日、気分転換にUBUDまで散歩に出かけた。
途中、疲れ果てて乗合に乗った。
乗り合い小型バスで揺られ、.気付くといつものように・・・間違えて、逆方向へ向かっていた。
「あれま、また間違ったよ。ここで降りなきゃまた訳のわからんところへ連れて行かれる」と降りた地点の目の前に何やらどでかい建物がりんっ、とすましていた。
これだ!
私はこれがオババの言っていた噂の〈鉄で出来た市〉だという確信があった。
「おババ、やったよ! 遂にたどり着いたよ。 くっ・・・うう・・・」
別に捜し求めていたわけでもないのにパイオニアーの心境になる。
感動にひたるのもそこそこに「では、どれどれ」と新しもの好き丸出しでプリプリと尻を振りいそいそと中へ入っていった。
視界に現れたものは規則正しく並ぶスチールの棚。
「はっはぁん。これはスーパーマーケットってやつですね。ナルホド…。〈鉄で出来た市〉だわな。こりャ」 ワルンのオババの言葉のセンスに感心しつつウロウロ、キョロキョロ、チョロチョロと物色開始。
商品が配列されてなくて空の棚だけが置いてある列もある。生鮮類は一切無く、冷蔵品・冷凍品も無し。あるものといえば、粉ミルク、菓子、ボトルのジュース、洗剤、石鹸・・・とかそんなもん、常温保存可能なものばかりだった。然も値段は〈市〉より高い。
村に戻った私はこの村からの初の〈鉄で出来た市〉到達者として、ワルンにたむろしている村の衆の前で自分が見てきたものを語らせられた。
始めは質問攻めにあって・・・、気付いたら自ら得意になって。
何ヶ月か経って何の気になしにまた行ってみたら冷えたジュースが売っていた。
暫くしてまた行ったら果物があった。んで、チョクチョク行ってるうちに野菜が増えた。そして冷蔵設備が整った。その内チルドコーナー等も増えた。
この〈鉄の市〉。過去の歴史を見てきた私はその成長振りにこのまますくすくと育っていって欲しいと願った。
その反面、UBUDがそんな風にして近代化して欲しくないとも思った。
先進国から発展途上国に来た外国人が抱きやすい勝手な郷愁である。
だったらおまえが来んな・・・ってなもんだ。
先日久しぶりに行ったらなんと、フレッシュブレッド、ダンキンドーナツの一角まで登場していた。
「あ~ぁ、こんなに立派になっちゃって・・・」と複雑ながらも感無量。
然も値段も市より安くなっている。
〈鉄の市〉は本物のスーパーマーケットになっていた。
四十年間、毎日かかさず市に行く超常連のオバちゃん達がその才を限界まで発揮してハッタリをかまし、時には罵倒を浴びせ、浴びせられ、イライラ、ぐったりするまで値切る必要はないのだ。そんな労力など使わなくても無口で落ち着いて、朝寝坊したって買い物が出来るのだ。
この〈鉄の市〉、いや、スーパーマーケットで、市で店を出している乾物屋のオバちゃんに会ったこともある。
「はは~ん、ここで仕入れているのか」
オバちゃんはなんだか恥ずかしそうだった。だって動きがそそくさとしていた。
しばらくご無沙汰しているあの村のワルン。ワルンのオババはあの日私がぶった「市より高く、鉄で出来た市」には未だに行ってないだろう。
そして未だに「高いんだってさ・・・」とかなんとか取巻きのオジジ達や近所のオババ連中に言いながら自分を慰めているに違いない。
「死ぬまでには連れて行ってやるからね。オババ・・・」
と栄誉ある初の到達者の私はいつも思う。
あたしの独り言と言えばこんなものになってしまう。自分を曝け出しても、こんなものだ。蠢く感情は確かにある。でも言葉にできない。まっ、いいか、と思ってマキは眠りについた。
翌日、いつもの調子でレギャンに向かうとクタからの通りが閉鎖され、警察官がうようよといた。警察官に事情を訊いた。ええ、テロ? そんなことってあるの? ニューヨークで起こったようなもの? とドキドキしながら、仕事の事務所がそこなのでと説明すると中年の警察官は通してくれた。
BBTの事務所にはスタッフの全員が集まっていた。
「どういうことなのよ」
「知らなかったのかい」
とバワが言った。
「エステサロンの窓ガラスが割れ、グランブルーも二枚のガラスが爆風で割れた。マキ、それはいいんだけど、道路の封鎖が半年は続くらしい。そう聞いた」
「ってことは半年営業できないってこと? 」
「補償は? 政府の支援は?」
「そんなものあるわけないだろ。バリ政府の役人に訊いてみたけどね」
「ミスタークドウがどう判断するだろう」
バリのスタッフたちはこういう場合、嘆かない。オロオロしない。悠然としている。ボスに任せるしかないのだ、と思っている。
当然マキだってそうである。
マキは工藤に電話をした。
工藤も落ち着いたものだった。内心はわからない。
「すぐにチケットの手配をして行くから、その日が決まったら伝えるから。みな自宅待機だね」
という返事だった。
バリ島爆弾事件は爆弾テロとしてやがて報じられた。インドネシア政府は「ジェマ・イスラミア」の犯行だと声明を出した。被害者は21ヶ国の外国人観光客に及び、88名のオーストラリア人、38人のインドネシア人、28人のイギリス人、日本人一人も含んでいた。遊興に浸る外国人観光客と彼らに媚びうるインドネシア人をターゲットにしたのだと成一は思う。
成一は上山と話し合った。結局しかたがないとしか言いようがなく、長い六ヶ月のことを思った。犯人グループを捕えようとしているが、ジェマ・イスラミアのグループに恨みが湧いてくるものでもなかった。死んだものたちの家族や友人は悲嘆にくれていることだろう。許せない憎しみや恨みもあることだろう。
成一と上山親子とて被害者であった。こんな事件がほんの近くで起こるのはどれほどの確率だ、不運というよりしかたがなく、事故だと考える以外方途がなかった。領事館からも連絡はない。それぞれのレギャン通りの店はそれぞれの方法で観光客の通行が再開されるまで生き延びるしかなかった。成一は、まだ苦しい生活が続くのか、まだ運命は成一を許さないのか、と密かに歯ぎしりした。上山はこの事件を身内のものには隠すことにした。妻に言ったものなら、笑われるだけであった。上山もあわてることはなかったが、衝撃が大きかったに違いない。グランブルーの盛況を見、機嫌よく帰ったら第一報が爆弾テロだった。上山は、運がよかったと思うことにした。あの爆発の時はすでに空港にいた。知らずに帰ることができた。もしもグランブルーにいたら、スタッフたちに何を言えばよいのか上山にはわからなかった。
成一は一週間後バリ島に向かった。空港に着くと変わらない風景である。やや人の数が少ないかと思った。検査も入念で厳しかった。来るたびに車の数は増えていると感じた。ここは島である。島であればどこからでもテロリストが侵入することは可能だろう。
観光客でいくつかのリゾート地が賑わっているが、多くのバリ人は昔ながらの生活を営んでいた。共同体の結束は固く、喧嘩を嫌う穏やかな島民たちが圧倒的に多い。おそらくますます西洋化していく流れを止めることはできないことだろうが、それを拒否するイスラムの原理主義者たちがこのインドネシアにはいるのだ。
彼らはテロを行う。それが正しい聖戦だと思っている。対するいくつかの国家は連合してイスラム過激主義者を撲滅するのが正義だと唱える。成一は国家による戦争の方が大悪だと常日頃思っていた。しかしながら成一の仕事がイスラム過激主義者に邪魔された。
事務所に到着すると、スタッフの全員が待っていた。成一は今後の方針を述べた。
「給料については休業中の基本給の支払いはしますが、サービス料はみなさんには入って来ません。これはしかたがないと思ってください。道路封鎖が解除されたらすぐに営業を再開します」
みなほっとしたようだった。レストランとエステにはサービス料が加算されるのが規則だった。客が来ないのだからしかたがなかった。
バリ島への観光客はその後激減した。政府は慰霊碑を作ることを宣言した。そしてジェマ・イスラミアの幹部を逮捕し、実行犯三人も捕まった。後実行犯の三人は死刑を執行された。
成一はすることもなくマキと一緒にいた。「マキの独り言」の幾つかをマキの前で読み、マキの文の面白さに感心し、のんびりとバリ島で四日間を過ごした。マキは「あれこれバリ島、発見・発掘」の読者が多く、それを見て雑貨店やエステに来る人も多かったからレポート記事も読まれているという実感があった。
「相変わらずの生活かい?」
「そう相変わらず。変化は外からやってくる。でも今回のテロで工藤さんは大被害だったと思うけど、あたしはなんにも今回のことで変わらない」
「このまま調子よくって思ってたんだけどなあ。何が起こるかわからんもんだ。また小説を書く機会を逃してしまった」
成一はグランブルーが落ち着いたら、小説のひとつでも作ってみようと密かに思っていた。
「まだ、書くな、お前はまだ書く時じゃないってお天道様が言ってるのよ」
マキの感想にはなんだか説得力があった。成一はまだ苦行が続くのかと思うことにも執着せず、次の一手を考えていた。
「ふ~ん。まあしょうがないことだ。保険もないし、バリ政府にはお金もない。想定外のことだった」
「マキちゃんにはどんな変化が外からやってくるのかなあ。男かなあ」
「それはない」
「恋愛したことないの?」
「ない。そこには行かない。結婚はしない。ひとりがいい」
「そんなことわかるもんか」
「わかるの。そうやって意識して生きてきたの」
「よほど育ちが悪いんだね」
「そうなの。育ちが悪いの。よくわかるわね」
「わかるよ。そのくらいのこと」
「そのくらいのことではおさまらないのよね。小さい頃のことは」
初めて口に出した過去のことだった。マキはそのまま黙った。その先の話はしない、訊くな、という表情だった。
成一は察した。話題を変えた。
「これからの世界はどうなると思う?」
「考えたことない。ワルンのオババはこのまま続く。あたしもこのまま続く。最近冷蔵庫買ったのよ。小さいけどね、氷も作れる。物を冷やす。冷えてる飲み物と冷えてないのとでは冷えてないほうが安いのでこちらを買ってきてこっちで冷やす。
蟻から保護してくれるの。三次元空間に食べ物を置いておくとすぐに蟻が集まってくるので冷蔵庫に入れ安全を守るの。日本では冷蔵庫に入れないようなものも入れるのよ。例えばスナック菓子。これは湿気と蟻両方に狙われるでしょ。強靭な蟻はスナック菓子の袋など食いちぎって浸入してしまうのよ。タッパーウェアなどの密着容器だって彼らにしてみれば朝飯前の、お茶の子さいさいなのよ」
「冷蔵庫との会話かい?」
「じゃなくって、冷蔵庫にまつわること。あたしは観念したの。蟻さんに負けたの」
マキは続けた。
「食べかけの一時避難所 及び 隠し場所としてなのね。インスタントラーメンを食べているとき近所の誰かが来た、そんなときにそのまま皿、フォークごと入れるの。食べかけのものが視界から消えて見苦しくないし次に食べるときは冷麺になっていて一食で二度楽しめる。
金庫としても使えるのよ。こちらの冷蔵庫に鍵がかかるようになっているのはやはりなにかしら貴重品を入れて置くようにとの配慮でしょうね。空調設備付セイフティボックスというわけ。冷蔵庫に金を隠すやつは結構多いからすぐ見つかるかもしれないけど冷えたお金というのは触っていて気持ちがいいものなのよ。
自分が涼む。自分が入れるほど大きくないのでせいぜいドアを開けて冷気を浴びるくらい。ただしあまり長時間涼んでいると冷気は逃げていくし蟻は侵入する。
ざっとこれらのことをやってくれるんだけどうっとうしいこともあるのよ。
未だにワンドア-式のもかなり普及していて冷蔵室と冷凍室が一つのドアの中なわけ。この冷凍室はデフ付なのね。ほら車に付いているガラスの曇りを取る空調設備と同じね。
これがうっとうしいの。冷凍室は一週間もすれば雪景色がカマクラに変わり更には入っているものが落雪に埋もれているという状態になり出し入れが不可能になるのよ。
そこでこの1から5、Maxの表示のついたダイアルの真中にあるデフボタンを押す。と、ガッタンと線路の切り替えみたいな音がして一瞬モーターが止まり次の瞬間にはさっきまでの音とは違った音が始まるのよ。わかる?
これを夜寝る前にやると次の日の朝冷凍庫はすっかり雪が解けた春の景色という様なのね。でもね、冷蔵部屋はビジョビジョでおまけに床もビジョビジョになるのが難点なのよ。
周囲の人たちはこのデフを知らずにナイフやフォークでかちわり氷よろしくつついて冷凍室の壁もかちわってしまい壊してしまうということをしているの。
知り合いのまぁ中の下位の経済状態のバリ人のおばちゃんは冷蔵庫を持っていたんだけど、なんと入っているのは水とチャナンね、ココナッツの葉で作った芸術的な毎日のお供え物のみ。
そこのおばさんは毎日早起きして朝市に行くのを大儀だとこぼしているので『まとめて買ってきてここに入れて置けばぁ?』
『えぇっ、気持ち悪ぅい。肉なんか一日経ったらもうだめだよぉ』
『それは普通の状態で、でしょ。冷蔵庫にいれときゃもつんよ』
『ふぅん』てな会話なわけ。
この会話の後も肉や野菜を入れてるのを見たことがないからやっぱり納得できんのだろうね。
彼女らにとって毎朝市場で新鮮? なものを買ってきてすぐ調理して・・・が当たり前なんだからやっぱり理解できても生理的に気持ち悪いんだろうね。
また、ある外国人の家のバリ人のお手伝いは出来た氷を使いもしないのに冷蔵庫から出してしまうそうなの。ほどほど解ける頃にまた入れる。
『何でそんなことをしてるのだ』
『だってそのまま入れっぱなしではどんどん固くなりしまいには石みたくなってしまいますからね、ボス』だって。ね、おもしろいでしょ」
「氷が売れると思ってキューバへ氷を運んだアメリカ人が最初見事に失敗したのと同じだよ。かき氷はさぞかしうまいだろうと思っていたら、気持ち悪いとね。熱帯地域はその日の市場で買ったものをその日のうちに食べるって習慣だからね」
「あれ、その話聞いたことがある」
マキはよく喋った。冷蔵庫についてこれだけ喋ることができるのだ。成一は可笑しくて、マキが可愛らしいと思って、話を聴いた。
屈託なくマキとそんな話をして、成一は帰国した。すでに次のアイデアがあった。
爆弾テロが起こる前に、マキは二つの葬儀に出席した。会社からお金を出してもらった。
一人はハンサムだったグデだった。シガラジャから出稼ぎに来ていた。妻子を残してデンパサールの安アパートで暮らしていた。そのグデが浮気をしてしまった。それが村中の噂になった。彼は農薬を飲んで命を絶った。バリの葬儀は普通明るいのに暗く、じめじめしていた。
もう一人はワヤンだった。BBTの事務所スタッフである。バイクによる交通事故だった。ワヤンは仕事が間に合わず解雇されていたから、もう関係はないというものの、マキは無視することもどうかと思い、これもシガラジャまで葬式に行った。工藤がいくつかの段階を踏んで注意していたが、ついに解雇を言い渡した。工藤も後味が悪いことだろう。
シガラジャからデンパサールに出て来る若者が多い。観光業が発達して農業も衰退していた。地主は農地を売って成金になるものも続出していた。そのあとにリゾートホテルができるのである。賃金の格差もあった。都会では給料も高かった。
浮気ひとつでなんで死ななきゃなんないの。きつい倫理観があるのだろう。それとも宗教のせいなの、と考えてみる。
成一に報告はしたが、そうか、家族や村人の目が怖かったのかな。圧力に弱かったのかな、と言った。部下が死んだことに大仰に驚くことをしない。不倫して自殺した人はバリ・ヒンズー教ではどのような輪廻転生となるのだろう。バイクで三時間はかかる穴ぼこの多い道を走りながらマキは悲しみを覚えるのでもなく、これも仕事だと思う。両親は辛いだろう。肩身も狭いのではないか。そんなことも思う。奥さんはどうなの、子供はどうなの、と風を切りながら思いもする。しかし感情は盛り上がらない。他人事だという感覚が強い。
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