かせ

仕事が終わり、駅に向かう。

歩いているうちに雨が降ってきた。

ポツリとつむじに当たった雨粒は、そのままスゥッと額から鼻を通り唇まで垂れてくる。


足早に駅に向かい、電車に乗った。


電車の窓ガラス。

付着した水滴はお玉杓子のように飛んでいく。

カエルの卵が孵化するのを早送りしているような様子に目を奪われる。

この瞬間を、一瞬を、切り取って君に見せたいと思う。…その思考を掻き消す。



駅についた。電車を降りて家へと向かう。

大通りから一本逸れてしまえば閑静な住宅街。

家々から明かりと子供の声が聞こえてくる。

だけど不思議と頭の中は静寂で、ぐるぐると同じ考えが頭を巡る。



家に着いた。

電気はついている。

君がいる証拠だった。


玄関前で深呼吸をして、一呼吸置いてから鍵を開ける。

思いの外響いた鍵音に、いつも、ほんの少しだけビクッとするのは内緒。



家の中の少し湿った匂いが肺に溜まる。



「 ただいま 」



勇気を振り絞らなきゃ言えない言葉を、何でもない風に叫んだ。

君に聞こえるように、少し大きな声で叫んだ。



返事が返ってくる期待なんかしていないつもりだったけど、少し胸が締め付けられるのは期待していたのか。


部屋に入る。暖かい空気が頬を掠めた。



「 おかえり〜 」



こちらの緊張も、不安も、失望も、全てを知らない君の声。


気の抜けた、君の声。



「 …ただいま 」



嗚呼、君の前だと全てが壊れる。



君の声が、空気が、匂いが、存在が、おかしくしてる。



だけどそれがどうにも居心地が良くて…。






いつも、君に怯えている。


君から解放されればと思う。


だけど君がいないと生きていけない。


だって君はこんなにも私の肺の中を満たしている。


生温い湿った空気で、私の肺を満たしている。

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