婚約解消と北の魔女

小田 ヒロ

婚約解消と北の魔女

 キアラはワグナー公爵家の末娘だ。祖母が聖女だったために莫大な魔力を有し、今回の戦争でも若干20歳ながら十分な活躍を見せた。しかし前線から、一年以上空けた王都に帰ってみれば、婚約者であるポール・ゾルト侯爵令息は、大きなピンクの瞳で金髪の煌めく愛らしい御令嬢と親密そうにダンスをしていた。


 私とてこの『聖誕祭』の最中に残党処理の報告をする気などサラサラなかったのに、陛下の従者に急かされて来てみればまさかのパーティー会場。

 どうやら今年は男性は長め丈の上着、女性は重ねたレースの立て襟が流行りのようだ。知らんけど。

 ポール様は近衛のために王都から今回も離れていない。故に流行の最先端に乗れているらしい。


 対して私は、山の木々に溶け込むような、枯れ葉色のローブにお揃いのマント。急がされたので化粧どころか沐浴もしていない。全身ホコリまみれ。ああ、とんでもない瓶底眼鏡もかけたままだった。10キロ先の人物の人相や詠唱する口元、杖を振り上げる手の動きが見える望遠付与つきで、戦時の相棒だ。


 その眼鏡でよくよく見れば、なんとあの御令嬢の胸に輝いているのは私が作った人造サファイアだ。ポール様との婚約の記念に渡した片手剣の柄にはめ込んだもの。剣とセットであればこそ命中率が上がるように付与をつけていたのに……。ポール様への……親愛の情がみるみる萎んでいく。


 肩を落として下を向いて歩いていると、宴もたけなわの広間の袖から、従者はついてこいとズイズイ入っていく。このまま謁見?なんの見せ物よ。陛下、勘弁してよ。



 ◇◇◇




「そうか!後片付けご苦労だった。キアラ導師!」


 国王陛下が無駄に声を張り上げるものだから、広間の人間が全員玉座に視線を送る。楽団も演奏を控える。あ、両親も兄も姉もこちらを見て驚いている。国家行事だもの。いるよね。特にうちの家系は。

 ちなみに『導師』とは国の魔法使いの最高位。18歳のときにこの地位に駆け上がった。それ以来無限のプレッシャーと、多くの魔法使いの妬み嫉みに晒されて胃薬が欠かせない。国に属さなければ『魔女』という、もっと伝説級の魔法使いがいるとされている。


 玉座に燦然と輝く陛下とはお互いの祖父同士が兄弟、私とハトコだ。といっても陛下は金髪に緑眼のキラキラしたザ・王族。三十代半ばだけれど、生まれた時代が悪く若くして王になり、あらゆる困難辛苦を舐め尽くしているのに、こうして一人ずつ臣下を労うことを忘れない。その器の大きさはまさしく王で、一応尊敬している。


 かたや私は聖女である祖母の血が色濃く出て、この国では珍しい黒髪黒眼。挙句小柄。陛下とは似ても似つかない地味加減。しかし親類ということで私の扱いは幼い頃から雑。これまでも適当に利用されてきた。この男に十代前半から戦争に駆り出されているのだ。


「キアラ導師も一曲踊って帰ったらどうだ?導師の婚約者もどこかにおるのだろう?おや?」

 陛下がポール様と女性に視線を送り、眉間にシワを寄せ、聞いたことのない冷たい声で言い放つ。

「ポール・ゾルト。お前は婚約者である導師の帰還を出迎えもせず、何をしておる?」


 タチが悪い。これをしたかったの?最近近衛の質が下がったとボヤいていらしたと思ったら……浮ついた近衛の士気を上げるのに私を巻き込むのは勘弁してほしい。


 あ、父公爵の全身から冷気が出てる。普段はきちんと自重してるのに。父はポール様の心変わりをご存知なかったようだ。まあそうよね。我が家は全員魔力の多さゆえに戦時中はそれぞれの持ち場で寝る間もないもの。


 ポール様は慌てて駆け寄ってくる。今日初めて見た女性もいそいそとついてきた。

「き、キアラ様、戻っていたんだ。お疲れ様。えっと、今日戻るとは知らなかったよ」

「そうですか?三日前に先ぶれを出しましたが?」

 うちの部隊は100人規模だ。国のために最後まで汗水垂らして働いて帰ってきた部隊の帰還を知らんとは……確かに近衛は弛んでる。


 あたふたしているポール様の横から、件の女性が前に出た。そのキラキラ輝く瞳には器用に嘲りが浮かんでいて驚いた。

「キアラ様、今日は年に一度の聖誕祭ですのにその格好で陛下の前に立つとは……無粋を通り越して無礼ではありませんの?」

 鈴のなるような声で毒を吐く。厄介な女だ。無邪気な忠告を装って、的確に相手の弱点をえぐる。実際私は今、自分の場違いな格好を情けなく思っていたところだ。

「お、おい……」

 ポールの顔色が悪くなる。


「……そなたに発言を許した覚えはないが、導師が格好で来たのは、私が一刻も早くと命令したからだ。導師の無事を見ねば聖誕祭など意味がないからね」

 陛下が万人受けする嘘くさい笑顔で返事した。この女性、陛下の目は笑っていないことに気付いてるかしら?

 陛下はたいてい口の端を上げ微笑んでいて……心情を誰にも悟らせない。優秀な為政者とはそんなものなのだろう。ハトコとしてちょっぴり切ないけれど。


「キアラ様はおっそろしく強いから、心配することありませんでしょう?それに引き換え私はなんの力もなくて……でもだからこそ、ポールが私を守ってくれるって言うんです。ねえポール?」


 ……えーっと、だからお前誰だ?と私が思うのはしょうがない。ポールはゾルト侯爵家嫡男。ポールとファーストネームで呼び捨てにできるのは侯爵以上の貴族になる。いかに私が魔法バカとはいえ、さすがに高位クラスの貴族の顔くらい覚えている。しかし、知らない……。遠くの壁際に佇む姉に視線を送ると相手にしなくていいというジェスチャー。を働いてはまずい相手ではないようだ。


 それにしても、おっそろしく強いから、心配ない、か……。心があの淀んだ戦場に引き戻される。もう……もう一人になりたい。


 そろそろ説明を求めてポール様を下から覗き込む。


「あー、あのキアラ様、キアラ様はお強いから私が守らなくてもいいが、このアンネは私が守ってやらねば……」


 ああ、私が防御を付与した純銀のカフスももう外している。売っぱらったのかしら。小さい細工に魔力を込めるのは案外大変で、施したあと三日寝込んだのに……。

 そうか……ポール様の心には私などどこにもいなくて、婚約破棄したいのか……で、アンナって誰だよ?名前も知らん女に私は人生初の敗北だ。


 まあいいや。ちょうどいい。私ももう疲れた。今回の戦争で一生分の生死を見てきた。こんな精神状態ではウフフアハハで荒波を乗り越える貴族の嫁など出来そうにない。ポール様から婚約解消するのは我が公爵家への侮辱になりかねない。私から……持ち出してあげよう。


 あれを……使おうか。

 私はマントの中のマジックバックの中をこそこそと探る。


 私は一連の発言をぶった切って、陛下に向き直る。

「ところで、陛下。私、進撃中に北の魔女様にお会いしましたの」


 広間がざわめく。


 我が国は周囲を強大国と猛獣のはびこる土地に常に脅かされている。北の魔女とは、この国の北方を守ってくれているとされる伝説の魔女。

 私は胸元から銀の杖を取り出し、うやうやしく陛下に渡す。


「ほう!さすが導師、規格外だな。確かにこれは、北の魔女の証である伝承の銀の白樺で出来た杖!いやいいものを見せてもらった!ということは?」

 陛下、やけにノリノリだ。大事そうに検分したのち、そっと私に戻す。あ、姉がすごく食いついて杖を遠くからジャンプしてガン見してる!


「はい、私、北の魔女の後継に選ばれましたの。これから北の森奥より北方一面をガードしながら陛下の御代の安寧を祈っていますわ。というわけで、ポール様、残念ですが婚約解消させていただきます。そちらのアンナ様?と御幸せに」


「は?え?キアラ?いいのか?」

「誰がアンナよ!私はアンネよ!あれ、ポール攻略意外と楽勝パターン?じゃあ終了ってことで、えっと次は……」

「導師、お待ち下さい!導師が森に篭られたら兵力が大幅に減退いたします!」

「ポール!貴様が導師をつなぎとめておけないから!」

「陛下、なりません!キアラ導師をお止めください!」


 陛下がパンっと一度手を叩く。場が静まる。

「……万物を操ると言われる北の魔女様のご意向だよ?背けるわけがない。そもそも今日は聖誕祭。我が国をお守り下さった聖女様の誕生を尊ぶ日。聖女の孫であり、多くの武功を上げたキアラを辱めたり、キアラの決断を軽んじていいわけがない。皆、分を弁えよ!」


 陛下が珍しく真剣に長台詞を喋っているあいだに、私は優雅にカーテシーをキメて、頭上に展開していた魔法陣に飛びこみ、消えた。




 ◇◇◇




 北の森で生活を始めて一カ月経った。私は眼鏡を外し、前々から着てみたかったピンクの小花模様のワンピースを着て、呑気に自由を満喫している。似合わなくても構わない。誰に見られるわけじゃない。

 激しい戦闘の時は髪をちぎり魔力を補填してたので、髪型はいっつもベリーショートだったけれど、ちょっぴり伸びて、耳が隠れた。目指せポニーテール!いつか共布の小花のリボンで結えるのだ。


 ここは聖女である祖母が構築した、北から西にかけた国境一帯に張り巡らせたバリアを動かすためのエネルギーを供給備蓄するシステムと、それを保護する建物=〈北の魔女〉だ。祖母は遠い異国で〈カガクシャ〉という仕事をしていたところを、誘拐同然に衰退一方のこの国に連れてこられたらしい。


 この国の人々にシステムを説明するのが面倒だった祖母が『〈北の魔女〉が国を守っている』と説明したことによって、擬人化された。

 聖女の子孫である公爵家は、たまにココにやってきて祖母譲りの身のうちにある膨大なエネルギーをそのシステムに補給する役割を持つ。ゆえに我々が〈北の魔女〉の一部であることに間違いはない。私のいない戦時中は、姉と兄が交代で役目を果たしてきた。


 ここにたどり着いたのちに、戦争と、婚約者の浮気のダメージが思ったよりも大きくて、〈北の魔女〉(の部品)として生きていきたい、と家族に連絡した。〈北の魔女〉も公爵家として重要な仕事の一つ。当面は許してくれるはずだ。

 そもそも祖母が『私の子孫は人様に迷惑をかけなければ意に沿わぬ結婚などせんでいい』と遺言に残してくれている。

 食糧や必需品は手持ちが無くなれば、姉固有の突飛な魔法〈たくはいびん〉で届けてくれるだろう。姉は祖母と過ごした時間が長いから、兄妹の中で一番影響を受けている。


 〈北の魔女〉の中は生活する上で必要な設備はほとんど揃っている。キッチンで祖母のお得意だった〈ほっとけえき〉を焼いて、森で採取した甘い樹液をかけて食べようとすると、ドアがノックされた。

 この場所を特定できて、たどり着けるだけの能力があるのは我が公爵家と……

「あ、いい匂い!バッチリのタイミングだった!」

 陛下だ。


 勝手に私の正面に座って本日のランチを食べだす陛下にがっくりきながら、もう一人分焼き、薬草茶を入れる。陛下は当然何もかもご存知で、銀の白樺伝説もノリノリでのってくれた。あれは私が姉と一緒に幼いころ白樺の枝に金属のメッキで二時間で作ったもの。祖母から伝わるだ。


「陛下、供も連れずに動くのは危険です、と何度も申していますのに。今日はどのようなご用件で?」

 陛下は白シャツにカーキのパンツという庶民的な格好。カーキのマントは無造作に椅子の背に掛けられた。王冠のない姿は案外若く見える。


「ん?キアラの様子を見にきたよ。キアラの結界がガッツリ効いているのに危険などあるわけない。ああキアラのケーキはあったかくて美味いなあ」

 出来立ての料理を食べるという贅沢が、お互いにここ数年なかった。思わず共感し、フライパンからおかわりをのせる。


「……ちゃんとにエネルギーは補給してます。ご安心ください」

 ココさえ機能し続ければ、大半の脅威は潰れる。終戦したことだし陛下もようやくグッスリ眠れるだろう。

 ただ、このシステムが故障したときは私ではお手上げだ。姉は〈カガクシャ〉として祖母の域に到達したのだろうか?


 私も腰掛けてお茶を飲む。二人で窓の外のいろいろな濃淡の緑を眺め、鳥のさえずりを聴く。


「そういえば、あの女、何者かわかったぞ?」

「カンナ嬢?」

「……アンネ嬢ね。ガーツ男爵の隠し子で、最近認知したらしい。庶民的な感覚がポールの世代には新鮮で、人気者のようだ」


 なるほど……

「庶民的で、いつもそばにいてくれるところが……ホッと出来るのでしょうね。だとしたら私とは真逆だわ。ポール様には私などに長きにわたり付き合わせて申し訳なかったわ」

 ド貴族で、導師で常に戦場を駆け回っている私になど、心が休まらなかったのだろう。顔つきも表情が乏しいとよく言われるし。

 だって、心を凍らせなければ、にっくき敵であれ、人を殺すことなど、できるわけが……

 滅入ることを考えそうになり、ブンブンと頭を振る。


「お二人が幸せになりますように」

 私がそう言うと、陛下は鼻にシワをくしゃっと寄せた。

「どうかな?アンネ嬢はあの日も四人の男とバルコニーやら何やらで密会してたから、行く先は修羅場じゃないのかな?それにゾルト侯爵も他の貴族も当然怒ってね。結果的にポールの行いが最強の導師を国の枠組みから外させたのだから。あの女と踊ったりせず、導師と踊っていたならば、導師は〈北の魔女〉になどならなかったと皆思ってる」

 一緒に踊ったところで、心がそこにないならば、意味はない……


「まあでも私が導師を〈北の魔女〉と認めた以上、これ以上騒ぎは大きくならんだろう」


 ……そうか。陛下は、ようやく私を兵器から解放してくれたのだ。それはつまり一時凌ぎではない平和が来たということだ!陛下のお陰で、ようやく国民が正常な生活に戻れる。

「おめでとうございます。そして……ありがとうございます」


 陛下が珍しく……切なげに笑い、はーっと大きなため息をついた。長きに渡る大仕事を成し遂げたのだ。無理もない。


「それでキアラ、いつまでここにいるつもりだ?」

「ふふ、傷が癒えるまで、と両親にも伝えております」

 ただ、傷は一生消えない。こんな汚れた私が幸せになどなれるわけが……なっていいはずがない。私には自分の両手が返り血で真っ赤に見える。


「キアラ、傷はね、毎日薬をキチンと塗らねば治らない」

「時間が薬と言いますでしょう?」

「キアラの傷は深すぎる。時に任せていたら、ばあさんになるぞ?」

「ははは」

 それこそ私が望むこと。ここで、北の魔女として、私が殺した幾多の魂を弔いながら生を終えるのだ。


「私が、キアラの薬係になろうと思う」

「え?」

 手を見つめていた私は意識を引き戻され、陛下を見る。陛下は食事を終えた皿を脇によけ、身を乗り出して、私の頭をそっと撫で、短い髪に触れ顔を歪めた。


「毎日、キアラの心の傷に寄り添い、キスをして、癒していこう」

「陛下……え……何……」

 思わず目を、丸くする。突然のことについていけない。


「来年、ミラーが18になったら譲位する」

 陛下は15歳で結婚し、すぐに二人の王子と一人の王女を授かった。ミラー王子は第一王子でとても優秀だと評判だ。私は歳が近いのに、戦地にばかりいたのでお話する機会はあまりなかった。

「じょ、譲位?そのお若さで?何故……」


「14で即位し、結婚し、ひたすら走ってきた。何度も戦争になり、辛くも勝利し、ようやく平和への地ならしが出来た。ここまでくれば、ミラーならば問題なく統治できるだろう」


「……疲れた、と?」

「キアラも疲れ果てただろう。キアラを12歳で戦場に引っ張り出し、この八年間使い潰したのは、ほかでもない私だ」

 陛下は苦笑した。


「私も、ライラが死んでからは、たった一人先頭に立ち戦ってきた。キアラの気持ちが……少しはわかる」

 王妃ライラ様は王女を産んだのちに亡くなられた。あれからもう10年になる。あの時は国中が悲しみに沈んだ。


 前王が暗殺され、急遽若くして王位につき、まだ細い肩に一人で国民全ての命を背負って生きてきた人。為政者とはそんなものだというには……あまりに悲しい。どれだけ自分の魂を傷だらけにして、我慢に我慢を重ねて生きているのだろう。私の何百倍も疲れているに決まっている。


 私の12歳の初陣は常識的にもあまりに早く、当然私はごねた。戦争など怖かった。

 でも父が、

『陛下は一族の長、家族だ。家族は協力しなくちゃね』

 父は従兄弟である前王と仲が良かった。私も家族ならば……助けなきゃなあ、と父の後ろを歩むことにした。

 私が軍務に就いて以降、陛下は私を一人前の大人として扱い、それを周囲に知らしめ、尊重してくれる。

 あれから8年……私の働きは、少しはこの方の背負い込む荷物を軽くできただろうか?


 陛下が立ち上がり、私の椅子の横に来て、跪く。私の左手を取り、血にまみれた手のひら、そして手首の血管の上にキスをする。息が止まる。


「キアラ、私はお前を即位直後の自分に重ねていた。いつの頃からか、お前を見るともどかしく胸が掻き毟られる思いになる。キアラが無事か、常に心配でたまらない。先日も戦地より戻ったキアラを一目見なければおかしくなりそうで、無理矢理あの場に連れてこさせて悪かった。……しかし、きっとゾルト侯の息子と若者同士仲良くなり、キアラも恋する乙女らしくはにかみ笑う日がくるだろうと思っていた」


 陛下はそのまま私の左手を自分の頰に持っていき、陛下の顔を包ませる。畏れ多くて固まる。そんな私の手に視線を流し、真っすぐに私の瞳を射抜く。


「しかし、そうはならなかった。ポールは……おかしな女を選び、キアラの苦しみは増し、その美しい黒真珠の瞳は傷ついて光をなくした。ならばもう遠慮しない。かわいいキアラに女性らしい時間を取り戻すのは私だ。キアラはもう戦わずとも良い。私がキアラを守る」

「へ……いか」


 見たことのない、少しの焦燥の混じる真剣な表情に、心が揺さぶられる。


「まあそもそもの元凶は私だというのに、何を勝手なことを……と思うだろうが」


 私はブンブンと頭を横に振る。戦場で傷ついたけれど、それは決して陛下のせいではない。陛下の選択が国民を守るために最善だと信じられたから、これまで私は命令に従ったのだ。


「だが、もう私は只人となる。キアラ、頼む。私の名を呼んでくれ。無冠の私を、ゆっくりでいいから好きになってほしい」

「……レイモンド……さま……」

 陛下……レイモンド様が私の愛を、請うている?


 レイモンド様は私を椅子からゆっくりと立ち上がらせた。頭一つ分大きなレイモンド様を見上げると、苦しげに眇められたグリーンの瞳とぶつかり、目が離せない。レイモンド様は魂の奥底から絞り出したような声で囁く。


「キアラ、愛している。導師でも魔女でもない、剥き出しの可愛いキアラと手をたずさえて生きていきたいと願う、私の最初で最後のわがままを叶えてくれないだろうか」


「あ……」


 自然にそっと入れられたレイモンド様の腕の中は、驚くほどに暖かく、はじめこそ慌てたものの、なぜかホッとして……私の強張った心はゆるゆると溶けて……私はその身をレイモンド様に預けていた。

やがてトクン……トクン……と二人の心音が一つになる。元からそうだったように。思考は消え、感情のままレイモンド様の背に手を回す。


 レイモンド様は私を優しく抱きしめたまま私の頭に頰を乗せ、しばらくするとその頭に……滴が落ちた……


「ああ……ようやくだ……ようやく俺は……俺に戻れる……」


 その小さな呟きが耳に入った瞬間、私も初陣の日から我慢していた……涙がハラハラとこぼれおちた。身体を離し、レイモンド様の肩に手をのせ背伸びをし、泣きながら、私から唇を合わせた。

 陛下の傷を、私の傷を、癒すために。


 レイモンド様はグシャっと顔を歪め、私を強く引き寄せかき抱き……




 そう、ようやく……役目を終えた私たちは……〈北の魔女〉で安らぎを得た。




 ◇◇◇



 …………


 初代、建国王マルセルは悪政と残虐の限りを尽くしていた前王国の独裁者エレメンを、弟キールや神に遣わされた聖女アイコなど仲間の協力を得て打ち倒し、新しき国を立ち上げ……


 …………


 三代目、少年王レイモンドは在位20年の間に国内を平定し、近隣諸国による侵略をはね返し、今日の繁栄の基礎を作る。

 息子である四代目、太陽王ミラーに譲位後は、大いなる〈北の魔女〉に弟子入りし、北方よりの侵略から王国を、表舞台に出ることなくひっそりと、生涯に渡って守り続けた……


 …………


 ラズバルト王国建国紀より  




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

婚約解消と北の魔女 小田 ヒロ @reiwaoda

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ