「あ、辰巳。ここにいたの? 誠一郎さんは?」


 一階の外の回廊で椿月はやっと彼の姿を見つけられた。館長と話を終えて元いた場所に戻るも二人の姿がなく、あちこち探し回っていたのだった。


 降り続いていた雨は止み、夜の静けさが満ちている。冷たい夜風が木々を揺らし、乾いた音を立てる。


「センセーは帰ったよ。原稿やらなくちゃならないんだってさ」


 そう言われて、椿月は残念そうに「そうなの」とつぶやく。


 神矢はそんな分かりやすい彼女を見てほんの少しだけ笑ってから、


「で、椿月はどうするんだ?」


 と尋ねた。


「私のお父さんは、後にも先にも館長だけよ。『引き取りたい』って正式に言われても、私は行かないって伝えてって言っておいた」


 椿月の丸い瞳が、まっすぐ神矢を見つめてそう告げる。


「そうか。そうだよな」


 彼にとっては思っていた通りの結論だったが、それでもやはりホッとした。


 椿月は「当たり前でしょ」と笑って、肌寒いからなのか、用はもう無いからなのか、屋内に戻っていった。


 離れていく椿月の背を見送りながら、神矢は少し前の時間のことを回想する。


 神矢が誠一郎を問い詰めると、しばらくして誠一郎は口を開いた。


 「今の僕がこの僕であることは間違いないです。自分のことに関して、何の嘘もついていません。……それでは駄目ですか?」と、能面のような感情の読めない横顔で。


 誠一郎を見つめていた神矢は、煙草の火をもみ消すと、「いいよ、別に。センセーの言うとおりだ」といつもの調子に戻って、言った。


 神矢が「野暮なことを訊いて悪かったな」と付け足した時に見た誠一郎の横顔が少しだけ寂しそうに見えたのは、彼の気のせいだったのかもしれない。


 夜の闇に、劇場の外壁に設置された外灯の明かりが映える。暖色のそれは、天を仰ぐ神矢を静かに照らしていた。






 後日。


 椿月はまた、あのにぎやかな店員の娘がいる雑貨屋にいた。


 今回は贈り物を探すためではなく、予め頼んでおいたあるものを引き取りに来たのだ。


「こんにちは。例のもの、届いてるかしら?」


 椿月が店の奥に声をかけると、店員の娘がすぐに飛び出してきた。


「いらっしゃい! もちろん届いてるわよ~。あなたのために気合を入れて包装しちゃった」


 そう言うと、戸棚に大事にしまっていた小さな袋を取り出した。


「それにしても、殿方への贈り物としてはかなり不思議なものを選んだわね」


 さらっと述べられる何の気ない所感に、椿月はちょっぴり自信を失くす。


「や、やっぱりおかしいかしら……?」


「やだ、そんな不安にならないでよ。あなたがこれがいいと思ったんでしょう?」


 自分で不安をあおるようなことを言っておきながら、店員の娘はケラケラと笑う。


「これからもっと寒くなるし、お仕事的にも手は大事だと思うから……。本人は平気って言うんだけど、私からすると痛そうに見えてね。なんだかいたわりたくなっちゃうの」


 椿月がこれを選んだ理由を説明すると、娘は「あら、どんなお仕事をしてる方なの?」と尋ねた。


 椿月は遠慮がちに答える。


「ええと、作家さん、かな」


「えっ、そうなの?! すごいじゃない! なんていうお名前なの? あたしでも知ってるかしら」


 身を乗り出すようにそう訊かれて、椿月が控えめにぽつりと彼の名前を口にすると。


「ええ?! 私、読んでるわよ! まあ~あの方が深沢先生だったのね。もっとちゃんと見ておけば良かったわ~。たしか、また新しい連載をされるでしょう?」


 猛烈な勢いで喋り出した彼女に気圧されながら、椿月は苦笑いを浮かべる。


「私、作家としてのあの人のことはあまり知らないのよ。まだ読んだこともないし……」


「ええ? そうなの? もったいない……」


 本当にもったいなさそうに眉をひそめる店員の娘。


 椿月は以前に誠一郎から言われた「椿月さんに読ませる自信がある作品が書けるまで、読まないでほしい」という約束を、律儀に守り続けている。どんなことであれ、人と一度交わした約束を勝手に、隠れてであろうと、違えるような人間ではないのだ。


「ねえ。これ、あなたが彼にしてあげたらいいわよ」


 いたずらっぽい笑みを浮かべ、娘が提案してくる。


「そっ、そんなことできないわ。一体どうしたのかと思われちゃうわ」


 赤面する椿月の懸念を、娘は笑い飛ばす。


「馬鹿ねぇ。あなたにしてもらって嬉しくない男がこの世にいるわけないでしょ」


「もう、冗談ばっかり」


 恥ずかしそうに小さく口を尖らす椿月に、


「ま、頑張って。またお店にも遊びに来てよね」


 と、娘は笑顔で手を振る。


「ありがとう。また寄らせてもらうわ」


「お買い上げありがとうございました~」


 椿月が店の外に出るとそこには、頼んで店の前で待ってもらっていた誠一郎が立っている。


 今日は久しぶりに予定を合わせての二人の外出だったのだが、彼への贈り物なので、用意するところを見られるわけにはいかなかったのだ。


「一人で待たせちゃってごめんなさい。寒くない?」


 出てきてすぐに謝った椿月に、誠一郎は「大丈夫ですよ」と口にする。


 もうそろそろ季節は秋から冬に変わろうかという頃。往来の人々にもちらほらと、手袋や首巻が目立つようになってきた。


「椿月さんこそ、寒くありませんか」


 そう尋ねる誠一郎に、椿月は「ううん」と首を横に振る。


「寒いかなと思って防寒しすぎちゃって、むしろ暑いくらいよ」


 そう言って笑ってみせる椿月に、誠一郎は優しい眼差しを注ぐ。出会ったばかりの頃と比べると、いまだ不器用ながらも、誠一郎はずいぶん情緒が豊かになった。


 その情景を窓越しにこっそり見つめていた店員の娘は、椿月の安心したような、楽しそうな笑顔と、誠一郎の穏やかに見守るような眼差しを見て、二人が互いに惹かれあっていることをすぐに理解した。同時に、もどかしくも思う。


「あの子、深沢先生の小説読んでないのかぁ~。もったいないなぁ。取り立てて良いところもない、平凡で冴えない青年が、身の程知らずともいえるような美少女に恋をしてしまうって話なのに……。現実は小説のようにはいかないって本当よねえ~」


 そうつぶやいてから、盛大にため息を一つこぼした。


 それから。椿月と誠一郎は、再びあのイチョウ並木のもとを訪れた。以前よりも舞い落ちる葉が目に付くようになったが、まだその光景を保ってはいる。


 また同じように並木道を歩き、適度なところで長椅子で休憩する。


 すると、ここで渡そうと決めていたのか、椿月がおもむろに先程の小包を取り出した。


「誠一郎さん、これ」


 思わぬ展開にまばたきをするしかない誠一郎に、椿月は説明を足す。


「あのね……私もあなたに何か贈りたくて。お返しっていうよりも、『いつもありがとう』のお礼だと思ってね? は、はい」


 どぎまぎしながらそう喋り終えると、ぐいと差し出す。


 対する誠一郎も同じくらい動揺しながら、「ありがとうございます」と、差し出されたそれを手に取る。「開けても良いですか?」と許可を取ってから、それを開封した。


 アール・ヌーヴォー調の柄が描かれた小さな四角い紙箱を開けると、掌に乗るくらいの小瓶が出てくる。


「これは……?」


 それは、誠一郎がこれまでの人生でほとんど見ることのなかったものだった。


 やっぱり男の人にあげる贈り物じゃなかったかしら、と頬を赤く染めつつ、椿月が説明する。


「あの、それね、手に塗るクリームなの。もっぱら婦人用なんだけど……乾燥してるときとか、水仕事のあととかに」


 まだよく分かっていない様子の誠一郎に、椿月はその蓋を実際に開けてみせた。そして、指先をすべらせて少し手に伸ばすと、誠一郎の手を借りて、両手で包み込む。そして優しくさすってやる。


「こうしたら少しは手が楽になるかなって思ったんだけど、要らなかったかしら……」


 誠一郎がとっさに何も言えなかったのは、ただ突然の接触にビックリしたからなのだが。


 その手は離れることなく、重なり合っている。


「とんでもないです。……ありがとうございます」


 本当に嬉しかったのだけれど、驚きのほうが勝ってしまっていたのと、この気持ちをどう口にしていいのかがすぐには分からなくて、つい淡白な返事になってしまう。


 結局、雑貨屋の店員の娘が言っていたように、椿月が塗ってあげてしまった。あまりに積極的な行動をしてしまい、椿月は無性に恥ずかしくなる。


 するとその時、誠一郎がふと気づく。


「いい香りがしますね」


 控えめながら凛とした華やかさがあり、清楚で、上品な香り。


「あ、これ、椿の香りなの。なかなか椿の香りって見つからなくて、さっきのお店で取り寄せてもらったのよ」


 香りのことに触れてもらったことを嬉しそうに話す椿月。


「私の好きな花だから。せっかく誠一郎さんに贈るなら、と思って」


 彼女にとって自分の名にするくらいの思い出の花なのだと、色々知ることが出来た今だからこそ分かる。


 いたわってくれる彼女の指先は秋風にさらされたせいか、温もりを失いつつある。


 だから、誠一郎はその細い指先を包むように握り返した。


「わ、あったかい」


「椿月さんよりも、体温が高いのかもしれません」


 誠一郎は上手にほほえむことができない代わりに目を細めた。


 どのくらいそうしていただろうか。


 二人の手はそのまま自然と互いを求めて、指が絡み合う。


 イチョウの葉ははらりはらりと舞い落ち、その身を風に躍らせる。


 冬の気配が、二人を近づける。


「……また来年も、二人で見に来られるといいわね」


 朱の差した頬で椿月が彼に言う。


「はい」


 誠一郎はそう返事をして、また手を握った。


 自分の手の中にすっかり収まってしまう椿月の手の感触を感じながら、誠一郎は思う。




 いつか、自分のすべてのことも、彼女に話せる日が来るだろうか。




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