二人が劇場内に入ったとき。裏口から繋がっている入り口は関係者専用通路に通じており、今日は公演が休みということもあり、そこは無人だった。ざあっという外の雨の音がはっきり聞こえるくらい、静かな空間だった。


 誠一郎がそっと、彼女の肩から手を外す。


 椿月は彼の顔を、何か聞きたげに、遠慮がちな上目遣いで見つめている。雨粒で湿った髪を拭うこともなく。


 彼女の視線に背中を押されて、言いづらそうにではあるが、誠一郎が先に口を開く。


「すみません……。一部始終を聞いてしまいました」


 申し訳なさそうにそう告げる誠一郎がさほど混乱していない様子を不思議に思い、椿月が尋ねる。


「誠一郎さん、もしかして、館長と私の関係を知っていたの?」


「……本当に偶然なのですが、実はつい先程、館長から聞きました。椿月さんが話してくれるまでは触れないでいようと思っていたのですが」


 椿月は、「そう……」とつぶやき、何かを考えるように視線を床に落とした。


「別に、誠一郎さんに隠すようなことじゃないから、大丈夫よ。気にしないで。びっくりしたけど、平気」


 ゆっくりと、落ち着けるような言葉を重ね、なんとかほほ笑みを作ってみせる。


 これまで何度も椿月の笑顔を間近で見てきた誠一郎からすると、それが無理をしたものであることは一目瞭然だった。


「そうだわ。ちょっと、ついてきてくれる?」


 そう言うと、椿月は彼を連れて劇場二階に向かった。


 劇場は広い。ロビーから続くホールがあり、観客たちが立ち入ることのできる領域の他に、楽屋や衣装室、道具倉庫などが並ぶ関係者専用の領域も多分にある。


 その、関係者しか入れない領域の二階。


 ホールを中心とした建物自体の複雑な設計ゆえ通路は折れ曲がりながら、館長室や、応接室など、どちらかというと事務的な目的の部屋が続く。


 椿月が足を止めたのは、とある一室の前。


「私、昔この部屋に住んでいたの」


 部屋を覗く限り本当に普通の劇場の一室で。とてもこの中で人が寝泊りしていたとは思えなかった。


「私がここにきたばかりの頃、行くところも頼れるところもなくて、館長が内緒で住ませてくれたの。それは聞いた?」


「はい。そのあと、身寄りのなかった椿月さんを、館長が養女として引き取ってくれたんですよね」


 椿月はうなずく。それから、ささやくような小声でつぶやく。


「まさか、今さら本当の親が出てくるなんて思いもしなかった……」


 また少し考え込んでから顔を上げると、誠一郎に、


「さっきはありがとう。かばってくれたのよね」


 と、努めて笑顔を作ってみせる。


 誠一郎は静かに首を横に振った。


 そして、「これは、館長にも話してないこともなんだけどね……」と前置きして、彼女は過去を語り始めた。


「……私、物心ついた頃にはもう奉公先に預けられていて。そこから前の記憶はほとんどないの。薮入りの時に私だけ行くところがなかったから、たぶん捨てられてここに拾ってもらったんだろうなとは、幼心にうっすら気がついてたんだけどね。その奉公先のお屋敷の、使用人のそのまたお手伝いみたいなことを、住み込みでさせてもらっていたの。


 ある日、偶然が重なって、お屋敷の方の付き人として、演劇の舞台を見させていただいたの。そこで演劇の世界に魅了されちゃって。それから色々あって、運よく劇場関係の仕事から端役につけるようになったんだけど……」


 よどみなく話していた椿月の歯切れが悪くなる。


「そこで……応援してくれていたはずの人と、色々すれ違いがあってね……」


 慎重に言葉を選んで、そう説明する。


 誠一郎は、椿月と出会ったばかりの頃のことを思い出した。彼女がどうしても、彼女自身としてやりたいと熱望していた舞台。その劇の内容と重なる部分がある。


 本来の彼女とは乖離(かいり)した役柄で評価されるようになった椿月は、徐々に本当の自分が何なのか分からなくなってしまった。かつて、使用人手伝いから女優になりたいというあまりに無謀な夢を後押ししてくれた、椿月が慕っていたという男性は、その時の彼女と彼女の気持ちをにべもなく突っぱねたという。


「その時は、もうそこには一秒もいられないと思うくらい、つらくて。そこでの全部を捨てて、まっさらな私になりたくて、この都市に出てきたの。でも結局、私にはやっぱり演劇しかなくて。今もこうやって舞台に立たせてもらってるんだけどね」


 自嘲的に、呆れたように苦笑してみせる。


「さっきの、『ハナ』って名前はね。私の名前っていうか、以前の奉公先で気づいたら呼ばれていたってだけで、本当の名前なのかもよく分からないの。『つばき』っていうのは、前にいた劇場で名乗っていた名前なんだけど。役者を目指しだした頃の私にとって、思い出の花でもあってね……」


 そう言って大事な記憶を愛でるように、椿月は目を細めた。


「……それから、つばきに『椿』と『月』の漢字を当ててくれたのは館長なの。養女になるとき戸籍が新しく作られるってことになって、本当の名前かも分からない『ハナ』よりも、『つばき』の方が私は愛着があったし、自分の名前っていう感じがしたから、こっちにしてもらったのよ。……館長と、自分自身で決めたことだからかな。椿月って名前を呼んでもらえると、すごく嬉しいの」


 そこまで話し終えると、椿月は満足そうにほほえんだ。


 誠一郎は、彼女が今目の前に立っているここまでの道のりに対し、なんと感想を言ったらいいか分からなかった。彼女が館長にも秘密にしていたようなことを含め、すべてを話してくれたことはとても嬉しく思っているのだけれど。


「……大変な、人生だったんですね」


 あまりにありきたりで単純かもしれないが、それしか言葉が出てこなかった。


 誠一郎の心配そうな眼差しに対し、椿月は首を横に振る。


「みんな、多かれ少なかれ大変だもの。私だけじゃないわ」


 そう語る彼女の表情はあまりに穏やかで、すっきりしていて、美しくて。誠一郎は吸い込まれるように彼女の顔を見つめていた。


「そういう道をたどってきたからこそ、今こうして、ここに来られたんだもの。それだけで良かったって、今なら思えるわ。本当のお父さんみたいな館長にもめぐり会えたし、すばらしい劇場で、大好きな演劇をさせてもらえてる。素敵な名前も得られた」


 そう言うと一拍おいて、少し恥ずかしそうに、誠一郎の目を見てこう言う。


「それに、あなたとも会えた。あの忘れたいくらいの経験がなかったら、この街にも飛び出して来てなかったし。この街に来てなかったらきっと、あなたとは会えなかったから」


 誠一郎は心の奥底から何かが湧き上がってくる感じがして、気づけば彼女をきつく胸に抱きしめていた。


「あっ……ど、どうしたの」


「すみません。何となく、こうしたくなって……」


 彼女をひどく愛おしいと思う気持ちや、彼女のことを何からも守りたい気持ちが入り混じり、自分でも訳がわからなくなって、体が勝手に動いた。


「誠一郎さん……」


 椿月の両手も、戸惑いながらも彼の服をつかむ。


 その時。


「おーい、椿月ー。いるかー?」


 曲がり角から突然姿を現したのは、神矢だった。


 慌てて距離を取った、赤面した二人。


 神矢は目の前の光景に、やってしまった、と反射的に顔をしかめる。


「あー……悪い。完全に間が悪かったみたいだな」


「し、失礼しました……」


 赤くなった誠一郎は消え入るような声で、なんとかその一言だけ搾り出す。


「う、ううん……」


 同じく真っ赤になっている椿月は首を横に振りつつ、心の中で、「辰巳のバカッ! バカッ! バカッ!」と言い続けていた。


 神矢は気まずさをごまかすように苦笑いを浮かべるしかない。


 そんな散らかった状況だったが、辰巳が椿月に用件を告げる。


「椿月、館長が呼んでる」


 その一言で、館長のもとに興信所の人間がたどりついたこと、館長が椿月の意思確認をしようといているのだということを、椿月と誠一郎は理解した。


「分かったわ。館長室よね? 行ってくる」


 椿月は意思を固めるように衣服や髪の乱れを手でささっと整えると、館長室に向かった。


 煌々と灯る室内灯で気づかなかったが、気づけば窓の外はすっかり夕闇が支配している。夜の黒の向こうで、今にも押しつぶされそうな紫と赤の夕焼けが最後の抵抗を見せていた。


 椿月の後姿を見送ってしまうと、神矢も誠一郎もなんとなく間が持たなくなり。


「……一服するか?」


 神矢がポケットから紙煙草を出して、誘ってみせる。


 断る理由もないので、誠一郎は神矢に続いた。






 一階の関係者通路に沿って作られた外回廊で、二人の男が紫煙をくゆらせていた。


 振り出した雨は止むことなく、勢いを強めているようにすら見える。秋の雨は一雨ごとに気温を下げ、冬を呼び寄せる。羽織り越しに肌寒さを感じながら、二人は闇に落ちた眼前の景色にぼんやりと視線を遣っていた。


「椿月は絶対どこにも行かないから、安心しなよ。センセー」


 闇を見つめる誠一郎がどことなく不機嫌そうに見えたのか、神矢が声をかける。


 誠一郎は雨に向かって煙を吐いた。


「……ここに来たばかりの頃の椿月は、そりゃあもう暗くて、冗談にも乗ってくれないし、演技以外ではほとんど喜怒哀楽を見せない子だったよ。でも、地味な格好をしていてもはっきり分かるくらい、顔はずば抜けて可愛かった。だからまぁ、挨拶代わりに軽く口説いたりしてたんだけどさ」


 さらりと語られた神矢のとんでもない発言に、遠くを見つめていた誠一郎の視線が即座に神矢に向けられる。


「そしたら、『私、そういうのはもういいの』って、疲れた顔で弱々しく言ってた」


 椿月はその時、本当にそう思っていたのだろう。応援してくれたはずの、慕っていた男性に冷たくあしらわれたことは、彼女を大いに絶望に追いやったに違いない。


「きっと椿月は、本当にここが気に入ってるんだよ。館長のこともだし、劇場のことも。どんどん明るくなってさ、今や俺と他愛ない冗談言ったりしてるくらいなんだから」


 彼女が本来の明るさを取り戻せたことは本当に良かった。誠一郎がそう思っていると。


「あと、隠れてセンセーと何かコソコソしてたりするみたいだからな」


 そのさらっと述べられる冷やかしの言葉に、誠一郎は微動だにできず固まってしまう。


 しばらくしてから、神矢の「灰、落ちるぞ」という一言で、なんとか自分を取り戻す。


「ま、俺の知ってる椿月の過去はこんなもんかな」


 そう軽い調子で言って、また煙草を一口吸ってから、神矢は少し声の調子を落とした。


「……んでさ」


 また何か冷やかされるのかと思い、誠一郎が「はい?」と尋ね返すと。


「単刀直入に訊くけど、センセーって、本当は一体どんな人なの?」


 予想もしなかった神矢の眼光と、視線がぶつかる。いつもの余裕ある薄笑いはそのままなのだけれど、それゆえに逆に、下手な言い訳では逃がしてはもらえないような迫力があった。


「数ヶ国語を自然に読み書きできるような高等教育を受けてて。一部はもらい物とはいっても、高価な洋書含め大量の本を持っている。ボロい借家とはいえ、街の近くの一軒家に一人で住んで。そのくせ、見てる限り金持ちってわけでもない」


 神矢の言及はすべて的を射ている。


 神矢はその眼差しを、今、何を考えているのか全く分からない誠一郎の横顔に注ぐ。


「あんた一体、何者なの?」


 くわえた煙草を指先で支えながら、眼前に広がる漆黒の闇を瞳に映したまま、誠一郎は何も答えない。


 勢いを増す雨が、二人の会話を夜に埋めていく。

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