数晩悩んだ誠一郎は、意を決して館長のもとに行くことに決めた。椿月の稽古時間を考慮し、彼女と遭遇しない時間帯を狙って。


 多忙な館長がつかまるかどうか心配だったが、館長室を訪ねた誠一郎のただならぬ面持ちに、館長はすぐに時間を作ってくれた。


 館長室内の応接間に通され、館長と向かい合う。いつものようにライオンのたてがみを連想させるような髪型に、タキシードを身にまとった大柄な体。でも、その表情は、いつもの穏やかさに戸惑いの色がにじんでいる。


 これまで何度も椿月とこの劇場を助けた誠一郎に全幅の信頼を置いている館長だったが、突然「大事なお話があります。二人だけで話せませんか」と言われたら、緊張もするだろう。


 誠一郎は先にこう前置きした。


「今から僕は、かなり不躾なことを言ってしまうと思うので、先に謝っておきます」


「……構わないよ。君がここに来るまでとても悩んだのであろうことは、顔を見ていたら分かるから」


 そう言って、館長自身も緊張で強張りながらも、誠一郎を温かく勇気付けてくれる。


 誠一郎は彼の、彼ら親子の心に土足で踏み込んでしまうような気がして、自然と眉間にしわがきざまれた。


 でも、言わなくてはならない。


「ある伝手(つて)で知ったのですが、椿月さんの本当の父親が、この街で椿月さんのことを探しているそうです」


 その一言で館長は、誠一郎が色々なことを知ったのだと理解した。自分と椿月が親子であること、それと、本当の親子ではないこと。


「養子縁組のことは、椿月から聞いたのかな?」


「神矢さんからです。椿月さんとは、このことに関して話したことはありません」


 館長の口ぶりからするに、椿月は意図的に誠一郎に養子のことを言ってなかったように思われる。それもそうだろう。養子ということは、今の親は本当の親ではないということで、どうしたって過去にあったことに触れなければならない。


「……隠そうとしていたわけではないし、いずれは椿月も君に話すつもりだったことだろうから、知ったことに対してそんなに自分を責めなくていいんだよ。……ただ、君のことがどうでもいいから話さなかったのではなくて、どうでもよくなさすぎたから気軽には話せなかった、ということだけは分かってあげてくれないか」


 椿月を気遣う館長の訴えに、誠一郎は目を見て「はい」とうなずく。


 その反応に館長は少しほっとしたようで、目元が優しげに細められる。そして、昔話を始めた。


「……私は父からこの劇場の館長の座を受け継いでね。それまでは全く別の仕事をしていたから、館長職に就いたばかりの頃は、従業員たちの仕事を理解しようと思って、朝の門の掃除と夜の戸締りなんかは私がやっていたんだ。


 そんなある日の早朝、ちょうど今くらいの肌寒い時期。私が朝の掃除に出ると、門の前に、風呂敷包み一つ抱えてちょこんと座っている女の子がいた。出てきた私を見るなり、『この劇場の方ですか? 舞台の経験があるんですが、ここで雇ってもらえませんか? 裏方でも何でも構いません』と言ってきた。年齢にそぐわない、とてもしっかりした口調でね。着たきりの古びた薄手の着物で、瞳の光も弱々しくて、表情の変化も乏しいし、そのまま壊れてしまいそうなくらい、儚げだった。でも、今と変わらないくらい美しい女の子だった。


 『過去と、今までいた場所は捨ててきました。頼るところはありません』なんて言うし、あまりに可哀想だったから、私の判断で雇うことにしたんだ。実際、彼女の演技力はすばらしいものがあったしね。ただ、『住むところはお金を貯めてから決める』なんて言っていて。『昨日までどこに泊まっていたんだい?』と訊いたら、『夜は人目につかないところで座ってました』なんて言うから驚いてね。みんなには秘密で、鍵のかかる劇場の一室を寝泊り用にこっそり貸してあげていたんだ。


 彼女にはこの街とこの劇場が合っていたのか、次第に明るく、元気になっていってね。今のように、よく笑う子になってくれた。でも、身元が不明瞭ということで、何かと不便することもあったりして。これも何かの縁だと思って、彼女と相談して、私の養子にすることにしたんだ。妻とはだいぶ前に死別していて、子どももいないし、妻以外の人ともう一度結婚する気もないし、本当の家族と思って彼女を迎え入れようと思ってね。だから彼女は今、私の家の昔の妻の部屋で暮らしているんだ」


 館長の語る過去に聞き入っていた誠一郎は、話がひと段落すると「そうだったんですね」とかみしめるようにつぶやいた。


 それと、館長は「彼女にはこの街とこの劇場が合っていたから」と言っていたが、館長の本当の父のような大らかな愛情があってこそ、椿月は安心して本来の明るい自分になれたのだろうと、誠一郎は思った。


 そして館長はポツリとこぼす。


「数年とはいえ、もう椿月は私の大切な娘だから。勝手に連れて行かせるようなことはさせないよ。椿月自身が本当の父親のもとに行きたいというのなら、仕方がないけれど……」


 そう言って沈んだ空気をまとう館長に、誠一郎は根拠もないけれど言いたくなる。椿月もきっと館長の娘でいたいはず、ここを離れたくはないはずだ、と。今まで短い間ではあるが、間近で椿月と館長を見てきて、二人は本当の父娘のようだと思えるから。


 編集者が言っていた、縁故を広げるために利用できるかもという椿月の本当の父親の意図など、館長に話せるわけもなかった。


 誠一郎が何も言えないでいると、館長がふと、空気を変えようとしたのかこんなことを訊いてきた。


「そうだ。イチョウ並木はきれいだったかい?」


 誠一郎は反射的に、なぜそれを、と思ってからすぐに、ああそうか、と納得する。そもそも館長が、今の時期はイチョウ並木がきれいだよと椿月に教えてくれたのだ。


「椿月が、君と見に行ったと楽しそうに話していたからね」


 そう穏やかにほほえむ顔は、完全に父親のそれだと誠一郎は思った。


 誠一郎は考える。


 たしかに御山というのは珍しい苗字だし、館長の職業柄、このまま出版社などを当たっていけば、椿月までたどり着く可能性は低くはないだろう。しかも、聞くところによると興信所にも依頼しているそうだ。となると、時間の問題ではないだろうか。


「……この事は、館長から椿月さんにお話ししていただいた方がいいと思います。僕は部外者ですし、椿月さんが僕に話していないということは、今はまだ知られたくないことなのでしょう。僕の口からは言わないほうがいいと思います」


 館長は誠一郎の提案を、「分かった」と受け入れた。そして、「言いづらかったろうに、報せてくれてありがとう」とも感謝した。


 ここから先は館長親子の領域であり、自分が踏み込んでいい問題ではない。椿月や館長が傷つかないことを願いつつ、誠一郎は館長室を後にした。






 ところが。そんな彼の思いとは裏腹に、事態はすぐそこまで進行してきていた。


 誠一郎が劇場の建物の外に出ると、鈍色の曇天に小雨がぱらついていた。ギリギリ、傘を差さずとも行けるくらいだろうか。掌を差し出し、天を仰いでそんなことを考えていると。


 遠目に見える裏門の方に、見覚えのある姿が。


 花柄の着物に海老茶色の袴を合わせ、厚手の肩掛けを羽織り、長い下ろし髪をいつものように上だけ結った彼女。不本意ながら、今日は会わないようにしなければならない相手、椿月だった。


 降り始めたばかりの雨が、傘を持たない彼女の足を劇場へと速めさせている。


 誠一郎はとっさに、柱の影に身を引っ込めた。今日館長に会ったことは、なるべく彼女に知られないようにしたい。二人で何を話していたのか訊かれたら、うまく言い逃れられる自信はない。


 だが。気になることがあった。


 小走りの椿月の後ろのほうに、もう一つ影が見える。


 上手に気配を消して近付いているのか、椿月は気づいていないようだが。


 不審に思って誠一郎が物陰から凝視していると。


 その人物は椿月に声をかけた。


 履きつぶされた靴に、着古されてくたっとしたスーツ。ハンチング帽でよく目元が見えないが、誠一郎の知る人ではなさそうだ。服装や体格からして、中年くらいの男性だろうか。


 裏口付近は人通りが少なく、男の声がよく聞こえた。


「ちょいとすいません、そこのお嬢さん」


 振り返った椿月も、やはり相手に心当たりがなかったのか、警戒するように両肩をすくめる。


 椿月はその仕事上、以前も行き過ぎた熱心なファンにつきまとわれることなどもあった。


 向かったほうがいいだろうか、と踏み出した誠一郎の足が、一歩目で止まる。


「御山 ハナさん、だよね? 怪しい者じゃないんだ。話を聞いてもらえないかな」


 男の放った言葉に、椿月は目を見開いて隠しきれない動揺を見せてはいるものの、誠一郎が聞いたこともないその名を否定する様子はない。


「ハナちゃんの本当のお父さんが、君を探してるんだ。自分は君の捜索を依頼された者なんだけどね。君の本当のお父さんが、一人娘をぜひ引き取りたいと言ってるんだ。ここから少し北のほうにある都市で、会社をやってる社長さんだよ。絶対に今より悪い暮らしにはならない。だから、おハナちゃん。一緒に来てもらえないかな?」


 彼女がどう答えるのかと、誠一郎が固唾を呑んで見守っていると。


「……あの、何のことでしょう? 私の名前は御山 椿月です。父とは今も一緒に暮らしています。人違いではありませんか?」


 誠一郎はいつか見たような、椿月が気持ちの切り替えをする音が聞こえたような気がした。


 椿月は完璧に、「人違いをされて戸惑っている人」を演じていた。


 しかし、それで引き下がってくれるような相手ではないだろう。案の定、男は食い下がる。


「いやいや、しらばっくれないでよ。その名前は、君が勝手に名乗っているだけでしょ? こっちはちゃんと、君の過去を全部調べてるからね」


 見透かされている。


 それも仕方ないことだ。いくら椿月の演技が上手とはいえ、世間的にはただの小娘だ。倍以上の時間を生きてきた大人に、小手先の嘘が通じるわけもなく。


「それで、どうするの? 一緒に来てくれるよね? いずれにせよ、とりあえず一度顔を見せに連れて来るように言われてるんだよ。こっちも仕事でやってるからさ。ほら、行くよ」


 有無を言わせぬよう、わざといらだちを含ませた男の声に、椿月の表情に脅えの色がさす。


 今出て行くと、きっと、椿月が話さないでおきたかったことを知ってしまったことが分かってしまうだろう。


 でも、それでも。体は勝手に動く。


「……椿月さん、お待たせしてすみません。行きましょう」


 さっとその場に現れた誠一郎は、まるで待ち合わせでもしていたかのように装う。視線を遮断させるように、椿月と男の間に体をすべりこませた。


 突然の彼の登場に、訳がわからないとばかりに目をパチパチさせている彼女に、不器用ながらできる限り、優しく見えるような表情を作ってみせる。こんなことで安心してもらえるのかは分からないけれど。


 誠一郎は、今までそんなことなどしたこともないが、彼女の肩を抱き寄せるようにして、男から彼女の姿を隠すように、遠ざけるように彼女を劇場内へ導く。


「ちょ……待ってって。誰だよアンタ、邪魔しないでくれ。おハナちゃん! ちょっと!」


 追いすがる男に、誠一郎は少しだけ振り返り、一瞥をくれる。


 その眼鏡の奥の眼光は、いつかの椿月を傷つける者に静かに怒るように冷たく鋭く、男の追及を撥ね付ける。


 一緒に行くことを拒絶するように、劇場の扉がしっかりと閉められたとき。雨脚は一層強まっていた。

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