3
「よう、センセー」
ある日の昼間。予告なく誠一郎の家を訪ねたのは、初めて見る和服姿に身を包んだ神矢だった。
「どうしたんですか?」
神矢の手には数冊の本があり、いつものように深沢家を貸本屋のように利用するつもりだということは分かった。誠一郎の問いかけは、神矢の見慣れぬ服装に対してだ。
「これか? 今度演じる役が久々の和服姿でな。慣れようと思って最近普段から着てるんだ」
そう言って口元だけで涼しく笑ってみせる。垂れ目に吊り眉の神矢の端整な顔立ちは、和服でも映える。何気なく前髪を払うだけで、同性から見ても様になっている。
ここにたどり着くまでにも、おそらく相当数の婦女子の心をわしづかみにして来たのだろう。
和服に外套を羽織り、手元には本。
身長や体格、年齢だってそう変わらない。構成している物は大して違わないはずなのに、誠一郎とは何もかもが圧倒的に違う。
以前から分かっていたことではあるが、やはり何を身につけているかうんぬんの問題ではないのだな、と誠一郎は改めて思う。
「っていうか……センセー、なんだかボロボロじゃないか?」
いぶかしげに神矢がそう問うのも当然のこと。
玄関に現れた誠一郎は、眼鏡の奥の目の下にうっすら隈が出来ているし、目つきも一層険しい。衣服もよれているし、髪も乱れている。
「小説の追い込みです」
誠一郎は執筆に集中すると、本人も自覚していることだが、その他のことが本当におろそかになる。
起きている間は書き続け、疲れたらその場で寝る。食べるものも、空腹を満たせれば何でもいいというくらい適当になる。
神矢がやって来た時、誠一郎はちょうど仮眠をとっているところだった。もちろん布団の上ではなく、畳の上で。服装も、寝巻きではなくこの普段着姿のままで。
神矢が家に上がって中を見てみると、誠一郎の書斎はすごいことになっていた。
資料用の本が塔のように積みあがり、それが倒壊して畳を埋め尽くすように雪崩を起こしていたりする。その隙間に、書き散らかした原稿が哀れに挟まれていたりした。誠一郎が横になれる分だけ、畳の上に隙間ができている。
文机の傍らには、食べきった後であろう米粒一つない椀が積み上げられていた。
見苦しい部屋への視線を遮断するように、誠一郎はふすまをピシャリと閉める。
「時間がないのか? だったら出直すぜ」
「いえ、そういうわけでは。一度執筆に集中してしまうと、そればかりになってしまうというだけで、時間的余裕がないわけではないんです」
神矢からするとよく分からない理屈だが、誠一郎がそう言うのならそのまま用を済まさせてもらうことにする。
誠一郎は目覚ましがてら顔を洗いに行き、神矢はいつものように本ばかりが山ほど詰め込まれた部屋に向かった。
上背のある神矢のよりも背の高い本棚が、人が一人通れるくらいの隙間を残して、迷路を作ろうとしているかのようにみっちり詰め込まれている。板張りの廊下のきしみ具合からすると、この部屋の床の方が先に崩落するのではないか、とすら思えるくらいだ。
神矢は何の気なしに、いつもは見ない奥の方の本棚も目を通してみる。
「うお……なんだこれ?」
そこには、市井の普通の本屋ではなかなかお目にかかれないような、凝った装丁の洋書がずらりと並んでいる。布地に金糸で刺繍されているような表紙のものまである。しかも。
「これ、何語だ?」
取り出した本に首をかしげていると。
「それはドイツの本ですね」
背後から急に声をかけられて驚いた。
「な、なんだ。センセー戻ってきたのか」
驚かれたことに驚いた誠一郎が、とりあえず「すみません」と口にする。
「この辺は全部洋書なのか?」
「そうですね。かつての師匠から譲り受けたものだったり、人からいただいたり」
ふうん、と生返事をしつつ、神矢は頭の中では色々なことを考えていた。
「そういや……この間は劇場の台本のことで世話になったみたいだな。劇場の連中が、あの時はバタバタしてたから今度改めてお礼がしたいって言ってた」
「いえ。大したことは」
そう遠慮する誠一郎に、神矢はもう一歩踏み込む。
「……センセーって、英語分かるんだな」
「読むだけならなんとか」
「この本みたいな、ドイツ語も?」
「はい」
神矢はその分厚い洋書を棚に戻すと、会話を終え、いつも自分が物色する棚で本を選ぶことにした。この大量の本の持ち主に生じた、いくつかの疑問を持ちながら。
借りていく本を数冊選び終えると、ちょうど誠一郎が放置していた食器を片付けているところだった。
「……そういやセンセーって、一人で暮らしてて飯とかどうしてるんだ?」
ふとした問いかけに、誠一郎が声だけで返事をよこす。
「近くに、この家の大家にあたる老夫婦の方が住んでいて、時々気にかけてくれます。あとはもっぱら近所の食堂なんかですかね」
書斎に積みあがっていた椀は、その気にかけてくれた結果なのだろう。
以前に誠一郎は、この家は大家夫妻と自分の親戚の伝手(つて)で安く借りられてると言っていた。
片づけを簡単に終えて誠一郎が居間に戻ってくると、神矢は早々と帰り支度をしている。作業の邪魔をしたら悪いと、彼なりに思っているのだろう。
見送りに玄関先まで出てきた誠一郎に、神矢は「そういえば」と唐突にこんな情報をもたらす。
「椿月、センセーからもらった贈り物とやら、劇場でも肌身離さずずーっと持ち歩いてるんだぜ」
自分では知りえない話に、「そうですか」と冷静に答えながらも、視線がふっと逸らされる。
誠一郎が努めて動揺を隠そうとするのをからかうのが面白いらしく、神矢はこうしてたまに彼をからかう。
「髪に飾っては何回も、館長に『似合う?』って聞いてた」
その話を聞くだけで、人の良い館長が優しげにほほえんでいる姿が容易に想像できる。
そんなことを何度も尋ねている彼女も可愛らしいな、と思い、つい表情が緩みそうになる。
それを振り払うように事務的な咳払いをして、強引に話をすり替えた。
「あの……。……あっ、神矢さんは知り合いの方が多そうなので、ぜひ伺いたいことがあるんですが」
意図がバレバレの話題転換だったが、神矢はしょうがなく付き合ってやることにする。
「何だよ? 別に、言うほど多いわけじゃないぜ。芸能関係に偏ってるし」
それはそれですごいことだと思うのだが。誠一郎はそう思ったが口には出さなかった。
「周りで人探しをしている人がいて。ミヤマという名の男性を知りませんか? 御の字に、山と書いて、娘が一人いる方だそうです」
誠一郎の疑問に、「何を言ってるんだ?」という呆れ顔をする神矢。
「そんなの、館長のことじゃないのか?」
「え」
神矢の言葉に、誠一郎の思考が止まる。
「御の字に山って書く御山なんだろ? そんな珍しい苗字で、娘が一人ってなると、この街でもかなり少ないと思うぞ。館長くらいじゃないか」
これまで館長のことは、自分も周りも「館長」としか呼んでおらず、本名など全く知らなかった。普通の人なら疑問に思ってさりげなく周りに聞いたりするのだろうけれど、これまで筋金入りの他人への関心の無さを貫いてきた誠一郎は、何も思わずここまで来てしまった。
誠一郎の停止っぷりで事情を察した神矢が、黙って肩をすくめる。
「……ということは、館長には娘さんがいらっしゃったんですね……」
何とか思考機能が復旧した誠一郎がそうつぶやくと、今度は神矢が、
「え」
と間抜けな声を出した。
信じられないとばかりに眉間にシワを寄せる。
「娘さんがいらっしゃったんですねって……何言ってるんだ? 椿月だよ。館長の娘」
「え」
次はまた誠一郎が驚く番だった。
たしかに、これまで劇場で見る限り、館長と椿月は父娘のようだと思ったことは何度もある。だがそれはあくまで劇場内においての、親子のような信頼関係なのだと思っていた。
それに椿月が館長の娘となると、年齢的に少し近すぎるのではないだろうか。一体、館長がいくつのときに授かった子どもになるのだろう。少し無理のある年齢になるのではないだろうか。
誠一郎の混乱を見透かして、神矢が説明を足す。
「養子縁組だから、血は繋がってないけどな」
ここまで椿月に近い誠一郎がまさかそれを知らなかったとは思わず、今さらながら言ってはいけないことだったのかもしれないと思い、なんとなく神矢もばつが悪くなる。
何事か考えこんでいる誠一郎に、神矢が問う。
「それで、なんで館長が探されてるんだ?」
「いや、ちょっと……」
答える誠一郎の歯切れも悪くなる。
探されていたのが館長となると、どうして探されていたのか俄然気になってくる。しかも、捜索するための数少ない材料として、「娘が一人いる」という情報を与えられているのだ。
もしかしたら、館長を通り越して、椿月に関係のある話なのかもしれない。
しかも、ただの親子でなく養子縁組ということは、椿月にもきっとかなりの事情があるのだろう。
彼女に交際を申し込みたいと思うくらい想いを寄せていながら、こんな重要なことも知らなかったのだ。浮かれていた過去の自分を殴りに行きたい気持ちに駆られる。
ただならぬ顔色で黙りこんだ誠一郎を心配したのか、神矢が声をかける。
「センセー、大丈夫か?」
思考の世界から現実に引き戻された誠一郎は、なんとか「大丈夫です」と言葉を返す。
それから、
「このことは、館長と椿月さんには言わないでもらえますか」
と、念押しする。
神矢が承諾すると、誠一郎は帰路につく神矢に途中までついて行き、別れてからすぐ公衆電話に駆け込んだ。
すぐに出版社に電話して、あの話を聞いた担当編集者を出してもらう。そして開口一番に尋ねる。
「例の人探しなんですが、御山という人は見つかりましたか?」
焦っている様子は悟られないようにしているつもりなのだが、どうしても口調が早くなる。
対照的に、編集者の声色は非常に能天気なものだった。
「え? いや、知りませんよ。全然。すっかり忘れてましたし。もしかして深沢先生、見つけられたんですか?」
「いや、そういうわけではないんですが……何となく気になって……」
つたないながらに取り繕う。喋りで巧みにどうこうするというようなことは、本当に不得手なのだ。
「それで……その方って、どうして御山さんを探されていたんでしょうか?」
急に色々なことを尋ねてくる誠一郎を奇妙に思いながらも、編集者はすらすらと答えてくれる。
「御山という名の男というより、その娘を探してるみたいですよ。というのも、今は御山家の養女になってるそうですが、元は探し主の方の娘さんだそうで。芸者か何かとの間の不義の子だったようです。手切れ金を受け取った相手の女はそのまま行方をくらませて、その後、女も幼い娘をどこかに預けていなくなってしまったとか。探し主の方が調べたところ、成長した娘がこの街にたどり着き、なんやかやあって御山という男に引き取られたというところまでは情報を得たそうなんです」
あまりの情報に、誠一郎は何も返せない。編集者は見ず知らずの人の話をしているからこんなに軽い調子で、物語を朗読するくらいの温度で話すことが出来ているのだろうけれど。誠一郎としては、相手のことをよく知っているし、もっと知りたいと思っている相手だ。
「その探し主の方は、ここから北にある小都市で会社をやってる社長さんみたいで。はじめは『せっかくの自分の子だから故郷に連れて帰ってやりたい』とか言ってましたけど、ちょっと突いてみたら、妙齢の娘だったら縁故を広げるための縁談に使えて便利だろうと思ったからみたいですよ。まあ、一応は社長さんですしね」
そう話を終えるも、いつまでも反応を返さない誠一郎に、
「これだけのために、わざわざお電話を?」
と、不審そうに編集者が尋ねてくる。
絶句していた誠一郎も、なんとか言葉をしぼり出す。
「あ……いえ……ええと、締め切りの確認で。いつもどおり今月末、でしたよね」
「そうですよ。いつものが今月末、新しいのが来月十五日ですからね。くれぐれもお間違えのないようにお願いしますよ!」
消え入るような返事を残して、誠一郎は電話を終えた。しばらくそのまま公衆電話の中で動けなくなる。
今後、どんな顔で椿月に会ったらいいのか。今の誠一郎に見当もつかなかった。
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