劇場での一件から数日後のこと。


 誠一郎は雑居ビルの一室を訪れていた。ここには彼が世話になっている出版社が入っていて、頼んでおいた小説用資料の受け取りがてら、打ち合わせを行うためだ。


 すりガラスの間仕切りの奥に通され、担当の編集者と相対する。その編集者は誠一郎と同年代の男性で、誠一郎の以前の師匠の一件の後、うちで小説を書いてみないかと声をかけてくれた人だった。


 応接机の上に資料をばらばらと広げられ、これで十分か確認を求められる。誠一郎がそれらに目を通してしばらくすると、編集者は唐突にこう切り出してきた。


「……深沢先生の作品は、デビュー作こそあまり華々しい評価ではありませんでしたが、最近は徐々に人気が出てるんじゃないかと私は思うんですよ。先生の原稿が載る号は、先生だけが要因とは言い切れませんが、普段より売れ行きも良いですし」


 突然の褒め言葉に、一体この言葉のあとに何が続くのだろうと、誠一郎は反射的に身構える。だが。


「そこで、ですね。別紙でもう一本ばかし連載を持ってみませんか?」


 その後に続いたのは、思わぬ良い話だった。二つ返事で引き受ける。


「おお、良かった。ちょうど一枠空きが出来そうで、私としては先生を推したいと思っていたんです。読者層的には、前の『恋情語り』みたいな感じで……。どうでしょう、いけますかね?」


 「恋情語り」は恋に悩む男性の心情をえがいた小説で、男性からの共感よりも女性からの反響が大きかったそうだ。


 自分が何を書けるのか、書きたいのか迷走していた時期の作品だったので、これによって今後の執筆の方針が少しは定められたように思う。


 誠一郎は少し思案したのち、「はい」と返事をした。幸いにも、そういうことに関して書きたいと思う内容は、以前よりも蓄積されている。


 まだ作家の卵にもなりきれていなかった頃の自分は、まさか将来自分が恋愛に関わる小説を書いているとは思いもしないだろうけれど。これもきっと、彼女との出会いが自分を変えた結果なのだと、感慨深く思う。


 そんなことを考えながら、ふと視線を机の隅にやると。資料の紙の束の間に小さな紙が挟まっていることに気がついた。


 気になってそれを取り出してみる。


「あっ、すいません! それ、前の来客者の名刺です。資料とは関係ないです」


 編集者が言うより早く、誠一郎はその名刺の名を読んだ。


 見たことも聞いたこともない男の名前だったが、肩書きからどこかの会社の社長と言うことが分かった。出版社にはおよそ縁のなさそうな業種だが。


 記載されている会社の所在地は、ここからだいぶ遠い。


「置きっ放しにしてたみたいで……。いや、その方はですね、私が対応したんですけれど、人探しをしてるとかで突然訪ねてこられたんですよ」


「人探しで、出版社に来たんですか?」


 当然の疑問に、編集者も困ったように眉根を寄せる。


「そうなんですよねぇ。聞くところによると、興信所にも依頼してるそうなんですが、自分でも聞き込みをしたりして探しているみたいで。『事件などでこの名前が報じられたりしていたら、教えてほしい』と言われて……。うちは新聞社じゃないっていうのに」


 そうぼやいてから、彼は誠一郎にも一応尋ねておく。


「探しているのは『ミヤマ』という名の男だそうなんですが、先生は聞いたことありませんか?」


 ただでさえ交友関係が狭く、知人友人も少ない、おまけに人の顔や情報を覚えるのが苦手な誠一郎に心当たりがあるはずもなく。「残念ながら」と、首を横に振るしかない。


「ですよねぇ。まぁ、もし万が一名前を聞いたりしたら、良かったら一応ご連絡ください。御中の“御”に、“山”と書いて、御山(ミヤマ)だそうです。この都市にいることは確かみたいなんですが……。ああ、それから、娘が一人いるとか。分かってるのはこのくらいだそうです」


 この都市にはあまりに人が多いので、それだけの情報で一人の男を見つけ出すのはかなり難しいだろう。手当たり次第に毎日百人に尋ねたとしても、目的の人物にたどり着けるかどうか。


「わざわざそのために上京してきているみたいで。なんだか必死こいて探してるみたいですよ」

 あまりに途方もない人探しなので、とりあえず心に留めておこうと誠一郎は思った。






 一方その頃。


 椿月は一人で繁華街を訪れていた。


 休みの日を利用して、もう幾度目かの誠一郎への贈り物探しだ。


 せっかくの男性の知り合いなのに神矢の意見は参考にならないし、昔からずっと劇場にいるため、相談ができそうな同年代の女の子の友達などもいない。


 だからこうしてたまの休みや稽古の合間に一人で街に出向いては、ガラス張りの飾り棚を見つめ、店先を覗き、あれにしようかこれにしようか、いややっぱり考え直そう、を繰り返しているのだった。


 でも、すごく頭を悩ませてはいるのだけれど、嫌な気持ちというわけではなくて。どちらかというと、不思議なことだが幸せを感じる。贈り物を選ぶときというのは、贈る相手のことをずっと考えていられるからかもしれない。


 そして今日もこうして、ある雑貨屋にて陳列棚と見つめ合っていると。


「……ふふっ、すごく悩んでるわね」


 ふいに声をかけられた。


 椿月が視線を上げると、店員の娘が満面の笑みを浮かべている。その笑顔は商売用のそれというだけではなさそうだった。


 動きやすいよう髪を一本に束ね、たすき掛けで着物の袖をまとめ、帆前掛けを腰でキュッと締めた活発そうな娘。そばかす顔が人懐っこさを感じさせる。


 椿月より一つ、二つほど年嵩であろうその彼女は、突然話しかけたことを詫びてから、


「大事な人への贈り物ですか?」


 と、店員らしくにこやかに尋ねた。


 椿月は反射的に頬を赤く染め、「ええ」と小さく首肯する。


「やっぱり! ずっと見ていて、何となくそうじゃないかって思ってたの」


 そういう性質(たち)なのか、それとも椿月が歳の近い娘だから気を許しているのか、彼女は気を抜くとすぐに砕けた口調になってしまうようだ。


 感情表現豊かな娘は、祈るように両手を組んで語ってみせる。


「うらやましいわぁ。あたしも恋愛とかしてみたいんだけど、周りに全然男の人がいないのよね~」


 椿月は彼女の熱に少々気圧されながらも、同年代の女の子とこんな風に話せる機会などなかなかないので、貴重な会話の機会を嬉しく思った。早速訊いてみる。


「贈り物をもらってね、そのお返しがしたいの。どういうものがいいのかしら」


「そうねぇ……。彼が好きなものとか、彼の役に立ちそうなものを考えてみたら?」


 彼女の意見を受けて、椿月が黙って考えこんでいると。


 じいっと椿月を見つめていた娘が、急にこんなことを言ってきた。


「あなた、ちゃんと顔を見てみたらすっごく可愛いじゃない! お人形さんみたいってよく言われない?」


 またまた彼女の勢いに圧倒されつつ、椿月は「い、いいえ」と首と手をプルプルと横に振る。謙遜ではなく、本当に言われたことはないのだ。理由は明確で、普段はもっぱらこの姿で過ごしていないからなのだが。


「ウソォ?! 周りは何をやってるのよ……。どこかのお嬢様とかでもないの?」


 「お嬢様だなんてとんでもないわ」と椿月は苦笑いを浮かべるしかない。


「それで、そんな可愛らしいあなたが慕っている殿方は、一体どんな方なの?」


 身を乗り出すようにしてワクワク尋ねてくる彼女。


 人とこんなことを話すのは初めてのことで、椿月は少しどぎまぎしつつ、気恥ずかしいけれど、それでもこんな話ができることが嬉しくて。


 同性で同年代の気安さも手伝って、ぽろぽろと言葉が出てくる。


「ええと……。見た目はね、その、背丈はこのくらい大きいかな。眼鏡をかけてて、本が好きで、物静かな人で……」


 他に何を説明したらいいかしら、と迷ってふと窓の外に視線を向けると。


「……あら?」


 ちょうどこんな話をしている最中だったので、一瞬見間違いかとも思ったが、店の向かいの往来を、たしかに見覚えのある男性が歩いている。袴姿に防寒用の羽織りを合わせ、片腕に書類鞄を提げている。


「誠一郎さん?」


 椿月の口からこぼれた言葉に、店員の娘はまさかの偶然を察して窓にへばりつく。


「うそうそっ!? あっ、もしかしてあの御方? やだ、格好良いじゃない~。スーツ姿が洗練されていて素敵だわ」


「あ、そっちじゃなくて、その向こうの着物姿の……」


 椿月が正しい方を指し示すと。


「……うーん。あの方にあなたはちょっともったいなくない?」


 彼女の言葉の温度の下がり具合から察するに、それは本音だし、世間の率直な意見であるのだろう。でも椿月は今までそんなこと考えもしなかったので、正直面食らった。


 そうこうしているうちに、誠一郎は視界から消えようとしている。椿月は娘に相談に乗ってくれたことの礼を言い、店を飛び出した。






 一人で歩いている時の彼の歩調はかなり早い。椿月は小走りで彼の背中を追いかけ、彼の名を呼んだ。


「誠一郎さん」


 振り返った彼の目が、驚きで見開かれる。


「奇遇ね。さっきお店にいたら、あなたらしき人が通りかかったから、追いかけてきちゃった。人違いじゃなくてよかった」


 そう言って、息を整えた椿月がほほえむと、誠一郎は「そうでしたか」と嬉しさを押し殺して返事をした。


「お買い物ですか?」


 そう尋ねられて、椿月は一瞬動揺しながらも、「ええ、まあね」とごまかした。誠一郎への贈り物を探していたと気づかれるわけにはいかない。すぐに話を逸らす。


「誠一郎さんは何をしていたの?」


「出版社に打ち合わせに行って、帰るところです」


 それを聞いて、椿月がこう提案する。


「ねえ。もしこのあと時間があるなら、せっかく会えたんだし、少し歩かない? 近くのイチョウ並木が今の時期ちょうどきれいなんだって、館長が教えてくれたの」


 誠一郎は一も二もなくその誘いを快諾する。このあと本当に用事はなかったのだが、もしあったとしても勢いですっぽかしてしまっていたかもしれない。


 誠一郎は歩みの速度を先ほどまでよりかなり緩め、彼女の隣を歩く。


 椿月がお喋りする話を聞きながら、誠一郎はこの僥倖(ぎょうこう)をかみしめていた。見下ろす彼女の髪には、見覚えのあるかんざしがキラリと光っている。


 世間のほとんどが労働に精を出す真昼間ともなると、街の外れをふらふらとしている人も少ない。秋の静けさが場を満たし、色づいた葉たちが風でこすれ合い、寄せては返すさざなみのような音を奏でている。


 背の高い木々に見下ろされるようにしながら、二人は落ち葉の敷き詰められた通りに足を踏み入れた。


「わあ。館長が言ってたとおりだわ。本当に見事な紅葉ね。一面真っ黄色」


 椿月が感嘆の声を上げる気持ちもよく分かる。誠一郎は「そうですね」と同意した。


 本当ならもっと、自分も感動の言葉を並べたほうが良いのかもしれない。でも、紙の上ならともかく、自分の口をついて出させるとなるとなかなか難しくて。


 それでも、椿月は満足げにほほえみを返してくれる。


 彼女が笑いかけてくれると、それだけで不思議と心が満たされる。


 ゆっくりとこの空間を楽しみながら、並木道を進む。秋の澄んで冷たい空気が、鼻から抜けて肺に満ちる。


 二人はしばらく歩いたあと、傍にあった長椅子に腰掛けた。視界には池が目に入り、鏡面世界のようにイチョウ並木を逆さまに映し出している。人気のなさも手伝って、どこか幻想的な空気がかもし出されていた。


 池には列をなした鴨が音も立てずにすいすいと泳いでいたりして、椿月が「誠一郎さん、見て。かわいい」と楽しそうに声をあげる。さっきと一言半句違わないが、「そうですね」と答えた。こっそりいだいている「そう言う椿月さんのほうが……」という言葉は、心の奥底に押し込まれて絶対に口からは出てきそうにない。


 その時。はらはらと天からイチョウの落ち葉が降ってきた。ちょうど、椿月の長い下ろし髪に着地する。


 気づいていない彼女に代わって、誠一郎が手を伸ばしてそれを取ってやる。


 一瞬だけビクッとした椿月だったが、すぐ事態を理解しておとなしく目を瞑った。


「取れました」


 誠一郎が除けたイチョウの葉を見せると、椿月はそれよりも気になるあることに目がくぎづけになる。


「……それは、ペンだこ?」


 誠一郎の右手の中指、第一関節付近の左側がぼこりと膨らんでいて、指全体で見るとまるで折れたように曲がって見える。


 これまで彼の手をまじまじと見ることなどなかったので知らなかったが。


「不恰好なので」


 そう言って誠一郎が隠そうとしたところを、椿月の手が先にとらえる。


 あまり見て欲しくないので本当は強引にでも引き戻したいところだが、椿月の手を振り払うことなどできるわけもなく。誠一郎の骨張った右手に、椿月の白くほっそりとした両手が添えられる。


 たしかに、お世辞にも見栄えが良いとは言えない。腫れて折れ曲がったような大きなペンだこの出来た指は、彼自身もいびつだと思っているし、乾燥によるものか手触りもガサガサとしていて、部分的に赤らみ、皮膚が硬い。なにぶん男一人で暮らしているので、水仕事だって避けられない。


「すごいのね……。痛くないの?」


 柔らかな指先が、彼の大きな手をいたわるように優しく撫でる。


「昔からなので、慣れました」


 彼女に触れられていると、上質な羽ぼうきでそっと払われるような心地よさを感じる。


「そうなの……。誠一郎さんは、どのくらい前から小説を書いているの?」


 そう尋ねられて、そういえばこんなささいなことでも、話していないことは結構あるものだなと実感する。


「もともと幼い頃から本を読むことは好きでしたが、自分でちゃんと書き出したのはそんなに昔のことではないです」


「そう。それでもこんな風になるのね……」


 さすられる手の感触に幸福を感じながら、誠一郎は思う。過去を振り返ってみるとこのペンだこは執筆活動のせいだけではないのだが、話がややこしくなると思ったので黙っておくことにした。


 しばらくして、椿月の手が誠一郎の手から離れていく。誠一郎はとても名残惜しく思った。


 ふと、椿月がポツリと尋ねる。


「ねえ……誠一郎さんって、好きなものとかってあるの?」


 いい機会なので、自然を装って探りを入れてみたのだ。


 誠一郎は「好きなものですか……」と考え込んでから、


「本ですかね」


 と答えた。


「うーん。じゃあ、欲しいものとかは?」


「それも、本ですかね」


 ついこの間、自分も同じような質問を彼女にして探ろうとしていたというのに何も感づかない誠一郎も、なかなかに鈍感な男である。


 あまり踏み込んだことを聞いて察せられても困るので、椿月は渋々ながらこの辺りで引くことにした。話題を変える。


「最近、小説の調子はどうなの?」


 彼女の問いかけに、誠一郎は先ほどの出版社でのやりとりを思い出した。


「……悪くはないと思います。手前味噌ですが。それに、椿月さんのおかげで、書ける幅も広がったような気がするんです」


「私の?」


 目をぱちくりさせる椿月に、誠一郎は「ええ」とうなずいてみせる。


 これまで椿月は、誠一郎からの頼みで一度も彼の著作を読んだことがない。だから、細かいことはよく分からない。それでも、優しげな笑顔を浮かべる。


「そう。良かった」


 そして、


「いつか、読ませてね」


 と言葉を足す。


 誠一郎は「はい」と答えた。


 抜けるような秋晴れに映える黄色を、二人はずっと眺めていた。

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