生生世世

 十日ののち、私は湯島を出ました。

 そのまま、南町奉行所定町廻り同心、堤清吾様宅へ寄宿することになったのです。丁度、敷地内の貸家が空いたとかで、私は倒れこむようにその屋で暮らすようになりました。


 気づくと、すでに十七という年になっていました。

 父母が自刃してからすでに五年が過ぎ、かつての身分や係累、家屋敷はおろか、父母の記憶さえ曖昧になっていました。

 私は、父を陥れた者を必ず突き止め正義を果たすつもりでした。

 そうすればむかしの幸福な日々が取り戻せると、そう思っていたのです。

 その一事を頼りに、姉と、それから湯島で暮らしてきました。


 しかし、いざ自由の身になってみると、まったくなにもできぬおのれの姿が見えてきました。

 おのれの無知と無力さに打ちのめされ、私自身が“真実”であると思ってきたことさえ、信じられなくなっていました。


 私は五年もの間、何をしてきたのだろう。

 なぜ、父と母は自死しなければならなかったのか。

 血に染まった上訴状には、なにがしたためられ、あれはどこに消えてしまったのだろう。

 親族らは残された私たち姉弟に、どうして手を差し伸べられなかったのか。


 思いは堂々巡りを繰り返して、私は次第に抜け殻のようになっていきました。

 そんなある日、堤様がいつになく真面目な顔で言いました。


「今はその時じゃねえ」


 ぼんやりとした頭の片隅で、このひとは何かを知っている、知って、私に、手を差し伸べようとしている。──そう思えました。

 こころは深く沼に沈んでいましたが、私はようやく私のすべきことを知り、水底を蹴ることができたのでした。


 この謎を解こう。

 父母や姉、私の身になにが起こったのかを突き止める。

 だれが関わっていたのか、わたしの“敵”は誰なのか。

 必ず突き止める。

 突き止めて、これまでの報いを受けさせてやる。


 ──だが、今はその時ではない。


 心身が回復していくなかで、私はまた、陽の光の中に歩み出すことができるようになりました。


 まっとうな暮らし──。


 私は前髪を落とし、名を変え、町人の姿となりました。

 やがて、堤様のすすめもあり、定町廻りのもとで密偵として働き始めました。


 江戸の町の裏に潜って、人を欺き、騙し、──助けている。


 かつて澤村伊織と名乗った少年は、もうどこにもいません。




(了)

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心中宵天神 濱口 佳和 @hamakawa

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