四、永訣

 いつしかまた、雨が降り出していた。

 驟雨である。梅雨の終わりを告げる、激しい雨だった。


 ふたりは褥に並んで横たわっていた。

 静かだった。

 雨音が紗幕のように周囲の物音を切り取って、ぽっかりと浮いたような静けさだった。

 伊織は肘を立て、隣に横たわった樋口へ笑みかけた。

 男もしっとりと笑み返す。

「水を、もらってきてくれないか」

 樋口が言った。穏やかな声音だった。

 伊織は頷いて、身支度をととのえた。


「すまない」


 背中にかけられた声に、振返って微笑んだ。


 まかないで土瓶に冷たい水を汲んでもらった。それを盆に乗せて帰ろうとした時、突然、傍らの明り障子が開いて、座敷の中へ引き込まれた。床に落ちた土瓶が粉々に砕けた。

「堤様?!」

 そこには鎖帷子に股引という、捕物姿の堤がいた。後ろに十人ほどの捕手とりてを従え、千代本の主人、千坂の姿もあった。

「どういうことですか」

 物々しさに気押されて、思わず伊織はにじり下がった。

「今朝、奉行所に訴人があった。御手配の浪人がここにいると訴えた者がいる」

 堤は、その目に深い怒りをたたえていた。

「知らせろと、俺は言ったはずだ」

 伊織は身を翻した。止めようとする腕をすり抜け、座敷へ取って返す。

「樋口様!」


 踏み込んだまま、立ちすくんだ。

 片開いた襖の奥に、男の姿があった。

 先ほどまで睦んでいた褥に座り、こちらへ背をむけて前屈みにうつ伏せていた。


「あ……」

「おい、どうしたっ!」


 後を追ってきた堤が、押し退けるように座敷へ踏み込んだ。

 足が止まる。続いた捕手も、凍ったように足を止めた。

 寝間は血の海だった。敷いた褥は血を吸って濡れそぼり、吸いきれぬ血潮が足元へ流れていた。壁には叩き付けたような血の跡があり、噎せ返るほどの異臭が座敷中に漂っていた。

「なんという……」

 堤は男へ近寄ると、肩に手をかけた。首筋に沿って指をあてて、そうして首を振った。


 樋口は割腹していた。作法通りに腹を割き、頸動脈を断ってすでに事切れていた。

「あ……」

 伊織はその場に座り込んだ。

 なにが起こったのかよくわからなかった。ただ、血の臭いが苦しくて、このままでは息が詰まってしまいそうになる。

 目だけを大きく見開き、人形のように伊織は座敷の隅に座り込んだ。

 やがて堤の指示で、亡骸が板戸に移された。運び出されていくのを、ぼんやりと眺めていた。

 座敷の隅に残った袱紗包みが目に映った。おのれが投げ付けたものを拾い集めたのだろう、そこだけ時が止まったように、血飛沫ひとつ付かず、きちんと置かれていた。

 伊織は手を伸ばした。掴み取ろうと立ち上がった。

 足元ががぐらりと揺れた。そして、なにもかもがわからなくなった。





 うるさいほどの雨音だった。

 ぽっかりと目を開けた伊織は、降り続く雨に耳を澄ました。


「目ぇ覚めたか」

 枕元に堤がいた。痛ましげな目で、伊織を見下ろしていた。

 天井に目を向けたまま何も言わない伊織に、堤はそっと切り出した。

「訴人の件だがな、誰かがやらせたらしい。小銭をもらった三下が、お恐れながらと訴えた」

 堤はそこで、言いにくそうに言葉を切った。

「俺が考えるに、どうやら……」

 首を振る。

「もう終わっちまったことだったな。今さらどうだとしても、おまえさんは知らねえ方がいい」

 代わりに、枕元にある書き付けを広げて見せた。

「おまえさんの身請証文だ。あの男がきれいにしてやったそうだな。金の出所は知らねえが、払っちまったら金は金。いまさら取り上げるわけにもいかえねえやな」

 どう横槍を入れたのか、そういうことに落ち着いたらしい。


 堤は目の前で証文を破くと、細かく割いて行燈の火を移した。舐めるように火は走って舞い上がった。堤は指をはじいて灰を捨てた。

「これでおまえさんは自由の身だ。もうこんな所にいることはない。もしあてがないなら、とりあえず俺のところへでも来るがいい。身の振り方はそれから考えてやる」

 伊織はぼんやりと聞いていた。

 堤は懐へ手をやり、部の紙片を取り出した。

「それからな、あとでおまえさんに渡してくれと、千代本の主人に預けたそうだ。自分が帰ってから渡してくれと、そう言っていたらしい」

 それは古びた紙だった。すでに変色して、幾重にも折った背は擦り切れていた。


 差出しても受け取ろうとしない伊織に、堤はそっと握らせ、なだめるように肩を叩いてから帰っていった。

 伊織は動かなかった。人形のように横たわったまま、部屋の隅の暗闇に、じっと目を凝らしているようだった。

 どれほどそうしていたろうか。ふいと行燈の灯が落ちた。油が切れたのか、小さな音をたてて、しぼむように消えてしまった。

 身を起こすと、うっすらとした光明が座敷を照らし出していた。夜明け前の薄暮が、明り障子にうすい影を映していた。


 伊織は身じろいだ。

 おのれの手が握るもの気づき、広げた。

 指が震えていた。

──半十ろうどの参る

 幼い文字で綴られたそれは、紛れもなくおのれが差し宛てたものだった。

 姉の絵双紙が手本だった。よくわからずに引き写して、意気揚々と手渡したのだ。

 子供のしたこととはいえ、文というには何とも滑稽で、一笑に付してしまってさえ構わなかったものを。あの男は——。

——知っていたのか……?

 おのれがあの時の伊織であると、最初から知っていたのだろうか。

 知っていて一言もいわず、こんなものだけ残して一人で死んでしまった。


(卑怯だ)

 握りしめた文の上に、ぽとりと涙が落ちた。

 瞬きもせず、見開いた目から堰を切ったように涙が落ちていった。

(半十郎どの……)

 文を抱いてうつ伏せる。消えて行く面影を追い求めるように、伊織は必死にその名を呼び続けた。


 雨音がうるさかった。

 叩き付ける梅雨の名残りは、一向に止む気配を見せなかった。

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