三、身命を賭す
「──樋口様?!」
座敷に入るなり、伊織は驚いて声をあげた。
また来るとは思わなかったのである。
「どうなさったのですか」
ひどく顔色が悪かった。昨夜に比べ、それとわかるほどに憔悴していた。熱があるのか目元が赤く潤んでいる。
樋口は手にした盃を不味そうにおくと、伊織をこちらへ手招いた。
「おまえに渡すものがある」
言って懐から出した袱紗包みを、目の前で開いて見せた。中には五十両の切り餅が四つ、二百両という大金だった。
「これで証文を破ってくれ。主人にはもう話を通してある。おまえは自由の身だ」
突然の申し出に、伊織は戸惑うよりも唖然とした。
「何故私に……、それにこの金子はいったい」
堤の言っていた辻斬りの一件が頭をかすめた。一介の浪人にどうこうできる金額ではなかった。
樋口は自嘲するように頬を歪めた。
「俺は昔、些細なことで人を殺めた。後先を考えずに逐電し、それで家は取り潰された。あとはお定まりの獄道三昧だ」
「知っています」
「役人がきたか」
予想していたのか、樋口は破顔した。
「それで前々から思っていたのだ。死ぬ前に一つぐらいはよいことをせねば、無限地獄とやらに落ちて、未来永劫救ってくれる者も現れまい、とな」
「樋口様……」
軽口めいたものいいに、伊織は戸惑うしかない。
「おまえが知っているなら話は早い。迷惑がかかる前に、御府内を出るつもりだ」
「そのお身体で、どうなさるおつもりですか」
甘い腐臭がする。怪我の予後が思わしくないのは、伊織にもわかるほどだった。
「逃げられるところまで逃げるつもりだ」
「無理です」
「達者で暮らせ」
立ち去ろうとした樋口に、伊織は激しく首を振った。
「この金子は頂けません」
驚いて振り返る。
「私には、これを頂く理由がありません」
包みを押し返すと、樋口は
「抱いてください」
「……おまえ?」
「私は金で色を売る色子です。抱いてくださらねば、この金子を頂くわけにはまいりません」
「ばかなことを言うな」
樋口はありありと困惑していた。
「意気地なし」
それへ伊織は、精一杯唇を歪めて罵った。
「樋口様は意気地なしです。どなたかに瓜二つの私を抱くこともできずに、金だけ渡して逃げようとなさっている。私を抱けばいい。私をそのお方だと思ってお抱きなさい。それができないならば、この金子は持って帰って下さい」
掴んで床に叩き付けた。高い金属音が響き、包みが破れて床に散った。黄金色の輝きがこぼれるように広がった。
それでも動かぬ樋口に、伊織はその手に持った大刀を奪い取った。白刃を抜いて突きつける。
「それとも、そんなに死にたいのですか。ならば、私が今殺して差し上げましょうか」
樋口は、喉元に触れた刃へ目を落とした。刀身から柄を握る伊織の手許へ、そうして憤りに眦を釣り上げた白い顔を困ったように見つめ返した。
「おまえに人が殺められるのか?」
ふっつりと、伊織の中でなにかが途切れた。
「寄越しなさい」
伸びる手を避けて大刀を床に捨てると、襖を立てきり寝間に閉じこもった。
なぜ涙がこぼれてくるのかわからなかった。言い様のない悔しさに、止めどもなく泣けてくる。おのれが何に憤っているかわからなかった。感情を宥めることができなくて、伊織は強く口唇を噛んだ。
背中で襖が開き、灯りが漏れた。
「お帰りください。もう何も申し上げません。樋口様のお好きになさってください」
振り返らずに言うと、肩にそっと手がかかった。ふれた温もりに、悔し涙と別のところで目頭が熱くなる。
「出立は
穏やかな声だった。
「明朝まで、おまえを買い切っているのを忘れていた」
引き寄せるよに抱き締めた腕に抗った。
「よいか」
低い声で囁かれ、その声音の深さに震えがくる。身じろぐと、懐に差し入れた手が、肌をすべるように着物を剥いだ。
「樋口様……?!」
むき出しの肩に口づけながら、樋口はおのれの重みで押しつぶすように、伊織を褥に横たえた。
重ねた身体はひどく熱かった。性急にまさぐる手を押しとどめようと、握った腕を逆に縫い止められた。
頬に口を寄せる。涙を吸って、そのすべらかさを楽しむように口唇が触れていった。
「お身体に、……障りま…す」
伊織は、息を押さえてささやいた。
「抱けと言ったのはおまえだ、伊織」
笑みを含んだ声が口唇を噛んだ。開いた歯列に舌を入れて、深く、貪るように口づけた。息をつぐ間もない。絡められ、弄るように口腔が犯されていく。
知らぬうちに伊織も応じていた。音をたてて求め合うと、互いを喰らうように口唇を重ねた。
ようやく満足したように離すと、男の耳元へ囁いた。
「私は、大事なお方ではありません」
「ああ」
「それでもよろしいのですか?」
その口を封じるように軽くふれると、樋口は伊織の胸元に唇を落として肌をたどった。
指が下肢にふれる。
じらすよう撫でさすり、その奥へ指を含ませた。
「———あ」
「伊織」
名を呼ばれた。吐息がかかる。幾度も呼ばれ、責め立てられるうちに、惑乱した。
波のような快楽に攫われて、おのれの激しい昂ぶりようにに、樋口が含み笑ったような気がした。
「ああっ……!」
四肢を震わせる、伊織はぐったりと目を閉じた。
「大丈夫か」
のろのろと身体を起こした。男の首へ腕を回し、おのれから口を吸って、逞しい首筋から胸へ、下腹へと動いていった。
樋口は伊織の肩を押さえて止めさせた。乱れた衿元から、腹に巻いた晒が見えた。きつく巻いてはいるものの、横腹あたりに血が滲んでいた。
伊織は驚いて男を見上げた。
「そんな顔をするな」
「でも」
引き寄せられた。樋口の腰が、硬く昂っているのがわかった。
伊織は躊躇いながらも、みずから男の上に跨がった。少しで負担がかからぬように、おのれのうちへ導いてゆっくりと腰を沈めた。
「あ、……あぁ」
喉元へせり出しそうな圧迫感に、伊織は喘いだ。啜り泣くように息をつきながら、ようやくすべてを収め、ゆるりと腰を動かし始めた。
おのれの下で樋口が呻いた。眉根を寄せ、伊織を支えるように腰に手を添える。
伊織はことさらゆっくりと動いた。樋口の傷を案じてのことだったが、その緩慢さに男の方が業を煮やしたようだった。
樋口は身体を返すと、強い力で伊織をおのれの下に敷き込んだ。そのまま背後から突き上げる。
「半十郎どのっ……?!」
逃げようとする腰を掴み、深く抉った。
「あぁ……あ……」
痛みと、それを上回る凄まじい快楽に頭を振った。
かろうじて立てた肘に沈み、伊織は喘ぎながら眦から涙が落とした。
叩き付けるような吐精を感じて、二人で夜具に崩れ落ちた。
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