二、邂逅
「おいでなされませ」
伊織は、座敷の客へ深々と頭を下げた。
雨夜の騒動から三日ほどのちである。
翌日、翌々日と枕から頭が上がらず、ようやく床を上げたその晩だった。
初見の客で、しかも武家だという。それが一晩仕舞で買い切るからと、伊織を出せと言って譲らぬというのだ。
陰間遊びは高価なものだ。昼夜仕舞(貸しきり)になると二〜三両というのが相場であった。当時の吉原の高級娼妓と比べても、二、三割ほど高価な揚代だ。
もともと素性の良さを大事に、千代本の主人である千坂は、伊織に滅多な客をとらせなかった。先般の身請け話も滞りなく進んでいたが、大身の微行であろうかと、双方天秤に賭けての算段らしい。
伊織はあいさつを終えて顔を上げると、わずかに首をかしげた。
その客にどこかで会ったような気がしたのだ。
年は三十少々前だろう。鋭角に頬が削げてはいたが、堂々とした美丈夫である。
確かに知った顔だった。しかし、どこの誰だかわからない。
戸惑った様子に、その侍は悪戯っぽい微笑を浮かべた。
「あっ」と伊織は小さく叫んだ。
あの男だった。雨の夜明けに、押し入ってきた浪人ものだ。
先夜の出で立ちとはまるで異なっていた。月代をあて髷をととのえ、着流しではあったが一目でそれとわかる極上の絹小袖だ。傍らに畳んだ頭巾を置き、どう見ても大身の殿様ぶりであった。
思わず腰を浮かせた伊織に、
「何もせぬ」
男はあわてた様子もなく、泰然と言った。
「しかし、役人が……」
「私は何もしていない」
きっぱりと言い切って、男は伊織を手招いた。
ためらいながら近づくと、男はあの晩と同じようにまじまじと伊織を見つめた。
あまりの真剣さに目をそらすと、男は照れたような微笑を浮かべた。
「おまえ、伊織というそうだな」
「……はい」
男は破顔した。
「実は、おまえに詫びにきたのだ。誤解であったとはいえ、あのような騒動に巻き込んでしまった。あの後、気になって仕方がなかった」
「それは……」
「それに、もう一度確かめたかった。おまえがあまりにも或るお方によく似ているので、まさかと思った。それで来た」
「私が?」
男は頷いた。
「他人の空似であると、今お前に会ってよくわかった。世の中には同じ顔をした者が三人いるというが、それにしてもよく似ている。無論、おまえに詫びたかったというのも嘘ではない」
「あなた様は一体」
誰かと問われ、そこで初めて名乗っていないことに気づいたようだった。
「言い遅れた。樋口という。しがない浪人だ」
「樋口、……様?」
伊織は首を傾げた。
「私に似ているというのは、どこのどなた様でございましょう」
樋口は、懐かしそうに微笑んだ。
「さる御旗本の嫡男で、よく似た美しい姉君がおられた。俺のような若輩は近寄ることもできぬ──そう思っていたが、ある日、文を頂いた」
「文、でございますか」
問い返すと、樋口は愉快そうに笑った。そうすると男の背負う影のようなものが薄れて、ふと、見覚えのある面ざしが重なった。
懐かしい面影だった。最後に会ったのは、もう七年もの昔になる。
まさかと思い、伊織は男のなかにその
わからなかった。似ているような気もするが、少なくともその男は浪人などではなかった。
諦めて吐息をつくと、寝間と隔てる襖を押し開けた。
色あざやかな夜具と二つ並んだ枕があった。樋口はそれへ目を遣ったが、ゆっくりと首を振った。
「俺はおまえと遊ぶつもりで来たのではない」
「私のような卑しい者とは、枕を交わせぬと仰いますか」
「そうではない」
「では、私がお嫌なら、他の者をお呼びしましょう」
「おまえでいいのだ」
樋口は、伊織の態度に困惑したようだった。
「おまえが嫌だというのではない。俺はただ、あの方と同じ顔をしたおまえを抱く気にはなれぬのだ」
「ならば、何故このような場所へお出でになりました。樋口様は、そのお方がお好きなのでございましょう?」
「人を愛しいと思う心にはいろいろある」
「左様でございますか」
樋口はため息をついて、座るようおのれの傍らを示した。
気の進まぬ様で従うと、男は伊織の膝を枕に、ごろりと横になってしまった。
「少々疲れた。頼むからここで休ませてくれぬか」
男からかすかに血の臭いがした。強く焚きこめた香に紛れていたが、こうして身体を寄せているとよくわかる。
「先日は、怪我をして……おいででした」
「ああ、大したことはない」
口元を袖を覆った。いつものように血の気が失せていくのがわかった。頭の芯が鈍っていく。
「大丈夫か」
指先を強く握られた。目をあげると、気遣わしげなまなざしがあった。
「嫌ならば、向こうで休んでくれ。俺はここにいる」
「……いえ」
触れた男の肌から、ぬくもりが伝わった。不思議なことに、その温かさが気持ちが落ち着いていく。
「妙だな。おまえのことを以前から知っているような気がする」
呟いて、樋口は目を閉じた。
「私が、そのお方に似ているからでしょうか」
「さあ。今の俺にとっては夢のようなものだ」
言いながら、樋口は伊織の手を取った。その手のひらに口付けて、内腕を口唇でたどった。震えると、ふいにやめて手を離した。
「樋口様?」
「呼んでくれぬか」
「……え?」
「おまえの声で呼んで欲しい」
「あの、……なんとお呼びすればよろしいのですか」
「半十郎」
それが男の名だった。
「半十郎様」
目を閉じたまま、男はしみ入るような笑みを浮かべた。
「半十郎様」
幾度か繰り返す内に、息遣いが規則正しく深くなった。よく寝入ってしまったのか、軽くゆすっても目を覚さなかった。
「半十郎どの……」
───伊織どの。
その昔、兄のように慕った男がいた。まだ幼い子供だった自分は、それが憧憬なのか、それとも恋だったのか、それさえ定かではなかった。ただ慕わしく、焦がれるような思いを抱いて、その人のあとを付いてまわった。
「半十郎どの」
小さな声で、幾度もその名を繰り返した。
呼ぶほどに忘れていた慕わしさが募ってきて、胸苦しさに目頭が熱くなるほどだった。
とん、という軽い衝撃がした。
目を開くと、頭のすぐ横に鞘尻があった。それで床を打った音らしい。
「休んでいるところをすまねえな」
声の主は、南町奉行所の堤だった。
翌日の
結局、樋口は伊織に指一本触れなかった。
「ちょいと御用だ。遊びに来たんじゃねえから安心しな」
堤は軽口を叩きながら、億劫そうに身体を起こした伊織へ、折った紙を差し出した。
「見な」
御手配書だった。人相や生国、それに大きく描いた似顔絵があった。
「このあいだの男は、こいつじゃねえか?」
月代を伸ばした浪人だ。
「御府内無宿、御家人崩れ。……樋口半十郎」
「ああ、このところ真土山あたりで辻斬りがあってな。吉原詣の懐を狙ったらしいが、見た者の話を合わせると、どうもこいつらしい。現場にはって追い詰めたんだが、それがこの間の大捕り物ってわけだ」
別人のような手配書だった。
「この男か?」
「……さあ」
「よく見てくれ」
わからないとばかりに首をかしげた伊織に、堤はわざわざとため息をついた。
「おまえの客に、こいつに似た者がいると聞いたぞ」
「どなたのことでしょう」
「嘘をつくと、為にならねえからな」
堤は本性を出すように凄むと、一転、顔の前でひらひらと手を泳がせた。
「とにかく、その客が来たら知らせてくれ。自身番に小者をやっておくから、店の下男にでも走らせればいい」
「はい」
まだ用は済まないのか、伊織の脇に屈み込んだ。
「あのな、一昨年、
「お調べになったのですか」
顔を強張らせた伊織に、
「因果なものだ」
言って、あさっての方を向いた。
「なにも俺は、おまえをなぶるつもりで言ってるんじゃねえ。こう見えても色々と便宜をはかってやれる。何があってもひとりで思いつめるんじゃねえぞ」
照れ隠しなのか、腰から十手を引き抜いて朱色の房を弄んだ。
「俺もヤキがまわったのか、どうもおまえさんを見ていると、こっちが切なくなっちまうんだ。もう他人は信じられんだろうが、胸の片隅に落としておいてくんな」
いつものようにぽんと肩を叩いて、堤は帰っていった。
伊織は戸惑ったようにその背中を見送った。
———他人は信じられんだろうが……。
どうやら、堤はおのれの素性をすべて知るらしい。
(信じろといわれても)
欲しい時に、誰も手を差し伸べてくれなかった。親族さえ、凋落していく自分達に、なにもしてくれようとはしなかった。
誰が父を陥れたのかわからない。憤悶のなかで父母は自害した。血染めの訴状はどさくさに紛れて行方知れずとなり、覚えのない莫大な借財ばかりが残っていた。御家は改易となって姉と二人、頼るあてもなく、屋敷から身一つで放り出されたのだ。
自分を守るために、世慣れぬ姉は騙されるように苦界に身をしずめた。堪えきれなかったのか、ほどなく父母の後を追った。
残った借財の身の代に、言われるままに
(そして)
金子の重みに、意地も誇りも捨てたはずだった。なにをどう生きてきたのか、今となってはぼんやりと薄闇の中に佇んでいるようだ。おのれの居場所がどこにもないのに、流れつく行末までを案じることは、ひどく詮ないことに思えてしまう。
伊織は、温もりをたどるようにおのれの腕へ口づけた。ひんやりとすべらかな心地よさに目を閉じる。屋根を叩きはじめた雨音に耳を澄ました。
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