一、雨中の捕物

 梅雨の最中さなかだった。


 陰雨を引き裂くような呼子笛に、伊織は驚いて顔を上げた。

 煌々と行燈の灯る座敷に、おのれほかは誰もいない。

(そうだ)

 客を見送って戻ったまま、うとうとと眠ってしまったらしい。

 鬢の乱れをかき上げて、手つかずの膳から盃を取った。たて続けに数盃あおると、ようやく人心地がつく。


 笛の音が、また響いた。

 伊織は黒目がちの眸をゆるりと上げ、音のする方へ頭を向けた。

 雨中の捕物らしい。見物にでるほどの酔狂も暇もないが、笛の音に呼ばれるように濡縁へ歩み出た。敷板はじっとり湿気を含み、素足に吸いつくようだ。

 夜明けまでは、あと一刻ほどもあろうか。坪庭からのぞく露地は闇に沈み、雨と黴の臭いが風とともに漂ってきた。

 笛の音はというと、四方で呼び合うよう響き、そうして一つにまとまって、ふいと失せた。


 寺社地が多いこの辺りは、下手人が迷い込みでもすると、探索は困難を極める。町方は、支配違いに踏み込むことさえ憚られるのだ。

 捕り物は、どうやらし損じたらしい。遠くの人の気配が、やがて消えていった。


 伊織は座敷へ戻ろうとして、ふと足を止めた。

 雨だれにまじって、枝の折れる音がした。

 振り返って闇に目を凝らすが、何も見えない。

 灯火を取ろうと背を向けた瞬間、庭から黒い塊が飛び出した。


「──騒ぐな」


 押し殺した、若い男の声だった。

 あ、と思う間もなく、後手に腕を捕られ、喉元へ冷たいものが押し付けられた。

「騒がねば、何もせぬ」

 刃からは、血と雨の臭いがした。それよりも声の孕む殺気に怯え、伊織は抗うのをやめてかすかに頷いた。

 突き飛ばされるように、座敷へ上がった。

 男は大刀の切っ先を伊織へ向けたまま、おのれが押し入った先を検分するように見回した。

 住居にしては瀟洒な造作の座敷だった。組子の欄間や、長押なげしの金具は象眼であろう。涼しげな簾屏風を角に立て、琳派らしき春秋の花鳥を描いた襖戸の奥には、二つ枕の褥があった。

「なるほど。これが湯島の陰間茶屋というものか」

 男の声には、嘲るような響きがあった。床に座り込んだ伊織へ切っ先を立てる。

「裏口はどこだ」


 行燈の明かりに、血脂の曇りが鈍く光った。ひどい血の臭いだった。思わず顔を背けると、男は強い力で引き戻した。

 浪人崩れのようだった。腰には大小を佩き、総髪の髷は乱れてぐっしょりと雨に濡れていた。精悍な面立ちだがげっそりと頬はこけ、血走った眼差しが落ち着かなげに周囲をうかがっていた。深い色目のその片袖には、それとわかるほどべっとり血がついていた。

「おまえ……」

 男は伊織の顔を見るなり、驚いたように目を見張った。顎を掴んで引き寄せると、行燈に照らしてまじまじと凝視した。


「おまえ、名は……?」

 はっとしたように、伊織は男を見返した。

「年はいくつになる」

 顎を掴む手に指をかけ、伊織は明りから顔を背けた。

 あらわになった首筋に薄紅色の痣を認め、男は突き飛ばすように手を離した。

「おまえ、まさか」

 男の足元に血溜りがあった。深手を負っているのか、小袖から落ちる雨のしずくと相まって、ぽたりぽたりと大きくなっていく。

 そこから立ち上る臭気に、思わず伊織は目を閉じた。

 気分が悪い。

 この錆びた生臭い臭いを嗅いでいると、息苦しくなってくる。指の先から血の気が失せて、背筋に這うような寒気が走った。思わず口元を手で覆ってしゃくり上げた。

「どうした?」

 男は、床に崩れた伊織の腕を掴み上げた。

 目の奥まで真っ赤に染まっていく。息を吸う度に、頭の奥が痺れたように凍っていった。

「おいっ! おまえ!」

 強く揺さぶられながら、男の声が少しずつ遠ざかっていった。


 どこからか怒声が響き、なだれ込むような足音がそれに続いた。金属同士の打ち合う音。戸が割け、それにけたたましい呼び子笛の音が続いた。

 遠くで、かすかに懐かしい名を呼ばれたような気がした。

 そうして、すべてが闇に変わった。





 江戸の町には悪所と呼ばれる売色地帯が数多く存在した。

 唯一官許の遊里であった吉原をはじめ、岡場所と総称される私娼窟が、深川洲崎、根津門前前、護国寺音羽町等々、庶民の遊興地を中心に活況を呈した時代であった。

 ──此の道の盛んなる事を志らさるは愚痴無知の凡夫。

 平賀源内の弁である。此の道とは若道にゃくどう、男色である。

 日本橋芝居町に隣接する、俗にいう芳町を中心に、江戸各所で陰間と呼ばれた少年達が色をひさいでいた。かれらは子供屋と呼ばれる置屋に属し、揚屋である陰間茶屋へ出向いてそこで客と枕を交わした。

 実のところ陰間買いの上得意は、女犯を禁じられた僧侶であった。

 中でも湯島天満鳥居脇には、東西半町ほどに三十軒ばかりの子供屋が軒を連ね、もっぱら東叡山寛永寺の僧侶を顧客とした。

 もともと湯島天神宮地内は東叡山三十六坊の塔頭たっちゅうの一つ、喜見院の所轄であった。同山は徳川将軍家の祈願寺であり、江戸城の鬼門押えとして建立された壮大な寺門である。

 湯島は、東叡山という一大寺院を背景に、芳町をはじめ各所の陰間茶屋が衰退したのちも、明治初年まで絶えることなく賑わい続けた。





「——じゃあ、知らねえっていうんだな」

 朱房の十手を腰から抜いて、町廻り同心はこれみよがしに見せつけた。

 翌日のひる過ぎである。

 あのとき伊織が聞いた物音は、直後に押し入った捕方のものだった。

 追っていたのは辻斬りの下手人と思しき浪人者で、このあたりで見失い、鳥居脇の子供屋を端からしらみ潰しに改めていたのだという。


「はい、存じません」

「ふん」


 同心は鼻で笑うと、座敷を改め始めた。

 血の染みが残っていた。拭き浄めたものの、土足のまま大勢に踏みにじられ、なんとも無惨な有様だった。そこに座った陰子も顔色が冴えず、ひどく気分が悪そうだった。強く責めたら、昏倒しかねないだろう。

 一通り検分を終えると、同心は十手を使い、慣れた仕種で伊織の顎を上げた。

「俺ァ、南町の堤という定廻りだ」

 小銀杏におくみの浅い着流し、黒紋付の羽織といういなせな出で立ちだ。まだそれほどの年ではないが、ひどく世慣れた風があった。

「おまえさんかえ、元御旗本の若様っていうのは」

 驚いて顔を上げた伊織に、堤はにやりとした。

「蛇の道は蛇、というわけじゃねえが、そんなあたりは自然に耳に入ってきてなぁ。湯島の千代本に、そりゃあ氏素性の正しい陰間がいるってもっぱらの評判だ」

 困惑して目を伏せると、

「なにもとって喰おうっていうんじゃねえ。世の中一寸先は闇ってわけで、おまえさんには同情しているんだ。この辺りはおいらの受持だ。困ったことがあったら遠慮なく言ってくれろ」


 やけに親身な振る舞いに、伊織は警戒した。良いことばかりを言う相手には用心が肝要──この数年で最も学んだことだった。

「そのあたりでどうぞご勘弁下さいまし。見ての通りの気立ての優しい子ですから、また恐がって寝ついたりでもされたら、こちらも商売が立ち行きません」


 穏やかに堤を制したのは、この店、千代本の主人だった。もとは侍であったという主人の名は、千坂正周という。それがなぜこのような商売に身を堕としたのか知る者はいなかった。

 千坂は真意を窺わせない笑みを浮かべた。


「堤様、もし、お望みであれば、日を改めてお通いくださいまし。この子がお相手いたしましょう」

 そっと懐紙に包んだものを、堤の袖へ落とし込んだ。

「馬鹿いうんじゃねえや。こっちの道にはまるほど暇じゃねえ。俺らが行かねえと、泣き崩れる姐さん方が深川あたりに五万といてね」

 重さを確かめるように袖を振ると満足げに笑んだ。

「まあ、気をつけるんだな。そいつがまた来るようだったら、すぐに知らせてくんな。悪いようにはしねえから、素直に言って寄越すがいい」

「お役目ご苦労さまでございます」

 深々と頭を下げた千坂へ、

「いつもすまねえな」

 堤は、気安げに肩を叩いて帰っていった。


「伊織殿」

 二人きりになると、千坂は様子を改めた。

 呼ばれて上げた顔は血の気が失せて、まるで御所人形のようだった。

「まだ、血の臭いは頂けませんか」

 やおらため息をつくと、千坂は言い諭すように語調をゆるめた。

「喜見院の攸海ゆうかい様が、身請け証文を肩代わりしようと申されている」

 伊織にとって、一番の贔屓の客だった。湯島の宮地内は、その喜見院の所轄である。なかでも攸海は、上から数えた方が早いほど、なかなかの羽振りの僧侶であった。

「後々は得度をさせ、それなりの身の振り方を考えようと、そうまで言ってくださっている。侍がよければ御家人株を都合してもよいと、今の伊織殿にこれ以上の話は望めまい」

「しかし、私は……」

「仇討ち、ですか」

 千坂は言い諭す口調になった。

「あなたにもわかっているはず。お父上の無実を信じる者など皆無でした。五年も経って、あなたはどうやって事を進めるというのです。自死されたのであれば、仇討にもならない」


 仇討は私的制裁ではない。正式に踏まねばならない手順があった。守らねば私的な復讐となり、名誉も家門も再興は叶わない。


「でも、千坂どのは信じてくださった」

「だから、どうというのです。あれからすでに五年。犯人探しや仇討ちなど忘れて、もう前をお向きなさい。早く真っ当な暮らしに戻らねば」

「まっとうなくらし」

伊織は復唱した。

「私は、まっとうな暮らしに戻れるのでしょうか」

「戻らないで、どうするというのです」

 千坂は語気を強めた。

「私とて、伊織どのにこのような暮らしをさせたいわけではない」

 黙り込んでしまった伊織に、千坂は怒った足取りで座敷を出て行った。

 伊織はそっと庭に面した明り障子を開けた。

 今日も雨だった。

 鈍色の厚い雲を見上げ、それでも眩し気に二度、三度と目を瞬いた。

 筋を引いて落ちる雨を、あかず眺めていた。

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