最終話 青空

 …子狸に被せた虫取り網の隣にバスケットを置いて、おじさんは男の子に指示を出しました。

「俺が網の下から手を入れて狸を掴んだら、ヨシッ ! と言うからその時にパッと網を上げるんだ!」

「はい!」

 男の子が答えてどうやら捕獲作戦の準備完了のようです。

 …おじさんは地面に膝をつき、網の下からそっと手を入れました。

「行くぞ ! 」

 そして次の瞬間、中の狸の身体を両手でガッ ! と掴んだのです。

「ヨシッ!」

 おじさんが叫び、男の子はパッと網を上げました。

「痛て~っ!!」

 とたんにおじさんが悲鳴を上げました。何と子狸が思いっきりおじさんの指に噛みついたのです。

「わ~っ!!」

 思わずおじさんは掴んでいた手を離し、その隙に子狸はダッ ! と土手の下に向かって逃げ出しました。

「あっ!」

 男の子が叫んで狸を目で追いましたが、次におじさんに目を戻すと、どうやら右手の指をガッチリ噛まれたようで顔をしかめながら左手を被せて痛みをこらえています。

 しかし被せた左手の指の隙間からは真っ赤な血がだらだらと流れ始めていました。

「やだっ!大変 !! 」

 土手の上から見ていたお母さんが叫んでおじさんのもとへ駆け寄ります。

 …僕は思わぬ展開に言葉を失い、しかしもちろん子狸の行方からも目が離せずにいました。

 子狸は土手を下がって、ごうごうと流れる濁流の際まで逃げると、そこで止まって身体の向きを変えて僕たち人間の方を見ました。

 すると男の子が再度虫取り網を持ってじりじりと子狸に近付いて行きました。

「…もう、止しなさ」い!とお母さんが言いかけた時、子狸は僕たちが見ている前でドボン ! と水に飛び込んだのです。

「あっ !! 」

 僕たちが同時に声を上げた先で、子狸は再び濁流に呑まれ、あっという間に下流へと流されて行きました。


「ああ~…!」

 土手にたたずむ人間たちは大きくため息をつきながら、下流へと小さくなって行く子狸を目で追い、ただもうしばらく呆然としていました。


「狸が…逃げちゃった…」

 気がついたら男の子がそう言って涙をぽろぽろとこぼし、やがてうわ~ん ! と声を上げて泣き始めました。

「…しょうがないでしょ!…始めから無理だったのよ、野生の獣を捕まえるなんて」

 お母さんが言いました。

「それよりこの噛まれた指の手当てしないと!…本当にごめんなさいね、ケガさせちゃって!」

 さらにそう言うと、おじさんと一緒に土手の向こうへと帰りました。

 …男の子はまだ涙を流し、泣きながらもようやく諦めがついたのか虫取り網を持ってとぼとぼと土手を上がって行きました。

 …僕はもう一度川の濁流を眺めましたが、もはや子狸の姿は消えて行方は全く分からなくなっていました。


(…捕獲しようとする人間の姿があまりにも恐ろしくてパニックを起こしたのかなぁ !? …)

 僕はさっきの、水際でこちらを振り返った時の狸の姿を思い浮かべてそんなことを考えたりしましたが、

(…いや、人間との関わりを拒否してあくまでも野生の世界に生きようとする、ケモノとしてのプライドだったのかも知れないな!あれは)

 とも思えるのでした。


 …相変わらずに足元でごうごうと音を立ててうねる濁流から顔を上に向ければ、真っ青な空には白い綿雲がけっこうな速さで流れているのが見えました。

「…何だか、腹がへったな…」

 僕は1人で呟いて、土手の外に戻り、再び原付バイクに跨がって江戸川を後にしたのでした…。



 台風一過の江戸川にて…


 完





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

台風一過の江戸川にて… 森緒 源 @mojikun

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ