鷹狩りの始まり

秋乃犬

鷹狩りの始まり

「――あのお方はどなたなのですか?」

 ふと、廊下を歩いている時に母に聞いた。

『気にする必要はありません』

 母は私の指が示す方を一瞥した後、クスリと笑みを零しながら私の手を引いた。

 気にもする、見たこともない少年が、中庭に裸足で立ち尽くし池を眺めているのだ。賊であると疑うのは当然だろう。

「あの、あそこのお方は」

 使用人に聞いても母と同じ反応だった、愛想を湛えながら私に精いっぱいの笑みを見せる。

 次第に母に手を引かれ、私は稽古場へと足を運んで行った。

 ――窓を閉めるように壁に遮られるまで、私はその少年を目の端でずっと追っていた。

 

 私は幼いながらもその卓越した才能を遺憾なく発揮していた。

 嫌味でも何でもない、ただの事実なのだ。

『今日は先生をお招きしています』

 母が淡々と述べ、いつもの児戯が始まる。

 招くのは決まってあらゆる道の達人である。膨大な時と引き換えに培った技術、経験を私に伝え身に着けさせる為に。

 だけど、例え道を究めた達人であろうと、道があるならばそれを辿ればよいだけなのだ。

 無駄な足踏みを避け、近道を見つけ、舗装をして馬を走らせる。

 そうして私はその道を数百倍の速度で走り抜ける。その後、教導を授けた者は皆総じて私に頭を垂れる。

 貫禄ある書を綴る老人であろうと、知性を顔に滲ませる壮年だろうと、筋骨隆々とした活力ある青年だろうと。

 数刻の後に、老人は筆を折り、壮年は悔しさを顔に滲ませ抱えた本を投げ捨て、青年は血を吐き地面へと身を預けた。

 しばしの逡巡を経て、それらは決まってこう言う。

『鷹の女王、参りました』

 そうした後、やかましい歓声が場を包む。

 無論、だから何だという話ですが。

『流石は鷹愛お嬢様』

『あの天より愛された才が羨ましい』

『そして天女と見紛うほどに浮世離れしたあの美貌』

『あれで齢が七と言うのが末恐ろしい』

 賞賛も、どれだけの美辞麗句を並べ立てられても何も感じない。

 私にとってはそれが当たり前なのだ、褒められて喜ぶのは最初だけ、後にはそれが鬱陶しく感じてくる。

 今受けた教導もそうだ、数刻で学べるだけの技術に一体どれだけの価値があるのだろう?

 その気になれば私は一人でも会得できること、今回も私は教導を受けたのではない。一人の心と誇りを圧し折っただけだ。

『……小娘が』

 歓声の中で、足元から怨嗟の声が聞こえてくる。

 何ということはない、慣れている。

 ふと思う、そういえば、あの時の少年はどうしたのだろう。

 居並ぶ使用人たちの中には姿が見えなかった。「本当に賊だったのだろうか? それとも趣を凝らした置物?」などと私にしてはらしくもない思考の鈍り切った推論が宙を舞う。

 自由な時間を作り出し、中庭へと向かうと、今も少年は立ち尽くしていた。

 物を取るでもなく、暴れるわけでもない。奇妙なその存在に、私は珍しく興味を示した。

「もし」

 私の呼びかけに少年は振り返る。どうやら人形の類ではなかったようで胸を撫でおろす。

「不躾ながらお伺いします、新しい使用人の方ですか?」

 私の姿を見ても尚、へりくだらず平伏もしない。そんな少年の姿に私は淡い期待を寄せる。

 もしかすると、友達とやらになれるのではないか。私の下ではない、対等の存在に。

「……?」

 どうやら違うようで、少年は状況を理解せずに首を傾げたままだ。

「ええと……貴方の名前を教えてください」

 思わずたじろぎ、会話の切り口を探す。淡い期待は膨らみ続ける。

「誰?」

 目を真っ直ぐ見られ、そう問われる。本当に私のことを知らなかったらしい。

 本来であれば怒りを覚えるべきなのだろう、けれど、私は未だかつてない経験に心を躍らせていた。

「無礼を働き申し訳ございません。私、鷹愛と申します。この翌檜家の長女です」

「長女? ああ、そうか」

 笑みを抑えながら紹介をする私に対し、少年は一人得心が言ったように手を叩き、頷いた。

 ……名前は?

 待てど私の知りたい答えは返ってこない。

「あの、お名前を」

 しびれを切らし、私は答えを急いてしまう。すると少年は首を振るった。

「名乗れない」




 ――なんと無礼な男でしょう!

 憤慨し、渡り廊下をはしたなくダシダシと音を鳴らしながら自室へ戻る。

 こちらが礼を尽くして名乗ったにも関わらず、あちらは勝手に得心して名乗れないなどと言う!

 怒りが頂点に達した私は障子をぴしゃっと開け放つ、迎えようとした使用人が驚きの余り後ずさっていた。

 いつもと違う様子の私に戸惑いも隠しきれていない、自分が何か粗相をしたのかと怯えているようだ。

「別に、貴方のせいではございませんので!」

 そう言うと使用人の顔に安堵の色が浮かぶ。どうでもいい。

 それよりは冷めやらぬ怒りが頭を熱くする。今はこれをどうにかしたい。

 使用人に問えば『深呼吸をするのは如何でしょう』と返ってきた。深く息を吸い、吐き、時が経っても収まらない。

 生まれてこの方初めてなのだ、怒ることも、怒りを納めることも。

 怒る理由も正直なところ自分でも呑み込めていない、無礼な振る舞いをされたからなのか、それとも期待を裏切られたからか。

 下がっていいと告げると、使用人はすごすごと出ていく。

 辺りを静寂が支配し、怒りで感覚が澄まされているからか音がよく通る。

 抑えきれない怒りを発散するべく意味もなく部屋を歩き回っていると、障子越しに使用人たちの声が聞こえてきた。

『……まだいるの?』

『ええ、ずーっと中庭で立ちっぱなし』

 あの少年のことだろうか?

 思わず顔が声の方へと向く。

「……」

 そそ、と障子へ歩み寄り、耳を寄せる。

『今じゃいない「長男」でしょ? ぼーっと突っ立って気味が悪いったら』

『誰が聞いてるかわからないでしょ、口を慎みなさい』

『誰が聞いてても関係ないわよ、どうせいない者扱いされてるんだから、どんな扱いしたって文句なんか出ないわよ』

 ……なんの話をしているのだろう?

 状況が上手く呑み込めない、産まれた時から父母の子は私一人、兄弟などいるはずもない。

『事故で死んだって聞いたけど、生きてたの?』

『らしいのよ、最近目が覚めたらしくって、こっちに帰ってきたんだって』

『まあ……運がいいやら悪いやら』

 あの少年の話をしているようだ、だけど……長男? 事故死? 目が覚めた?

 散らばる単語の一つ一つがまるで理解ができない。

『ご飯はどうすればいいのかしら』

『放っておけばいいんじゃない? 私たちは何も言われてないのだし――』

 嘲り混じりの笑いを響かせながら、使用人たちは立ち去って行った。

 ――調べなければ。

 気づけば怒りは収まっており、私は家の書庫へと向かっていた。




「あの」

 少年は中庭に立ったままだった。呼びかけた声に反応しこちらを振り向く。

「兄様、ですよね」

 恐る恐る問いかける。

「私の兄の、翌檜 鳶」

「よくわかったな、誰も教えてくれなかっただろ」

 兄様は感嘆の声をあげる。

「書に、教えていただきました」

 引っぱり出した家系図を見せる、大きくバツ印により消されていたが、辛うじて鳶の文字が私の左隣に書かれていた。

「俺はいない者みたいに扱われてるからな、名乗ったらどうなるかわからなかったし、名乗れなかった。ごめんな、鷹愛」

 鷹愛。

 そのように呼ぶのは母と父以外にはいない。

 年もそれほど離れていない少年にそう呼ばれることは、鬱屈とした私の心に春風をもたらした。

「も、もう一度呼んでくださいませ、兄様!」

「鷹愛?」

 ……くぅーうー、うー。

 体が勝手に喜びを表現しようと腕をじたばたとさせている。裾がはためきぱたぱたと音がする。

 ――それから私は、家の者の目を盗んで兄様と仲を深めた。

「兄様! こちら、どうぞ!」

 片手には盆に載せたご飯と主菜、お茶も勿論添えてある、あとは大きく盛りました。

 もう片手には服……兄様が召しておられる服装は決して華美とは言えず、肌を晒さない程度の簡素な物。

 そこで私が一晩掛けて選びに選び抜いた服を一着取り寄せた。インターネットとやらはとても便利です。

「ずっと食事をしていないんでしょう? 食べて下さい兄様」

 ずずいと出す、すると兄様は周りを見渡した。中庭から人目につかないよう場所を移したとは言えど、やはり気になる様子。私の一声で黙らせるのでお気になさらないでいいのに。

「……いいのか?」

 恐る恐る私に聞いてくる。心優しい兄様のこと、きっと気を遣ってしまわれる。

 無論、この私がそのことを読んでいないはずもない! 一晩掛けて、兄様が気を遣わずに食事をできる理由を考えました!

「ええ、私が食べきれなかった余りですので!」

 どうです、これなら文句はないでしょう、そう言わんばかりに胸を張ると、兄様は少し笑いながら食事を始めた。

 ふと思い返せば、殆ど手付かずの食事で余りはどう考えても嘘だと気づきました。しかし、どうしても食べて欲しかったのです、仕方ありません。

 食後には御召し物を渡す、袖を通す姿を見てみたいとせがんだが、兄様はどうにも乗り気ではない様子だった。

「こんな綺麗なもの、俺には合わない」

「いいえ! きっとっ! 似合います! ですのでお早く!」

 勿論有無は言わせません、ずずいと押し付け、私が即席で作り上げた衣装室へと兄様を押し込んだ。

 絹織物に袖を通した兄様はとても凛々しく、私は子供心に「なぜこの方がこのような憂き目に遭わなければならないのか?」とこの世を厭んだ。


 そんな日々を過ごすある日、私は稽古を休んで兄様と過ごしていた。たわいもない話だ、こんな物語が面白かった、アリの豆知識をご存知ですか?などと下らぬことで兄様と過ごす。そのひと時が私の中で、今までのどんな時間よりも輝いていた。

『鷹愛』

 母様の声が背後から聞こえる。しまった、流石に稽古を怠けるのは悪手だった。

 目先の欲を抑えきれなかった結果がこれだ、私にも子供らしい面が残っていたのに少し驚く。

 ため息をつき、尻についた泥を払い立ち上がる。さっさと終わらせて戻ればよいか――


『随分と楽し気に独り言を呟くのですね』


 …………。

 生まれて初めて、黒い感情がこみ上げる。無礼にも兄様に最初抱いていた怒りなど霞んでしまうような黒く、淀んだ感情だ。

 そうだ、この方は、一人立ち尽くす兄様を『路傍の石』のように扱ったのだ。 

「母様、これは鷹愛の独り言ではありません」

 震える声を抑え、掴みかかろうとする腕を必死で抑え、反論をする。

 独り言ではない、私の大事な兄様との安らかなひと時だ。例え母様と言えど、否定はさせない。

『独り言です』

「――ッ!」

 尚も、淡々と告げる母に、とうとう抑えきれずに手を挙げようとした。

 止めたのは、兄様の細い腕だった。

「行きな、鷹愛」

「兄様、でも」

 未だ見たこともない、刺すような視線を兄様から向けられる。

 ひりつくようなその目を真っ直ぐに見ることができない。簡単に払ってしまえる腕を、振りほどくことが私にはできなかった。

「行くんだ」

「……はい」

 震え声で、兄様に従う。

 見送る兄様を何度も振り返りながら、早足で歩く母様に私は連れられて行った。




 理由を知った。

 兄様がいない者として扱われてしまう理由を。

 簡潔明瞭に言えば、私のせいだった。

 何一つ才のない長男に呆れ、どう扱ったものかと悩んでいた時に私が産まれた。

 天から与えられた才を持つ、鷹の如き私が。

 不要となった鳶はいらない、不慮の事故により一族の席から消される。

 そうして、何も知らない私だけが残った。

 だが、知らないからと言ってなぜ罪がないと言えるのだろう。

 人から賛辞されるのも、呪われるのも慣れている。

 けれど。

 兄様から、侮蔑の目と呪いの言葉を投げられるのだけは、とても、とても怖くて、私は産まれてきたことを後悔した。




 歳に見合う子供の浅知恵は、謝ればきっとなんとかなる、許していただけると楽観視する。

 歳に合わない要らぬ知恵は、謝っても誰が許してくれるものか、呪われて当然だと諦める。

「ごめんなさい、兄様、お許し下さい」

 私が差し上げた御召し物をはぎ取られ、再びくすんだ衣装に身を包む兄様に、泣きながら私は許しを請う。

「私のせいで、兄様は……兄様は、このような憂き目に」

 沈黙が刺さる。抉る。

 まともに顔を上げられない、私の視界は見たくない現実を拒否するかのようにボヤける。

 痛い、痛い時間が過ぎ、唸る兄様が口を開いた。


「なんで?」


「……え?」

 兄様から出たのは、恨みでも、蔑みでも許すでもない。ただの疑問だった。

「俺がいないものとして扱われるのは、俺に才能がないからだ」

 兄は続ける、私に気遣うわけでもなく、自分が思っていることを。

「家を背負うだけの覚悟もないし、周りに誇れる結果も、才能もなかった」

「そこに鷹愛は何にも関係ないんだよ?」

 この人は。

 この人は、出会った時からそうだった。どれだけの不況に立たされても、決して人のせいにしない。

 それはとても素晴らしいことなのだろう、世が世であれば人間としてある種完成された聖人と言えるだろう。

 ……いいや、違う。

 そんな人間は存在しない、存在するはずがない。だっておよそ完璧な私が恨みや憎みを持っているんだから。

 だからこそ、私は思う。

 ――ここに至るまでに、どれだけ心が折れたのだろう。

 自分が絶望の底に叩き落とされても、人を呪わず、誰かを恨まず。

 そんな聖人は絵物語にしか登場はしない。

 石をぶつけられることがどれだけ良いか、呪われるのがどれだけ良いか。

 実の母親からまるで『路傍の石』を見るような無の視線。

『お前はここに居ようと何も為せることはない』

 そんなことを産まれてから目で、肌で言われ続けている。

 だから、この人は全てを諦めてる。人のせいにしても誰も取り合わない、呪っても恨んでもあしらわれる。

「兄、様」

「どうした、鷹愛」

 なんでもないかのように、兄様は私に相対する。

「なぜ、私にそのように、自然に接するのですか?」

「……? ああ、そうか、悪い。お前はここの長女だもんな、礼を尽くせってことか」

 また得心したように平伏をし始める。

「いえ! いえ! 兄様、お止め下さい、そのようなことなさらないでください!」

「私は、貴方に呪われるべきなのに」

「……話がじゅんぐりじゅんぐり回ってるけど」

 呆れ顔で兄様はため息を吐く。

「んー」

 唸り、唸り、そして口を開く。

「他所から見たら、無能だから蹴落とされた兄と、天才だから蹴落とした妹かもしれないけどさ」

 幼い私に目線を合わせ、諭すように優しい声色で話を続ける。

「俺にとってはそんなこと関係ない、妹の鷹愛だからさ」

「お兄ちゃんが妹を呪うって、どう考えてもおかしいだろ」

 そう告げると、兄様は再びその場に座り込んだ。

「それだけ」

 ただ、それだけなのだと、言ってのけて。

 でも知ってるんですよ、兄様。

 貴方は、私のいないところでいつも泣いている。

 認められない自分に、自分を排する家族に。その涙を、私は決して忘れはしない。




 数ヶ月が経ったある日、兄様との交流をやめない私を見て、母様が私を呼び出した。

『あそこの石、そろそろ除けましょうか』

 ああ、来たか。

『鷹愛が余計なことを気にしないでいいように、貴方はいずれはこの家の家長になるんですから』

 遅すぎる、こちらはとっくの昔に準備なんて整っているのに。

 待ちくたびれた、こちらから仕掛ければ兄様が悪者になってしまうから。

 そちらが仕掛けたんです、兄様が貴方に言わない恨み言は、私が代わりに貴方に叩きつける。

 だからもう泣かないで、兄様。

 兄様が泣かないで済むように、私がこの世界を壊します。

 ――待っててください、兄様。

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