EP-5

「奴が、リュィを……?」

 怒りとも戸惑いとも区別のつかない感情が、ジッポのはらわたで渦を巻き、つぶやきとして発露する。

「まさか、デュポンのような男がな」

 空見とて、デュポンの最期を語る上で、未だに心中穏やかでは居られない。

 何しろデュポンは、ついぞ空見にできなかった事を、やり遂げたのだ。

 

「奴の死体は、どうした」

「葬ったさ。参列者は指折り数えるほどの些細なものだが、先週に葬儀も済ませた。お前の回復を待つ余裕はなくてな」

 誰が行くかと、ジッポは否定をしなかった。

「遺体の保存が効くのは、精々一週間が限度らしい」

 チャイナタウンでは、死んだ人間はキョンシーへと転化する。それは、コンシーとて例外ではない。

 唯一の例外は、キョンシーの血乞いを受け容れた者だけだ。

彼らだけが、この呪われた土地で、唯一、当たり前の死を享受できる。


「最後は、誰が焼いた」

 池袋には、もうまともな火葬業者は居ない。かといって、池袋で出た遺体を引き受ける、区外の火葬業者を探すのも難しいだろう。

 黄燐を葬ったのは、他ならぬジッポだ。

「五十嵐さんが引き受けた」

「婆さんか……」

 つぶやくと共に、ジッポは蓬莱仙で自分を支えた、あの背中を思い出す。

「年寄りってのは、どうしてそう、いらねえ苦労を背負いたがりやがる」

「まったくだな。あの人には、まったく頭が上がらんよ」

 空見もまた、あの老女に不甲斐なさを支えられたクチだ。比良坂ビルの住人に、彼女の慈悲深さを知らぬ者は、一人とて居ない。


「……ほんとに、奴がリュィに血を与えたんだな」

 あらためて、その事実を受け容れて、ジッポはリュィを——彼女のカケラを、のみならず、黄燐やデュポンのカケラを継いだ少女を見遣る。


「ああ」と空見もまた同じく、寝所につく少女を見ながら頷く。

「デュポンが、その血を最期の一滴まで飲ませ終わらせた時にはもう、この姿になっていたらしい」

「なんでなんだ」

「わからない。香主が言うには、コンシーの再転化には、類例がほとんどないらしい」

 何しろ、コンシー自体がひどく稀なのだ。

 加えて、コンシーは限りなく不死身に近しい存在だ。

 そんな彼らが二度目の死を迎え、そのか細いカケラを残すためだけに、一人ならずもう一人の人間が、その血を捧ぐ。

 これを奇跡と呼ばずして、なんと言えばいい。


「一度も、眼を覚ましてないのか」

「ああ、それは以前と同じだな」

 コンシーは通常、転化してもすぐには覚醒しない。これは、新しく与えられた魂が肉体へ定着するにの時間を要するからだという。

 一年前も、リュィが目覚めるのに、二週間近く掛かった。あの時は、いつ眼を覚ますのかと気が逸るのと同時に、このまま眠ってくれたままの方が良いのではないかと考えていた。

 

 今は、どうだろうか。ジッポは自分の心へ問うてみるが、その答えは、どうにもとりとめがない。

「古本屋」とジッポは、ふいに空見を呼んだ。

「なんだ」

「肩、貸してくれ。ここからじゃ、満足に顔も見えやしねえ」

 思わぬ頼みに、空見は咄嗟の応えに詰まる。

 なにせ、つい二日前まで集中治療室に入れられて、生きるか死ぬかの境目にいた重傷人だ。そもそも、今はこうして会話に付き合うよりも、医者なり看護師なりを呼ぶべきである。

 だが、しばしの逡巡を挟んだ後に、空見は「ああ」と頷いた。言って聴くような男でもあるまい。それに空見自身、あまり無理を通すなと言える身ではないのだ。

 苦言を呈すよりもむしろ、空見は満足げな微笑を浮かべる。


「まさかお前に肩を貸す日が来るとはな。それだけでも見舞いに来たかいが、あったというものだ」

 そう言って、ベッドから立ち上がる手助けをしてやると、ジッポは「うるせえ」とバツの悪そうな顔をする。

 覚醒したばかりの時は抜け殻のようなありさまだったが、リュィの命、その片鱗が失われずに済んだと知って、いくらか調子が戻って来たのか。

 

 だが、それだけに不安は募る。目の前で眠る少女は、はたしてジッポの支えになり得るだろうか。空見には、こうして身体は支えてやれても、ジッポの心までは支えてやれないのだ。


 空見は、杖代わりになりながら、ジッポを少女が眠るベッドのかたわらまで導いてやる。

「よお」とジッポは、静かに寝息を立てる少女を見下ろしながら、彼女へ呼び掛けた。


「俺は、起きたぜ。お前も、早く眼ぇ覚ませよ」

 おはようと、リュィは最期に言い残した。その声を聴く事は、もう二度と叶わない。

 それでも残るものがあるとするなら、その想いは継がなければならない。たとえこの悲しみに、蓋をしてでも。


 その時だった。

「なんと、まあ……」

 少女のまぶたが、ぴくりと痙攣したかと思えば、ぱちりと二週間の昏睡が嘘だったかのように、瞳をあらわにした。


 ジッポのみならず、空見もまた、あらわになった少女の瞳を見て、息を呑む。

 そこには、木漏れ日の光はなかった。それは覚悟の上だ。失われたたましいは決して戻らない。たとえ、この街でも。


 二人が瞠目したのは、少女の瞳が、キョンシーの証である緑色ではなく、蒼い光を宿していたからだ。

 柔らかくも、静謐を湛えた蒼。

 喩えるなら、蒼月。

 リュィの木漏れ日差すような瞳と対を為すような、霞みの中に浮かぶ蒼月の光が、少女の瞳へ宿っている。


 その蒼月の瞳が、ジッポを映す。

「ジッポ……」

 少女の唇が、たしかにジッポの名を呼んだ。

 第二次性徴期を迎えて声変わりを終えたメゾソプラノの声調。

 その変声とは関わりなく——

「あなたが、ジッポですか」

 続く言葉を聞くまでもなく、その声の中にはもう、リュィの魂がないと、ジッポはわかっていた。


「……ああ、そうだ」

 頷くジッポに、少女が身を起こす。

「じゃあ、この記憶も本物ですか」

 少女の発した言葉は、日本語だったが、リュィのような舌足らずな調子ではなく、しっかりとした発音だ。声音も、リュィのような溌剌とした雰囲気は鳴りを潜めて、物腰は静か。それでいておどおどとした様子はなく、芯のしっかりとした印象がある。


「私は、リュィ……」

「いいや」少女が、確信のはい曖昧な声音で自らをそう名乗った時、ジッポはかぶりを振った。

「そいつは、お前の名前じゃない」

 ジッポがその名を付けた娘は、もうこの世には居ない。居ないのだ。

「じゃあ、私の名前はなんですか。私には、私の想い出がない。私はいったい、どこにあるんですか」

 そうつぶやく少女の声は、まるで帰る家を失くした子供のようで。背丈は伸びているはずなのに、リュィよりも小さく見える。


「古本屋」とジッポが呼べば「なんだ」と空見が応える。

「月ってのは、北京語でなんていうんだ」

 ジッポが解する中国語は、広東語だけだ。月の広東語発音は、ひどく味気ない。

 リュィの名前を決めた時もそうだった。緑を意味する広東語も、どうにも発音が固すぎた。あの時は、わざわざ老樹へ尋ねたのだったか。

「月か。そうだな、たしか“ユェ”だったはずだ」

「じゃあ、それだ。お前は、ユェ。名乗る名前が欲しければ、そう名乗れ」

「ずいぶん、簡単に決めてくれるんですね」

 心なし、少女は拗ねた様子でジッポを見上げる。

「気に入らなきゃ、好きに名乗ればいいさ」

 次のセリフへ繋ぐのには、一瞬の迷いがあった。


「お前の想い出は、お前だけのものなんだ。前の持ち主に」ひとつ、息を吸う「気兼ねする必要なんかねえさ。勝手に貼り付けられた記憶が気に入らねえんなら、好きに上書きすりゃいいんだ」

 そう。誰も、目の前の少女に、役割を押し付ける自由なんかない。たった一人を除いては。

「お前には、その自由があるんだからよ」

 少なくともリュィは、そう生きたはずだ。あいつはきっと誰の思惑にも支配されずに、自分の思うように生きて、そして生き抜いた。

 だったらこの娘にも、その自由が与えられるべきだ。

 

「わかりました、ユェでいいです。響きだけは、気に入りました」

 むすりとした顔でそう言ったものの、少女——ユェは「私の名前は、ユェ」とそっと心の中へ大切にしまうように、新しい名をつぶやいた。


 それを見届けたジッポは「降ろしてくれ」と空見へ告げて、ベッドへ戻る。

 シーツへ重い身体を預けるよりもまず、サイドテーブルへ腕を伸ばして、パーカッションを手に取る。

 どうにも、くたびれた。ヤニを取らなけりゃ、やるせない。

そう考えたものの、肝心要のものが見当たらない。


「火は?」と空見へ問うも、さすがに渋面を返される。

「まず医者に診せるのが先だろう」

 そう苦言を呈されるやいなや、ジッポは胸許に貼り付けられた心電図の電極パッドを引き剥がした。

 検知する心臓を見失った心電図が、電子音を鳴り放しにする。今頃、ナースセンターでは、心電図と連動したナースコールが異常を検知して、鳴り響いているだろう。はた迷惑もいいところだ。


「こうすりゃ、飛んで来るだろ」

 悪びれた様子もなく「ライターはどこだ」とのたまうジッポに、空見は呆れ果てた表情を隠しもせずに、病室のコート掛けから、M51フィールドジャケットを取り外して投げ渡す。

 ジャケットを受け取ったジッポは、ビニール包装を破き取るや、ポケットの中から、扱い慣れた硬い感触を探り当てた。

 所々が擦り切れて、地金の真鍮が覗いたクロームメッキのオイルライター。


 キン——と強い金属音と共に上蓋を開いて、火を灯す。

 唇へ食んだパーカッションの紙巻に火を着けて、二週間明けのヤニを喫する。

 頭がくらりと、酩酊する。

 もう、二度と味わう事はないだろうと思っていた紫煙を肺に満たして、病室へ吐き出すと共に、ジッポは思わずつぶやいた。

「……にっげえなあ」

 フィルターのない、両切りの紙巻を噛み締める。口の中に、口当たりの悪い煙草葉が混じるのも厭わずに。


 その時、くう——となんとも間の抜けた音が、病室に鳴り響いた。

「……お腹が、空きました」

 ユェが、決まりの悪そうな表情で空腹を訴える。

「無理もない。二週間も寝たきりだったんだ。栄養剤を点滴していたとはいえ、腹も空くさ」

 苦笑と共に、空見が言った。

「なにか食べたいものはあるかね。ここは、幽玄幇のツテで手配してもらった病院だ。まあ、いくらかのワガママは利くだろう」

「食べたいもの……」

 空見の気遣いに、ユェはしばし想いに耽る様子で考えあぐねる。やがて彼女はふいに、ぽつり——と言った。


「お肉の入ってない、青椒肉絲チンジャオロース

 その一言は、彼女自身思わず口から出たという様子で「……なんですか、これは」と、自分の言葉を信じられないとばかりに「正気とは思えません」と繰り返す。


「こんなものが、美味しいだなんて」

 続くそのセリフに、ジッポは、紙巻を噛む口から力が抜けるのを感じた。

「……くっだらねえ」

 心底そう思うのに、何故だろうか。こんなもので、何かが報われたような気がするのは。口の中を覆い尽くしていた苦味が、すうっ——と消えていくのは。

 

 紫煙が、やけに眼へ沁みる。

「……帰ったら、嫌になるまで食わせてやるさ」

 震えるジッポの声に、ユェがかくりと首を傾げてから、とりあえずといった様子で頷く。

「そう、ですか。じゃあ、あまり期待しすぎないで、待ってます」

 そんな二人のやり取りに、空見がふと微笑んだ。


「そうだな。帰ろうか、比良坂ビルへ」

 私たちの家に。

 みんなが、待ってる。

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火葬屋ジッポ 楠々 蛙 @hannpaia

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