EP-4

「なぜ、なにもかも、この手からこぼれ落ちていくんだ」

 デュポンが、硬く握り締めた右手を震わせる。この拳の内には、何も入ってはいない。たしかに一度掴んだはずのものでさえ、喪われてゆく。

 いつだって、そうだった。


「なぜ……」と繰り返しつぶやき、込み上げる血反吐を吐くデュポン。

「そう拳を握ってばかりいては、なにも掬えはしないのですよ、デュポン」

 デュポンへ応えたのは、翡道だ。

 彼は、リュィの亡き骸を乗せたまま懇々と眠り続けるジッポの呼吸を確かめて、デュポンへと振り返る。


「あなたは、掴んだものを手離すまいとするあまり、拳を硬く握りすぎた。ですがそれでは、なにも繋ぎ止めることはできないのです」

「ならば、他に、どうしろというんだ」

 どうすればよかったと過去を問わない辺り、この男の生き方もまた、徹頭徹尾、筋金入りだ。

 

「なにもかも一度捨ててしまえばよかった。一度掴んだものへ拘泥せずに。あなたには、その自由があったのに」

 そう告げる翡道の声には、単なる助言や苦言というだけだはない、切実な響きが含まれているように感じられた。


 だからだろうか。

「俺は」と口を開いたデュポンが、二の句を継げるのに一拍の間を置いたのは。

「そんな、器用な男ではない」

 そういう風に生きられたならどんなに良かったか、そんな悔恨さえ、ありはしないのだ。

「あなたという人は……」と翡道が言い淀む。


「リュィ! ジッポ!」

 彼がどう言葉を続けようとしたのか知れぬまま、くだんのアンティークドアが勢い良く開かれた。

 古めかしい扉を蹴り破る勢いで部屋へ踏み入って来たのは、サロメと五十嵐だ。

 二人とも階下で潜り抜けて来た修羅場の苛烈さを物語る装いこそしているものの、深刻な傷は負っていないようだった。


 むしろ、部屋の様子——ジッポの胸許へ折り重なるリュィの様子が与えた動揺の方が大きかった。

 サロメの動揺も決して少なくはないが、それにも増して深刻なのは五十嵐だ。

「あぁ……」

 彼女は声にもならない、深い深い悲鳴のようなため息を漏らした。


「内傷を患ったジッポさんに、彼女が気功術を」

 事の顛末を説く翡道に「そうかい……」と五十嵐は嘆息する。

「黄燐や。そんなところまで、あんたに似なくたって、いいのにねぇ……」

 目許を覆いながら、天を仰ぐ五十嵐。


「サロメ。一命は取り留めたとはいえ、危険な容体にはかわりありません。救急の手配をお願いできますか」

 翡道の指示に、サロメは後ろ髪を引かれつつもジッポから視線を切って、部屋を後にする。


 その直後だった。

 リュィが——彼女の亡き骸が、身じろぎしたのは。

 この池袋の呪われた宿命だ。死体が、キョンシーへと転化するのは。それは、コンシーとて例外ではないのだ。

 

 おもむろに身を起こした彼女は、仰ぐ空を見透かすように、天井を見上げる。

 やがて視線を落とし、しなだれ掛かるジッポを一瞥こそしたものの、意識のない彼には何も語り掛けずに、顔を上げる。

 彼女は、自分を注視する三人——翡道、五十嵐、デュポンへ振り向いて、つぶやいた。


我要血オゥイゥヒュゥ」と。


「……あたしが、焼こう」

 五十嵐が、悲痛に表情を歪ませて、足をひとつ前に踏み出した。この足の重さは、戦闘の疲労ばかりが由縁ではない。


 命ひとつで、リュィを取り戻す事ができるのなら、老いを待つばかりの身など惜しくはない。

 だが、チャイナタウンの残酷な仕組みは、そう都合よく事を運ばせてはくれないのだ。


 比良坂ビルの住人達の行く末を見守る事と、あまりにもか細いリュィのカケラを残す事とを秤に掛けた時、五十嵐は自分が最期の瞬間まで、血を乞うリュィを受け容れられるかどうか考え抜いた上で、無理だろうと判断した。


 ならせめて、この子のとむらいは、この手で果たすべきだ。

「……すまないねえ。せめて、このあたしを許さないでおくれ」

 手のひらに収まる小さなライターが、今はこんなにも、ひどく重い。

 親指を、フリントドラムに掛ける。


「待て……!」

 今にも火花を放とうとする五十嵐を制止したのは、誰あろう、デュポンだった。

「なんだい、デュポン。今、お前と話す気分じゃないんだ。この子はきっと、お前を許すだろうがね」

 リュィの心にはきっと、許す許さないの可否すらなかっただろう。あの子の度量の深さは、母親のそれですら及ばないものがあった。


「あたしゃそこまで、懐が広かないんだよ」

「……許しを、乞うつもりなど、毛頭ありはしない」

 この男の発言でさえなかったら、傲慢な言い草だと思っただろう。だがデュポンという男ほど、おごりや慢心という感情と無縁な人間は居まい。

 何しろこの男は、自分という人間に、一切の価値を見出してはいないのだから。


「俺が、あの娘を受け容れよう」

 懐からメリュジーヌの紙箱を取り出しながら、デュポンはそう言った。

「なんだって……?」

 デュポンの正気を疑うような声音で問い返す五十嵐に、「俺の血を、あの娘に飲ませればいい」と、彼は紙巻を咥えつつ応えた。

 メリュジーヌの土色をしたシガレットペーパーに、唇を濡らす血の赤が滲む。


 ピィン——と残響のある金属音と共に、パラジウムメッキのライターを開いて、紙巻へ火を灯す。

 土を燻したような味のする紫煙を呑み込むも、傷付いた肺はその苦味に耐え切れず、気管へ、煙の他に鮮血を込み上げさせた。

「どうせ俺は、このザマだ」

 失笑。

 粘ついた咳を抑えながら、床に溜まった血溜まりへ沈むメリュジーヌの紙巻を一瞥して、たしかにデュポンは自嘲の笑みを浮かべた。


「どういうつもりだい。なんの真似だ」

「どうも、こうもない。あんたが、言ったことだろう。俺は、目的以外の全てを、見失った人間だと」

「それが、お前の目的だっていうのかい」

「さあ、な。その目的すら、今の俺には、見えやしない」

 熱病に冒されでもしたように虚ろな眼で、デュポンは言った。


「だが、俺は」

 また、血反吐を吐くデュポン。

「進む他に、道の行き方を、知らない」

「……ヤケを起こしたわけじゃあ、ないだろうね。贖罪のつもりだっていうんなら——」

 言い差す五十嵐を「同じ、問答を、繰り返させるな」とデュポンが遮る。


 そして彼は、迷子の子供のように何処へ定めるでもなく視線を彷徨わせるリュィを、見遣った。輪郭すらおぼろげなのに、その緑眼だけが視界へ焼き付く。

 木漏れ日すら差さない、鬱蒼とした緑色りょくしょくが。あの瞳から光を奪ったのは、他ならないデュポン自身だ。

 なのに——

「あの娘は、最期に、俺へ謝った」

 ごめんなさいと。何に対する謝罪なのか、その由縁も告げずに。

「ただ、それが。ひどく、たまらないんだ」

 何故と言われたら、それに尽きる。


「……そうかい、わかった」

 好きにしなと、五十嵐はライターをしまう。

「恩に着る、イムコ」

「お前は、あたしを恨むべきさ。あの子のカケラのために、あたしはお前を見殺しにするんだ」

「構わんさ。俺は、俺の好きにやる。あんたの、言ったことだ。あんたが、俺の荷まで、背負う必要は……ない」

「……それができれば、苦労はしないんだよ」

 そう言い捨てるや、ジッポとデュポンが繰り広げた戦闘の余波を受けたのだろうか、かたわらに倒れていた椅子を起こして、腰掛ける。

「ここで、見届けるさ」

 懐から、煙管と夢朧の煙草入れを取り出して、そう告げる。ヤニでもやらなければ、とてもやりきれそうにない。


「難儀だな、あんたも」と返して、デュポンはリュィへと眼を向ける。

「我要血」と繰り返し、血を乞う少女の亡き骸へ。


「こっちに来い」

 血の絡んだそのつぶやきに、しきりに道行きを探すように視線を彷徨わせるばかりだったリュィが、デュポンを見詰め返した。

 やがて、ジッポのかたわらから立ち上がった彼女は、そのままデュポンの許へと歩み寄る。


 その足取りは、人の生き血を啜る怪物のそれではなく、雑踏の中に親の影を見つけた迷子の子供のようだった。

「血だ。飲め」

 傷口から血が滴る左腕を、前に差し出す。


「……!」

 だがリュィは、差し出された腕には眼もくれずに、壁際へもたれ掛かるデュポンへ覆いかぶさるように抱きつき、彼の首筋へ噛み付いた。

 咬み傷の痛みよりも、身体へ伝う温もりに、デュポンは眼

を見張る。


 血を飲むリュィが、喉をひとつ鳴らす度に、身体の内奥から熱が喪われてゆく。しかし、その感覚よりも、ひしと抱き付くリュィの体温へ戸惑いを覚えて、デュポンは途方に暮れたように五十嵐へ眼を向けた。


「……抱き返して、やればいい」

 うっすらと、薄い紫煙を吐き出して、五十嵐は言った。

「子供ってのは、それだけで落ち着くもんさ」

 その言葉に、デュポンはおそるおそると、右手を動かした。ゆっくりと、リュィの背中に腕を回して、手を彼女の肩へ向ける。

 そして彼は、強張る指をひとつひとつほどいて、手のひらでリュィの肩を抱く。


 誰かを拳で打つのみでは決して得られない、柔らかく、それでいて確かな手応え。

 

 孤独に凍えていた男は、ただ一心に、少女を受け容れた。

 繋がり。

 それを無聊くだらないと、切り捨てて来た男は最期の最期に、その命を、腕の中へ抱いた少女へ繋げたのだ。

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