第一幕
第一場 ヤギの尻尾座 (一)
ハンツは赤ん坊の頃に、ディルクラント城下町の王立孤児院の前に捨てられていた子供だった。親の手掛かりはほとんど無く、ハンツという名も孤児院長のアガタがつけてくれたものだ。これは孤児にとって珍しいことではないし、アガタをはじめ大人たちは皆いい人だったし、ハンツは自分自身について特別悲観することはなかった。
なによりも今ハンツの心を占めているのは、自らの身の振り方だった。
ハンツのいる王立孤児院では、子供が年頃になっても貰い手がない場合、職人の徒弟や商人の奉公へ出す決まりだった。これは子供の自立のために王が定めた決まりだが、ベッドに空きをつくるためでもあった。ディルクラント王国は平和な国ではあったが、病や貧困が消えたわけではない。
ハンツが孤児院に来て、今年が十三年目だった。髪と瞳の深い黒が印象的な、しかしどこにでもいる少年にすくすくと育った。貰い手のあてもなく、そろそろ奉公先を決めなければならない。
そんなときハンツが目にしたのが、「ヤギの尻尾座」の芝居だった。
「ヤギの尻尾座」は城下町に小さな劇場を持つ劇団で、現国王ロドルフのお気に入りでもある。先日行われたのは、そのロドルフ王の出資を元手に打った慈善興業で、売上を病院や孤児院に寄付するというものだった。そこへ孤児院の子供たちも公演に招待されたのだ。
ハンツはそこで、初めて演劇というものを見た。
その演目は子供が見るには血なまぐさい悲恋物語だったが、ハンツは夢中になってしまった。目や手足の動き一つひとつに意味がある。大げさな身振りも自然に見える説得力。そして何より、人の心を動かす台詞と筋書き。
ハンツはまだ恋も知らない少年だったが、舞台の上の男女が迎える結末に涙をぽろぽろ流した。ハンツは読書が好きだったので、本で感動したこともある。だが芝居は、生身の人間が演じることで、その人物が舞台の上で生きているのを見せるのだ。その力に、ハンツはすっかり圧倒され、魅了されてしまった。
「ねえアガタ先生」
「どうしたの、ハンツ」
「俺、これを書いた人の弟子になりたい」
終演後、興奮冷めやらぬ様子のハンツの言葉に、アガタは眉を下げた。
「ううんそうねぇ、やりたいことが見つかるのは私も嬉しいけれど、劇作家というのはなかなか難しいわよ。職人のように技術が身につくわけでも、商人のように知恵を蓄えるわけでもないし、そもそもキーガンさんて確か、弟子を取らないって言ってたような……」
「キーガンさんて言うんだ。俺、直接お願いしてみる!」
ハンツは居ても立ってもいられず、舞台裏へ走った。
舞台裏は、着替えたり化粧を落としたりする役者たちでいっぱいだった。小道具などもごちゃごちゃと置いてあり、文字通り足の踏み場もない。
「キーガンさん!」
ハンツはとりあえずその名を叫んでみた。その高い声に、役者たちが振り向く。
「あら驚いた、どうしたの少年。あんな偏屈ジジイに何の用?」
舞台で美しい死に様を見せてくれた女優が、ほがらかに言った。近くで見るとかなり濃い化粧と、迫力のある豊満な胸元に戸惑いながらも、ハンツは目的を伝えることにした。
「あの、俺、いや僕、キーガンさんの弟子になりたいんです」
「弟子だって!? あー無理むり、あの人弟子とらないし、だいたいあんな人と四六時中一緒だなんて、オエー、耐えられない!」
兵士役の男が、薄っぺらい鎧を脱ぎながら大げさな身振りで言った。その頭を、最初の女優が力一杯はたいた。
「子供相手に何言ってんだいあんたは。ごめんね少年、でもあいつの言ってることは半分本当なの。今までも弟子になりたいって人は来たけどみんな追い返しちゃったし、気難しい人でね、たぶん今ものすごく機嫌悪いから、どうしても話がしたかったら手紙を書くとかどうかしら」
「機嫌が悪いのはブロックがトチったせいだけどな!」
「やめなさいったら!」
役者たちはハンツをそっちのけで小競り合いをはじめた。ハンツは、今日キーガンに会うことは諦めるとして、このまま立ち去っていいものか迷った挙句、「あの!」ともう一度声をあげた。
「僕、今日初めてお芝居ってものを観たんです。すごく素敵でした。本当の出来事を見ているような、その人の人生を見ているような……物語が舞台の上で生きているのが素晴らしいなぁって、感動しました!」
その少年らしい素直な感想と熱っぽい目に、役者たちはみな嬉しいやら照れるやらでどぎまぎしていた。
「んもー可愛いなぁ少年! ありがとうね。機会があったらまた会いましょう!」
女優はそう言いながらハンツをぎゅうと抱きしめて頬ずりした。ハンツには胸の柔らかな感触と
それからハンツは、キーガン宛てに手紙を書いた。
孤児院では自分の名前と、看板や三文新聞の見出しが読める程度の読み書きは教えてもらっていた。しかし本が好きだったハンツは、そこからほとんど独学で文字を勉強して少ない孤児院の蔵書を読み漁っていた。それがこんな形で役に立つとは、ハンツは思っていなかった。
本で読んだ美しい言葉と、院長室から拝借した手紙を見本に、ハンツは手紙を一生懸命書きあげた。弟子になりたい、とにかく一度会いたい、という想いをいっぱいに詰め込んだ。
手紙を出してしばらくすると、キーガンから非常に簡潔な返事が来た。
『次の“
ハンツは慌てて
手紙を受け取った今日が“
ハンツは急いで院長室へ行ってキーガンからの手紙を見せ、アガタに明後日の外出許可をもらった。「あんまり期待しすぎない方がいいわよ」と言われても、楽しみで仕方がなかった。
そうして待ちに待った“
アガタに着せてもらった急仕立ての一張羅は着慣れなくて窮屈だが、鮮やかな青の上着が、ハンツの黒い髪と黒い瞳を際立たせた。こういう綺麗な服を着るのは、師になるかもしれない相手に会うときの礼儀なのだと言う。それが一層、ハンツの胸を高鳴らせた。そんな自分の心臓の音をごまかすように、ハンツは勢いよく劇場の扉を開けた。
観客のいない劇場は、公演中の賑わっていた劇場と同じものとは思えない様子だった。舞台を丸く囲むように並ぶ客席はがらんとして、けれどそこに客が座るのを待ちわびているような気配が感じられて、決して寂しくはない。天井の真ん中はぽっかりと空いており、日の光が舞台を照らしだす。舞台の上では、稽古中なのか普段着の役者が剣を交えている。
舞台正面の客席に、腕を組み、眉間にしわを寄せ、鋭い眼光で役者を見つめる老人の姿があった。彼こそがキーガンだ、とハンツは直感した。しかしそのあまりにも厳めしい佇まいと真剣な眼差しに、近寄ることも声をかけることもできないでいた。
しかしキーガンの方がハンツに気づいたようで、その視線がぎろりとハンツを貫いた。ハンツは蛇に睨まれた蛙の気持ちが、このときよく分かった。
キーガンは舞台に視線を戻して、パァンと大きく手を打ち鳴らした。
「昼休みだ」
見た目から想像するよりも低く、朗々とした声だった。それを聞いた役者たちが一斉に大きく息を吐き、体をおもいおもいに伸ばす。
「やっとメシだー!」
「さっき鐘鳴ったな、って思ったんだよなぁ」
「もう腕上がらないところだった……」
がやがやと役者たちが舞台を降りていく。そのうちの何人かはハンツの方をちらちら見ていた。先日女優にはたかれていた男がひらひらと手を振ってくれ、ハンツはぺこりと頭を下げた。そうして意を決して、キーガンに挨拶した。
「初めまして、キーガンさん。王立孤児院から参りました、ハンツと申します。この度はお招きありがとうございます」
「……小さいな」
キーガンはハンツを見下ろしてそう言った。
近くで見るキーガンは背が高く、
「歳は?」
「今年の冬で十三になります」
「手紙を読んだ」
「ありがとうございます」
「あれは定型句と本の引用に、お前の言葉が混じった不思議な代物だった」
キーガンの言葉に、ハンツはどきりとした。
「あの……良くなかったでしょうか?」
「手本を真似るのは大事なことだ。そして手本を書き写すだけでなく、自分の色を出すこともな。しかし吊り合いを考えんと不格好になる。まぁ、面白かったがな」
おずおずと尋ねるハンツに、キーガンは全く面白くなさそうな調子でそう返した。しかしここで気圧されるわけにはいかないと、ハンツは改めて腹に力を込める。
「あの、手紙にも書きましたが、僕をキーガンさんの弟子にしていただきたいんです」
「……今日呼んだのは、礼儀として面と向かって返事をするべきだと思ったからだ。わしは弟子をとらん」
「ですが」
「一度芝居を観ただけで何がわかる。熱に浮かされているだけだ」
「キーガンさんの舞台だから、そう思ったんです」
「そもそも、座付き作家はわしの他にもいるだろう」
「慈善興業をしてくれるような劇団は、この町に『ヤギの尻尾座』しかありません」
ハンツがそう言うと、どういうわけかキーガンの眉間の皺がますます深くなった。そうしてまた、吐き捨てるようにハンツに質問する。
「まず何故、劇作家になりたい? こんな苦行、子供が目指すようなもんじゃない」
「僕は……本が好きです。僕の知らないものを見せて、ここではないところへ連れて行ってくれる物語が好きです。お芝居は、それをたくさんの人に一度に体験させることができる。凄いと思いました。僕もそんなものを書いてみたい。書いたものを演じてもらいたい。それでみんなに見てほしい。そう思ったんです」
「書けなかったら?」
キーガンは一層苦々しい顔をして、夢を語るハンツに詰め寄った。
「書けなかったらどうする? お前に、その才能がなかったら。わしにも書けているかわからんのに」
「キーガン、さん……」
「だいたい孤児院が子供を徒弟にやるのは、食いっぱぐれてまた孤児を出さないようにするためだろうが。わしはそれについては賛成しとるんだ。劇団と劇場を維持するためにいつも必死に金をかき集める座付き作家なんぞ、なるもんじゃない」
「はいはいおじいちゃん、前途ある少年を恐い顔でいじめないの」
段々と興奮してきたキーガンを宥めるように現れたのは、先日会った女優だった。舞台用の化粧でない今日は、元の顔がよく見える。大きな
彼女はハンツに向けて色っぽく片目を閉じて見せる。栗色の巻き毛がふわりと揺れた。
「こんにちは、少年。やっぱり来たわね。あたし、シグリ。よろしくね」
「あ、えっと、ハンツです。よろしくお願いします」
「おいシグリ」
「この子、そう簡単に諦める子じゃないと思うわ、キーガン。才能があるかどうか、書かせてみたらいいじゃないの。ついでに部屋の掃除とかもしてもらってさ。あの部屋ひどいじゃない」
「……片付いた部屋は落ち着いて書けん」
「はい、言い訳。一度でもきれいにしてから言ってよね。ねぇハンツ、片付けは得意?」
「は、はい。孤児院のベッド周りは僕が一番きれいだと思います」
「やった、ぴったりじゃない」
「勝手に話を進めるな!」
キーガンは怒鳴ったが、シグリは全く意に介さないようだ。ハンツはその黒い目をぱちくりとさせ、しかしここが押しどころだということは察したので、「掃除、させてください!」と叫んだ。
キーガンは黙ってシグリとハンツの顔を交互に睨みつけていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「わかった。掃除はしてもらう。ただし駄賃をやるような余裕は、ここにはないぞ」
「代わりに今までの台本読ませてもらったらいいわよ」
「おい、だから勝手に」
「他にいい案があるっていうの?」
キーガンの負けだった。彼はことさら低い声で、絞り出すように言った。
「一週間。一週間だ。その間にわしの部屋を片付けて、一本書け。短くとも中身のあるものを。それで決める」
聖獣物語 ~偽王を討つための戯曲~ 灰崎千尋 @chat_gris
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