聖獣物語 ~偽王を討つための戯曲~

灰崎千尋

ディルクラント建国奇譚

 昔、世界を彷徨さまよう或るキャラバンがあった。


 それは方々の国を追われた憐れな者たちで、あらゆる髪の色、あらゆる肌の色をした老若男女の寄せ集めだった。

 追われた理由も、罪、病、異端、魔術など様々だった。

 彼らは安住の地を探していた。

 そのたった一つの願いだけが、彼らを一つに繋いでいた。


 この世は「はみ出し者」に事欠かない。

 しかし一方で、皆が通り過ぎるしかなかった国に留まる者や、旅を続ける力が無くなってしまった者、キャラバンを乱してここからも除名される者もあった。

 そうして増えたり減ったりを繰り返しながら、キャラバンは次第に大きくなっていった。






 キャラバンが村一つ分ほどに大きくなったある日、彼らは深い森にたどり着いた。

 そこは誰のものでもない森のようで、人の手が入った様子もなかった。彼らはひとまず森の中で休むことにした。

 彼らのうち、まだ動く気力のある男たちで見回りに出ることになった。近くに大きな獣の巣などがないか、食料になるものはないか、確かめるためだ。


 キャラバンの当時の主導者はディルクという男だった。彼は金色の髪とあおい目を持ち、人格も優れていたが、友の裏切りにあって「はみ出し者」になったという。

 ディルクは一人、森を進んだ。まだ昼間のはずだったが、鬱蒼と繁る枝葉が光を遮り、時間や方向の感覚を狂わせる。手にした松明たいまつと、キャラバンが留まっている辺りの木に縛り付けてきた細い縄が頼りだった。

 風に揺られた木々のざわめきはあるのに、鳥のさえずり一つ聞こえない。それをディルクが不思議に思ったその時、急に視界が開けた。


 そこはなだらかな窪地になっていて、そこら中に木の根が這っているものの、温かな木漏れ日が射していた。その光の先には、大きな黒い影がうずくまっている。目を凝らせばそれは、黒い獅子のように見えた。

 ディルクはこの獅子を恐れるよりもまず、見惚れてしまった。

 その毛並みは柔らかく艶やかで、深い黒の奥に青や緑を抱えており、獅子の背が上下するたびに色を変え輝いた。爪を隠した手の上に乗った頭の耳が時折ぴくりと動く。うつむき眼を閉じたさまは眠っているかのようだが、その眉間には僅かに皺が寄って、白い牙ののぞく口から吐く息は荒い。

 傷を負っているのかもしれない、と思ったディルクが一歩踏み出すと、その足元でぱきりと小枝が折れた。

 その刹那、金に光るまなこが開き、獅子は立ち上がって咆哮した。そして威嚇するように大きな両翼をばさりと広げた。

 そう、獅子には翼があった。その毛並みと同じく、黒く美しい翼だった。しかしその片方の根本には矢が一本刺さっており、その羽根を赤黒く濡らしている。


 ディルクはその威嚇を前にしても怯まなかった。何よりもまず、この美しい獣に不釣り合いな矢を抜いてやらねばならないと思ったのだ。


「大丈夫、傷つけはしない……その矢を、抜かせてほしい」


 ディルクは極力穏やかな声でそう言いながら、少しずつ獅子に近づいていった。この獅子には自分の心と言葉がきちんと伝わるのではないかという直感が、ディルクにはあった。それを裏付けるかのように、徐々に獅子の威勢はなくなり、静かにその体を伏せた。

 それを見たディルクは安堵の息を漏らし、まずそっと獅子の肩に触れた。見た目よりもふんわりとした毛の奥に、しなやかな筋肉がある。その体は温かく、この幻想的な獣が確かに目の前で生きていることを、ディルクに実感させた。

 いざその傷口を見てみると、矢はさほど深くは刺さっていないようで、翼も傷ついていない。根元から慎重に引き抜いていくと、止まりかけていた血が溢れてきたが、周りを傷つけることなく矢じりを取り出すことができた。その間、獅子はただじっと動かなかった。

 ディルクは念のため引き抜いた矢じりと傷口を嗅いでみたが、毒のような匂いもしなかった。腰に下げていた皮袋の水で傷口を洗ってやると、獅子の背が僅かに震えた。手持ちの薬草を手で揉み、汁の渋い匂いがしてきたところで湿布のように張り付ける。人間の傷に使う薬草がこの獅子にも効くかはわからなかったが、何もしないよりはマシだろうと思ったのだ。

 そうして手当を終えたところで、知らない声がディルクの頭に響いてきた。


『感謝する、人の子よ』


 ディルクは驚いて周囲を見回すが、自分と獅子の他に生き物の姿は見えない。まさか、と獅子の顔をみると、最初に比べるとずいぶん穏やかな金の双眸が、ディルクの方を見ていた。


『宵闇を駆ける我が姿の見える者が、まだこの辺りにいようとは思わなんだ、油断した。人の子の武器に触れるのを、同類たちは嫌がるのでな。傷は治っても、見苦しく肩に矢を残すところであった』


 その低く威厳に満ちた声は、耳を通さず、ディルクの頭の中に流れ込んでくるようだった。やはりこの獅子が、ディルクに語り掛けているのだ。


「あ、あなたは……神の使い、なのですか?」


 混乱したディルクが尋ねると、獅子は笑うように鼻を鳴らした。


『神などと。人の子がそう呼ぶものはいつも、人の子の中にある。我らは人の在るのとは別のことわりで在るのだ。時折こうして、戯れに交わるだけよ』


 ディルクはまじまじと獅子を見た。確かめるようにゆっくりと漆黒の翼を広げるさまはあまりにも神々しく、自分を見つめる眼は静かだが全てを見透かされるようで、ディルクは立ち尽くしてしまった。


『物怖じせず近づいてきたかと思えば、言葉を掛けただけでそんな風に呆けるのか。人の子はやはり面白い』


 獅子は広げた翼でディルクを包み込んだ。これまで見たどんな輝石よりも美しい眼が、ディルクを捉える。


『さて、人の子よ。我らの礼儀として恩には報いねばならぬ。何か願いはあるか?』


 それを聞いたディルクは、思わず息を飲んだ。

 願い。

 この見知らぬ深い森にまでやってきた、長い長い旅の目的。


「私は、いえ、私たちは、他の国からはじかれてきた人間なのです。私たちみんなが安心して暮らせる場所を探しています。そのために旅をしてきました。どうか、どうかそのような場所があるなら、教えてはくれませんか」


 ディルクは膝を着き祈るように手を組んだ。それを見た獅子は、呆れたように大きく息を吐いた。


『やめよ。神ではないと言ったばかりではないか。それに我らは人の世に疎い。そのような国は知らぬ。しかし─』


 獅子の眼がにやりと笑うように細められた。


『この先には険しい峡谷がある。そこを越えられた人の子は未だおらぬはず。だがその先にはこの森に似た豊かな大地がある。そこをお前たちがひらくならば、自由にするがいい。我が力で連れて行こう』


 おお、とディルクは歓喜に打ち震えた。この旅がやっと終わるのだ。幾度となく諦めかけた皆の願いがついに叶う。 

 そのディルクを戒めるように、獅子の声は続けた。


『ただし、そこには我らの同類も居るのだ。彼らの領分をおかさぬと誓え』


「同類……」


『人の子が妖精や精霊と呼ぶものたちだ。忘れるな、人の子の目に見えずとも、人の子が忘れようとも、我らはその隣に在るのだ』


 獅子の言葉に、ディルクは顔を引き締め、しっかりと頷いた。


「わかりました。肝に銘じます」


『よい返事だ』


 獅子は空に向けてひときわ高く吼えた。するとディルクの頭上にどこからか光の粒が集まり、それは徐々に輪を形作っていく。その眩しさに思わず目を閉じた次の瞬間、ディルクの頭には金の冠がおさまっていた。


『これは我が祝福の証。お前を人の王と認めよう。今日この日のように、お前が良き隣人である限り』






 こうしてディルクの率いるキャラバンは、黒い獅子の導きによって峡谷を越え、人間にとっては未開の地へたどり着いた。ディルクは良き指導者となって土地を拓き、これを統治した。ディルクの死後、その血を継ぐ者がまた指導者になり、獅子の冠も継承された。そうして人が増え、村や町ができ、ついに国ができあがった。

 ディルクの子孫がその王となり、国の名を始祖にちなみ「ディルクラント王国」とした。

 王国の紋章には、伝承に伴い翼の生えた黒い獅子を描き、王城もまた「黒獅子城」と呼ばれた。

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