Ed

 二人。化学準備室で荒い息が交わる。

「なに考えてるの、センセ?」

 一糸纏わぬ姿の青年が、囁きかける。

 ボロボロの机の上に腰かけて、微笑みを浮かべた。

 ハッとして、耳を吐息でくすぐられた男は青年を見つめた。

「この人のこと?」

 青年は、男の薬指に嵌められた指輪に触れる。

 装飾のダイアモンドを指で撫でて、青年は低い声で「ねえ」と煽る。

 男は、青年の指に自らの指を絡ませて、詮索を禁じた。

「ふふん……図星だった? 克己センセ」

 克己と呼ばれた男は、「ヤイヅ」と鬱陶しい様子で名を呼んだ。

 それを聞いて、青年は頬を膨らませる。

「……大人げないよ、センセ。呼ぶなら下の名前にしてよ」

 その名は嫌いだから、と。声に出さず唇が告げる。

「和彦。ごっこ遊びはコレをラストにするか?」

「それって告白? じゃないなら、タバコのこと言っちゃっても良いと捉えるけど?」

 克己は舌打ちをして、和彦の頬にキスをする。

「どちらでもない」

「そういうと思った」

 クスクスと和彦が笑う。

 克己は、和彦の首筋を舌で愛撫しながら、学生だった頃の自分を思い出していた。

 この部屋で恩師と口を利かなくなって十数年の時が流れた。

 何の因果か……同じ化学教師になっていた克己は、校内で喫煙する姿を和彦に見られ、弱みを握られていた。

 情けない話。十歳以上も離れた相手に使われていた。

 本当に、何の因果か……この部屋で芽生えた感情は、望まぬカタチで活かされていた。

「こんな関係になって、もう半年以上経つんだよ? オレがセンセの考えてることを読めるように、センセだって俺のコト――」

 和彦の唇を奪い、口止めする。

 克己は、分かってしまう情けなさを噛み締めた。

(知っているとも、お前の弱いトコロは全部)

 それは、舌。首。胸。中指を第二関節まで入れて届くトコロ。

 そして、ヤイヅという名だ。

 これもまた何の因果か……和彦が抱える悩みは、かつて学生だった克己が抱えていた悩みと同じだった。

 それは、『かわいそうな』生立ちというやつだ。

 克己は幼いころに両親と死別し、和彦は幼い頃に両親に捨てられた。

 ヤイヅというのは、顔も知らぬ親の苗字だという。

 和彦は、テストの答案用紙にその名を書かぬほど、ヤイヅという名を嫌った。

 ある種、問題児として扱われている和彦を放っておけない教師としての立場もある。

(……というのは、所詮は建前だ)

 克己は自嘲する。

 結局は、下腹部が示す通りの本心。頭が空っぽになるような熱を求めている。

(男という生き物は不便だな。下心ってのを隠すのに、不向きな構造だ)

「いいよ、センセ」

 しっかり心を読まれてしまっていることに対してバツの悪い気持ちになりつつも、克己は和彦に甘える。

(ああ、本当に情けない話だ)

 克己は涙しそうになる。

 しかし、繋がってしまえばそんなことも一瞬で忘れてしまう。

 しばらく、科学準備室に不釣り合いな音を奏でてから、残ったのは二人分の荒い息のみ。

 汗と青臭さで満ち足りた部屋。換気しようとボロボロの窓をわずかに開ける。

 外から心地よい風が入り、抜けていく熱と共に余韻を味わう。

「センセのその指輪、誰のものなの? 恋人? 愛人?」

 和彦の問いかけに、面倒くさそうに克己が答える。

「道徳と倫理は知らん」

「すぐに誤魔化す。誰かの代用品なんて、心地の良いものじゃないよ」

 和彦の言葉を聞いて、先ほどまで快楽を貪っていた姿に疑念を抱く。

「名演技か」

「そういう意味じゃないよ。もっと、精神的なやつ!」

 やれやれと和彦が溜息を吐く。

「はあ……その天然なとこ、ホント直した方が良いよ。それとも、天然ぶるのも誤魔化し?」

 克己は、何も言わずにタバコ箱から一本取り出して口に咥える。

 先端に火をつけると「難しいな」と紫煙を吐きながら答えた。

「誰の物でもない。上手く言えないが、自分への戒めだ」

「戒め?」

 和彦の問いかけに、克己は小さく頷く。

「愛していた人の望みを叶えられなかった」

 和彦は、ピクリと眉を動かした。

「フラれちゃったの?」

「さあな」

 しばらく指輪を見つめて、克己は言葉を続ける。

「和彦、人の骨からダイアモンドが作れることを知っているか?」

「聞いたことがあるよ。じゃあ、そのダイアモンドは恋人の?」

 克己は首を横に振る。

「いや……これは違う。安物のダイアモンドだ」

「なんだ。死別とかじゃないの」

「……亡くなりはしたさ。ただ、骨を拾わせてはもらえなかった」

 克己は瞳を閉じて、過ちを振り返る。

 あの日以来、二人が会話することはなかった。

 意図的か。克己の化学の科目担当にもならず、職員室で出会うことなどもなかった。

 あの日々が幻であったかのように。

 しかし、気づけば克己は化学教師という職業に憧れを植え付けられ、理科大学に入学し、教員免許を取得する。

 教師という立場になって、もう一度科学準備室に帰ってきた。

 しかし、そこに先生は居なかった。

 克己の居る世界に、すでに先生は居なかった。

 先生の命を奪った病が、いつから患っていたものなのか。

 あの別れの日には、すでに芽吹いていたのか。

 そんなことは誰も知らない。

 悲しいことに、ロマンティストというのは独りよがりの性根で、とても複雑だ。

 先生の本心を探ることは叶わない。

 自分に死が近づいていることを察して、別れを告げたのか。

 人工ダイアモンドにロマンを見出しながらも、自らが宝石となるために生徒を唆したことが許せなかったのか。

 化石を愛していたからこそ、理想の死後を設計する人工的な死が罪なのか。

 克己の人生に自らの死を背負わせたくなかったのか。

 結果的に、克己の人生は先生によって彩られ、消せぬ染みが心に残った。

 先生の遺骨を何とかして盗もうと考えもした。

 しかし、それを先生が喜ぶとは思えない。

「あの人は、自らが生きたことを後世に遺したいと言った」

 克己は指輪を見つめて、言葉を続ける。

「この指輪の内側には、あの人の名前が刻んである。俺にできることは、それだけだ」

「センセが死んだら?」

 和彦の言葉に、克己は口を噤む。

 その無垢な問いかけは、克己にとって目を背けたい話題の一つだ。

 押し黙る克己に、和彦は恐る恐る尋ねる。

「オレが、預かっちゃダメかな?」

 首を傾げる克己の手を取って、和彦は克己の薬指を舌先で舐める。

 そうして、上目使いで驚く克己の瞳を覗いたまま、指を口で咥えて喉元まで押し込んだ。

「お、おい!?」

「んっぐ」

 嗚咽を漏らす和彦の口から指を引き抜くと、スルリと何かが外れるような感覚を味わう。

 嵌めていた指輪が、克己の指から姿を消していた。

 克己は和彦に視線を移す。彼はダラリと糸引く唾液塗れの指輪を口から吐き出していた。

 それを指で摘み、もう片方の手の細い薬指に嵌めて、和彦がニッコリと笑う。

「良かった。入った」と和彦は安堵する。

「オレがさ、センセの遺骨を拾ってダイアモンドにしてあげるよ。それでさ、この指輪の装飾にしてあげる。そうすればさ。センセとその人は、一つになれるでしょ?」

 和彦の言葉に、克己は首を振る。「そんなこと、お前がする必要――」

「代わりにさ、センセの苗字をオレに名乗らせてよ」

 和彦は少し恥ずかしそうにして、ニッコリと克己に微笑みかける。

 克己は目元を手で覆い、言葉を震わせる。

「それはいつもの脅しか?」

「まさか……本心だよ。だって、ずっとセンセのことが好きだったんだ」

「オレは、お前を愛せるか分からない。自信が無いんだ」

「大丈夫だよ。だって先生に抱かれている間、オレはいつも満ち足りた愛を感じてる。

 センセがオレに甘えてきてくれることが、幸せなんだ」

 目元を覆っていた手を退けて、克己は和彦の眼を見つめる。

 指輪を嵌めた手で克己の頬を撫でて、和彦が柔らかい唇を開く。

「死ぬまで、オレを幸せにしてよ」

 和彦の言葉を聞いて、克己は決心したように瞳を閉じた。

 頬に触れる和彦の手を克己は優しく握り締める。

 そうして、両手で包んでからゆったりとした手つきで和彦の指から指輪を取り外す。

 スルリと抜けた指輪を克己が握り締めると、ポタリと何かが手の甲に落ちたのを感じた。

 ゆっくりと克己が瞳を開く。手の甲に落ちていたのは、雫だった。

 ポタリポタリと、雨のように降る。

 和彦の吐息が震えているのを克己は感じた。

「オレじゃ、ダメ?」

「……こんな華奢な指じゃすぐに落として、どこかに無くしてしまうだろう?」

 涙する和彦に、克己は優しく微笑みかける。

「今度、一緒に首から下げられるようにチェーンを買いに行こう」

 克己の言葉に、和彦は涙を腕で拭いながら頷いた。


 和彦を抱いた夜、克己は石になった自分がどんな輝きを放つのか考えた。

 少し考えて、克己は声に出して笑いたい気分になった。

 克己の望みは、愛する者を今度こそ看取ること。

(骨を拾われるような立派な大人に、俺はきっとならないよ。先生)

 石になる代わりに、天国の先生に向けた謝罪の言葉を考えて、深い眠りについた。

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