①
「これは、自殺の勧めですか?」
咳をして、パイプ椅子に座って聞いていた青年が問う。
「馬鹿を言うな。人工の死など美しくはないよ。もちろん、病で苦しむことが美とは思わない。精一杯生きてこそだ。克己クン」
克己と呼ばれた青年は、ペンの代わりにタバコを手に取る。
そうして、科学準備室の古い黒板にビッシリと書かれた絵と文字と記号に視線を移した。
ワックスでガチガチに固めた前髪を指で撫でて、タバコを咥える。
「先生の価値観が掴めないよ」紫煙交じりのため息を吐く。
「言っただろう、ロマンティストなのだ。私は君に、骨を拾われるような立派な大人になってもらいたいのだよ」
「先生の授業はためになるね」
ケラケラと克己が笑う。「お互い手に持つのはタバコだけどさ」
先生と呼ばれた男は、タバコを咥えたまま笑い声をあげた。
「道徳と倫理は知らん」
トントンと灰を灰皿に落として、先生は再びタバコを口元へ。
そうして、鼻から煙を出して黒板を見つめた。
「しかし、人工ダイアモンドはロマンがあると思わないか?」
「骨を拾われるようなって言ったね。先生は、化石になりたいの?」
「ああ」と先生は頷く。
ギギッとパイプ椅子から錆びた金属を奏でて、克己が笑う。
「先生のそういうところ、好きだよ。素直だ」
「補足すると私はただの化石ではなく、私が生きたことを後世に遺したいのだ」
「なるほど」と克己は短く返す。
克己の視線は、先生の手に向かう。
日焼けした手はハリが無く、歳を感じさせる。
そして、その指には光り物がない。
先生には、家族が居ない。
もしかしたら、どこか遠くに親戚の一人や二人はいるのかもしれない。
しかし、伴侶もおらず、当然ながら子も居ない。
両親は幼少期に事故で亡くしている。
(先生は、誰にも骨を拾われないのかもしれない)
そう思うと、克己は寂しい気持ちを胸に感じた。
喫煙を先生に見られて始まった奇妙な関係も数ヵ月は続いている。
長続きしている理由はシンプルだ。ただ、お互いに利害が一致しただけ。
克己は校内でタバコが吸えて、語りたがりの先生は都合の良い聞き手を見つけた。
ただ、それだけ。克己にとっては、それだけのはずだった。
「先生の骨、俺が拾ってやろうか?」
自然と出た言葉に、先生だけでなく克己も少し驚いた。
克己は何だか恥ずかしい気持ちになり、タバコを咥えて手で目元を覆う。
先生がどんな表情をしているか、見るのが怖くなった。
「な、なんだ。はは。先生のロマンティックがうつっちまった……か」
「克己クン」
先生の嬉しそうな声が聞こえた。
「克己クン」
少しして、先生がもう一度呼ぶ。
低く、か細い声だったが、科学準備室の狭さでは聞き逃すこともない。
克己は目元を覆ったまま、先生と視線を交えることを拒んだ。
彼は、混乱していた。
恥ずかしさと共に芽生えた気持ちの意味を理解できず、自己否定を繰り返す。
親しみや年の離れた友情とは違う、胸の奥がジッとしていられない、そういう気持ちだ。
「……克己クン」
三度目は、より一層に弱弱しい声だった。
ようやく覚悟を決めた克己は、手を目元から離し、タバコを掴む。
解放された目に映ったのは、寂しげな表情の先生だった。
「先生?」疑問を抱き、克己が呼びかける。
「ありがとう。嬉しいよ」
礼を言い、先生は灰皿にタバコの先端を押し付けて火を消す。
そうして、再び黒板に視線を戻した。
先生は何も言わず、黒板消しを手に取ると力作を静かに消し始める。
「どうしたんだよ、先生?」
先生は克己の問いかけに答えず、授業の片づけを黙々と続けた。
「克己クン」片づけを終えるなり、先生は克己の目を見る。
そうして、唖然とする克己の指に挟まれたタバコを奪い取る。
「あ、おい!?」
タバコの先端を握り締め、針で刺されたような痛みが先生を襲う。
しかし、彼は表情を変えずに、クシャクシャになったタバコを灰皿に捨てる。
そうして、灰皿に視線を向けたまま、先生は低い声で述べた。
「今日はもう終わりだ」
パイプ椅子から飛びかかるように克己が立ち上がる。
先生に問いかけようと身を乗り出した彼を、先生は静止させる。
「そして、もう来るな」
先生の言葉に、克己が舌打ちする。
「意味わかんねえ」
「分かってくれとは言わない。ただ、私がこれ以上……このような過ちを犯すことなどあってはならない」
「だから、なんのことだよ」
それが、胸を痛ませる感情と関係があることなのか。克己は問うことができなかった。
気持ちの整理もできぬ状態で……何も判断できない。
しかし、怒りを口に出すことは可能だ。
「言えよ。いつもみたいに、ベラベラと理由を話せよ」
なんでも話せる唯一の存在だと信じていた。
自分だけでなく、先生にとってもそうだと克己は思っていたのに。
克己は、裏切られたような気持ちに襲われた。
堅く口を閉ざしたまま、先生は灰皿を見つめる。
タバコが二本、冷たい世界にクシャクシャの姿で横たわっていた。
「今更、大人ぶるんじゃねえよ!」
バンッ! と灰皿が置かれた机を叩く。
重い空気が狭い部屋に満ちた。
その息苦しさからか、ようやく先生が口を開いた。
「許してほしい。私は、無意識のうちに君に酷いことをしていたようだ」
「だから、意味がわかんねえって!」
「私は君を、自分の都合の良い人間にしようとしていた」
克己は首を振る。
「それは、アンタが勝手に決めたことだろ。俺は違う。だって、俺は」
「君に偽りの愛を植え付けたんだ。私は……『かわいそうな』生立ちの君を利用した」
克己は口を開けたが、言葉が見つからなかった。
熱を持った吐息だけが漏れる。
怒りと悲しみが胸の奥で擦れて、今にも心が焼き切れそうだった。
気付けば克己の手は先生の胸元を掴み、目を合わせようとしない先生の瞳を覗いた。
「……」
克己の震える身体を感じて、先生は荒い息をあげる。
克己もまた、自らの息が酷く荒くなるのを感じた。
先生の瞳は、濡れていた。
どうすることもできず、克己は手の力を緩めて先生を解放する。
「なんだよ。今日までの授業は、全部ウソかよ」
道徳か倫理か、ポリシーなのかタブーなのか。
ロマンティスト? 嘘八百だ。
克己は、唐突に先生が理解できなくなった。
お互いの全てを、完璧でなくても、ある程度は理解できると思っていた。
しかし、その溝が……二人を裂くに足る理由。
都合の良い感情など持ってはいない。
物分かりもよくはない。
しかし、先生と克己が過ごした数か月という時は幻ではなかった。
目は口程に物を言う。克己は歯を食いしばり、胸の痛みに耐えた。
一つだけ、克己が理解できていたこと。
それは、先生が持つ素直さ。
他人を傷つけて泣く相手に投げかける言葉など、克己には分からなかった。
克己はどうすることもできず、化学準備室を飛び出した。
一人。化学準備室に弱弱しい鳴き声が響いた。
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