幻のようなあのきらめきに、
次の日。彼女は砂浜に立って俺を待っていた。俺の姿を認めると、大げさなくらいに激しく手を振った。今日も水着はオレンジ。目に痛い。
陽子の顔には「やっぱり来てくれた」と言わんばかりの、勝ち誇った笑みが浮かんでいる。
「よっ、来たね。都会の海斗君」
彼女には練習をしながら、俺のことを簡単に話した。言わないと彼女の質問が止まないからだが。
そう、後から思ったが彼女は自分については何も語らない。不自然なほどに。そこがなんとなく引っかかったのも来た理由の一つ。
それに、俺は明日の朝には帰るからどうせこれで最後だ。彼女と会うことはもうないだろう。
「よしっ、じゃあ、こっちついてきて」
陽子はそう言うと、砂浜を歩き始めた。向こうには岩場があるのが見え、泳ぎには適さない場所に思える。
ここまで来たら、どうとでもなれ。彼女の後ろを仕方なくついていく。
「お前ってさ、何者なんだよ?」
聞こうと思っていた疑問を口に出す。
「何者って、どゆこと?」
「『陽子』という名前以外に俺は知らないんだが。あの大学の学生じゃないみたいだけど、年齢的に大学生だろ?」
「そうだね、私ばっか色々聞いてるもんね。けど」
前を行く陽子はなぜか、俺ではなく海に目を向けると、
「大丈夫、いずれわかるよ」
そう、どこか寂しげに言った。でも、それは本当に一瞬のことで、すぐにまた彼女は楽しげに歩き始めた。
その間に、周りは砂浜からごつごつとした岩場になって、歩きにくくなりはじめた。何度か滑りそうになる俺をよそに、陽子はすたすたと歩いていく。
「おい、お前マジでどこに行く気だよ? ここらへんで去年事故があったって、ばあちゃんが言ってたし、あんまり変なとこ行きたくないんだが」
「……ふふん、大丈夫だよ。調子にのって変なことしなければ」
陽子が止まったのは、岩礁に囲まれている海に面した場所。囲まれていると言っても、十分な広さがあって、向こうからは泳げる場所には見えなかったが、これなら泳げそうだ。しかし、一つ問題があった。
「おい。ここ、底が深くないか?」
月明かりのない夜空のように暗く見え、上から見ていると吸い込まれていくような錯覚を覚える。
「うん、そうよ。なに、怖いの?」
「いや、それは」
「飛び込むの、ここに」
「はっ?」
驚いて彼女の横に立つと、陽子は声の明るさとは裏腹に真剣な表情で海面を見つめている。
「ね、海斗君。昨日の練習で、やればできることもあるって少しはわかってくれたんじゃない?」
「何の話だ」
「ここから飛び込むくらい、なんてことはないよ。そんなに高くないから。やればできるよ」
陽子は、そこまで言うと俺に顔を向けた。
「私ね、海斗君に気づいてもらえて嬉しかった。だからさ、せめて、君には暗い人生を送ってほしくないんだ。ちゃんとやること見つけて生きてほしい。私にはこんなことしかしてあげれないけどさ」
いきなりこいつは何を言ってるんだ?
俺の困惑を見て取ったのか、陽子はからっと笑うと俺の背後に回った。
「さぁ、やればできるから。いざ!」
「あ? 誰が、んなことを」
「私が押しちゃうよ?」
陽子はそう言うと、ひんやりした手で俺の背に触れた。これは本気だ。そんなことをされたら困る。こいつのことだ、あの時のように容赦なく押してくるだろう。
俺は急いで息を吸うと自分から、深い海底に向かって飛び込んだ。
急いだものだから、足も手も揃っておらず宙でもがいたが、宙にいたのはあまりにも一瞬のことだった。
青い水面が瞬く間に近づいてきて、ズボンッッと耳を打つような音を立てて、俺は斜めの体勢で水面に飛び込んだ。
重力を感じなくなっても、俺の体はどんどん勢いで底に落ちていくかのようだった。
飛び込む寸前に目は閉じられたが、ほんの少し水が鼻に入ったのか苦しい。
シュワシャワと泡が立て続けにはぜる音を聞きながら、どうにか目を開ける。そして上に視線を向けて、その光景に気をとられた。
何だよ、これ。
俺は思わず口を開けそうになってどうにか止めた。不思議と息苦しさが消えていく。
暗い海の中に光が降り注いでいる。深い青を光が叩いて揺れ動かしているようで、特に海面のあたりは細かい光と波の動きがぶつかいあい万華鏡を思わせる美しさで、その向こうには太陽まで見える。
太陽はゆらゆらとして形が定まらず、突き刺すようではなく包み込んでくるようなその輝きに目をとられて、思考が停止する。
どれくらいそうしていたのかわからないが、ふと、水面から何かが飛び込んできた。水が揺れ、光が揺れ、泡が踊る。
太陽に重なるように現れたのは、同じ色をまとう陽子だった。泡を弾かせながら、陽子は俺を見ると笑ったように見えた。
彼女はそのまま手を伸ばしてきたので、俺も手を伸ばしてみた。すると、彼女は手を遠ざけた。それを追いかけて俺が不格好に泳ぐと、俺を避けるように彼女が泳いだ。
そうして一緒に泳いで、息が少し苦しくなった頃、陽子が俺との距離を一気に縮めた。今度こそ、俺の手を取ると水面に向かって泳ぎはじめた。
泳ぎが下手な俺が水面に行くのを手伝ってくれるのか、と思った時。
陽子はいたずらっぽく笑うと、俺の手をつき離そうとした。焦った俺は少し暴れてしまい、その拍子に陽子の顔が近づいてきたかと思うと、自分の唇に何か柔らかいものを感じた。
柔らかいそれは感じたと思った瞬間に離れ、塞ぐものがなくなった俺の口から泡が漏れ出た。
思考が追い付かない中で、陽子は笑った。それは、あの、太陽の輝きにも負けないほどの明るい笑顔。
『お礼ね、これ』
確かに、彼女がそう言う声を聞いた。
陽子は、俺の手をつかんだまま水面に向かって泳ぎ始めた。彼女はあまりにも近い距離にいるに、どこか遠くに感じられた。
まぶしく輝く水面が近づいて近づいて――
バシャッという音ともに、俺は、外に戻った。波が打ち寄せる音、風の音が耳に入ってくる。
陽子の様子を伺おうとして、横に陽子がいないことに気づいた。
先に上がったのかと思い、どうにか先ほどの場所にまでたどり着き陸にあがる。だが、陽子の姿は陸になかった。
「あいつ、どこに」
「ほら、やったらできたじゃん」
陽子の声に俺は、振り向いた。
彼女は、岩礁の中の水面から顔を出していた。さっきまでそこにはいなかったのに。
彼女の口元に視線を向けそうになって、慌てて目をそらす。
「最初に会った時、気づいてもらえて嬉しくて、海に引きずり込んでごめんなさい。本当に視えたのが君でよかった。おかげで、さいごに誰かと泳ぎたいという願いを叶えられた」
彼女は日の光を浴びながら、晴れやかな顔でそう言った。俺のことを見上げているから、日光がまともに当たってまぶしいだろうに彼女は微塵もそんな素振りをみせない。
「お前、何言ってるんだよ」
「うん、わかってる。私のわがままに付き合わせて本当にごめん。だから、君は生きているんだから、私のことは忘れちゃいなさい」
「はっ?」
陽子は、大きく息を吸うように口を開けた。潜る気だ。
「本当にありがと、さようなら」
笑顔のまま告げると、いつもと違い音もなく水に潜って行った。水しぶきもたたなくて、まるで彼女が水に吸い込まれたように見えた。
俺は、思わず、彼女を追うように水に飛び込んだ。今度は上手くできた。
だけど、飛び込んだ先に彼女はいなかった。あるのは海の中できらめく日光。その中を先ほどは気づかなかった、銀色に光る小魚の集団が、海の奥へひらひらと泳いでいった。
もちろん彼女はいない。あの時の、太陽の輝きに重なるような、飛び込んできた彼女の姿を思い出す。
「陽子」
思わず口にしてしまい、口の中に水が入ってきたので、あわてて水面を目指した。
バシャッと海から顔をだして、俺はそのまま陸に上がった。海のにおいが強く鼻に入ってくるが、まぁ前よりは嫌いじゃない。
あれから、帰る当日にここに来ても彼女はここにはいなかった。本当に、あれが最後だった。
そもそも、彼女は本当にいたのかどうか。彼女がいなくなった後、二人で歩いた砂浜には一人分の足跡しか残っていなかったし、彼女について調べるとわかったことがあった。
少なくとも、あの夏をきっかけに俺は少し変わった。それだけは確かだ。
幻のようなあの夏を思い返しながら、俺は陸から岩礁に囲まれた場所を見て、頭を下げる。
「俺は、ちゃんとやることを見つけたよ。来年から、ここの大学に通うつもり。つっても、受かるかどうかわからないけど 」
でも、きっと、やればできると思う。
「別にお前には未練とか全然ない。ガチでない。ただ、俺は、お前のおかげで海に興味を持った。そしたら、ここの大学に『海洋環境・生物学科』なんてあることを思い出した」
そこまで言って、つけたす。
「なので、前向いて生きているんで、もう化けて出るなよ」
その瞬間強い風が吹いて、海面が揺れ動いた。海が太陽の光を反射してきらりと光る。
もしかしたら、あいつが笑っているのかもしれないと思ってしまい、苦笑いを浮かべる。結局、俺はあの幻のような夏を信じているのだ。
これまでのように、誰にも彼女のことを話すことはないだろう。きっと誰も信じてはくれない。胸の中に秘めていよう。
そろそろオープンキャンパスに行かないといけない。今年こそはきちんと見なければ。
そうして、そこから去ろうとして、最後に彼女に向かって心の中でこう添えておいた。
忘れろと言いながら、あれをしてきたのは反則だろ。
海が太陽のきらり 泡沫 希生 @uta-hope
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