まとわりつくような海の中で、
なぜ、俺は彼女の誘いを受けたのだろうかと今日になって反省した。
やって文句を言われるのなら、何もやらない方がいい。そう思って生きてきたからこそ基本として、俺は無駄なことはしない。なのになぜ。
いや、断るは断ったんだ。だが、彼女は何度も何度も頼んできた。俺の腕にすがり付くような勢いで。
「泳ぎ教えてあげるから。一緒に泳ごうよ」
「嫌だ」
「海に落としたのにこんなことまで言って、本当に申し訳ないけど、お願い。君と泳いでみたいの」
「嫌だ」
「お願い!」
そうやって頭を下げる姿は必死に見えた。とても真剣そうに眉根を寄せている。その顔を見て、俺はなぜか陽子の頼みを聞いてあげなければならない気がした。
また海に入ると思うと全てが嫌になってくる。だからと言って、このまま放っておけば永遠に問答が続きそうだ。
別に明日予定があるわけでもない。彼女の願いを聞くのと、このまま無意味に会話を続けるのどちらがいいのか。
考えて答えを出すと、俺は軽く舌打ちしながら頭を片手で押さえた。乾き始めているのか、塩分を含んだ髪はパサつきつつある。
「わーかったよ。泳げばいいんだろ。けど、わかってると思うが俺は泳ぎが下手だぞ」
そう言った時の、彼女の笑顔はあまりにも晴れやかで胸にかなり焼き付いた。
そうして翌日の朝。俺はこうしてまた、ここにいるわけだ。こんな田舎にも奇跡的にあった某衣料品屋で手に入れた水着を着て。
何で俺はここまでしているんだろうか。初対面のあんな女に。
俺はため息を吐くと、頭を振った。
最近めんどいことだらけだ。担任の先生には進路希望調査書を提出したら、もう少し真面目に考えろと言われたあげく(当たり障りもないことを書いた俺も悪いが)、オープンキャンパスに行けと言われ、その帰りにあいつに出会ってしまった。最悪だ。
オープンキャンパスでは、学部の授業を一応見たがよくわからない。俺にはしたいことなどないのだろう。
今日も開催されているはずだが、もう行く気はなかった。第一、泳ぎが苦手な俺に、当て付けのような学科を見た時点でやる気を失った。
そこまで考えて、そうかと思う。俺は彼女の頼みに付き合うことで、現状から目を背けようとしているのかもしれないと。
陽子は昨日と同じように、浅いところで沈んでいた。
俺が来たのに気づくと、彼女はガバッと起き上がり、にこにことした顔を向けてきた。それにしても、水の中にいてよくわかるな、俺が来たことに。
「おお、海斗君。本当に来てくれたんだ、ありがとー!」
今日の水着もまぶしいオレンジだ。相変わらず自己主張が激しい。夏にまぶしいのは太陽だけで十分。
「さぁ、おいでよ。お姉さんが泳ぎを教えてあげよう。大丈夫、これでも水泳の先生を目指していたんだから」
「はあ」
「ね、ちょっと、ため息ってどういうこと」
俺は答えずに、砂浜と海の境界を睨み付けた。波が来るたびに、砂浜と海の境界がゆらゆらと揺らめく。
昨日のまとわりつく水の感覚を思い出して嫌になったが、このまま躊躇していれば、また彼女に引きずり込まれるに違いない。
ここまで来たら仕方ない。俺は、意を決すると水の中に足を踏み入れた。
生ぬるい感触が足にまとわりついてくる。進むたびに、体が水の中に沈んでいく。昨日着衣して入った時よりも不快感は少ない。これなら行ける、か?
「さぁ、来てよ。まずはここまで」
陽子は俺に向かって手を振った。距離はそんなに離れていない。
俺は息を吸うと、仕方なくそこまで不恰好なクロールで泳いだ。
ほんのわずかな、三メートルほどの距離なのに、彼女の横に行くまで時間がかかった上に何度か沈みかけた。それだけでも疲れたから、彼女のところまで行くとすぐに海底に足を置いた。
「うーん、何だろ。あと少しコツをつかんだら上手く泳げる気がする」
陽子は、真剣な表情で首をかしげた。
「よし、まずは私が手を取って引いてあげるから、浅いところでバタ足から練習しよう」
「嫌だ」
「もしかして、お姉さんに手を取ってもらうのにドキドキしてる?」
地上だったら蹴っていたところだ。
俺は頭をかいてから、彼女に好きにしろと身振りで示した。
陽子は俺の両手をつかんだ。海に比べるとひんやりとしている。生ぬるい水の中で、その冷たい手の感触は確かに感じられた。
彼女に示されるままに、体の力を抜いて浮く。足を動かす。バシャッバシャッと、水面を足が叩く音が周りに響く。
「君ってさ、オープンキャンパスに来たっていってたよね」
陽子が、俺の手を引きながら声をかけてきた。
「ああ、お前はあの大学の学生じゃないのか?」
「あーうん、そう。えっと、もう少し足の蹴り強くできない? やる気ないでしょ」
「はぁ」
「いい感じ。……でさ、昨日の続きだけど。君には何か夢とか希望とかないわけ?」
「ないね」
「何で? 少しくらいあるでしょ、さすがに」
「ない」
そこで、陽子は急に俺から手を離した。急なことで、沈みそうになったが持ちこたえ、足をつく。
俺が文句を言う前に、彼女が口を開いた。
「どうして?」
「……ったく、そんなに気になんのかよ」
彼女は無言でうなずいた。仕方ない、面倒だが答えてやろう。
「何度やっても無駄なことってあるだろ。だったらやっても意味がない。その上やっても文句を言われるのなら、やらない方がいいだろ? だから、俺はそういうのを避けて生きてきた。んで、そういう風に暮らしてきたやつに夢とか希望とかあるわけないだろ。めんどいことは嫌いなんだから」
俺の答えに、彼女は顔をしかめた。俺がさんざん見飽きてきた顔だ。
「それって、なんだか寂しくない? もったいないよ、君は私と違ってまだ」
「まだ?」
「――泳ぎも君はきっと、それで諦めたんだろけど。やってみようよ、やってみてわかることもあるんだよ」
何かを誤魔化すように、彼女はまた俺の手を取った。それから、俺と彼女は泳ぎの練習を再開された。
こんなの意味あるのかと思った。
足の動きだけをしつこく練習した後は、手の動きの練習だけを繰り返しさせられた。
嫌な潮の臭いに囲まれながら、日の光を浴びながら、俺はひたすら練習するはめになった。
そんな飽き飽きとする練習を休憩をはさみつつ二時間ほどした頃に、彼女は俺に一人で泳いでみるように言った。
正直言って、腹もすいてきていたので、やりたくなかったがとりあえず泳いだ。
するとどうだろう。上手くなったというわけではないが、前よりも進むようになった気がするし、体勢も安定してきたように思う。マシにはなったようだ。
「おおっ。すごいじゃんっ」
俺よりも喜んでいるのは陽子だった。足を止めて振り返ると、砂浜で立ちながら嬉しそうな笑みを浮かべている。
彼女はさすがに喜びすぎだと思うが、ふと思う。
あの時、俺は何度やっても上手くならないから水泳教室をやめた。けれど、あの時の俺は本当に努力をしていたのだろうかと。
なるほど、やってみて意味があることもあるらしい。
だからといって、やりたいことが、陽子のいう夢や希望が、すぐにできるわけでもないけどな。
そのまま昼飯を挟んで午後も付き合わせられるのかと思ったが、俺は帰ることを許された。
少しは泳ぎもマシになったから、もういいだろ。そう伝えると彼女は、
「ダメ! あれは一緒に泳いだって言わないから。明日同じ時間にここに来て! ね!」
太陽に負けないほどの明るい笑みを俺に向けた。
俺は答えずに、そのまま砂浜を後にした。少ししてザバンと水音がして、陽子が飛び込んだのだとわかる。その音を聞きながら、気が向いたら来てやろうと思った。
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