海が太陽のきらり
泡沫 希生
その夏のはじまりは、
「お前、海斗って名前のくせに泳げないのかよ」
そう、言われたのは
何度練習しても泳ぎが下手で、元々嫌いだったのに、そんなことを言われた俺はそれきり水泳教室を止めた。
普通なら負けるかと思って泳ぐのを頑張るところだと思うが、俺は諦めた。
何度やっても無駄。意味がない。その上やっても文句を言われるのなら、やらない方がいい、と。今までそう思って生きてきた。
そんなことを頭の片隅で思い出す。これが走馬灯か、なんて一瞬考えたがさすがに死ぬにはまだ早い。
目の前はゆらゆらと揺れる青で満たされ、跳ねた水から生まれた、多くの泡が俺の周りで嘲笑うように踊り、はじける音を響かせている。
日光が帯のように差し込む海中を覆いつくす、むせかえるような潮のにおいに、顔をしかめながら体の力を抜く。
海のにおいは嫌いだ。ねっとりして鼻にまとわりつくかのようで、己がそばにいるということを、これでもかと主張してくる。
段々と息苦しさが増してきた。今はただ、ここから早く抜けでることを考えよう。それから、文句を叩きつけてやろう。
不意に背中側が暖かくなった。同時に、体にかかっていた水の重みがなくなっていく。
俺は落ち着いて、顔を上げた。
暗くうねるような青の世界から一転、突き刺すように降り注ぐ太陽に眉をひそめる。ああ、うざい。海も日光も嫌いだ。
かすかに残る水泳教室の記憶を元に、クロールの要領で軽く水をかいた。わずかに進む。不恰好なその動きを繰り返して、ようやく足がつく場所に来ると俺は立った。
そのまま、岸へ向かう。ああ、最悪だ。上から下までびしょ濡れで気持ち悪い。
膝に手を置き息を整えながら、濡れた前髪をかきあげる。
「あっ、よかった。まさか泳ぎが得意じゃないとは思わなくて。ごめーん」
俺は明るいその声に手を止めると、声がした方向を睨み付けた。
一人の女が少し離れた海面で、ぷかぷかと浮いている。
着ている水着は体を覆う部分が多い。髪もきっちりとまとめて帽子にいれており、泳ぎに適した格好だ。
女は俺の視線を受けると、口の端を曲げた。
「何? そんな目で見てこないで」
「俺は死にかけたんだぞ? 海に引きずり込みやがって、こっちは上も下も服着てるだろうが、おかげでびしょ濡れだ。クソッ」
「ちょっと、口悪いよ。君」
女の声を無視すると、砂浜に転がっている自分のカバンを取った。引きずり込まれる前に、カバンから手を離した自分を褒めたい。
そこからスマホを取ると、俺は電話をしようとした。
「ね、何するつもり?」
「立派な殺人未遂だろうが、警察を」
「え、いや、ね、待って」
仕方なく振り向くと、女はいつの間にか海から出て、俺のすぐ後ろにいた。
近づいてこようとしたが、俺が眉をひそめてみせるとやめた。
「本当にごめん、謝るよ。泳ぎ苦手だとは思わなかったし、嬉しかったし、ちょっとした遊びのつもりでさ」
女は、手を顔の前で合わせると頭を深く下げた。
「あのな、何で初対面の相手なのに、泳ぎが上手いと決めつけたんだ」
「だって、夏に一人で砂浜に来るなんて、泳ぎが得意だって思うでしょ」
「あのな、お前はそうだったのかもしれないが、お前と人を一緒にすんな」
「違うの? じゃあ何で君は、一人で砂浜にいるのよ?」
「はあ……」
俺はしぶしぶスマホを下ろすと、女に体を向けた。俺より少し年上に見えるが、この女めんどいな。さっさと会話を終わらせて立ち去る方が早そうだ。
目の前の女が、俺を海に引きずり込むという所業をする前、海の中に潜ったまま動いていなかったのを思い出す。
どうして、俺はそのことに気づいてしまったのだろうと頭を抱えたくなった。
「それは、その、あれだ」
ああもう、できたら言いたくもない。
「何よ」
「お前が海に潜ってるまま動かないから、溺れてるのかと思って。浅い所にいたとはいえ、気になって様子を見に来たんだろうが」
一気にそこまで言うと、俺はカバンを濡らさないように持ってそこから去ろうとした。早く帰ってシャワーを浴びて、この出来事を忘れたい。
「へぇ、君は優しいんだね。口に似合わず」
「なんで」
「だって多分、わざわざあそこからここに来てくれたんでしょ? ……ごめんね、私何分潜れるか計ってたの」
俺は去ろうとした足を止めて、女の指す方向に目を向けた。そこには、この砂浜が一望できる道があり、道の先を上がっていくと近くにある大学に向かうようになっている。
その道を下る途中で気づいた俺は、道の横にある階段を降りてこの海岸にまでやって来た。
沈んでいる彼女に近づいたら、不意に彼女は体を起こして「私に気づいたのっ?」とかなんとか言って、岸辺に近づいてくると俺を海に引きずり込んできた。
「でも、君目はいいんだね。あそこから海に潜ってる私が見えたんでしょ?」
こいつはバカか?
俺は女の格好に改めて目を向けた。何をそんなに主張したいのかは知らないが、女の被る水泳帽はオレンジで、水着もオレンジが基調となっている。嫌でも目に入る、特に青い海の中では。
「でも、あれ? あの道って大学から下ってくる道だけど、君って……高校生くらいだよね? 何で?」
このまま、放置しておくと更に質問が増えそうなので、仕方なく答えることにする。
「オープンキャンパスだよ、今年で高校二年だしな。てか、あんた知らないのかよ。オープンキャンパスあったの」
そう言うと、女は慌てたように「ああ、そっかオープンキャンパスかー。忘れてたっ」と早口でまくし立てた。
「ていうことは、君ここの大学狙ってるの?」
「さぁ」
「さぁって……、あ、他のところと迷ってるんだ――」
「いや、別にどこかに入れればそれでいい。オープンキャンパスも担任が行ってこいって言ったから近場で済ませただけだよ」
女は、俺の答えに目を瞬かせた。
「近場って、君、ここの人じゃないでしょ」
「はぁ、近くに親の実家があるんだよ。どうせ、毎年来るんだし近いだろ」
俺はそのまま踵を返した。今度こそ、砂浜を登り始める。歩くたびに靴からは水が溢れる。
「じゃあ、何? 君には、何か夢とか希望とかないわけ?」
「別に、どうでもいいだろ。じゃあな、お姉さん。たくさん潜って記録更新できたらいいな、応援しておくよ」
それで、俺と彼女の出会いは終わりで、会うことはないと思っていた。だが、
「陽子」
「へっ?」
「陽子、太陽の陽に子供の子。私の名前」
思わず振り返った俺に対して、陽子はにっこりと笑った。昼の空に浮かぶ太陽にも負けないほどの明るさで、反射的に俺は彼女から視線をそらしそうになる。
けれど、できなかった。多分、この時に俺ははじめて彼女のことをちゃんと見たのだと思うが、目鼻立ちがしっかりしていて、なかなか美人じゃないか、と思った。
「君は?」
「海斗」
気づくと、俺は手を握りしめて自分の名を口にしていた。
「そう、海斗君か。ごめんね、海斗君。心配してくれて本当にありがとう。それでさ」
彼女はそこで一呼吸おいてから、俺にこう告げた。
「よかったら、私と泳がない?」
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