さよなら、ライオン
雨世界
1 ……私たちは樹木が太陽に向かって、枝や葉を伸ばすように恋をする。
さよなら、ライオン
本編
……私たちは樹木が太陽に向かって、枝や葉を伸ばすように恋をする。
ずっと姉妹の近くにいてくれた優しいライオンが、姉妹の前からいなくなったのは、去年の夏のことだった。
姉の秋風萌歌と妹の秋風歌音の幼い姉妹は、その日、珍しくライオンと喧嘩をして、二人で家を飛び出して家出をした。
それは二人の初めての、ライオンに対する本格的な反抗だった。
二人はそのまま薄明かりの街を駆け抜けて、家の近所にある小さな公園(青空公園という名前の公園だった)まで移動した。
「お姉ちゃん。これからどうするの?」
妹の歌音がブランコの椅子に座りながらそう言った。
「お母さんのところに行こう」
姉の萌歌がブランコを小さく漕ぎながらそう言った。
「お母さんのところ?」
「うん。お母さんのところ」
萌歌は妹の歌音を安心させるようにして、公園に備え付けてある小さな街灯のライトの明かりの下で、にっこりと笑った。
それから二人は、お小遣いで自動販売機のオレンジジュースを二つ買って、それを飲んでから、夜の公園をあとにした。
二人がお母さんが入院している病院に辿りついたのは、それから三十分後のことだった。
そこは大きな総合病院で、入り口から入ってきた二人の小さな子供を見つけた看護婦さんは、その説明を聞いて、二人を「秋風」という苗字の書かれている、二人のお母さんのいる個室の病室のところにまで連れて行った。
「お母さん!」
「おかーさん!!」
萌歌と歌音は白いベットの上で横になっていたお母さんに駆け寄っていった。
「あら? 二人ともどうしたの?」
ある程度の事情を二人だけで病院にやってきた姉妹の姿を見て理解したのか(あるいは事前にライオンから連絡があったのかもしれない)お母さんはとくに慌てる様子もなく、自分の体にしがみついてきた姉妹の体を優しく抱きとめて、そう言った。
それから二人はお母さんのところで、泣いて、それからその日は、お母さんの病室に二人は泊めてもらうことになった。
そして二人はお母さんに説得をされて、次の日、きちんとライオンのいる家に帰って、ライオンに「ごめんなさい」を言った。
ライオンはなにも言わずに、姉妹の体をぎゅっと、優しく抱きしめてくれた。
そのとき、ライオンは泣いていた。
姉妹はその日初めて、ライオンの流している涙を見た。
怒られることを覚悟していた姉妹はそのライオンの流している涙を見て、また、お母さんのときと同じようにライオンの胸の中でもう一度、「……ごめんなさい! お父さん!」と言いながら、わんわんと泣いた。
姉妹のもとからライオンがいなくなったときに、姉妹が思い出したライオンとの一番思い出深い記憶は、そんな一夜の出来事だった。
(それはきっと、そのとき意外に、ライオンが姉妹の前で泣いたことが一度もなかったからかもしれない。ライオンは病院のベットの上にいるときも、その最後の瞬間のときにも、いつもずっと、姉妹の前では、にこにこと笑顔を絶やさなかった。ライオンはいつも、ずっと、姉妹の前では笑っていた。それがどれだけすごいことなのか、姉妹は自分たちが大人になるまで、気がつくことができなかった)
それから、十年以上の時間が経過して、萌歌と歌音の姉妹は美しい大人の女性に成長した。
二人はそれぞれ、高校、大学のときに出会った自分のパートナーと幸せな結婚をして、ライオンと長い時間を一緒に過ごした自分の生まれ育った家を出て、そして、それと同時に自分の生まれ育った故郷の街を出て行った。
姉妹がいなくなったあとも、ライオンは一人でずっと、お母さんの思い出の詰まった家に住み続けて、そして、……去年、お母さんが亡くなった病院と(姉妹が家出をして、たどり着いたあの大きな総合病院だ)同じ病院のベットの上で、姉妹が親戚のみんなに見守られるようにして、亡くなった。
それから、お葬式をして、ライオンの住んでいた家に帰ってきた姉妹は空っぽになった家の中で、二人だけで抱き合って、ずっと、ずっと泣き続けていた。
ライオンは、ただ『姉妹の幸せだけ』を願っていた。
そのことを姉妹はちゃんと知っていた。
だから、二人はそれからきちんと幸せになった。
姉の萌歌は遠くの街から旦那さんと一緒に自分の生まれ育った故郷の街に戻ってきて、ライオンの住んでいた古い家(家族の思い出が詰まった懐かしい家だ)に住むようになった。
妹の歌音も、可能な限り、姉の萌歌の住んでいる家に旦那さんと子供を連れて(ライオンにちょっとだけ似ている、可愛い男の子だ)、遊びに来るようになった。
姉妹は二人で昔の話をしながら当時の自分たちのことを思い出してよく笑いあった。
それから姉妹は、仏壇に飾ってあるライオンの写真を見た。
そして、その隣にあるお母さんの写真を見つめた。
二人はとても幸せそうに笑っていた。
姉妹の目には二人は世界で一番幸せな、理想の夫婦の姿に見えた。
「お父さん、幸せだったのかな?」
妹の歌音が言った。
「幸せだったよ。だって私、お父さんの笑っている顔しか思い出せないもん」
姉の萌歌が言った。
その姉の萌歌の言葉を聞いて、確かにそうだ、と妹の歌音は自分の中にいるライオンがずっと笑っていることに気がついた。
それから歌音は「よかったね。お母さん」とにっこりと笑って、仏壇に飾ってあるお母さんの写真に向かって、そう言った。
(その日、それから二人は二人の家族と一緒にスイカを食べて、そうめんを食べて、それから夜に家の庭で花火をした。それは笑顔の絶えない幸せを絵にしたような風景だった)
季節は夏。
月は八月の終わりごろ。
家の外から蝉の鳴く音や、風鈴の鳴る音が聞こえてくる。
これはそんな普通の、毎日の、秋風家のごく当たり前の、幸せな一日の風景だった。
さよなら、ライオン 終わり
さよなら、ライオン 雨世界 @amesekai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます