第3話 繋がる瞳

 積もり切った純白の雪は、小さな雪崩を起こして急斜面を下って行った。


 こんな風に僕の心は自然とある方向へ向かって動き出したのだった。


 稽古の度に彼女を見かけるので、毎日のように意識せずにはいられなかった。人間の感覚とは面白いもので、一度その人に対してアンテナを張ると、彼女が何をしていても存在そのものが気になって、眼で追いかけてしまう。そういう時には、僕は恥ずかしがってまともに彼女を見ることができず、流し目で見てしまう。後からよく考えてみると、流し目の時の僕の目つきは睨んでいるようで怖いと、前に友達に何度か言われたことがあったのを思い出して、「あの時のあの見方、まずかったかな」なんてささやかな反省をしたりした。


 稽古も数を重ねると、幸運にも自然な形で彼女と会話することのできる機会に恵まれはじめた。会話と言っても、スケジュールを確認するための二、三の確認事項に関して言葉を交わすだけの、短いものだ。


「ここに、所属の劇団名と、名前を書いてください」


「分かりました。ここですか?」


「はい、そこです」


「あ、ここにも書いておいた方がいいですか?」


「はい」


 自分でも、なんだかあっけないと思った。


 僕にもう少しこの恥ずかしがりな性格に対抗することのできる度胸や勇気があれば、単なる事務的な話からお互いを知り合うための“楽しい”話題の方に膨らますことができただろうに。


 事務的な記入作業が終わってその場を離れた後、ふと思った。


「これで僕の名前と顔を覚えてもらったから、ラッキーじゃん」


 しかしそれと同時に、彼女の名前すら未だ知らないという事実に幾ばくかの焦りを覚えた。




 僕は気づけば情緒が中学生や高校生並みに戻っていた。恋愛をするという、この感覚を、久しぶりに味わったような気がする。その「久しぶり」という時間の厚みの感覚が、僕を約10年前の、鋭敏で、滑らかで、潤いのあるあの純粋なクリスタルのような感性を取り戻させたのだろう。


 一年前に大学を卒業し、社会人になって、今は24歳だが、最後にまともに恋愛したのが大学生の頃だということを思い出し、少し驚いた。この1、2年の間、恋愛をするための感性はほとんど使われず放って置かれていたので錆びついていたのだろうと、今になって思う。




 この日は公民館を借りての稽古だったので、そこのホールでメンバーは各々の練習をしていた。いつもの同世代の男子メンバーに加わろうと思った時、ふと役に必要な小道具をここに来るまでに乗ってきた車の中に忘れたのを思い出した。僕は待たせては悪いと思い、そそくさと公民館を出て、駐車場へ向かった。


 素早く車内から必要なものを取り出して再び公民館の入り口を通ろうとした、その時だった。


 彼女が向かい側からやってきた。


 僕の心臓は跳ね上がった。


 偶然にも、彼女が入れ替わるように入り口の自動扉の所をくぐり抜けてきたところだった。


 ちょうど夜の闇に紛れ込むかのような漆黒の髪。


 清潔さを感じさせる肌の白さは髪の色と対照的で、目の前でそれが浮き彫りになっていた。


 そして、はしたなさを感じさせない引き締まった厚みの真紅の唇は、髪の毛の色と肌の色と合わせて、神秘の調和を生み出していた。


 彼女は一歩ずつ、僕の方へ向かってくるようだ。


 僕の所に来て何の脈絡もなしに話しかけに来るなんてことはまずないとは思うが、彼女との距離が縮まるにつれて、僕の心臓は脅かされたように鼓動を早める。


 心の準備が十分にあった上でならともかく、いきなりのことだったので僕は狼狽した。


 彼女とすれ違うまでにまだ数メートルある。


 この数秒には、刺すような緊張と息苦しい気まずさが漂っていた。


 と、僕だけは感じていたはずだ。


 彼女も同じようにドキドキしていたとは思えない。


 しかし、さっきのすれ違う数秒の間で、心なしか彼女の方も僕をずっと見ていたような気がした。


 切れ味の良さそうな、鋭い目で。


 それはまるで真っ暗な夜道に降った街灯を横切る黒猫のようだった。


 僕は無事に公民館の入り口を抜けきり、分かりやすく安堵のため息をついた。






 「ロミオとヴィーナス」の本番の日がやってきた。


 演劇経験がまるきりなく、もちろんミュージカルをやるのも初めてで、そんな何もかもが素人の自分の最初の舞台が、この県で最大のホールだということが、僕を誇り高い気持ちにさせた。


 緞帳どんちょうがじわじわと開いて、僕たちの姿を大勢のお客さんの前に現わす時には、僕の心境は緊張というよりも心の底に普段は眠っている勇気が奮い立たされ、今にも武者震いしそうな心持だった。あの感覚もまた、これまでにないものだった。


 終演後、出演者のみんなが一様に喜び、安堵している中、僕にとってはまた別の意味で重要なことが起きた。


 ついに彼女と真っ直ぐに目を合わすことができたのである。


 きっかけはとても些細なものだった。それでも、僕にとってはそのきっかけの出来事の軽重は重要ではなかった。この公演の立ち上げから終りの始末まで担当している彼女は、それこそ事務的に僕を扱ったのだと思う。僕が彼女と楽屋前の廊下ですれ違う直前に、彼女は出演者たちへの差し入れとして用意された飲み物を指さして、残るともったいないからというニュアンスで、


「飲み物、取りました? どんどん持って帰ってくださいね」


 と僕の目を見ながら話し掛けてくれた。


 それが初めて彼女の目をしっかりと見た瞬間だった。


 これまで稽古の時に、彼女が演技をしている時や何もしていない時など、何度も彼女の目を見たことはあった。


 でもこの瞬間は言うまでもなく格別のときめきが胸で弾けた。


 あのなんとも魅力的な目。


 僕の中では、女性のタイプというものを考えた時に、魅力的な目とは、ビー玉のように綺麗で澄んでいて、たくさんの光を反射するような目だけを指すのではなかった。ある種の例外的なものが、僕の中にはあった。


 彼女の目はまさしくそれだった。


 その瞳について十分に説明するために、あえて自由な描写を自分に許すのであれば、次のような文章になろう。


「この世のすべてを侮蔑しているかのような目」


「これまで世界のあらゆる歪みや穢れを見過ぎたためにそれらを投影したかのような目」


 さらに、彼女の漂う気品と潔癖さのために、次の印象を僕に与えた。


「彼女という存在の中で唯一、穢れを知っているような目」


 あくまでこれらの印象は僕個人の印象であり、彼女のことについてほぼ全くと言ってもいいほど何も知らない僕が勝手に頭に思い描いた、思い込みでもあるだろう。


 しかしこれらの一見否定的に見える全ての文言は、僕の中では最大級の賛辞だった。

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