第4話 冬の訪れ

 僕にもし新たに彼女ができたらどうしても行きたい場所があった。

 それは僕が住むこの地域の中でも、もっとも人が集まる中心街のど真ん中にある。今月オープンしたばかりの巨大な複合施設で、カフェやレストラン、衣類や電化製品などの専門店、ジムやゲームセンター、映画館までが揃っている。少なくとも僕にとっては夢のような建物だと思った(まるで子供みたいだが)。夜になって建物全体が無数のライトで照らし出されると、一層、そのクリスマスのイルミネーションを眺める子供のような夢見心地は濃さを増した。そんな複合施設の屋上に、その場所はある。

 屋上は常にお客のために解放されており、一面がテラスと公園と程よい緑で埋め尽くされている。そこから見える景色は昼間ももちろん素晴らしいのだが、夜間に眺めると、さっきのような童心のときめきとは違って、普段はひた隠しにされた僕の中に眠っているロマンチックな部分が喚起される。そしてその夜の演出に関してこだわりの強い部分の僕は、この夜景に相応しいような美しい女性と一緒に来ないとこの超然ときらめく夜景は完成しないと思った。


 素人の僕にとっても、演劇経験のある他の出演メンバーにとっても、格別の一大イベントだった「ロミオとヴィーナス」の公演が終わった後の飲み会の流れで、特に仲の良い一部の人たちだけで例の屋上でお茶を飲むことになった。深夜11時ごろだった。水が流れるように自然に恋愛の話に話題が移り変わり、僕はまさに今、心を動かされている女の子について暴露することになった。

 周りのみんなは僕が語る話に興味津々で、分かりやすく耳を澄まして聞いては、合間で口々に言葉を挟んだ。

「えー! あの子が好きだったんだ? 確かに、なんかお似合いだわー」

「どこまでいってるの? え、連絡先知らない? あんまり話したこともない?」

「そういえばテル、冬ちゃんとライン交換してなかったっけ?」

「冬ちゃんて今、二十三歳らしいよ」

 その時僕は、初めて彼女の名前を知った。

 やっぱり恥ずかしくても、どんな淡い恋心でも、正直に打ち明けてみるべきだと思った。



 櫻井(さくらい)冬(ふゆ)。それが彼女の名前だった。僕は名前を聞いた瞬間、そんな偶然があるのかと思った。まるで映画や漫画の物語であるような神秘が漂っているような感じすらした。あらためて彼女の容姿をじっくりと思い返してみると、ぴったりだと思った。そんなに名前と見た目が似合うものなのかと驚いた。

 屋上でのお茶会の帰り道。

 深夜の冷たい漆黒の風が首筋から入って、僕の体をすぐに震えさせた。

 もう気づけばこんなに寒い季節だ。

 波のような寒気を肩で感じながら、上着のボタンを一つずつ留めていった。

 一瞬、彼女の姿が脳裏に浮かんだ。

 灰色の空から降ってきた雪が彼女の頬や首筋に静かに落ち、じんわりと染めていったのかと思われるような肌。

 そう、まさしく、雪のように白い肌。

 僕は初めて、冬の訪れを心の中で聞いた。 



 数日前に入社したばかりの真新しい職場で、パソコンを使って作業している時、ふと昨日の屋上での暴露話を思い出した。そういえばかなり重要なことを誰かが言っていた。

 後輩のテルが櫻井冬さんのラインを知っているらしい。

 昨日はいきなりライン交換するのは彼女もびっくりするだろうからまだ時期が早いということでお預けになったが、やはりまずはそこのステップを踏まなければいけない。

 僕の目はパソコンの画面に釘付けになり、指の動きは静止していた。もはや頭の中では仕事とは全く別のことを考え巡らせていた。

 他にも誰かが何かアイデアを出してくれていたはずだ。

「TwitterのDMを送ってみたら?」

 そうだ。それだ。この前の「ロミオとヴィーナス」の挨拶も兼ねて(公演終了後の飲み会ではその場のチャンスを生かして感謝の言葉一つも伝えることができなかったから)、少しTwitterで話すことから始めよう。

 家に帰って一息ついた後、Twitterを使って話すと思い立ったはいいものの、DMの送信ボタンを押すまでに長い時間がかかった。

 もっと丁寧な言葉遣いの方がいいかな。

 あんまりグイグイいくと不審に思われないかな。

 長文すぎるとうんざりするかもしれないから、ここはばっさりカットでもいいかな。

 地味で、窮屈で、見る人によっては女々しくさえ思われるこの推敲作業には、どうしても手のひらの汗が必要なものだった。


「突然すいません!

 先日の『ロミオとヴィーナス』では大変お世話になりました、河口翼といいます!

 覚えていらっしゃいますでしょうか?

 たまたまアカウントを見つけたのでご挨拶をと思ってDMを送らせてもらいました!

 改めて、この度は本当にお疲れさまでした!!」


 この文面に彼女がせめて気分を害さず、返信してくれるようにと祈って、僕は送信のボタンを押した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る