第2話 初めての感覚
「ロミオとヴィーナス」の稽古の日々が始まった。
僕にとってはこれが初めての演劇体験だったから、何から何までが目まぐるしく、新鮮だった。演劇の世界はこれまでほとんど通ることのなかった道だ。むしろ舞台で大声を張り上げてセリフを喋ったり歌を歌ったりすることが、自分という人間からもっとも距離感があるものだと、子供の頃は思っていた。それが時を経て、環境や心情の変化があって、今こうしてミュージカルのための稽古に参加しているという、ちょっとした世の中の不思議を感じていた。「人生、何があるか分からないものだなぁ」という世界中で何百万回と繰り返されただろうテンプレ的な言葉が僕の頭を掠(かす)めた。
歌と踊りを覚える大変さや過密スケジュールに翻弄されたが、そんな中でも稽古に行く価値が十分にあると思える理由が毎回、僕にはあった。
「な、何を言ってるんだー! お前はフランスで何を学んできたのだー!」
ヒロインに影響を及ぼす男の権力者役の叱咤するセリフが、可愛らしい若い女の子の声で稽古場内に響いた。
この子の、なんとも言えない、魅力的な演技を見られるのだから。それもお金も払わず、数メートルしか離れていない距離で。
僕はこの前の「晩餐」のミュージカルに続き、再び彼女の個性的な演技を間近で味わうことができた。
「何といえばいいのだろう……。顔や身振り手振りというわけでもないような……」
目の前の演技のどの部分に惹かれているのか、いつもの習慣にのっとって、薄い焦慮を感じながら考えめぐらせた。僕が「個性的」だとか「独特だ」とか感じている、彼女の演技のどの部分が僕を魅するのか。
「坊ちゃん! 今夜も遅くに帰ってきて、どうなされたのですか?」
僕は主人公ロミオを助け、時には叱咤激励する複数人の男たちの役だ。その男たちの一人になって、同世代くらいの若い男子たちに交じって声を張り上げる。
セリフをきちんと覚えているところは、自信満々にみんなに交じって大声で言えるが、まだ覚えきれていないところは急にだんまりになってしまう。その黙りこくってしまうところをその場で確認し、家で練習したりして、また稽古場で覚えているかの確認をする。毎回その繰り返しだ。踊りの部分も同様だった。
演劇経験ゼロの更地の状態から、一つずつだが着々と練習を積み上げていった。暗記するセリフや歌の数を増やしていき、踊れる振り付けの数も増やし、音に合わせて体を瞬発的に動かす感覚を徐々に染み込ませていった。そんな中でも、僕の中ではまた別のものが前へと前進して行った。誰にも気づかれずに。
何度か稽古に参加して気づいたことなのだが、これまで僕が見てきた彼女の演技と、彼女の演技以外の普段の振舞いにはほとんど壁らしい壁が見当たらないということだった。それはとりわけ“声”にその傾向が見られた(とはいえ、明確にそう意識し出したのはだいぶ後になってからのことだが)。彼女が役になりきってセリフを発している時、確かにそのキャラクターになり切ってはいるのだが、声の抑揚というか、質というか、クセのようなものが、他の役者の方と喋っている時の声とほとんど大差がないことに気づいた。僕はそれに魅了された。
僕はこれまで感じたことのない自分の感情に、少しばかり動揺していた。恋愛をしている時の、あのふわふわとして、時には胸あたりからじわじわと体全体へと向かって熱くなっていく、あの感覚。過去を辿っていけばその感覚の記憶は幼稚園の頃まで遡ることができ、その後二十年間近く、何度も味わった。
しかし、今回のこれは違った。二十四歳になった今僕が胸に抱いている“この感覚”はこれまでになかったものだ。それは「異性として彼女のことが気になっている」と言えるものなのかどうかすら分からない。
その理由は、理由だけは、自分で分かっていた。彼女に対して他の人にはない興味を持ち始めたのは、彼女が役になり切って演技をしていた時だった。それに僕は特別の感情を抱いた。といってもこれも曖昧なのだが、端的に言えば僕には他の人よりも彼女の存在が拡大鏡でクローズアップされたように見え始めたのだ。彼女と目を合わせることよりも、自己紹介や世間話をすることよりも、ミュージカルの話をすることよりも先に、彼女の演技の仕方を好きになってしまったことがこの「これまでにない感情」を作り出してしまったのだろう。
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