雪降る季節が似合う人

美夜

第1話 運命に運ばれて

プロローグ




 遠くの方で籠った水の音がする。

 雨音を部屋の中で聞いているみたいな音だ。

 今、“あの子”がシャワーを浴びている。

 僕は手持ち無沙汰になり、ただ、ガラス窓から見える夜の街並みを眺めている。今夜の人々の心躍るような楽しさを集めたような光が、暗闇を滲むように照らしている。

 この光景は僕にとってあらゆる意味で特別なものにしか思えなかった。たいていホテルに来ても――ましてや”こういうホテル”はなおさらだ――カーテンを開けて窓から外の景色を眺めるなんてことをするような性質ではない。だからこそ、この何気なく行った行為自体が目の前の夜景を特別なものに演出している。さらに、“あの子”をクリスマスイブという“神聖な”夜にこの密室に連れ込み、その部屋から一仕事終えた凛々しい男のようにポケットに手を入れて直立しながら眺めおろしているというこの事実!  これこそが最高の演出だった。僕と“あの子”の二人がここまで繰り広げてきたドラマのクライマックスに相応しいものが今、眼下に、そして眼前に広がっていると確信していた。


 そして場面は変わった。彼女は僕の目の前に立っている。いるべくしているのだ。

 彼女のその美貌は窓から朧(おぼろ)げに入る街の明かりに照らし出されていた。部屋の明かりは何もないが、僕は闇の中で探し求めるような目で彼女を見つけた。

 夜の雪景色のような白い肌、仄か(ほのか)に怪しく映える赤い唇、周りの闇よりも深い黒の髪の毛、そして、彼女がそこにいるのだと分かる、和みと癒しの雰囲気。

 僕はぐっしょりと濡れてきた手汗をズボンでゆっくり拭きながら、口を開いた。





 電車は次第に減速していく。目的の電停に着いたようだ。

「もう翼さん、着いてますか? 僕はもうすぐ着きます」

 「晩餐」というミュージカルを観るために街の中心へと向かっていたその道中、後輩からラインが届いた。この公演は見逃せないということで、彼と二人で待ち合わせをしていたのだ。彼の名前は輝彦(てるひこ)。僕の通っているアクターズスクールの仲間だ。みんなにはいつもテルと呼ばれている。

「俺ももうそろそろ着くよ。後5分くらい」

 僕はそう返信して、電車を降り、すぐそばの会場へ向かって歩いた。


 テルを連れてその会場に入った僕は、思わず露骨にキョロキョロ周りを見回してしまった。

「まさか“ここで”するとは!」

 僕はかつて見たこともないほどにこじんまりとしたステージと客席に驚いていた。それだけではなく、また別の意味でも驚いていた。実はこの会場は僕が今月から参加する予定の別のミュージカル「ロミオとヴィーナス」の稽古場だったからだ。まさか自分がこれから何回も通うことになるであろう広いとは言えない一室でお客さんを入れてミュージカルが開かれるとは思っていなかった。

 しかし、その驚きと困惑は、開演してすぐに大きな利点だったと気づいた。

古代ギリシャの哲人を模した格好をした複数の男女が歌ったり舞ったりしているのだが、その距離がとてつもなく近い。

 一人一人の表情が見えすぎるほどに見える。

 もちろん声も、今に唾が飛んできそうなくらいな距離で聞こえている。

 今日、純粋に舞台を楽しみに来た僕にとっては嬉しい誤算だったという思いに浸っていた時、目の前のステージで歌っている一人の女の子に釘付けになった。

 その子はすぐに、前に僕が「ロミオとヴィーナス」のためにここの稽古場に来た時に見た女の子だと分かった。

 僕が今月参加するその「ロミオとヴィーナス」の出演者と今まさにやっているこのミュージカルの出演者はおおよそ似ているのだとその時僕は初めて知って少しばかり驚いた。

 彼女に再び焦点を合わせた。

 僕を最初に魅したのは彼女の姿かたちの美しさだけではない。むしろその美貌よりも前に伝わってきたのは、彼女が扮するアリストテレス(女性が男性を演じるというこのギャップがまたおもしろいのだが)が発する雰囲気、声といった、見た目以外の要素だった。

 僕は普段は自他ともに認める理屈っぽさがある。自分の好きな女性のタイプもどういう顔つきでどういう性格の人を好きになるのかをつい分析してしまう習慣が付いているのだが、この時に関してはそのお得意の“分析力”は全く功を奏しなかった。つまり僕は、顔は知っているが名前も知らない、もちろん話したこともない、ほとんど演技をしている時の姿しか見たことがない女の子に細々とした理屈を超えて心を掴まれてしまったのだ。


「いやー。すごかったね」

「ほんと、パワフルでしたね」

 と口々にさっきのミュージカルの感想を言い合いながら僕とテルは帰り道を歩いていた。僕はどうしても強く印象が残ったために、率直に言わずにはいられなかった。

「アリストテレスの役をしてた女の子、いたじゃん? 青い服身に着けてた」

「あー、いましたね」

「俺、あの子の演技の仕方がすごい心に残った。なんか、個性的というか、独特な感じが良かった」

 彼女の演技を見たのはこれで2回目で、一回目は「ロミオとヴィーナス」の合わせ稽古の時だ。

 さっき、すぐに「あの子だ」と気づいたのは、一回目の時点ですでに彼女のその「個性的で独特な」演技が気になっていたからだろう。だからこそ、今回改めて観て、より僕の確信を強めたのだ。


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