花の香りに移ろふ -和風短編集-

和葉

四季の歌 ※書き下しver

早咲きの桜 -春-

扇に乗せた薄紅の花が、御簾みすの内へと運び込まれたのは、昼餉ひるげから程なくしてだった。

扇の上の薄紅の花はみっつ。その花の周り、扇の上に散らすように乗せられた淡い色の花びらが、ひらりと着物の袖の上へと落ちる。

一体どこから取り寄せたのだろうか。春の嵐のあとの陽気とはいえ、まだそれが咲くには幾分、早い。

「……いつも、貴方は私を驚かせる」

桜の花弁をのせたその扇には、流麗な筆跡によって和歌がつづられていた。


春飈はるはやて 来し方ながめを 得てしがな 花芽 はるぞ来なむと いそがるる』


『春の嵐も過ぎ去りました。これまでのことをぼんやりと思いおこすにつれ、どうしても、あなたからの返事が欲しいと願っております。花の蕾は膨らみ、いよいよ春の訪れがすぐそこまで。これからの恋の行く末に私の心も早るばかりです』

掛詞かけことば暗喩あんゆを散りばめたお歌は、それを書いた人物の姿すら浮かぶようで、ため息が漏れる。

しかも、花芽張る、と歌にはあるのに、届けられたのは早咲きの桜。

もはや、こちらの気持ちは知れているのだろうか。恋に手馴れた貴公子のほんの気まぐれだろうに…。


「何故、私など……」

それでもこの贈り物が萎れて行くのは寂しいと感じた。

女房を呼んで白磁の椀に水をはると、花と花弁を扇から移す。はらり、はらりと水面に落ちて波紋を落とすその光景は儚く、胸が締め付けられた。


心はとっくに奪われている。それでも、なかなか筆を取れずにいるのは、もったいぶっているからではなく、自信が無い故に、だ。

評判とは違いつまらない女だと思われたらどうしよう。すぐに、彼の気持ちが他の姫へと移ってしまうのでは…、と。

考えても仕方ないことに、心が乱れて仕方がなかった。


「……世の中に耐えて桜のなかりせば…、とは、よく言ったものよ……」

都でも評判のその歌はどこか艶めいて、今の自分にひどく響いた。

いつ咲くのだろう、いつ散ってしまうのだろう。と、人の心を乱すのは、恋しい人への思慕ともどこか似ている。

あなたという人がいなければ、これほど恋心に乱されることも、きっと…、なかっただろうに

「……散るとわかっていれば、花も咲きたくはないでしょうに……」


 それでも花を咲かせ、涙のような白い花びらを散らすのでしょう、か……。


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※引用

『世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」

こちらは古今和歌集の在原業平のお歌です。

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