月と桔梗 -夏-

ふと牛車ぎっしゃの窓から見上げた空は、あいにくの雨模様で。

音もなく降りしきる五月雨さみだれに、吐いた息も白い煙のよう。

月もないこのような雨の夜更けに、当然道を行き来するものなどない…。

ふらりと気軽な狩衣かりぎぬ姿で牛車を降りたのは、彼の姫君の屋敷前だった。


「雨空で月に焦がれる人でも、姫に焦がれるこの気持ちにはかなわないだろう」

水を吸って濡れた絹は、着物の色を濃く浮かび上がらせた。

二藍ふたあいの表に青の裏地、桔梗ききょうと呼ばれるその着物は、夜の闇に溶けてしまいそうなほど。烏帽子えぼしも絹も夜に沈む中、視線だけは真っ直ぐに目の前の屋敷の奥へと向けられた。

屋敷の東側、この壁の向こうに住まう姫の、声が聞こえないか、それとも掻き鳴らすかきならす琴の音でも聞こえないかと、まだ見たこともない姫に思いを馳せる。


雲間くもまに月を望むように、その姿をただ…、一目だけでも…」

せめて、この声だけでも届かないだろうかと思っても、糸雨しうの中ではその声ですら掻き消されていく。

体の芯まで冷える雨の冷たさに、白い吐息をもうひとつ。


牛車の脇で待つ、牛飼い童うしかいわらわ従者ずさもずぶ濡れだろう。

諦めきれない気持ちで、もう一度空を仰ぎ、雨雲を一瞥する。


「さみだれの 雲間や見せなむ 月の影 空のながめに 思ひ煩う」


『人がこの梅雨の曇り空に隠れた月を望む気持ちは、きっとあなたからの返事を待ち望む私の気持ちと同じでしょうね』


せめて、ここに私がいたと、あなたに歌に乗せて届けよう。桔梗の花に結んだその歌に、この夜の密やかな想いを忍ばせて…。


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