エルフ学園のラブコメは収まりきらない

エルフ学園の朝は洗顔できない

　俺の名前はファイ。

　森から聞こえる鳥たちのさえずりが俺の目覚ましだ。

　カーテンの隙間からは、爽やかな朝の陽ざしが注いでいる。

　俺は眠い目を擦って布団から起き出す。

　いつまでも眠いままではいられない。なぜなら俺には、学業というかけがえのないタスクがあるのだから。

　――俺の一日は洗顔から始まる。

　ふふっ。さあ、とびきり冷たい水で顔を洗おうじゃないか。

　部屋の棚の上に置いた水瓶（みずがめ）から、洗面器に水を注……。

　あれ？　めっちゃ軽い。ていうか、空？

　スタイリッシュな朝ごっこをしていた俺の脳は、洗顔するまでもなく覚醒する。

　ていうか、『俺の一日は洗顔から始まる』ってめっちゃ普通だしな。

　それにしても、どうして水がないんだろう。昨日の夜、ちゃんと井戸まで汲（く）みに行ったはずなのに――。

　と思ったが、思い出した。その後、部屋で軽く洗濯したんだ。で、眠くなってそのまま寝たと。

　そりゃあ水がないのは当たり前である。

　仕方ない。面倒だが、井戸まで行くか……。なんやかんやしていたら始業時間ギリギリになりそうだけど、まあそういうこともあるだろう。

　そう決めて、俺は水瓶を持って宿直室から廊下に出た（俺はエルフ学園の校舎内にある宿直室に寝泊まりしているのである）。寝間着のままだが、まあ誰にも会わないだろう。

　床のきしむ音が、朝の空気に響く。

　こんなときはなんだか、学校をひとりじめしているみたいでちょっと楽しい。

　でもすぐに、ひとりで廊下にいる微かな寂しさが襲ってくるのが常なのだけれど。

　校舎から外に出て、井戸へと向かう。清冽な朝の空気が五感で感ぜられる。

　井戸に到着すると、俺は水瓶を水でいっぱいにした。午後の分もついでにと横着した結果だが、こりゃあかなり重いぞ。

　まあいけるだろう。そう信じて、歩を進める。

「……おはよ」

「うぎゃあ！」

　突然声が聞こえて、つい驚きの悲鳴を上げてしまった。

　見ると、俺の目の前にはララルダが立っていた。

「ごめん、おはよう、ララルダ」

「……重そう」

　俺の驚きと謝罪を無視して、ララルダは俺が抱えた水瓶に視線を遣る。

　ララルダは既に制服に着替えていた。草の入った籠（かご）を手に持っているのを見るに、薬草を摘みに行っていたのだろう。

「ああ、重いけど、大丈夫だよ」

　俺は自分が寝間着のままだったことに気付き、少しの気まずさを感じながら答える。

　正直、けっこう重さ的にヤバい感じはあるが、まあ休憩しつつなら持っていけると思う。

「……精霊に、運んでもらえる、けど？」

　が、ララルダのその提案は魅力的だった。

「マジ？　もし良かったらお願いします！」

「……」

　俺が言うと、ララルダはコクリと頷く。

「……絶え間なく流れる者よ、その器を離れ、追い、戻れ」

　ララルダはすぐさま手を瓶の方にかざすと、そう詠唱した。同時に、水瓶から水のカタマリが球体となって浮かんでくる。まるで重力を失ったみたいだ。

「水瓶ごと運ぶのかと思ったら、水だけ勝手に浮かんでくれるんだな……」

「……水の精霊に直接頼んだ」

「これって、部屋に着いたら勝手に水が瓶に入ってくれるの？」

　俺の問いにララルダは無言で頷き、井戸へと向かう。水瓶は持ってないが、いつもこうやって水を運んでるのかもしれない。

「ありがとう、ララルダ」

　俺が言うと、ララルダはこちらをチラリと見遣って、小さく頷いた。

　部屋に戻って、洗面器で顔を洗う。ついでに寝癖を直し、俺は部屋に干していたシャツを手に取る。

　が、これ、もしかして全然乾いてない？？

　うわあ、やってしまった。昨日、予想以上に汗をかいてしまったから急遽洗濯して、夜だし外に出るのは危ないなと思って部屋干ししたのだが、全然時間が足りていなかったらしい。

　うーん、どうしよ。窓開けたらすぐに乾くかなあ。そんなわけないか。

　と、試行錯誤している間にもどんどん時間は過ぎてゆく。

「ラゴ～！　食堂に来ないと思ったらまだそんな恰好してるラゴ～！？」

　と、声が聞こえたと思ったら窓の外、目の前にラゴちゃんがいた。外から回って様子を見に来てくれたのだろう。今日も相変わらずもふもふのぬいぐるみ姿である。

「ごめんごめん、もうみんな朝ご飯食べた？」

「とっくに食べ始めてるラゴ～！　一体どうしたラゴ？」

「実は、洗濯物が全然乾いてなくてさ」

「なんだ、そんなことラゴ？　ちょっと下がって見てるラゴ～！」

　そう言ってラゴちゃんは部屋の中に入ってくる。俺は言われた通りに下がり、ラゴちゃんの背中を見つめた。

「ラゴラゴラゴ～！」

　で、ラゴちゃんは大きく息を吸い込み、ふーっと吐き出す。

　後ろからでも、熱風がラゴちゃんの口から出ているのが感ぜられる。

「これでいっちょ上がりラゴ～♪」

「すごい、さすが火の精霊……」

「当たり前ラゴ～！　さあ、さっさと着替えて朝ごはんを食べるラゴ～！」

　ラゴちゃんにそう促され、俺は温かい（てか熱い）制服を着て食堂に向かったのだった。

「あっ、ラゴちゃんおかえり！　ファイちゃんおはよおう！」

　食堂に行くと、ノノディルがひとりで朝食を食べていた。

「あれ？　他のみんなは？」

「みんな食べ終わって教室に行っちゃったよ～！　ララちゃんはいつもなら待っててくれるんだけど、今日はカレン先生に薬草の調合のことで質問があるとかって先に行っちゃった！」

「そっか。俺もパッと朝ごはん食べるよ」

「ゆっくり食べた方がいいよ～！　食べ終わったら一緒に教室に行こうねっ！」

「いや、遅れるかもしれないし、先に行っててくれていいよ」

「も～！　水臭いこと言わないでよ～！　ファイちゃんとノノの仲でしょ？」

「ノノディル……」

「とか言って、まだ宿題終わってないんじゃないラゴ～？」

「あ、バレた？」

　俺の感動に水を差すラゴちゃんと、元気にノートを取り出すノノディル。まあ、横でじっと待ってられるよりは宿題でもしていてもらった方が気が楽だ。

「じゃあさっそくやっていこ～！」

「ノノ！　その前にごちそうさまラゴ～！」

「あっ、そうだ！　ごちそうさま！　それとラゴちゃん、いつものやって～！」

「も～仕方ないラゴね～」

　やれやれと言うように首を捻りながらも、ラゴちゃんはノノディルの頭上に滞空する。それから、ノノディルは両手を上げてラゴちゃんをがっしりと掴む。

「ラゴラゴ～！　いつもより強めに飛んでおりますラゴ～！」

「あ～、これこれ！　これが気持ちんだよ～」

　ラゴちゃんはノノディルに掴まれたまま上へ昇る運動を続ける。ノノディルは真っ直ぐにバンザイする形になっているわけで、確かに背中の筋肉とかが伸びて気持ちよさそうだ。

　まあ全然宿題は進んでないが、ツッコむのは野暮というものだろう。そんなことを考えつつ、俺はおいしい朝食を平らげたのだった。

「あれっ？　なんだか教室に人気（ひとけ）がないよ～！」

　朝食を食べ終え教室に向かった俺とノノディルだったが、確かにノノディルの言う通り、教室からは話し声が聞こえてこない。

「何か貼ってあるな……」

　扉の所に、見慣れない紙が貼りつけられている。いつも板書で見ているカレン先生の丁寧な筆跡と、その隣に書かれたメモ書きのような文字。だが俺は、それがどのような意味を持つのかまだ分からない。

　ララルダの精霊魔法のおかげで会話は通じているが、文字に関してはそうもいかないのである。

「ホントだ！　えーっと、校長先生のお遣いに行くことになったので午前の授業はお休みです。みんな自習しててね♪　って書いてあるよ！　その横は、外で遊んでるからすぐに来るようにだって！　イーゼルから！」

「へえ。そういうことってけっこうあるの？」

　元いた世界の高校だと、当日に突然自習になったりしたら大騒ぎの大盛り上がりだろうけれど、ノノディルはそこまで驚いた様子でもない。

「うん！　カレン先生も校長先生も忙しいからね～」

　この学校に教師はカレン先生しかいないし、責任者は校長しかいないっぽい。その他の人はラゴちゃん以外見たことがないし、ほとんどふたりで運営を行っているのだとすれば、それは相当に多忙だろう。

「いやあ、それにしても」

「ん？　どうしたの。ファイちゃん！」

　つい、今朝からの出来事を思い出して口ごもってしまう。そんな俺を見て、ノノディルは不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。

「いや、なんだか俺って、みんなに頼りっぱなしだし、そうしなきゃ生きていけないなあと思って。実は今朝も、ララルダに水を運ぶのを手伝ってもらったし、ラゴちゃんに制服を乾かすのを手伝ってもらったし、ノノディルにこの文字を読んでもらわなきゃこれからどうすればいいのかさえ分からない始末だし」

　口にすればするほど、どうしようもない気がしてくる。

　エルフ学園に来てからというもの、俺は俺自身の力で何もできていないような気がする。そんなことで、いいんだろうか。そんなことで、俺はこれから先やっていけるのだろうか……。

「そんなの当たり前だよ～！　人は人に頼らないと生きていけないよ？」

　ネガティブになりそうな思考に突如として陽が差す。ノノディルの言葉に、俺は顔を上げた。

　俺よりも頭一つ背の低い彼女は、俺を見上げてにへらと笑う。

「ノノもララちゃんにいーっぱい手伝ってもらってるし、他のみんなにもお世話になってるけど、みんな絶対に気にしてないよ！　だからノノも気にしない！　それに、ノノはララちゃんが言いたいことをみんなに伝えてあげることもあるし、ノノは体力があるからけっこうみんなを手伝えることもあるんだ♪　そのときも、ノノは何も気にしないよ？　ただ、できることがあればするっていうだけ！　だからさ、そんなの気にしないでいいんだよ！」

「そうなのかな……。そう、だよな」

　そういえばいつか、メリルもそんなことを言っていたっけ。

「そうだよ！」

　ノノディルはそう言って、大きく頷いた。

「なら俺は、俺にできることをするよ」

「うん！　でも無理しないでね？　できることがあるときだけでいいんだよ～！」

「オッケー。じゃあさっそく、今できることから始めるか」

「ん？　ファイちゃん、今できることって？」

　ノノディルは俺の言葉に首を捻る。そんなの決まってる。

「とりあえずみんなと合流して、一緒に遊ぶこと！」

「ファイちゃん、いかす～！」

　そう言ってノノディルは外へ飛び出して走り出す。俺もノノディルと一緒に駆け出した。

　先ほどより少しだけ熱せられた空気が、土の匂いを森から運ぶ。

　エルフ学園の一日は、今日もこうして始まるのだった。