4話
幼い頃からずっと、何か嫌な事があった時は、みんなが寝静まる深夜にこっそり家を抜け出して、村の外れにある丘の上で星空を眺めるのが習慣だった。
街灯の無い村の夜道は暗すぎて、いつも私は道に迷ってしまう。足場を踏み外せば田んぼに落っこちてしまいそうだし、もしかしたら、動物に影から狙われているかもしれない。道に迷いそうで、一人で外を歩くのがたまに怖くなる。
でも、牡丹が教えてくれた北を指し示すポラリスを辿れば、いつかはあの丘に辿り着ける。どれだけ先が暗くても、私の先を指し示してくれる存在があるだけで、歩を進める足取りは幾分にも軽くなる。
あれから私は何度も、深夜の丘で牡丹と会った。あの草原で、私は牡丹に身の回りで起きるたくさんの話を聞いてもらう為に、何度もあの丘へと足を運んだ。
クラスの男子が面倒くさいだとか、退院したお父さんが妙に私に優しくて、それが気持ちが悪いだとか。でも、少しずつ元気を取り戻し始めたお父さんが見られるのが、ほんの少し嬉しい事だとか、本当に色々な話を聞かせては、その度に彼女は楽しそうに話を聞いてくれる。
私にとって牡丹は、まるで本物の姉のような存在になっていた。
そんな私も中学生になり、高校生になった。勉強や部活で少しずつやる事が増えていくに連れ、小学生の頃に比べてあの丘へ足を運ぶ事も次第に少なくなっていった。
牡丹も忙しいのか、私があの丘へ行っても居ない事が次第に増えた。よくよく考えて見ると、彼女は何故こんな辺境の村に居たのか、未だに私は知らない。これだけ長い間、隣にいた人の事すら知らないまま、私達の時は刻一刻と過ぎて行ってしまう。
高校の三年間もあっという間に終わり、私は東京の大学に通う事になった。
お父さんは心配してくれていたが、長年過ごして来たこの村を離れる事になる寂しさよりも、夢に見た都会での新たな生活への期待の方が大きかった。
小学生の頃から続いていた習慣も気が付けばなくなるもので、私はいつの間にか、あの丘に行くこともなくなっていた。
特に、劇的なきっかけがあった訳でもない。牡丹に会えない丘に行く意味が見出せず、どんどん足を運ぶこともなくなってしまった結果、何となく行かなくなってしまった。ただ、それだけの事。
人は生きていく中で、多くの事を忘れてゆく。
記憶は次々に新しい記憶に塗り替えられ、頭の片隅に積み荷のように重ねられる。大人になって、ふとした時に、昔の事を思い出させられる。
大学を卒業し、私はそのまま東京で働き始めてもう何年も経った頃、実家に残っていたお父さんの体調があまり良くないみたいで、今住んでいる家を引き払う事になったとの連絡があった。腰を痛めて昔のように自由に歩けなくなった今のお父さんに、あの屋敷は広すぎる。手狭な集合住宅で、ゆったりと老後の時間を過ごしたいのだそうだ。
何年かぶりに実家に戻り、物置に置かれた雑貨を掃除していた時、私は古ぼけた一冊のアルバムを見付けた。
「誰のだろ、私の卒業校じゃないけど……」
パラパラとページを捲っては見るものの、やはり映る写真に少しもピンと来ない。随分と古ぼけているし、おそらく私の頃のアルバムより一昔前のものだろう。
私が偶然見つけたそのアルバムを眺めていると、後ろからアルバムを覗き込んだお父さんが、感慨深そうな声色で声をかけて来た。
「蓮乃、それ、お母さんの高校時代のアルバムだよ。そんなところにあったなんてな」
「え、お母さんの……?」
どうりで、挟まっている写真が古いものばかりなわけだ。小学生の頃に亡くなったお母さんの顔も中々思い出せない今の私は、
「ねえ、どれがお母さん?」
少し興奮気味に、お父さんに聞いた。
「うーん。どのクラスだったかな……」
お父さんは、懐かしそうに目を細めながら、アルバムのページを捲っていた。お母さんの顔も今でははっきりとは思い出せないが、まだ私が小学生だった生前の頃、とても楽しそうに私の話を聞いてくれるお母さんの事が大好きだったのは、今でも何となく思い出せる。
しばらくすると、
「お、いたいた。これだよ」
お父さんがページの中から一枚の写真を指し示した。
少し胸を高ぶらせながら写真を覗き込んでみた私は、お母さんのその写真を見て、驚愕した。
「牡丹……?」
そこに映っていたのは、紛れもなく牡丹だった。もう最後に会ったのは高校生の頃で、あの頃の記憶はとても曖昧だが、お父さんが倒れたあの日からずっと仲良くしてくれた牡丹の顔を、私が見紛う筈もない。
「こう見ると、一華は美人だったな。高校の頃から、俺にはもったいないくらい気立てが良くってな……って、蓮乃?」
私はあまりの衝撃に言葉を失っていた。
お母さんがあの世へ逝ってしまってからもう十年くらいの時が経った。あの時の悲しみも随分と癒え、お母さんの顔もうろ覚えになっていた私は、この村で過ごした今までの記憶が雪崩れ込むように思い起こされた。
お父さんが倒れ八方塞がりになっていた私を助けてくれた牡丹。中学までは本当の姉妹のように会って話していたのに、私はお母さんのアルバムを見るまで、彼女との日々は脳裏に浮かぶ事すらなくなってしまった。
目の前に映る若い頃のお母さんは、幼い頃にあの丘で、私を何度も慰めてくれていた牡丹の生き写しそのものだ。
こんな偶然、有り得るのだろうか。
「ねえ、お父さん」
「ん、なんだ? そんな怖い顔して」
「私ね、小学生の頃さ。この村で知り合ったお姉さんに、真夜中に家をこっそり抜け出してよく会ってたんだよ」
お父さんは私の言う事の要領が掴めないのか、どこか怪訝そうな目を私に向けている。
「そんな馬鹿な。子供が深夜に外を歩けるわけないだろ」
「歩いてたんだよ。牡丹ってお姉さんに会えるのは、みんなが寝静まった夜だけだったから」
「でも、俺が覚えている限り、お前が真夜中に外を出歩いていた事なんて無かったぞ。俺はよく夜まで仕事していたしな」
そんなこと、有り得ない。だって、私は何度もあの丘で、牡丹に会っていたのだから。記憶が薄れてしまっても、幼い頃に得た記憶は今も私の中にある。
私は少し興奮気味に捲し立てた。
「……でも! 牡丹は、ポラリスを追って歩いて行けば、絶対にあの丘で会えるって。私いつも、北山にある丘の上で、お母さんにそっくりな牡丹に、私は何度も助けてもらった!」
声を大きくして話す私の言葉に、お父さんはさらに困惑した表情を浮かべた。
「北山の丘、って……蓮乃、お前、知らないのか?」
「知らないって、何を?」
お父さんは、純粋な疑問を口にした。
「お前が生まれるずっと前から、この村の北山は立ち入り禁止になってるんだよ。昔からあの辺りは熊が出るから、誰も入れないように有刺鉄線が引かれてんだぞ」
私は再び、言葉を失ってしまった。そんな事、有り得ない。
確かに私は、あの草原で出会った牡丹に、何度も助けられた事を覚えている。泣いている私に優しく手を差し伸べて、まるでお母さんのように頭を撫でてくれたあの温もりを今でも覚えている。
だが、お父さんはきっと嘘を言っていない。小学生の頃から随分と聞き分けの良くなった私は、彼の言葉をこころのどこかで受け入れつつあった。
「なあ。お前はきっと、夢でも見ていたんじゃないか」
「夢……?」
私はずっと、夢を見ていたんだろうか。
牡丹がもし、お母さんを失った私の心に空いた穴を埋める為に生み出した、私の頭の中にある、夢の世界の住人だったのだとしたら。
少しずつ大人に近付いていった私が牡丹に会わなくなったのは、夢から覚めてしまったから?
お母さんの死を受け入れられた私は、もう、母親の代わりになってくれる存在が、必要でなくなってしまったから?
「……そうかも、ね」
私はお父さんの方を向いて、大きく呼吸を吸った。
もし牡丹が現実に存在しない、夢の中の住人だったとしても、彼女との思い出は、私の中で大切に仕舞われている。私がもう一度、何かに挫けて迷いそうになった時は、きっと牡丹はまたフラっとあの丘に現れて、何度だって優しく私の話を聞いてくれる。不思議と、そんな確信がある。
あの丘は、私と牡丹だけの秘密の世界。私には、それだけの事実さえあればいい。
「そろそろ、寝るね。ずっと片付けしてて、疲れちゃった」
「ああ、そういえばもうこんな時間か。おやすみ、蓮乃」
お父さんはそう言って、自分の部屋に戻って行った。私はそのアルバムを段ボールの中に仕舞い、自分のベッドに潜り込んで、眠りについた。
久しぶりに、夢を見た。
星空の中で煌めくポラリスを追って、私は十年ぶりにあの丘の上に立っている。
「久しぶり。また会えたね、牡丹」
あの草原の上には、一面の青いアネモネの華が咲いていた。
夜空に消えたポラリス 窓 @Mado_yume
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