3話

 梅雨明けは来週くらいと天気予報では言っていたのに、あれから何日経っても雲行きは良くならず、村一帯はどんよりとした空気で満ちていた。

 空がそう見えているのは天気だけのせいなのか、それとも私の気の持ちようのせいなのか。お母さんを失った事実を未だに受け止めきれていない私にとっては、そんな些細な違いはどうでもいい事だった。

 お母さんが逝ってしまったあの日から、お父さんは葬儀の手続きとか親戚の挨拶とかで色々な事をしていて、毎日とにかく忙しそうにしている。お母さんが居なくなって一番悲しいのはきっとお父さんの筈なのに、喪主であるために悲しむ暇も与えられない。多分それは仕方のない事なのだけれど、毎日何かに追われ続けている今のお父さんを見ていると、あの世に逝ったお母さんをしっかり弔えているのか自信が持てなくって、何だか虚しい気持ちになる。

「お父さん、少しは休んだ方がいいよ」

 しっかりとした大人とは言え、お父さんだって人間だ。しんどいに決まっている。日に日にやつれていくお父さんを見ていると、私まで気が滅入ってしまう。

「俺は大丈夫だよ。逝っちまった一華の為に、今は出来る事をしないとね」

 私が心配して声をかける度に、お父さんはそんな感じで気丈に振舞っていた。

 お母さんが死んだあの日、病室で泣き叫んでいたのは、おばさんと私だけだった。モニターの警告音が鳴った後、神妙な面持ちで病室を出て、お医者さんとその後の話をしていた。

 穿うがった見方かもしれないけれど、あの日からのお父さんは、大人の仮面を被る事で、お母さんが死んでしまった事実から目を逸らそうとしている様にしか見えない。

 最愛の人が死んでしまったというのに、大人でいる事に拘る必要がどこにあるのだろうか。いくら体裁を取り繕ったところで、自分の好きな人が死んでしまったら、普通は泣いて叫んで、悲しんで然るべきではないのだろうか。もし、溢れる感情を理性で抑え込めるようになるのが大人になるという事なら、私は大人になんて一生なれない気がする。

 あれから数日が経った今、お母さんが死んでしまった事と同じくらい、お父さんの顔を見るのが辛くなってしまっている私がいた。


 案の定、お父さんの身体と心に、限界が訪れた。

 火葬が終わり、遺骨が私達の家に戻されてようやく生活が落ち着きを取り戻し始めた頃、私はお母さんの遺骨が納められた祭壇にお線香を上げていた。目の前に祭られている若い頃のお母さんの笑顔はとてもきれいで、私の頭の中にお母さんとの思い出が鮮明に蘇る。あの温かい手に触れられる機会は、もう二度と訪れないのだという事を、目の前の祭壇はひしひしと分からされているようで、私の目頭に、もう何度目かも分からない涙が滲んでいた。

 そんな時だった。居間の裏手の廊下側で、どさっとなにか大きなものが倒れる音がした。

「お父さん!」

 私が慌てて廊下に駆け込んだ私の目に飛び込んできたのは、顔を真っ赤に腫らせて倒れ込んでいるお父さんの姿だった。額に手を当てると、熱を測るまでも無いほどにお父さんの身体は熱くなっていた。

「ごめん、少し休めば大丈夫だから……」

「何言ってるのお父さん! 今すぐお医者さん呼ぶから、居間で休んでて」

 私の手を掴み、体勢を立て直そうとするお父さんの身体を無理矢理引き留めて、居間のソファに運んだ。身体に汗を滲ませて苦しむお父さんの弱々しいその後ろ姿は、元気で明るい普段の姿からは想像が付かないほどに小さく見えていた。


 その後、お父さんは救急車で病院に運ばれた。

 お医者さんによると、疲労と精神的な負荷が重なった事で身体を壊してしまったみたいで、大事には至らないにしろ、休養のために入院する必要があるらしい。

 ……何なのだろう、この状況は。どうして、こんな事になっているんだろう。

 大好きなお母さんとは結局一度も、病院の外で共に時間を過ごす事が出来なかった。頼りがいのあるお父さんの姿は、もう今では思い出す事すらも叶わない。

 蒸し暑い日が続く夏の日の夜、一人で居るには大きすぎる家の中で、私の頭の中をぐるぐると負の感情が渦巻いていた。田んぼを舞う虫達の鳴き声が耳障りで、脳みそが爆発しそうになった私は、気が付くと屋敷の外に飛び出して、夜の田んぼ道を無心で走っていた。

 初めて一人で走る慣れ親しんだ村の夜道は、昼間とは全然見栄えが違った。満天の星座で埋め尽くされている夏の夜空は、泣き喚きながら道を走る無様な私を空から見守ってくれているようだった。

 ふと我に返った時、私はだだっぴろい草原の上に、一人でぽつんと立っていた。どうやらここは、村から少し離れた山の先にある丘らしい。普段は余り人が近寄らないのか、真っすぐに伸びた夏草がぼうぼうに伸びていた。遠目から見える麓の方には、ぽつぽつと民家から漏れ出る光の粒が見えている。

「……きれい」

 夜空を見上げた私は、ただ、目の前の景色に圧倒されていた。

 山の稜線りょうせんを縁取るように、夜空の果てまで、星の輝きが夜空を埋め尽くしている。夜空の色は今まで黒だと思っていたのに、今、私の目に映る空の色は、溜息が漏れ出る程に美しい、鮮やかな紺碧こんぺき色。

 いつの間にか泣き止んでいた私は、丘の上にへたり込んで、目の前に広がる紺碧の夜空を見上げていた。先ほどまで、世界が終わってしまったかのような不幸で埋め尽くされていた筈の私の脳裏は、今この瞬間だけは、この美しい夏の夜空に塗り替えられてしまっていた。

 どれだけの時間をそうして過ごしていたのだろう。五分くらいしか経っている気もするし、もう六時間くらいここにいるような気もする。時間の経過が分からなくなるくらい曖昧な感覚に包まれていた私は、背後に近付く人の気配に全く気が付かなかった。

「こんばんは!」

「うわっ」

 無心で空を眺めていた私は、突如自分に向けられた知らない声に驚き、素っ頓狂な声を上げてしまった。声の主もびっくりしたみたいで、

「わ、ごめんね。驚かせちゃったかな」

 申し訳なさそうに頭を掻いて笑っている。

 私に声をかけて来たのは、私より一回り年上の女性だった。真っ白なカッターシャツに黒いロングスカートを合わせた知的な装いとは裏腹に、ショートカットの短い黒髪がどこか少年のような中性的な印象を与える、不思議な雰囲気を醸し出していた。

「あなたは……?」

 少し尻餅をついてしまった私は、服に付いた砂埃を手で払いながら、お姉さんに言った。

 私の質問に対して、お姉さんは何故か少し考え込むような素振りを見せる。そして、何かを思いついたような顔をして、「私は、牡丹。牡丹って呼んでよ」と答えた。

「牡丹? なんだか、変な名前」

 私の言葉を聞いた牡丹は、心底傷付いたような表情を浮かべていた。

 私よりずっと大人の女性なはずなのに、私の一言を間に受けているような彼女の反応がおかしくって、私は思わずくすくすと笑ってしまう。

「もー、酷いなぁ。いい名前じゃない、牡丹」

「ごめんなさい、あまり聞かない言葉だったから、変だなって」

「……そう言われてみれば、たしかに牡丹って名前、ちょっと変かもしれないね」

 私の感想を聞いた牡丹は、何だか一人合点したように深く頷いている。

 ……変なお姉さん。

 目の前にいる大人の女性に対する警戒心は、もうすっかり消え失せてしまっていた。いい意味でも悪い意味でも、何処か掴みどころのない牡丹の緩い雰囲気は、心が摩耗している今の私に不思議な居心地の良さを感じさせてくれる。

 草原の上にどさっと座り込んだ牡丹は、夜空を眺める私の顔を覗き込んで、

「そんなに目を腫らして、何か悲しい事があったの?」

 私の目頭をそっと撫でながら、心配そうな面持ちで私に問いかけて来た。

「悲しい事なんて、なにもないよ」

「悲しくないのに、泣いてたの?」

「そうだよ。だって、何が悲しいのか、分からないんだもの」

 そう、今の私には、悲しいなんて気持ちがこれっぽっちも湧いていない。お母さんが死んでしまった時は、悲しくて胸が潰れてしまいそうだった。けれど、心がどれだけ痛んでも、眠って起きれば朝が来る。いくら泣いても喚いても、私の中の問題は少しも進展しないまま、この世界はまるで何事も無かったかのように廻っていってしまう。

 気が付けば私の心は、癒えない傷を負って以来、何も感じなくなっている事に気が付いた。辛い事があっても、悲しい事があっても、私の心は、まるでロボットのように何も動かない。大好きなお父さんが倒れた時、『だから、言ったのに』としか思わなかった。呆れ以外の感情が、少しも湧いてこなかったのだ。

「私、冷たい人になっちゃったのかな」

「どうして? 私には、貴方は冷たい女の子には見えないよ」

「……だって、お父さんがボロボロになってるのを見ていても、私はこれっぽっちも心配なんてしなかったんだよ!? お父さんが倒れた時も、私は少しも心が痛まなかった……!」

 私は思わず、目の前の牡丹に向かって、怒鳴るように叫んでしまった。

 大好きな家族が傷つく姿を見ても、少しも心が動かない。そんな、心の冷たい最低な子供になってしまったような気がして、私の胸は罪悪感でいっぱいになってしまった。

 思いっきり叫んだ事で少し頭が冷えた私は、牡丹の目がまともに見られなくって、森の奥に視線を逸らした。生暖かい夜風で揺れる真っ暗な森は、吸い込まれそうなほどに不気味な闇で満ち満ちている。

「私、ついこの間まで、こんな事考えもしなかったのに。どうして、こんな事になってるのか、全然分からないんだ」

 それだけ言い切って、私は大きく息を吐いた。お母さんが死んでからずっと胸に溜まっていたもやもやしたものを、初めて吐き出せたような気がする。また目頭が熱くなってきて、私は思わず腕に顔を埋めた。

 しばらく丘を支配していた痛いほどの沈黙を破ったのは、牡丹だった。

「……私には、詳しい事は分からないから、下手に共感とか出来ないんだけどさ」

 牡丹は私の頭に手を乗せて、優しく語り掛けてくる。

「貴方は今、居場所を見失っているだけだよ、きっと」

「……居場所?」

 彼女が何を言いたいのか、私はいまいちピンと来なかった。

 牡丹は私の頭を撫でながら、眩い星空に目を細めている。

「そう、居場所だよ。なんでも話せる、信頼出来る相手に、今抱えている恨みつらみをありのまま吐き出せる、そんな居場所がさ」

 夜空から私に視線を移した牡丹は、まるで自分の子供を見る母親のような、そんな優しい目を私に向けていた。私には、そんな彼女が、まるで生前のお母さんと重なって見えた。

「人が一人で抱えられる悩みの容量には限度があるんだよ。人が生きていく中で悩みにぶつかって、解決して、経験を得て、知識を得て。その中で少しずつ抱えられる容量を増やしていく事を成長って言うのだとしたら、君達みたいな子供に抱えられる悩みの大きさなんて、絶対にたかが知れているんだよ」

 彼女が言っているのは、きっと大人の目線だ。でも、幼い私にも何となく、彼女が言っている事はきっと正しい事だと思った。

「……抱えきれなくなったら、どうなるの」

「うーん、結果は人によって色々だと思うけど……きっとその時は、何も感じなくなっちゃうんじゃないかな。今の君みたいにさ」

 牡丹の声は、さっきまでのように笑っていなかった。

 彼女は隣に座る私を抱きしめて、

「だから子供は、辛い時は素直に辛いって叫んで喚いて、思いっきり泣いていいんだよ。無理して自分を封じ込めて、辛くないふりなんて、しなくてもいいんだよ」

 まるで、お母さんとそっくりの口調でそう言った。

 私の手を握らずに事切れてしまったお母さんの、もう二度と得られないと思っていたその温かい抱擁。あの感覚を思い出した私は、堰が切れたかのように、ずっとため込み続けていた感情が噴き出した。

 拭えども拭えども涙は一向に止まらず、私は彼女に縋りついて泣いた。

 私が泣き止むまで、牡丹はひたすらに優しく、私を受け止めて続けてくれていた。


 しばらくして落ち着いた私は、牡丹から顔を離した。私の顔を見た彼女は、安心したような笑みを浮かべながら私を見ている。

「そういえば、貴方の名前は何て言うの?」

 ふと思い出したかのように、牡丹は聞いて来た。

「……蓮乃はすの。蓮の花に、乃木坂の乃で、蓮乃」

「蓮乃ね。可愛い名前じゃない」

「牡丹だって、かわいいよ」

 牡丹は少しむくれながら、「最初に教えた時、変な名前って言ったじゃない!」と反論してきた。先ほどまであんなに私をあやしてくれた大人な女性の雰囲気が台無しだ。

 西側の山の稜線からは、紺碧の夜空に一筋の日差しが漏れ始めていた。随分な時間を彼女の胸の中で泣き続けていたようで、森の奥からは朝を告げる小鳥のさえずりが聞こえ始めていた。

「また、何か吐き出したい事とか、どうでもいい事を言いたい事とかがあったらさ。あの星を辿ってここにおいでよ」

 牡丹は、私達の真上を指さした。

 彼女が示したその先には、青白み始めて行く夜空の中で、一際輝く白い星があった。

「あの白く光ってるのがポラリス。北極星って言われてる星。昔の旅人は夜道に迷ったら、あの星を辿れば必ず北に辿り着けたんだって」

「ポラリス……」

「この丘は、丁度村の北側にあるからね。いくら貴方が居場所を見失っても、常に北を指し示すあの星を辿って歩いて行けば、絶対にこの丘に辿り着けるから。貴方が呼んでくれれば、私はいつでも、ここで待ってるよ」

 そう言って彼女はぐっと手足を伸ばし、気持ちよさそうに一つ、欠伸をした。彼女に移され、私も思わず、くあっっと欠伸をする。

 また今日も変わらない朝が来る。お母さんはもう二度と戻ってこないし、自分をどんどん追い詰めていくお父さんを止める事も出来ない一日が始まる。

 でも、私はここに来た時より、ずっと肩の荷が軽い。

「牡丹、ありがと。私、貴方に会えてよかった。また来るね」

「うん。またね、蓮乃」

 私は牡丹に手を振って、青白む朝焼けの中を歩き始めた。もう、涙は出て来なかった。

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