2話

 私は、知らない。

 子供が大人に成長してゆく物語の中で、必ずと言っていいほど登場する、二人の役割を持った人物の、その片割れの存在を。

 何も知らない無垢な子供に、力や熱意を教えてくれる父親と、その父親を支えながら、優しさや無償の愛を与えてくれる、優しい母親。

 両親という存在は、子供が強くて優しく、まっすぐに育っていく為に、何よりも重要な役割を持っていて、きっとそのどちらも、本来欠けていてはいけないものなのだと、多くの物語が語っていた。

 だけど、優しさや愛を主人公に教えてくれる、母親という存在を、私は知らない。

 幼い頃、私はお母さんを病で亡くしてしまったから。


 もともと身体が弱かったお母さんは、私を生んでから病気が悪くなってしまい、ずっと病院のベッドの上で暮らしていた。偶にお父さんに連れられて会いに行くと、お母さんはいつも嬉しそうな顔を浮かべながら私を抱きしめてくれて、そんなお母さんが私は大好きだった。

 お父さんもお母さんも、二人とも大切な家族だ。家ではお父さんと二人っきりで少し寂しいけれど、病院にさえ行けば、お母さんに会って話せる。優しい笑顔で私を抱きしめてくれて、それを後ろから眩しそうに眺めるお父さんが居て、それだけで私は十分幸せだった。

 だが、そんなお母さんとの幸せな日々は、そう長くは続かなかった。

 あれはたしか、篠突しのつく雨が降り頻る、六月くらいのある日の事だった。じめっとした梅雨が何日も続いていて、私は毎日酷く居心地の悪さを感じていたのをよく覚えている。

 その日、私とお父さんは家に居た。家の電話がけたたましく鳴り、居間に居たお父さんが電話を取った。しばらく会話が続いた後、お父さんは酷く青ざめた顔で、居間に戻って来て、

「今から病院に行くよ」

 酷く沈んだ声で、ソファに座っていた私にそう言った。

「……どうしたの、お父さん?」

 お父さんは私の手を握り、無理矢理玄関に連れて歩いた。お父さんが握る手はいつもよりきつくて、そして、少しだけ震えている。

「お母さんが、倒れたんだ。もう長くはないだろうから、最後を看取ってくれ、って」

 お父さんが何を言っているのか、私は一瞬、理解出来なかった。

「最後、って?」

 お父さんは、私の問いかけに対して、何も答えてくれない。

 無言で車に乗り込んだお父さんは、険しい顔で運転し始めた。私は何だかその先を聞くのが怖くて、どしゃ降りの雨でぐしゃぐしゃの道を走る車の中は、重苦しい沈黙に包まれていた。


 病院に付くと、いつも病室で会う看護師さんが、悲しそうな顔を浮かべて私達を出迎えてくれた。お父さんと何やら色々話し込んでいるが、私は一刻も早くお母さんに会いたかった。

 急ぎ足で廊下を歩いた。もしかすると、少し走っていたかもしれない。廊下は走ってはいけないのは分かっていたけど、病院に着いてからずっと妙な胸騒ぎが止まらなくって、だから私は、嫌な想像を振り払うように、たったっと廊下を駆けて行った。

「お母さん!」

 病室の前に着いた私は、恐る恐る、病室の扉を開く。

 部屋の中に入ると、そこには、担当のお医者さんと一緒に、先に着いていた親戚のおじさんとおばさんが居た。おばさんは大きな声を出して咽び泣きながらベッドにしがみ付いている。おじさんも、目を擦りながら、重苦しい表情を浮かべてベッドを眺めていた。

「……お母さんに、お別れをしてあげて」

 私に気が付いたおじさんが、酷く暗い声色でそう言った。その一言で、私はお母さんに何が起きてしまったのか、嫌でもはっきりと理解してしまった。

「お母さん……?」

 私は震える手付きでベッドのレースを端に避けて、お母さんの眠るベッドを覗き込む。

 そこには、たくさんの点滴に繋がれながら、固く目を閉じて眠っているお母さんがいた。その肌は今にも消えてしまいそうなくらい青白くて、私を抱きしめてくれる時に感じていた温かさは、お母さんの身体からは一切感じられない。

 ああ、そうなんだ。お母さんは、もうすぐ死んでしまうんだ。この不気味なくらいに不自然な青白さは、生きている人の肌のそれとは見るからに異なっていた。

 お父さんが遅れて部屋に入ってきて、覚束ない足取りでお母さんのベッドの前に着いた。

一華いちか……」

 ベッドの隣の椅子に座り、お父さんは安らかに眠るお母さんの頬に手を伸ばし、その顔を優しく撫でた。私もそれに倣って、おそるおそる、お母さんの手のひらに指を絡める。

 その手は、不気味なくらい冷たかった。お母さんに触れた途端、何故か私の目からは涙が零れ出て止まらなくなっていた。

 そして、静寂に包まれた病室の中で、弱々しく揺れていた心電図モニターの波形は、ピーと無機質な警告音を病室に響かせながら、モニターを真っすぐに這う一本の線になった。

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