夜空に消えたポラリス

1話

 昔から、何か嫌な事があった時は、夜に家をこっそり抜け出して、満天の星空を一人で見に行くのが習慣になっていた。

 お父さんに見つかると怒られてしまうから、家族が寝静まるのを見計らって、廊下を忍び足で歩き、塀をよじ登って屋敷を出る。

 そして、村で一番星空が良く見える、小高い丘まで真っすぐ駆けていくのだ。

 果てしなく続く田んぼの水面には、いつも燦然と煌めく星空が映っていた。私にはそれが、まるであの丘まで続く星の道のように見えていて、その上を走っている時だけは、現実のあらゆるしがらみから開放されたような気持ちになれた。

 今日も私は家をこっそり抜け出して、いつものように丘の上で星を眺めていた。遮るもが何も無い丘の上に広がる真夏の夜空には、たくさんの星座が輝いている。

「わぁ……今日はいつもより、星が良く見えるなあ!」

 空気が澄んでいるのだろうか、今日の夜空に浮かぶ星は、普段よりも一層輝きを増して視えていた。理科の授業で習ったばかりの夏の星座が、肉眼で線を描けるほどにくっきりと見えていて、私はさっそく、覚えたての星座を探し始めた。

「こと座! その下にあるのがわし座。蛇座も見える! あれは、さそり座かな」

 私は夢中になって、夜空に浮かぶ星座を指でなぞってゆく。この時ほどにわくわく出来る瞬間は無い。私の他に誰も居ない真っ暗な丘の上で、たった一人で星空を眺めている時、この星の海がまるで私だけのものになったみたいな感覚が得られる。

 こんな広大な景色を眺めていると、日常の鬱屈とした悩みなんて、まるでちっぽけなもののように思えて、きれいさっぱり頭から抜け落ちるのだ。

「あれ、いて座はどれだろう? たしか、どれかの星座に近かったはずだけど……」

 この間学校で習った星座の中でも、一番複雑な形をしていたのがいて座だった。弓を引くおじさんの姿の絵がとても印象的だったが、方角がどのあたりにあったかがうろ覚えになってしまっていた。

 私がいて座を探して夢中になって目を凝らしていると、唐突に、丘の上を一陣の風が吹いた。

「わっ」

 草原の奥にある森の木々がざわざわと音を立てながら揺れていて、私は驚いて思わずスカートの裾を手で押さえる。

 風が収まったと同時に、私は背後に人の気配を感じた。後ろを振り返ろうとした瞬間、私の頭にぽんと手を乗せられた。

「こんな夜更けに、女の子一人で危ないよ」

「お姉さんだって、一人じゃない」

「あはは! 違いないね」

 涼しげな真っ白のカッターシャツの襟に黒いネクタイを付けた、どこかインテリな印象を受ける外見の黒髪の女性が、楽しそうな様子で後ろに立っていた。ゆったりとしたロングスカートを夜風に揺らしながら、彼女は私の頭から手を放して、

「こんばんは。今日もここで逢うなんて、奇遇だね」

 スラっと背が高くて、大人びた雰囲気を醸し出している見た目とは裏腹に、同年代の男の子のような悪戯な笑顔を顔に浮かべながら、彼女は私に声をかけてきた。

「こんばんは。今夜は星が綺麗だったから、夏の星座を探しに来たの」

「星座?」

「そう、星座! 今日、理科の授業で習ったばかりだったんだ」

 私がそう言うと、お姉さんは「星座かぁ」と何か納得したような呟きながら、私達の頭上を覆う銀天の夜空を見上げていた。

 彼女の名前は、『牡丹ぼたん』という。数年前、偶然この村で出会ったこの不思議なお姉さんは、私が夜に家を飛び出す度に、私を待ち構えているかのように、何度もこの丘で顔を合わしている。

 私が何か嫌な事があった時に、夜の丘に飛び出すようになった理由のもう一つは、牡丹とこの丘で会う事だった。

 彼女は昔から、本当に不思議なお姉さんなのだ。約束をしているわけでもないのに、何故か夜の丘に私が行くと、決まって彼女はそこにいる。

 悪戯な笑顔で良く笑う彼女はどこか少年のようで、でも、いつも私の話をゆったりと聞いてくれるところからは、大人の女性特有の、年相応の包容力が感じられる。そんな牡丹と、深夜にこの丘で秘密の密会をするのが、いつからか私の習慣になっていた。

 ぼんやりとした目で夜空を眺めていた牡丹は、

「何の星座を探してたの?」

 私が見ていた方向を指差しながら訪ねた。

「いて座。先生が、何かの星座とセットで覚えるといいよって言ってたんだけど……どれか思い出せなくって」

「ああ、いて座か。確かに、これだけ星が見えると、少し探しにくいかも」

 牡丹はそっと私の手を取って、夜空を埋める星の海に掲げる。

「いて座はね、さそり座のすぐ近くにあるんだよ。南斗六星って、もう学校で習ったかな?」

「南斗六星?」

 何か聞いたことがあるような気もするが、どうにも記憶が曖昧だ。牡丹は、そんな私を見て優しくはにかんでいる。

「北斗七星は有名だけど、それと対になるようにつけられた名前だから、ちょっと難しかったかもね。ホラ、さそり座の近くに、スプーンみたいな形をした明るい星が見えるでしょ?」

 牡丹は、私に顔を近づけて、さそり座から少し南東側に指を動かした。私は何だか少しドキドキしながら、懸命に牡丹の指差す方角に目を凝らして眺めてみる。

「……あ!」

 見つけた。幾万の星々が我先にと主張し合う夜空の中で、一際目立っている六つの星が、まるで水を掬うスプーンが垂れ下がっているかのように集まっているのが見えた。

「分かった? 天の川の水を掬う匙に見えるでしょ。夏の夜空でも、あれは特に綺麗に見えるんだ。いて座はね、あの南斗六星が手と弓の部分になってるんだよ」

 私は更に目を凝らして、南斗六星の形をしっかりと視界に焼き付けた。そして、その星々の集まりを、点と点を繋げてゆくように、少しずつ先へ先へと伸ばしていった。

「……見えた。あれが、いて座ね!」

 授業で習ったばかりの、夜空に一筋の矢を放つ、下半身が馬のおじさんの星座の先が繋がった。私が両手を上げると、牡丹は「よくできました!」と喜んで、パンと私の手を叩いた。

「はー、すっきりした。胸のつっかえが取れた気分だわ」

 私はぺたりと、丘の上の草原に座り込んだ。そんな私を見ている牡丹は柔らかく微笑みながら、そっと私の隣に腰掛ける。そんな牡丹の肩にしな垂れかかった私は、この丘に来た理由もすっかり忘れて、彼女と同じ視界に広がる夜空を見上げながら、一緒に天体観測を楽しんでいた。


 先ほどまで興奮していた反動からか、温かい夜風に当てられて、私は次第に眠くなってきた。そんな私を横目に、牡丹は気持ちよさそうに目を細めながら、じっと夜空を眺めている。

 次第に、目の前の景色がぼやけてきて、目の前の牡丹と夜の闇の境目が曖昧に入り混じる。

 微睡まどろみの中でぼんやりと見えた牡丹の姿が、記憶の中にある何かと重なって、思わず私は呟いてしまった。

「おかあさん……」

 私の隣で星を眺めていた牡丹が、びくっと身体を震わせて、微睡む私の方を向いたような気がする。だが、私の意識は既に夢との境界を彷徨っていて、牡丹が今どんな顔をしているのか、私の視界からはよく見えなかった。

「おやすみなさい」

 牡丹は、眠りについた私を膝に乗せ、夢に微睡む私の頭を優しく撫で続けていた。


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